内 輪   第98回

大野万紀


 5月の3日と4日は、東京で開かれたSFセミナーへ行って来ました。

 朝9時過ぎの新幹線で東京へ。雨は降りそうで降らなかった。11時頃伊豆で地震があり、30分ほど新幹線が止まるというアクシデントがあって、会場に着いたのは1時過ぎ。すでに野田さんの講演が始まっていた。
 昼の部の講演で特に印象に残ったものはといえば、「オリジナルアンソロジーの可能性」。井上雅彦氏の話が面白かった。最近日本SFを(限られた作家の作品しか)読んでいないなあ、という実感。
 水鏡子が競馬であてたとかで、夕食は水鏡子のおごり。10人くらいで旅館の近くのレストランで食べる。
 今年は昼も夜もすごい人数だ。合宿所もいっぱい。合宿企画は「SF全集を出そう」に行ってみる。SF全集という言葉にはひかれるものがあるのです。KSFAのガリ版刷り「現代SF全集」は5巻まで出したけど、こっちは日本SF全集で、しかも実現一歩手前までいったすごく現実的な企画だった。ギャラリー(ぼく、大森望、水鏡子、小浜夫妻、山岸真など)が、ひたすらあーだこーだと文句をつけて、セミナー合宿より京フェス合宿に近いノリになった。でも面白かったよ。
 続いて、「ライブ・スキャナー」。これは原書を読んだ人がその内容を紹介するというやつで、まあ真面目な企画。これはすごい、というほどのものはなくて、こんなもんか、と思っていたら、大森望がレイモンの変てこなバンパイアものを紹介。これも実際に読んだら大したことなさそうだけど、大森の話術ですごく面白そうに聞こえる。
 ぼくは同じ部屋にずっといたのだが、次が「ネットワークとファンダム」というやつで、これは自分も興味あったし、他の人もそうだったのだろう、ずいぶんと人を集めていた。小浜くん、SFオンラインの坂口さんが中心で、それに牧眞司、土屋さん、大森望、冬樹蛉、それにネット関係の人たち。で、小浜がもっていこうとした方向性がどうも既存ファンダム中心で、ネットをやっている人たちの実感とずれていた。で、大森はじめ、ネット組が主導権をとって、インターネットとパソ通の違いとか、インターネットとファンダムの親和性とか、そういう話題を中心に方向転換(しかし、このベクトルのずれは最後までつきまとった)。ぼくは、「(NIFTYやPC−VANを念頭に置いて)パソ通のフォーラムはそれ自身ひとつのファングループにはなり得るが、既存ファンダムとの親和性は薄い。むしろインターネット(のWWW)がファンダムとの親和性が高いのではないか。それは読む側の選択のしやすさや、発言のレベルの問題、発信する主体の問題、相互リンクという手段による積極的で選択的なネットワークの発生というあたりがポイントになるだろう」といった趣旨の発言をした。みん なで遅くまで真剣で活発な議論が続いていた。
 その後は古本極道の部屋とかあったけど、さすがに2時を越えると眠さがかって、ゲストルームへもぐり込んで寝てしまった。翌日はずいぶんあっさりとした閉会宣言があって、みんなとさようなら。今回はあんまり挨拶とかできなかったのだけど、楽しい一昼夜でした。

 SFセミナー関係のレポートは、大森望の「SFセミナー'98レポート(もしくはそれに準じるもの)が読める(可能性がある)サイト一覧」にリンクが集められています。このレポートもそこにTHATTAが掲載されていたので、とりあえず書いてみました。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。


『神に迫るサイエンス−BRAIN VALLEY研究序説−』 瀬名秀明監修
 脳科学を中心に『BRAIN VALLEY』の背景を知るための解説本。ただ、内容はかなり専門的な知識を要するものからエッセイ的なものまでばらつきがある。ぼくに面白かったのは金沢創「霊長類学」だった。チンパンジーはことばを持つか、そして死を認識するか、という問題。ぼくなどついつい犬や猫さえ擬人化して平気だったりするが、これほど人間に近い動物でも、きちんと科学的に実証しようとすると大変なのだろう。ましてコンピュータの意識や異星人の意識を軽々しく論じてはいけない……ということはわかるのだけど、アニミズムって魅力的だしなあ。

