雑多繚乱・ぞくぞく

水鏡子

週間読書人 書評(1992〜1993)  文庫解説の系譜 ―読書展開の指針として  初心者に勧めるSF


週間読書人 書評


 考えてみると(考えるまでもないか)、宇宙人が円盤に乗って攻めてきたり、タイムマシンで過去に戻ってチャンバラする話なんて、まともにとりあう値打ちのない、ばかばかしい、くだらないものかもしれない。
 そんなことはない、そういう意見を吐くのは物事の表面しか見てないからであり、SFの根底にはとんでもなく深遠な真理が隠されているのである。
 そう主張しながらSFは、立派な、奥行のある作品を生み出してきた。
 そうした理屈のなかで、くだらないこと、ばかばかしいことは、みずからの値打ちを主張することを、束縛され、抑圧されてきた。
 けれども、くだらないこと、ばかばかしいことは、作品の値打ちとして、ほんとうに無意味だろうか。
 くだらない、ばかばかしいと感じるものに出会ったときに、ぼくらの裡に生れてくる、気楽さや優越感とないまぜになった解放感。そういう感情を引き起こしてくれるくだらなさには、貴重このうえない値打ちがある。
 しかも。
 立派なものが立派であると主張したってなにほどのこともないけれど、〈くだらなさ〉の地点から派生してきた存在が、奇怪至極な論理とか学問的権威のはったりでもって、立派さ正しさを主張し、攻めのぼってきてくれたとき、受けとめるぼくらは心地よい混乱と高揚に満たされる。
 SFの魅力をそういうかたちでとらえてみるのはいかがだろう。
 そんな魅力を放つ本には、いわゆるSF以外にもけっこうある。現代社会の流行現象を歴史的事件と強引につないでみせたTV番組本『カノッサの屈辱』(扶桑社)。存在しえない奇妙な生き物の生態を詳細に描いた『鼻行類』(思索社)。そしてここにまたひとつ、すぐれた発想本が生まれた。
 若手研究者25人がそれぞれの専門知識をもちよって、特撮番組『ウルトラマン』を解釈していく『ウルトラマン研究序説』(中経出版 一四〇〇円)という本である。
 「科学特捜隊は憲法九条に抵触しないか」「ウルトラマンに倒された怪獣の死体の後始末は、国か地方自治体か」など、ドラマチックな命題が満載され、緊急事態の後処理の、蜂の巣をつついたような騒動が目に浮かんでくる。
 個々の論説が短かすぎ、きまじめを装うことへの照れが見え隠れする。もっといいものにできたはず、という不満は残るけれど、ないものねだりかもしれない。発想だけで充分に、よくやってくれたと快哉を叫びたくなる出来なのだから。

『ウルトラマン研究序説』
編・著 SUPER STRINGS サーフライダー21

中経出版 一四〇〇円


 キティ・マカーリーは従軍看護婦として戦火のベトナムに赴いた。
 そこは彼女の想像をはるかに越えた世界だった。ベトナム人を人間と思っていない将校や医師。逆にかれらを信じたばかりに死んでいったアメリカ人たち。爆撃機や迫撃砲の轟音が常に遠景に流れ、兵士たちは死と隣合わせの恐怖をまぎらわせようとセックスやマリファナにつかのまの安らぎを求める。次々と送りこまれる患者たち。たりない設備。たりない時間。ありあまる死。常識が通用しない非日常的な場所。
 それがベトナムだった。
 けれども非日常的な場所も、そこに住む人々にとっては日常の場である。そこで生活していく以上、その世界の常識に折り合いながら、納得できる自分のモラルをみつけるしかない。他人から見て、どれだけ冷酷にみえたとしても。どんなにきれいごとに見えたとしても。
 『治療者の戦争』(ハヤカワ文庫 七〇〇円)の作者エリザベス・アン・スカボローは二十二歳のときに、実際に従軍看護婦としてベトナムを体験してきた。本書の前に七冊の明るく軽いコメディ・タッチのファンタジイを書いている。
 この本に反映された経験の重みを思うにつけ、彼女がそういうただ楽しいだけの本を書きたかった気分というのがわかる気がするし、時期がきて、こういう本を書いたことにも納得できるものがある。第二次大戦中捕虜として体験したドレスデンでの爆撃を、カート・ヴォネガットが『スローターハウス5』で吐きだしたのも、二十年経ってのことだった。
 ベトナム人の老人から譲られた護符によってキティは心霊治療の能力を開発される。SF的趣向としてはそれだけだけど、小説の芯にからまり、うまく効果をあげている。
 物語の前半は、体験を生かした病院の風景。患者や同僚、兵士たちとの交流をじっくり書きこんでいる。後半は、およそベトナム戦争を舞台にした娯楽作品のあらゆるパターンを放りこむ、なんでもありの展開だが、前半の書きこみの重さがものをいい、上滑りから救われている。


