表紙の科学 第2シリーズの2

今回のお題
 カオス(1):蝶は今どこを飛ぶか(ver.1.0)

「これを一名、”バタフライ効果”という。北京で蝶々がはばたけば、ニューヨークの天気が変わるというやつだ」(イアン・マルカム)

イアン・マルカムは北京とニューヨークについて語ったけれど、これには地名をいろいろに取り替えたバージョンが存在する。北京の代わりが上海だったり香港だったり、あるいはニューヨークの代わりがサンフランシスコだったりルイジアナだったりするのを見たことがある。天気の変わり方も嵐がおきるのだったり竜巻がおきるのだったりする。たしか、東京とアメリカのどこかっていうバージョンも、なにかの本に載っていたと思う。もうどこでなにを見たのかおぼえてないんで、話が曖昧になっちゃってすまんことです。しかし、地名の組み合わせは変わっても、蝶がはばたくことだけは、どうやら変わらないらしい。変わらないからこそ”バタフライ効果”なのだけど。

じゃあ、なにがこの話の原典になっていて、その中ではどこで蝶がはばたき、どこでなにがおきることになっていたのだろう。話のもとになっているのは、気象学者エドワード・ローレンツが1963年に書いた一本の論文である。実は、その論文で”バタフライ効果”という言葉が使われてるのかと思って、読んでみたことがある。でも、そこにはバタフライのバの字もないのだった。いろいろ調べても出典がわからなくて、長らく疑問のままだったのだけど、最近になって、超がつくほど有名なグリックの『カオス』(新潮文庫)という本の注釈にちゃんと書いてあることに気付いた。それって、ちょっと情けないと自分でも思うぞ。

ローレンツは前述の論文から10年ばかり後の 1972年に『予測可能性:ブラジルで一匹の蝶がはばたくとテキサスで大竜巻が起こるか』と題する講演を行なった。この講演が”バタフライ効果”の出典だろうと言われている。だとすれば、もともとはブラジルとテキサスだったのだ。アジア対アメリカという組み合わせが多かったと思うのだけど、原典は南北アメリカ大陸だったということらしい。ただし、”バタフライ効果”という言葉そのものはこの講演の中に登場しない。

ところで、実は”バタフライ効果”という言葉の由来についてはもうひとつの説がある。今月の表紙に使った”ローレンツ・アトラクター”の見た目が蝶に似ているから、というものだ。たしかにこの絵は蝶が二枚の羽をひろげたところのように見える。探してみたら、この説をとっている本が一冊手許にあった。ジョン・キャスティの『複雑系による科学革命』(講談社)がそれ。いずれにしろ、ローレンツと彼が発見したアトラクターに関係することは、間違いないのだけど。結局、”バタフライ効果”という言葉を初めて使ったのはいったい誰なのか、という疑問が残ってしまった。都市の一方をアジアに移したのも誰なんだろう。この件についてご存じのかた、おられたら、メールください。

ちなみに、件の講演は、最近出た『カオスのエッセンス』(共立出版)というローレンツ自身の本に再録されている。この本は数式も出てこないから(付録以外には)、手軽に読めていいと思う。例として今や里谷多英と上村愛子でおなじみのモーグルが取りあげられていたりして、これまたタイムリーなんじゃない?

さて、本題はこれで終わり。あとは、おまけとして、ローレンツ・アトラクターの話をしよう。そもそも、アトラクターとはなんなのか。そして、どこがどうカオスなのか。なぜか、口調も少々まじめになる。

63年の論文で、ローレンツは気象の変化を表現する驚くほど簡単なモデル方程式を扱った。もうちょっと正確に言うと、このモデルは大気の対流だけを表したもので、たとえば雨が降ったりするわけではない。さらに、対流だけをとってみても、現実とはほど遠いくらいに簡素化されている。なにしろ、大気の状態をx,y,zというたった三つの数値で表現したものなのだ。また、場所の情報も含まれていない。というより、ある場所での大気の状態だけを表していて、それが他の場所の気象とどう関係するかについて、この方程式は何も教えてくれない、と言ったほうがいいかもしれない。その簡単なモデルが、それでも(あるいは、それだからこそ)、気象変化がカオス的であることを明瞭に語ってくれるのである。もっとも、当時、この意味での”カオス”という言葉は、まだ使われてなかったのだけど。