『マグニチュード10』 マイク・マクウェイ&アーサー・C・クラーク
 クラークはアイデアだけ。マクウェイの本だといっていいだろう。出た時は無視していたのだが、自身も震災被災者の米村秀雄が面白かったというので読んでみた。まあ、この現象を「地震」と思わなければ良いのだな。「超震」とでも思えばいいのだ。地震に良く似ているが、厳密な予知が可能な災害というわけ。ぼくなんか、あれ以来地震の厳密な(日単位の)予知というだけで「ちょー」と思ってしまうわけで、天気予報すら当たらないのに、どうするっていうのかね。クラークがかんでいるということで、そこらを何かSF的なアイデアで解決しているかと期待したが、すごい観測手段が出てくるわけでもなく、すごいコンピュータが全てを解決するのみ。だからとてもハードSFとはいえませんな。それにしても何万人という被災者が出る大災害を、これで予算が確保できると冷たく利用する主人公にはとても感情移入できない。まあそこで気持ちを押さえて読み続ければ、確かにマクウェイの人物造形は個性的で面白いといえる。ただの脳天気なパニックものではなかった。ストーリイも波瀾万丈です。ただ、ぼくにはやっぱりひっかかる所が多すぎて、十分楽しめなかったことも事実。

『こちら異星人対策局』 ゴードン・R・ディクスン
 うーん、これは……。ユーモアSFのはずが、ちっとも面白くない。何よりもまず、ストーリーがあまりにもいいかげんで、唖然としてしまう。ご都合主義とすらいえない。バルバー人が歌ったらどうしてジャクタル帝国の支配権が移ることのなるの? 何か見落としがあると思って読み返してしまったよ。もっとジェットコースター的にギャグが連発されているとか、ドタバタに勢いがあれば、細かいことは気にならなかっただろうと思うが、そういう面白さも不発。犬が活躍しないのも大減点。

『イエスの遺伝子』 マイクル・コーディ
 バイオものって、やっぱしはやりなのだろうか。遺伝子工学で娘の命を救おうとする科学者のストーリーと、救世主の再臨を待つ秘密組織のストーリー(そしてそれが放つ暗殺者の話)がからみあっているが、わりあいストレートに進むので、わかりやすい。ただ、秘密組織の方の話がもう一つ説得力ない感じ。エンターテイメントとしては、ぐんぐんと話が進んで読ませるので、面白く、さすがに良くできている。結論も(ひっかかるところもあるが)、これなら納得できる気がする。この結末は、第三の遺伝子にはまだ秘密があったってことかな。

『リングワールドの玉座』 ラリイ・ニーヴン
 『リングワールド』は傑作といえる(欠点はいっぱいあるけれど)作品だった。何といっても舞台の壮大さがセンスオブワンダーを誘った。『リングワールド再び』はあんまり印象に残っていなかったが、読み返してみて、今度はこの世界の生態系が主役だ(人類が様々な亜種にわかれて環境に適応し、生態系を形成している)とわかり、それなりに面白かった。異種族間のセックスがコミュニケーション手段として重要だとか、強引な気はするが考えたな、という感じだった。で、本書だが……これなら、吸血鬼アンソロジーに載った短編の方が迫力あって面白かったんじゃないかと思う。機械人間を主人公に、他の種族が協力して吸血鬼族と戦うプロットは、冒険物語としてよくできているし、とても面白く読める。だが、ウーを中心にするいつものリングワールドストーリーの方が、これがまあ行き当たりばったりで、ウーは優柔不断なバカだし、論理よりも直感でしか話が進まないし、本当にちゃんとストーリーを考えて作ってあるのか疑問な感じがしてしまう。新しい発見は何もない。すごいアイデアも出てこない。舞台設定が終わった後の単なるシリーズ続編で、しかも完結していないとくる。や れやれ。ウーやパペッティアやプロテクターの出てこない、吸血鬼族との戦いを中心にしたストーリーでおせば、もっとストレートに面白かっただろうと思われる。

『スロー・リバー』 ニコラ・グリフィス
 下水道SF。いや、このSFの面白さは、本当に「下水道SF」というのをハードに追求したところにあると思う。環境工学SFといってもいい。そこのリアリティがあるから、ヒロインの不自然な行動もまあ見逃すことができるし(実際、結末での安易な逆転を考えると、このしっかりしたヒロインがどうして、ちゃんと事実に基づいた判断をしなかったのか、謎としかいいようがない。そりゃないでしょ、といいたくなる)、ミステリ的な謎解きについても同様。よくある巨大企業謀略ものと思ったら、あれあれとなる。しかし、それは少なくとも前半においては物語を引っ張っていく力にはなっている。構成が少しわかりにくいので、これは意味のあることだ。だが、何といってもこの小説をネビュラ賞にふさわしい、読みごたえあるSFにしているのは、下水処理をはじめとする未来社会のハード面と、ヒロインの新たな人間関係として描かれる未来社会のソフト面がリアルに緻密に描かれていることだ。そこが面白さの中心でもある。スターリングみたいに視点が大きく広がるということはないが、未来の構築力はスターリング以上だとさえ思える。

『陋巷に在り3/媚の巻』 酒見賢一
 媚の巻というくらいで、顔回ら需者と恐るべき魔女の戦い。この魔女が強くてかっこいい。で、それよりもあの小娘だったヒロインの、ちゃんが今回すごくいい感じ。顔回もかっこいいし、とても面白い巻でした。でも、あの手練れの顔需たちが最後にころころとやられちゃって、これからいったいどうなるのでしょう。でもきっと、ちゃんが活躍してくれるに違いないからいいや。