『治療者の戦争』
エリザベス・アン・スカボロー

友枝 康子訳

早川書房 七〇〇円
ハヤカワ文庫SF957


 ピアズ・アンソニイ〈クラスター〉三部作(浅羽莢子訳、早川文庫SF)が完結した。
 千年周期で引き起こされる銀河系規模の大侵略を、たった一人の主人公が阻止するというスペースオペラで、荒唐無稽を字で書いた本。
 作品の質は必ずしもよろしくない。同じ作家の同時期の〈魔法の国ザンス〉のシリーズなどとくらべても、むしろ凡作かもしれない。
 にもかかわらず、この本が話題にもされず埋もれていくのにしのびないのは、ばかばかしさが論理と結託して観念的な地平へ読者の感覚を導いていくという、SF特有の感触を純なかたちで体現している最近では珍しい本だから。
 時は二四世紀。銀河系文明は霊体となって宇宙を横切り、他の種族の個体に憑依するという通信手段を確立していた。その銀河系のエネルギーをアンドロメダ星雲が強奪しようと活動を開始。侵略を察知した中央星圏からの依頼を受け人類政府は地域連合を強化するため〈さいはての星のフリント〉を近隣の異星種族のもとへ遣わした。一方、その動きを知ったアンドロメダもフリント暗殺の刺客を送りだす。
 憑依によるコミュニケーションが結果的にほとんど性行為になってしまうという宇宙冒険エロチカだけど、クラゲやゾウリムシのセックス描写で欲情する読者というのもあんまりいそうもない気がする。ましてやそれが小学生を相手にした性教育まがいの口調で語られていくというのも困ったものである。(もっともクラゲに感情移入したかたちでの、クラゲのセックス・シーンを読んだ経験というのも、あんまりした記憶のある人はいないのではないか) それぞれの種族の性交渉の形態から、各文明の特質や言語的特徴が説明されたりするところもけっこう楽しい。 正直、不満は山ほどある。この発想と設定なら、もっととんでもない本が絶対できていた。そういう〈ありえたかもしれない傑作〉を実際の作品とだぶらせながら、とりあえず第一作の『キルリアンの戦士』(六〇〇円)だけでもお勧めしておく。


〈クラスター・サーガ〉三部作
 ピアズ・アンソニイ
 浅羽莢子訳 早川文庫SF

(1)『キルリアンの戦士』 六〇〇円
(2)『タローの乙女』   六八〇円
(3)『オーラの王者』   六六〇円


 アインシュタインの相対性理論によれば、非常に高速度で移動している物体は、外部と時間の経ちかたがちがってくる。たとえば光の何分の一かのスピードで二年間かけて他の星に行ってきた宇宙船が地球に還ってくると、地球では何十年という歳月が流れていたりすることになる。〈ウラシマ効果〉などと呼ばれるものだが、現象自体がファンタスティックなうえ、時差が引き起こす人間ドラマとしても魅力に富んだ題材だけに、この設定を生かしたSFの数はそれこそ枚挙にいとまがない。
 ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』(浅倉久志訳、創元SF文庫・五八〇円)も、そうした伝統に新たな一頁を加えた傑作である。
 五〇人の男女科学者を乗せ、三二光年彼方の乙女座ベータ星に向かった宇宙船が不慮の事故にあい、ブレーキ装置が壊れてしまう。止められなくなった宇宙船の内部で何年もの時間が過ぎていく間に、外部に広がる宇宙では何億年、何兆年の歳月が過ぎ去っていく。宇宙船の乗組員たちは、すでに肉親との離別どころか人類種族との再会の可能性すら断たれ、未来に対するなんの希望も存在しない、果てしない虚無の時空間を航行していくしかなかった。
 かれらの眼前で宇宙は刻一刻と様相を変えていく。
 星が歳老いていき、しだいに冷えて死んでいく。そして宇宙もまた、歳をとり、膨張の限界に達し、収縮に転じる。やがては始原体にまで収縮することになるのである。
 宇宙というより、むしろ時間の中を航行していくこの船の、周囲にくりひろげられる壮大なヴィジョン。
それがこの作品の最大の読みどころであるわけだけど、人間のドラマがなければ小説でないと確信している気構えのアンダースンである。将来的な目標を根こそぎ失くした集団を、組織し、生きのびさせようとする、主人公たちの生への意志を謳いあげること。それがあってこその人類というもの。あくまでそこに作品構成の主眼を置き、素朴で真摯なメッセージを掲げるところに、本書の、そしてアンダースンの魅力がある。


『タウ・ゼロ』
 ポール・アンダースン

 浅倉久志訳
 創元SF文庫
 五八〇円


 イングランドの片田舎に、人が足を踏み入れられない森がある。森に入いりこもうとしても、道に迷い、周縁を堂々巡りすることになる。
 森は〈異界〉だった。時間も、空間も、世界律さえ、この世からかけ離れた世界。森そのものがひとつの生き物のようでもあった。
 その異界の中では、人々の思念が〈人〉を生む。氷河期このかたさまざまな時代の民人が思い描いてきた人物像が実体となり、伝説に縛られた生を送っている。
 それが〈ミサゴ〉であり、これが〈ミサゴの森〉だった。
 考古学者であった父親は、この森にとり憑かれたまま死んだ。兄のクリスも森の奥へと消えていった。
 そしてスティーブンのもとへも、ミサゴの少女、グゥイネスがやってくるようになる。父親や兄のときと同様に。
 『ミサゴの森』(小尾 芙佐訳、角川書店・二五〇〇円) イギリスSFの中堅どころロバート・ホールドストックの代表作である。
 異質な世界に出会い、とりこまれ、変容していく人間たち、その人間たちの変容を通して浮かびあがってくる世界というものを書きつづけてきた作家である。
 謎めいた事象が整理されて、壮大なヴィジョンがたちあらわれる。それが人類学的テーマを扱ったときのSFの、いわば常套手段であるのだが、ホールドストックは慎重にちがうかたちの物語へと舵をとる。
 SF得意の理詰めの解をすることで、世界の相が変質してしまったのでは元も子もないというように、ヴィジョンはほのめかしにとどめ、ただひたすら謎めいた物語を書き綴る。
 謎が解かれることなく積み重なっていくなかで、いつしか主人公たちの行動を律する世界のありかたが変化してくる。日常の世界が夢まぼろしとなり、ミサゴの森の論理が〈実〉となってくるのである。
 諸星大二郎の作品に似たスタンスの小説である。もっとも感触はずっとオーソドックスで、比べてしまうぶん、作者のまっとうさにややものたりなさを感じたりもする。



