みだれめも 第110回

水鏡子


●制度的なるものについて

 言葉を代えれば、ぼくは差別をしないとかしたことがないと言えるのは行使する側の人間だけであり、行使される側の人間には、差別されない自由は存在しない。行使する側が差別したいと考えるだけで、制度内差別は自動的に発生する。行使される側にできることは制度を否定することだけであり、より建設的な方向として対案となる制度を提案することだけだ。

 マーリン・バーの『男たちの知らない女』(勁草書房 4200円)は、「父権性」により女性やSFががいかに見下されてきたかを切々と訴え、差別されてきたものの本来的な価値の復権を力強く主張する。
 けれども「父権」と「制」とを一体視し、すべての悪の根幹は男性原理に起因した現在制度に問題があるとする論理には、ぼくとしては了解しえないものがある。「制度」が「制度」であるかぎり強弱の差はあれ、行使するものとされるものとの間に差別と暴力は普遍的に存在すると思うから。
 女性やSFが、社会や文芸アカデミズムから見下されるのはけしからんとバーはいう。正当に評価されるべき力を有しているのがそんな扱いを受けるのは不公平だという。そんな評価が横溢するのも世界が男性原理に支配されているせいだという。
 そのこと自体を否定する気は毛頭ないし、男性原理が強固に横たわる現在社会の中では、〈支配原理とないがゆえに〉フェミニズムはカウンターテーゼとして価値ある存在として輝くことができている。
 けれども女性やSFを正当に認めなさいという論旨は、結局、行使される側にあるものに行使する側の椅子を与えなさいといっているだけでしかない。もちろんそれによって社会が変わるという部分はあるし、社会的運動としてはそれで充分であるともいえるけれども、文学論とかSF論といった机上論の部分においては、もっと〈父権的悪〉と〈制度的悪〉を峻別していく必要があるというのが、ぼくの考え方である。そもそもSFはそういう〈制度的悪〉をかなり自覚的に利用してきた小説ジャンルであるというのが、昔からのぼくの意見であったりする。『乱れ殺法』の副題「SFという暴力」というフレーズはそういうニュアンスを含んでいたりするのだけどね。
 本書のなかで、いちばん読みごたえがあったのは、社会と妊娠・生殖の関係を扱った第7章だった。

 フェミニズムに対しては基本的には是々非々、ややシンパ寄りといったところか。なんといっても、こだわりのある作家・漫画家の半分以上を女性作家が占めているのに、女性蔑視のもちようがない。もっともそんな作家の中でフェミニズム運動を罵倒する文章もけっこう目にしてきている気もする。もっとも先に述べた言葉でいえば、圧倒的な男性原理の社会のなかで、「わたしは差別なんかしていない」という選択権をもつ行使する側の人間であるにすぎないわけであるけれど。
 ただまちがえてはいけないのは、フェミニズムというのは社会的運動であるということで、それはとりもなおさず新制度制定運動であるということ。制度的存在として納得のいく立場を自分たちに与えることが目的であり、制度的枠組みから逃れて、〈本来の自分〉になることとはちがうものであるはずだ。
 だから、ティプトリーの作品がフェミニズムに引き寄せて語られるのにはずっとずれたものを感じ続けてきた。だいたいこの人は、男性原理の社会のなかで自分の居場所を確保できてきた人であり、本当のわたしを見て! というのは、他人の視線、社会的評価からの自由への願望にすぎない。制度的思考としてのフェミニズムとは、根本的に相いれない部分があって、女性だとばれる前にジョアンナ・ラスが反フェミニズム的作家として糾弾したのはむしろ正しい判断だったと思う。ついでにいうならそういう評価をくだされていたティプトリーというのがどちらかといえば好きだ。

 ティプトリーの第4短篇集『星ぼしの荒野から』を読むと、ティプトリーの興味がどんどん内向していっているのがよくわかる。舞台のスケールこそあいかわらずの広がりをみせているけど、初期の作品に横溢していた、人類とか地球とかいった言葉に込められていたヴィジョンが弱まり、個人的心象風景の銀河系的舞台への投射といった色彩が強くなる。「そして目覚めるとこの肌寒い丘にいた」と「汚れなき戯れ」を比較するとよくわかる。「汚れなき戯れ」も秀作。本書の中では「われら〈夢〉を盗みし者」と並んで気にいった。経歴を知ったうえで読んでみると、作品内への自伝的要素は初期作品からけっこうあったことがわかってきているわけだけど、本書の場合そうしたものがほとんど素のまま語られ、しかも作品の基調を支配するようになってきているのが非常に顕著にみてとれる。(「星ぼしの荒野から」「たおやかな狂える手に」)
 ティプトリーだからこそ、ここまで愚痴をこぼしたくなる。作品的には過去の発表作の語り直しが目につくし、巻頭の2作品など愚作と断じてはばからないけど、それでも客観的評価としては、やっぱり今年の5指に入る本だろう。

 『酒仙』『遊仙譜』と堪能させてもらった南條竹則の新機軸『セレス』(講談社 1800円)は帯にある通りの〈電脳封神演義〉。SFを書くということはそれなりにむずかしいのかもしれないと思わされた。文章作法的にはたぶん『遊仙譜』なんかでやっていたこととそんなにちがいはないのだろうけど、傾けられた蘊蓄の背後に広がる文化の熟成度合いの差が、そのまま物語の風情を平板にしている。これじゃあレベル的に『ラルフ124C41+』と似たりよったりの代物だ。

 比べて近未来の日本をリアルに描き、説明口調に煩わされず無理なく小説世界に入りこめたという点で、谷甲州『エリコ』(早川書房 2200円)のなめらかさは驚異に値するかもしれない。SFとして見た場合、物語的目新しさに欠けるけど、逆にここまで地味に(地味か?)書きこまれた近未来世界の触感は、これまたひとつの収穫である。


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