『虚数』 スタニスワフ・レム
 正直言って、すなおに面白いとはいいにくい。グロテスクを狙った作品でも、面白いというよりは難解である。『泰平ヨン』みたくユーモラスに書くこともできたはずなのに。ぼくの弛緩した頭では読むのに時間がかかり、あちこちでつかえてしまう。
 では全然面白くなかったかというと、そうでもないのだ。刺激的で様々なスペキュレーションを誘い、深く考えさせられる。そういう意味で、まあ、何といってもゴーレムさんでしょう。
 最初の講義は進化についてだが、これって複雑系だの、利己的遺伝子だの、グールドの進化論だのの後で読むと、衝撃度は少ない。進化の無目的さとか、愛の無意味さとかを語っているのだが、合目的的に未来のユートピアを計画していた共産党員にはきっと衝撃的だったんだろうね。
 次の講義がやはり色々と考えさせられる。ここではいかにもレムらしい、人間とは異質な知性のあり方が考察されている。最後の方では人間の知性の無力さが書かれているが、ぼくはここでガロアを思い浮かべた。後の人々から見ればまったく無意味な決闘によって命を絶った天才数学者。また、何かの本で読んだ、第二次大戦でのある数学者の死についても。
 本書に書かれていることそのものについてではなく、本書を読んでぼくがとりとめもなく思ったことを書くことにしよう。
 レムはSFをとても真面目(シリアス)に考えている。SFが何らかの寓話であってもかまわないのだが、たとえば人工知能に関する寓話であれば、それは人工知能を真剣に考察した上での寓話でなければならないのだと(例えば本書のような)。
 だからSFによくある人間的な異星人などとうてい認められないわけだ。でもぼくのSF感はそこまで厳しくないので、人間そっくりな異星人が出てきても、恋する少女のような人工知能が出てきても全くオッケーです。
 当然、ゴーレム流にいえば、人工知能が人間になりたいと思ったり、恋をしたいと思ったりするわけはない。だからそういうSFは〈人工知能SF〉ではない。人間とまったく同じように思考する異星人が出てくるSFは〈異星人SF〉ではない。現代人に理解出来ないものが全く出てこないような未来社会を扱ったSFは〈未来SF〉じゃない。
 とーとつですが、その伝でいえば「跳躍者の時空」なんて、〈猫SF〉とはいえない(なぜならガミッチは実は人間であって猫ではないことになるから)。それは猫SFではなくて、「猫は人間でなければならない」とする、猫好き人間のSFなのだろう。ああ、でもそれってあえて言ってどうなる、自明なことじゃないですか。でも「跳躍者の時空」は猫SFの傑作だっていいたいよねえ。まあ、ガミッチが猫じゃなくて人間だというのは別にそれでもいいけど、サイバースペースを放浪する恋する少女の人工知能がいたって、そういうSFがあったっていいじゃないか。そういう風に描くSFの意味はどこにあるのだろうか。ゴーレム流とは違うSFって、いったい何なのだろうか。

『悪魔の発明』 井上雅彦編
 これは面白かった。やっぱりマッド・サイエンティストっていうのはSFでしょう。わりと古典的な、ホラーよりのマッド・サイエンティストものが多かった気がするが、そういうのも雰囲気があって良かった。
 印象に残ったものとしては、まず牧野修「〈非−知〉工場」。SFとしては認めにくいのだが、幻想的なイメージの強烈さがすごい。山田正紀「明日、どこかで」も読ませる。もっともマッド・サイエンティストものとはいえないかも知れないが。
 大場惑「よいこの町」がいい。陳腐といえば陳腐なのだが、明るい日常的な恐怖が一昔前の優れたSF短編を思わせる。森岡浩之「決して会うことのないきみへ」はSF的な恐怖が身にしみて、怖い。岡崎弘明「空想科学博士」はビクスビーを吾妻ひでおが書いたみたいなハチャハチャSF。田中文雄「白雪姫の棺」は文章に雰囲気がある。SFセミナーでおなじみの、本郷あたりの懐かしい雰囲気だ。梶尾真治「柴山博士臨界超過!」も強烈。
 そして堀晃「ハリー博士の自動輪−あるいは第三種永久機関−」。第三種永久機関のアイデアもさることながら、この作品って、大阪の人なら、あの阪急ファイブに建設中の大観覧車を思い浮かべてしまうんじゃないだろうか。堀さんの家からだって、あのビル街に浮かび上がる異様なオブジェは見えるはずだもんなあ。

 ということで、急に思い立って掘さんの『マッド・サイエンス入門』(新潮文庫)につけた、ぼくの解説を再録してみました。もうあれから12年になるんですねえ……。


THATTA 126号へ戻る

トップページへ戻る