『ミサゴの森』
 ロバート・ホールドストック

 小尾 芙佐 訳
 角川書店
 二五〇〇円


 いろんなものの存在根拠を問い直すのは、SFというジャンルが好んで取りあげてきたテーマである。この世は本当にぼくらがふだん思い描いているものなのか? じつのところは空の上のだれかさんにごまかされているのでないのか?
 唯我論や集合意識といった胡蝶の夢的解釈から、神さまもどきや権力者によるメディア操作タイプのあやつられ妄想まで、多岐に渡った作品がある。
 なかで最近活況を呈しているのが、コンピュータ内部の記憶世界を素材とした作品群。サイバーパンク、電脳空間、仮想現実感(ヴァーチャル・リアリティ)など、社会的認知を受けた単語に触発されながら、様々な佳作を生んでいる。
 早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』もそんな佳作のひとつである。

 深い森のなかにある知能工学研究所に職を得て、恋人と一緒に札幌に赴任した〈ぼく〉。そこには世界にも類を見ないバイオ・コンピュータがあった。このコンピュータを使う自由な研究をまかされたぼくは、その高度な記憶世界のなかにひとつの人生模様を息づかせようとする。ぼくと彼女をシミュレートしたもうひとつの人生を。
 早瀬耕のデビュー作『グリフォンズ・ガーデン』(早川書房・一七〇〇円)は、なによりも、SFの初心を思いおこさせ、共感を呼ぶさわやかさに満ちている。
 すこし皮肉であるのは、そうした感動のもととなるのが、作品に仕掛けられたSF的な設定でなく、恋人たちがえんえんと、次から次へと交わしあう、ただの会話の方だということ。無限と有限だとか二四進法と二三進法だとか、理科学的な概念やヴィジョンを自分たちの生き方につないで語る内容は、高尚といえば高尚な、たわいのないといえばたわいのない、浮世離れもしたものだけど、こういうものへの想いこそ、SFというジャンルの根底に横たわっていたものだったはずである。
 物語は、細部が少しづつ異なるだけで、ほとんど同じ内容の、二つの恋愛小説が、二重螺旋のようにからみあい、反復をくりかえしながら、やがて干渉を強めていく。
 そして会話のなかで語られたさまざまの話題が、干渉の伏線として生きてくることになる。
 恋愛小説という範疇だけで考えると、男のわがまま勝手な夢物語、とけなされそうな気がするくらい、男にも女にも、二人の暮らす世界にも、存在感がまるでない。けれど、そんな存在感の欠落が、二つの恋愛模様が合わせ鏡に互いの像を写しあい、無限の反復の果てに実体をもつ虚像を生みだしていくような、本書の全体的な構成に、むしろうまくマッチして、積極的に貢献している。
 むかし、カート・ヴォネガットはSFについて、作中人物の口を借り、「ポルノと同じくらいもてなしのいいファンタジイ」と規定した。その言葉を本書にそのまま送りたい。

 『グリフォンズ・ガーデン』
 早瀬 耕 作
 早川書房 一七〇〇円


 旅先の見聞録が文学として成り立つのなら、数学の証明にだって同じ理屈が成り立つはずだ。むろん作者にその風景を視覚化(あるいは触覚化)できる技術があって、さらにその証明の過程における立会人の心の起伏を伝えることができるなら。
 ふつうの人がそう考えて、そんな小説を書こうとしたら、とんでもない大事業になるだろう。
 けれども、数理論理学の分野で博士号を取り、その関係の解説書を書き、大学の先生をやっていた、ルーディ・ラッカーからすると、むしろそういう書き方が、小説を書くいちばん自然でてっとりばやい方法だったのかもしれない。
 そんな彼の作品があいついで翻訳された。
 『ホワイト・ライト』(黒丸尚訳、ハヤカワ文庫・五六〇円)は、八〇年に発表された処女長篇。
 主人公は数学者。ある日、幽体離脱をした彼は、神さまの命を受け、迷える魂を連れて死後の世界へと旅
立っていく。
 そこはいくつもの濃度の〈無限〉が折り重なって存在する公理的集合論の世界。無限の高さの山、無限の長さのトンネル、無限の部屋数のホテル、無限のページ数の本、等々。
 さまざまな〈無限〉の織りなす風景の中、いろんな人やものとの出会いをくりかえしながら彼は旅を続けていく。基本的にはシンプルな物語。
 『セックス・スフィア』(大森望訳、ハヤカワ文庫・五二〇円)は八三年発表の第四長篇である。
 物理学者の実験で地球の属する空間につなぎとめられた数学的四次元知性体。周囲の人間たちにエッチ効果を及ぼすことができる。この球体の陰謀に巻きこまれた数学者一家の、地球の命運までかけた、大ドタバタ・コメディ。
 正直なとこ、二冊とも、話の軸の数学論理がわかったとは言いづらい。
 けれどもわかる必要もたぶんないのだ。背景の論理が正しいと保証してさえもらえれば、奇怪にして豊饒なイメージはそれなりのリアリティでもって迫ってくる。その風景を楽しむことこそ醍醐味である。作者も本の中でこう言っている。
「方程式もまた詩なのです。方程式が正しいかどうかは、かまわないのです。どう感じるかが大切なのです」


『ホワイト・ライト』
 ルーディ・ラッカー 黒丸 尚 訳
 早川書房 ハヤカワ文庫SF 五六〇円
『セックス・スフィア』
 ルーディ・ラッカー 大森 望 訳
 早川書房 ハヤカワ文庫SF 五二〇円