さて、とにかく大気の状態はx,y,zという三つの数値で指定されるから、三次元空間の一点として表すことができる。ローレンツ方程式は、時間が経つにつれてこの大気の状態がどう変化していくかを記述している。先ほどの三次元空間で考えると、状態が変化することは点が移動することに相当する。その移動の軌跡を描いたものが、表紙の”ローレンツ・アトラクター”なのである。ちなみに、表紙の図ではx,y,zの三次元空間を真横から眺めている。図の上ではどちらの羽も同じような形だけど、大気の状態としては全く違うことに注意してほしい。

さて、動いた軌跡なのだから、実際に動いてるところを見たほうが、圧倒的にわかりやすい。ローレンツアトラクタの絵はよく見かけるけど、実際に動く様子を見る機会はあんまりないことでもあるから、 JAVAを使ったシミュレーション を用意してみた。 JAVAを使える環境にある人は、是非動かしてみてください。

動かしてみると、軌跡の動きは片方の羽の中をぐるぐる回る運動と左右の羽の間を飛び移る運動の組み合わせになっているのがわかる。カオスというのは不規則で予測のつかない運動のことを指す。それは確かにそうなのだけど、カオスだからといってあらゆる瞬間に不規則な運動をするわけではない。ぐるぐる回る部分はむしろ規則的だ。回っているうちに回転半径がだんだん大きくなっていき、あるとき隣の羽に飛び移る。その飛び移るタイミングが毎回違っているのである。つまり、この左右の飛び移りが運動全体の不規則さを生み出していることが理解できると思う。

カオスの特徴として、”初期状態への敏感な依存性”がある。これも、JAVAのシミュレーションを用意したので遊んでみてほしい。

ほんの少しだけ違う初期状態から出発したふたつの軌道を考えよう。当然はじめのうち、ふたつはほとんど同じ軌道を描くはずだ。軌道は少しずつ離れだすけれど、それでもしばらくは互いに近い軌道にいる。だけど、やがて、ふたつが決定的に分離する瞬間が劇的に訪れる。一方の軌道が片方の羽に留まっているにもかかわらず、もう一方の軌道が反対側の羽に飛び移ってしまうのだ。それ以後、ふたつの軌道はまったく違うものになる。初期状態の違いが劇的に拡大され、元々初期状態が似ていたという記憶は失われてしまう。左右の羽は全く違う大気の状態を表すのだから、両側に別れた時点で、両者の気象状況も全く違ってしまうことになる。つまり、これが”バタフライ効果”だ。もしかしたら、一方は穏やかな天気で、一方は嵐かもしれない。

ただし、どんな初期状態から出発しても、最終的には必ず同じ蝶の羽の中で軌跡が描かれる。つまり、この二枚の羽型の領域は軌跡を引き付けるのである。そこで、この領域のことを”アトラクター(吸引領域)”と呼ぶ。ローレンツ・モデルのアトラクターだから、ローレンツ・アトラクターだ。

というわけで、ローレンツ・カオスの特徴を箇条書きにまとめてみると

気象がこのようにカオス的だとしたら、天気の長期予報は絶望的だ。初期状態を限りなく細かい精度で知らない限り、初期状態のずれが最後には大きな違いを生むのだから。つまり、初期状態への敏感な依存性は、そのまま”予測不可能性”につながる。ローレンツのモデルはニュートン力学などと同じように完全に決定論的で、初期状態を指定すれば、未来永劫にわたって状態が決まってしまう。ところが、そのような決定論的なモデルであるにもかかわらず予測不可能になってしまう。未来永劫まで決まってはいるけれど、どう決まっているかは僕たちのうかがいしれないところにあるというわけだ。それが、カオスのもっともカオスらしいところだ。ただし、初期状態が近ければしばらくは近い軌道を描くのだから、短期的には予報も可能だという点を強調しておきたい。カオスは全くのでたらめとは違う。”カオスだから予報が当たらない”という言い方は、必ずしも正しくはないのである。

ローレンツはこのアトラクターが登場する論文をJournal of Atomospheric Science という雑誌に発表した。必要なことはすべて書いてあって、今読んでも感動する論文だ。しかし、気象学の専門雑誌だったため、物理や数学分野の研究社の目にはなかなかとまらなかった。論文の価値が広く認識されるようになるのは、70年代のこととなる。

(木口まこと)


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