 4月。SFを代表した作家、アイザック・アシモフが亡くなった。SFを論じるうえで避けて通れないはずの作家だった。というより、アシモフやハインラインが活躍した一九四〇年代のアメリカSFから説き起こすのが、SF論の常道であるはずだった。
 それなのに、今年続けさまに刊行された二冊の評論書は、いずれも一九六〇年代から物語を開始する。一方の本にいたっては、索引にすらアシモフの名は現われない。まるでアシモフの死に呼応するように。もはや複雑多岐にに成長した現代SFが、四〇年代からの射程では捉えきれないと宣言するように。
 『一兆年の宴』B・オールディス他 浅倉久志訳、東京創元社・三〇〇〇円)は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』をSFの祖と断じた名著『十億年の宴』(同著訳者、同出版社)の改訂新版の加筆部分を抜き出して、再編集を加えた本。気持ちのいいアジテーションが展開される序章が圧巻だけど、抽象論はここまで。あとは変化していく出版市場のレポートをベースにしながら、著者の読みふけったSFの名著類をめぐる辛辣なフィールド・ノートが開陳される。罵詈雑言に近い口調も散見し、読み物としても面白く、発見もまた少なくないのだけれど、一本づつの木がくっきりと見えすぎるぶん、森全体の歴史的ダイナミズムがつかみづらい。
 比べて現代SFを、ひとつのテーゼにまとめあげようとする強力な意図が支配するのが『現代SFのレトリック』巽孝之著、岩波書店・二三〇〇円)である。
 世界がSF的事象によって構築された時代にあって、いまやSFこそが現代を照射しうる同時代文学であると宣言し、現代社会のなかのSF性、現代SFに描きこまれた現在的問題の間を忙しく行き来しながら、現代SFを代表する作品群を検討していく。逆説的論理や論理的語呂合わせ、魅力的な概念を矢継ぎ早に投入し、疾走感を重視した文学表現はきわめて刺激的なものだけど、それらを維持する代償に、多くのものが“自明の理”として注釈なしで片づけられすぎている面がある。


『一兆年の宴』
 ブライアン・オールディス&デイヴィッド・ウィングローヴ 著
 浅倉 久志 訳
 東京創元社 三〇〇〇円

『現代SFのレトリック』
 巽 孝之 著
 岩波書店 二三〇〇円


 女性が元気だ。
 佐野洋子『食べちゃいたい』(筑摩書房・一二〇〇円)は、野菜やくだものに想をとった連作小品集。「食べられること」に焦点をあわせ、生身の男女の物語と重ねあわされながら、擬人的に取り扱われるねぎやだいこんについてつぎつぎと、とめどもなく読んでいくうち、この世と異なる成り立ちのちがう世界の枠組みが浮きあがってくるのがいい。へんにリアルでなまめかしく、そのくせファンタスティックな連作集。
 欧州を舞台に、ひとつの肉体を共有する精神だけが双子である男の半生を描いた『バルタザールの遍歴』(新潮社)で、ファンタジイノベル大賞を受賞した佐藤亜紀の二作目の長篇が出た。『戦争の法』(新潮社・一五〇〇円)である。
 一九七五年、N県が独立を宣言し、友邦ソ連の支配下にはいる。父親は出奔して闇商人としてのしあがり、残された母親は才覚を発揮して娼館を切り盛りする。そして中学生だった「私」は親友と共にゲリラの群れに身を投じる。
 疑似イベントとか歴史改変の物語というと、現実には起こらなかった特殊な歴史経過のデータを積んで、大状況の普遍性と個別性を検証し、創り出された今と実際の今とが頭の中で重なりあうのをなにより楽しむところがある。読みだす前には本書についてもそういう先入観があった。
 そういう話がほとんど前面に出てこない。奇矯にして魅力的なさまざまな登場人物たち。ゲリラと村の指導者の争いがじつは形を変えた家長権の争奪戦であったりする。かれらとの触れあいやかれらの間の確執が、この密度の高い物語空間の核を形作っている。そしてそうした手法が、かえってさまざまな社会的テーマを高い抽象度で展開することになる。
 虚構度の高い小説空間を構築しようとする意志が強く感じとられる文体である。そのくせ、小説の舞台や主人公の年齢に作者の経歴が重なりあったりもする。
 水と油くらいタイプのちがう本だけど、一方は自然体、一方は虚構の堅牢さでもって、読むものを別空間に引きずりこむ。


 環境対策に打ち上げたロケットが原因になって、確率論が吹き飛んだ世界でくりひろげられるドタバタ・ラブ・コメディ「月がとっても青いから」
 風紀の乱れた寄宿舎惑星で、突然男子学生たちが謹厳実直に変わる事件を通して、社会諸制度の背後にある父権的態度を性的変質性と結びつけてみた表題作。
 タイムマシンを使用して、ロンドン空襲下の大聖堂への現場実習にむかわされた若い歴史学者が歴史研究の意味を見出す「見張り」
 コニー・ウィリスの処女短篇集『わが愛しき娘たちよ』(大森望・他訳、ハヤカワ文庫・六八〇円)である。表題作がフェミニズムがらみの物議をかもしたりで、こわもてのするイメージが先行していた本だけど、ヴァラエティに富んだ知的で硬質な娯楽作品が並んでいる。ひとつひとつの作品をもっとくわしく紹介したいが、なにぶんプロットのおもしろさを重視する作風で、紹介自体が読む楽しみをぶちこわしかねない。作品の端書きにつぎのようなコメントをつける作家である。
 「読書の楽しみの中でも最高のひとつは、びっくり仰天すること。
 トリック、ミス・ディレクション、情報の出し惜しみ、レッド・ヘリング。ちょっとずつちょっとずつ糸をくりだして、読者を食いつかせ、それからえいやっと釣り上げる。わたしはそういう手管のすべてを身につけ、結果として二度とびっくりすることのできない体になってしまったのだけれど、それでも他人をびっくりさせることはできる」
 〈すべて〉といいきる傲慢さが好きだ。
 むしろ、自分の中の直情径行的な道徳性、正義感をもてあまし、技法面への主張や傾注で、流れに足をすくわれないよう踏んばろうとしているみたいにもみえる。
 ほぼ同時期に刊行された長篇『リンカーンの夢』(友枝康子訳 ハヤカワ文庫・五八〇円)はいくつものプロットが重なりあう技巧的な幽霊小説だった。本書もまた「埋葬式」を筆頭に、幽霊小説の変形といった感じの作品が少なくなかった。


コニー・ウィリス
『わが愛しき娘たちよ』
 大森望・他訳 ハヤカワ文庫
          六八〇円
『リンカーンの夢』
 友枝康子訳  ハヤカワ文庫
          五八〇円


 〈ワイルド・カード〉の第一弾『大いなる序章』G・R・R・マーチン編 黒丸尚・他訳 創元SF文庫 上巻六八〇円/下巻六〇〇円)が出版された。
 「バットマン」や「スーパーマン」、アメリカン・コミックスを読んで育ったSF作家たちが、かってかれらの慣れ親しんだ世界を紙上に再現するために、緊密な協力関係のもと、愛着と誠意をこめて取り組んだ連作長篇である。
 時は第二次大戦直後の一九四六年。ニューヨーク上空で、異星の細菌爆弾が破裂する。ワイルド・カード・ウィルスと命名された、その細菌は、感染した人間のほとんどを殺した。生き残ったひと握りの人間たちは、種々様々な醜悪な機能と肉体の持ち主に変貌した。かれらは「ジョーカー」と呼ばれるようになる。そのなかのさらにひと握りの人々は人間としての形態を維持したまま、内在的な特殊能力をもつ超人となった。人々はかれらを「エース」と呼ぶようになる。
 本書はかれら「エース」と「ジョーカー」の物語である。
 ある意味で、というより、もともとが派手派手しいマンガチックな設定である。それをどこまで、地に足ついた、リアルな小説世界にふくらませられるか。荒唐無稽をこわさずに、いかに世界の奥行きを深めることができるかどうか。
 それがこの種の小説が成功するかどうかの鍵ともいえる。
 本書はもうひとつのアメリカ史、もうひとつのアメリカ社会を描きだすことにより、その困難に立ち向かっていく。
 上巻では「エース」の誕生、その一瞬の栄光、そして失墜と復権の歴史が、戦後の混乱と共産勢力との対決のなか、下院非米活動調査委員会、マッカーシズムを軸に物語られる。
 下巻に入ると、時代はもう七〇年代。ロックやドラッグ、ホームレスやベトナム、黒人問題、アメリカ社会の抱えるさまざまな面が、「エース」と「ジョーカー」という設定に映しだされていく。
 だけど、あくまで話の主眼は荒唐無稽を楽しむこと。主客転倒しないこと。


『ワイルド・カード1
        大いなる序章』

   G・R・R・マーチン編
        黒丸尚・他訳
        創元SF文庫
 上巻六八〇円 下巻六〇〇円


 一九八〇年代はSFにとって刺激的な時代だった。
 「スターウォーズ」を嚆矢とするSFXを駆使した作品が映画界の主流となり、パソコンに代表されるハイテク・メディアが社会や文化の在り方を、激的に、高速度で変貌させているのだと、実感を伴って認識された時代だった。SFが商業的にも魅力ある存在に映りはじめた時代でもあった。
 そんな時代の空気を取りこんで、肯定的否定的に反芻しながら英米SFは活況を呈してくる。
 〈サイバーパンク〉という単語がSFという枠を跳び越えて、社会的な注目を呼び起こした。時代を集約する存在として、「日本」がクローズアップされるようになった。
 メディアと経済面での発達が人的情報的交流を飛躍的に活性化させ、英米の動向がタイム・ラグなしに、時には活字になる前から日本に伝わるほどになった。
 これが八〇年代の英米SF状況だった。
 『80年代SF傑作選 上下』小川隆・山岸真編 ハヤカワ文庫・上下巻各七〇〇円)は、この時代、英米SF界を積極的に追走し、話題作や時代動向を第一線で報告・紹介しつづけてきた二人の編者の手になる、決算報告書である。二人が読んできた一千編を越える話題作から選びだされた精選作品集であり、八〇年代という時代のなかで生成したSF状況を俯瞰した、ある種の指南書でもある。
 80年代という時代状況を抜きにして語れない話がある。
 SFの歴史的伝統を無視しては作りだせない話がある。
 フェミニズムその他著者の思想信条を高らかに謳った作品がある。
 SFというよりむしろファンタジイや普通の小説に近い話もまざっている。
 目を向く派手派手しさがあるだけでちょっとかんべんしてほしい話もまあないではない。
 それらすべてを含めたところでの編者二人の思い入れの強さこそ、あるいはこういう本の一番の読みどころ味わいどころかもしれない。


『80年代SF傑作選 上下』 小川隆・山岸真編
 ハヤカワ文庫 上下各七〇〇円
 収録作家
(上)ウィリアム・ギブスン/ポール・ディ=フィリッポ/キム・スタンリー・ロビンスン/コニー・ウィリス/ジャック・ダン/ロジャー・ゼラズニイ/他五名
(下)マイクル・ビショップ/ジョアンナ・ラス/ブルース・スターリング/ルーディ・ラッカー&マーク・レイドロー/ジェイムズ・P・ブレイロック/他五名
 訳者
 両編者/浅倉久志/内田昌之/大森望/宮脇孝雄/中村融/黒丸尚/小尾芙佐/他五名


1992年 総括

 今年に入ってSF周辺雑誌があいついで廃刊あるいは衣がえを行なった。幻想味の強い海外文学シリーズが打ち切りになったり、倒産等の事件もあって、出版状況はやや退潮の目だつ年になった。
 今年の日本SF大賞は筒井康隆『朝のガスパール』(朝日新聞社)が受賞した。読者のリアクションを作品本体に反映させる手法を通じ、新聞連載小説を毎日読むことのスリルを蘇生させるという意図と、読者をも重層的に構成された作品世界の構成要素に取りこむかたちでテーマを小説外部にまで敷衍していく目論みを同時に果たそうとした意欲作である。
 この小説にも、〈電脳世界〉が登場する。ここ数年のSFは擦り切れるほど〈電脳世界〉の果実を収穫してきた。あるいは今年あたりがその総決算の年かもしれない。
 海外中短篇の秀作どころを掻き集めた『80年代SF傑作選』(ハヤカワ文庫)を見ても、その種の作品がやはり目につく。早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』柾悟郎『ヴィーナス・シティ』(共に早川書房)という秀作も生まれている。前者はいかにも新人らしい清新さが魅力であり、後者はこのテーマのほとんど集大成といってもいい。大量の情報を取り込み、社会学的視野からマクロスケールに物語を展開する作風の、小松左京の衣鉢を継ぎうる久々の大型作家である。現実と虚構の交錯を主旋律とする神林長平『猶予の月』(早川書房)もここに含めていいだろう。
 荒巻義雄『紺碧の艦隊』(徳間書店)のベストセラーで話題になった軍事シミュレーション小説。「もうひとつの歴史」となればもともとSFの領域である。G・R・R・マーチン編『ワイルドカード』(創元文庫)はアメリカ戦後史を語り直し、J・ウォマック『テラプレーン』(ハヤカワ文庫)は奴隷制度が存続してきた一九三〇年のアメリカを描きだす。ほかにもR・ハリス『ファーザーランド』(文春文庫)、F・P・ウィルスン『黒い風』(扶桑社ミステリー)などの異色作が刊行された。佐藤亜紀『戦争の法』(新潮社)や横田順弥『水晶の涙』(徳間文庫)も忘れられない。
 その他の話題作を拾っていくと、創元文庫は、安定して評価の高い二人の定番作家P・K・ディックとB・ベイリーを今年も新たに加えたほか、宇宙の終末まで飛び続けるP・アンダースンのハードSF『タウ・ゼロ』などで気を吐いた。
 あいかわらず、というよりむしろSF出版における寡占度が高まった感のある早川書房からは、D・ブリン『ガイア−母なる地球』G・A・エフィンジャー『電脳砂漠』C・ウィリス『わが愛しき娘たちよ』R・ラッカー『ホワイト・ライト』他、M・レズニック『アイヴォリー』、短篇の名手、草上仁の処女長篇『天空を求める者』をあげておく。
 その他ではR・A・ラファティ『トーマス・モアの大冒険』(青心社)、R・ホールドストック『ミサゴの森』(角川書店)、タニス・リー『パラディスの秘録』(角川書店)、O・バトラー『キンドレッド』(山口書店)、アンソロジー『妖魔の宴』(竹書房)が注目作。 評論関係では巽孝之『現代SFのレトリック』(岩波書店)、B・オールディス『一兆年の宴』(東京創元社)が出ている。

 昨年の総括より十行ほど長くなりました。それもあって、翻訳の訳者名はすべてはずしています。また、創元SF文庫は創元文庫と縮めています。訳者名が必要でしたら、連絡をください。


 ラファティみたいに語る作家をほかに知らない。
 むしろ騙るという字が似あいそうな語り口から紡ぎだされる奇妙なほら話の穴からは、次から次へとさまざまな騙り手たちが姿をあらわし、それぞれみんなわがまま勝手に、世界のはじまりから終わりにいたる森羅万象すべからくにつき、深淵にして壮大な、滑稽にしてインチキくさい、でもやっぱりなにか真理めいたものがまぶされたご高説を語り継いでいくのである。
 遥かな未来、一千年の繁栄を誇った完全無欠な黄金郷アストローブに正体不明の滅亡の危機が訪れていた。この難局を打開するため、支配者たちは過去の英雄を呼び出し、世界大統領の座に据える決意を固めた。
 白羽の矢を立てられたのは、『ユートピア』の作者、トマス・モアその人だった。
 R・A・ラファティの長篇『トマス・モアの大冒険』(井上央訳、青心社文庫・六八〇円)はこのようにして始まる。
 設定を紹介してもしかたがないかもしれないと思うのは、最初に書いたように、出てくる登場人物ひとりひとりがやたらと生気をまきちらすみょうな連中ばかりだからだ。だれもかれもが未来を見通す力を持ったものばかり。トマス・モアが大統領になり九日後に処刑される、そして大部分が死ぬことになる既定の未来に向かって、すべての登場人物たち(トマス自身も含まれる)がスキップを踏む足どりで元気に進んでいく。 黄金郷アストローブのユートピア/ディストピア像が具体的に語られたり、邪悪な敵の哲学が開陳される中段で、意外と陳腐なイメージが連なったりもするのだけれど、陳腐なシーンにかえってひと息つきたくなるほど、へんな語りに翻弄される。 今年、この先、本書をしのぐSFが出たりするとは思えない、年初早々そうきめつけて、顰蹙を売ってみたい気もするが、ひとまず自重することにする。
 なぜなら、まだ、このラファティの短篇集が、今年出版されるという噂があったりするためである。


 近い未来を舞台にしたSFには、昔から二つの大きな流れがある。ひとつは発達した科学文明を謳歌している世界であり、ひとつは核戦争などのため秩序が崩壊した未来である。
 もっとも二つがそれぞれに、楽天的/悲観的未来像をあらわしていたのはたぶん一九四〇年代くらいまで。今では、〈電脳〉テーマの小説なども、たとえばリサ・メイスンの処女長篇『アラクネ』(小川隆訳、ハヤカワ文庫・五八〇円)のように、苛酷な情報集中のなか、生き延びんがためもがきつづける主人公の世界の外に、搾りつくされ、切り捨てられて、荒廃したアメリカの群衆社会や中南米国家を対比させるのが、ひとつの類型となっている。
 ジョン・ケッセル『ミレニアム・ヘッドライン』(増田まもる訳、ハヤカワ文庫・上下巻各五六〇円)は、ひさしぶりに出る後者の作品。 経済政策の破綻から、社会的混乱の続く一九九九年のアメリカ。最新の医療技術で死から甦ったCATVの人気記者ジョージは各地で続発するUFO報告や奇妙な事件を調査するうち、背後に明らかな規則性を見いだし、その謎を探るべく出奔する。
 その妻ルーシーは、違法な夫の蘇生手術に関係したことから、職を追われ、細菌爆弾を作る女テロリストのところに身をよせる。
 ジョージの親友リチャードはもちまえの破滅願望からキリスト教ファンダメンタリストの集団に潜入し、ぐんぐん頭角をあらわしていく。
 そしてその宗教指導者、テレビ伝道師ギルレイは、大晦日のキリスト再臨に向けて神の軍団を作りあげようとしていた。
 物語は、謎の存在の引き起こす様々な事件と難度の高い設問をはさみながら、この四人の動きを相互に絡ませ、新千年期の到来を目前にした大晦日のクライマックスへと収束させていく。
 一九八九年の作品だが、わずか一〇年先の設定とは思えないくらい荒んだ世界だ。個人の行動規範について、宗教的熱情の陰と陽とについて、さまざまなモラルの一方に偏することなく描きだそうとした力作である。

『アラクネ』
 リサ・メイスン
 小川 隆 訳
 ハヤカワ文庫SF
 五八〇円

『ミレニアム・ヘッドライン 上下』
 ジョン・ケッセル
 増田 まもる訳
 ハヤカワ文庫SF
 各五六〇円


 宇宙船の艦長が部下を射殺した。弁護を依頼された主人公に、艦長はかれらが変装した異星人だったから殺した、と無実を主張する。一笑に付した主人公だったが、関係者の証言を得ようと動き回るにつれ、次々と変則的な事例にぶちあたる。明らかに宇宙軍の内部で、今度の事件に関連して大がかりな作為が働かれていた。主人公は、かって弁護に立ったことのある天才女性ハッカーの助けを借りて、宇宙軍のコンピュータに侵入しようと試みる。その瞬間から、彼は自分が軍の抹殺指令の対象にされたことに気がついた。
 マイク・レズニック『第二の接触』(内田昌之訳 ハヤカワ文庫・六四〇円)は、切れ者の弁護士と女性ハッカーの名コンビが、テンポのいい会話を交わしながら、敵の波状攻撃をしのぎ、裏をかき、反攻に出て、情報ルートを逆にたどり、敵の中枢に達するまでを、アクション主体にスピーディな展開で描いた好篇。宇宙軍とか異星人といった小道具は話の魅力の中心にはほとんど関係がない。これからの時代を先取りした冒険小説としてミステリ・ファンにもお勧めしたい。
 アラン・ディーン・フォスター『スペルシンガー』(宇佐川晶子訳 ハヤカワ文庫・七〇〇円)は動物たちが人なみの知性をもつ世界に呼び寄せられた大学生のジョン・トムが、ブレーメンの音楽隊もどきの一行を引き連れ、この世を破壊しようとする邪悪な存在(その根がどうやらこちらの地球にあるらしい)に戦いを挑むユーモア・ファンタジイ。
 魔法使いのカメ、ギャンブラーのウサギ、チンピラのカワウソ、その女友達、マルクス主義のドラゴン。メンバーの性格づけがしっかりしていて、洒落た知的な会話を交わす道中記はなかなか読者を飽きさせない。
 どちらの本も、設定やアイデア、ヴィジョンを云々していくと、それこそほんとに凡百の作品でしかないけれど、伝統芸を磨きあげたとでもいうような職人気質の味がある。
 できのいい会話を横でうっとり聞くことさえできたなら、小説なんてほかの部分はつけたりだっていいんじゃないかと思ったりもする。


 翻訳家の黒丸尚氏が亡くなった。
 『ニューロマンサー』の翻訳者という言い方がいちばん通りがいいかもしれない。
 SFを総体としてイメージしようとしたときに、いちばん役に立ってきたのは、じつは立派な評論書でも大作家や古典名作でもなかった。
 ある翻訳者がこのジャンルにのめりこみ、自分の趣味や嗜好、ときには編集者による方向づけなどにより、生みだしてきた翻訳作品の総体。それにその人たちのちょっとした文章。 翻訳者がキイとなることで、SFは、玉石混淆、支離滅裂、曖昧模糊の団塊から、濾過され、研磨され、純化された、それぞれにちがう色と艶のある、魅力あふれた宝石としてぼくの前に差し出されてきた。
 そんなSFの翻訳者をぼくは何人も覚えてきた。黒丸尚という人は、そんな中でもとりたてて刺激的で若々しい宝石の担い手だった。この数年間というもの、氏の翻訳した作品が二点三点、その年の収穫に含まれない年はなかった。
 電脳空間やサイバーパンクといった流行語の発信源となった、W・ギヴスン『ニューロマンサー』三部作。彼とB・スターリングと共作した、蒸気駆動文明が栄えるもう一つの二十世紀を物語る『ディファレンス・エンジン』。単独巨大企業の支配するジャック・ウォマックの未来史連作『ヒーザーン』『テラプレーン』。六〇年代を代表するSF作家ロジャー・ゼラズニイで、ぼくがいちばん好きな作品『砂のなかの扉』など。
 そして、『ソフトウェア』や『ウェットウエア』『空洞地球』など、野放図な想像力が数理哲学に裏打ちされ、ヒッピー・ムーヴメントの尻尾を引きずった人生観を開陳していくルーディ・ラッカーのほとんど全部の長篇をひとりで引き受けていた。 氏の翻訳作品が映しだすSFからは、まだ青年であることをやめようとしない不良中年たちの元気ぶりがきわだって伝わってきていた。そこに氏を通じて開かれた現代SFへの期待と希望があった。
 41歳。あまりにも早い。もっと生きて、宝石を大きく育ててほしかった。



『ディファレンス・エンジン』は角川書店。残りはすべてハヤカワ文庫です。


 『妖星伝』は、ぼくにとってSFの最高傑作のひとつである。
 大衆伝奇の根深い文化のなかに、SFのもつ手法や概念が惜しげもなく投入され、みごとにとけあい結実し、およそ世界にも類を見ない、奔放にして猥雑、深く奥行きのある無窮の広がりをもつ豊饒な世界が生まれた。日本でしかできない、〈日本SF〉の精髄といってもいい。
 ただしこの作品、ひとつだけ瑕疵があった。物語はほとんど完成しているのだが、いくつか語り残しの部分があり、それらを整理するはずの最終巻がながらく中断されたまま、未完で推移してきたのである。
 『妖星伝 魔道の巻』(講談社・一三〇〇円)は、この待ち望まれていた最終第七巻である。
 正直、読む前かなり不安を感じていた。
 悪をもって世に報いること、それが正義であるとする鬼道衆たちを中心に、地球という星の進化や時間の性質にまで話が及ぶ、外道皇帝と黄金城をめぐるドラマはほぼ五巻目で終了し、逆説的哲学に支配された本篇にすりあわせるように、人の世に生きるしあわせを謳いあげた、外伝ともいうべき第六巻。そのあとでドラマと呼べるなにがあるのか、さらにはこうした対置の妙が、最終巻の登場でこわれてしまうのではないか、また長い中断で文体が変わってあわなくなったりしてはいないか、そんないくつもの危惧があった。
 それも杞憂におわった。
 本篇及び外伝という言い方にならえば、本書は解題篇である。
 月並な比喩でいうなら、富士と月見草と額縁である。
 中断の時間のなかで、あきらかに変化した構想部分も見受けられ、一部張られたなり切り捨てられた伏線模様もあるけれど、疵というほどのものではない。額縁だけでは役だたないが、通読したとき、全体像を俯瞰して、前六巻にいっそうの輝きを与える値打ちある最終巻になった。
 ちなみに本書の前半部では、宇宙に広がる光景を片仮名や科学用語を使わずに描写している。このちからわざには堪能した。


 薄い本である。ぱらぱらとした版組みの一五〇ページ。ハードカバーによる束の厚みでかろうじて本の体をなしているといえなくもない。字数割りしていくと、けっこうぜいたくな気がする。
 でも、気に入った。
 アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』(浅倉久志訳、早川書房・一五〇〇円)である。
 著者は、自然科学の教科書や手引書類の執筆で定評のある人で、本書が彼のはじめての小説だという。
 物語の舞台はスイス。一九〇五年。 青年アインシュタインが、特殊相対性理論をはじめて世に問うまでの約三ヵ月、彼の眠りに次々忍びこんできたさまざまな時間律に支配された世界の像を書きならべるかたちをとった掌篇連作集。そのうちひとつが相対性理論をイメージしたものだという趣向である。
 円環の時間。枝分かれする時間。機械じかけの時間。土地の高さで時間の速さが異なる世界。因果が消失した世界。なにも起こらない世界。 どのような時間のなかにも、その時間に囚われた人々がいる。人生があり、社会がある。そんな世界の断章を、二千字でひとつひとつ綴っていく。
 形式の類似性からイタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』(河出書房新社)を引きあいに出した紹介をいくつか見たけど、そういう目線で接すると、かえってよさを見失いそう。観念性の強いテーマの断章が立体的に組みあわさり、寄木細工の大伽藍を作りだす『見えない都市』のたちの悪さにひき比べ、本書はずっと素朴でシンプルで、それだからこそ愛しめる人なつっこい魅力がある。なにより今世紀初頭の古都ベルンの静謐な雰囲気が、通底音となって個々の断章風景を横断し、本来なら、時間についての知的な興奮が前に出てきて不思議のない小説を、むしろ情緒的な感動が主体となる作品に化身させている。
 きれいごとの科学ときれいごとの人生模様の幸福な結婚。
 ちょうど一年前にとりあげた早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』(早川書房)を思いだした。


 〈世界〉を視ること。視たその興奮と感動を語ること。視える世界の在り方こそちがえ、それを魅力の根源に据えた小説形式が、SFであり、ファンタジイなのだと思う。そういうものを差し出そうとするそぶりも見せず、宇宙船や異星人、魔法使いやドラゴンを登場させて、ことがなったとする本が少なくないのは事実だけれど、それでもジャンルの根底には、そんな思考の枠がはまっていると信じたい。
 音楽家であるジェーニーは、屋根裏部屋で祖父の親友だったファンタジイ作家の本をみつける。発行部数限定一部。この世に一冊しか存在しない本。
 チャールズ・デ・リント『リトル・カントリー』(森下弓子訳、創元推理文庫・上下巻、各七五〇円)はこうして始まる。
 書物のページを開いたときから世界のなかでなにかが目覚めた。ジェーニーたちの住む村に不思議な気配が漂い始める。そしてその目覚めを長い歳月待ち構えていた巨大で邪悪な組織と意志が、彼女たちに忍びよる。
 一方、別の港町を舞台に別の物語も語られ始める。活発な一人の少女が、魔女の秘密を盗み見て、小人に変えられ、閉じこめられる。そこから逃げだし、仲間たちの助けを借りて、魔女と戦う物語。
 二つの話はなかなか交わろうとせず、交互に語り継がれて、クライマックスへと収束していく。
 語られる思想も物語もさして目新しいものではない。これまで何度も出会ってきたような懐かしささえ感じてしまう。紋切型とか陳腐といった形容を冠する地点にかなり接近しているとさえいえる。
 けれどもむしろそれだから、普遍的真実、経験的妥当性への確信と実感を込め、作者はイギリスの片田舎を舞台に、人々の日常とロマンスと冒険と世界の危機を、そしてなにより世界を視ることを、その興奮と感動を、書きとめていく。
 書物。魔法。音楽。科学。すべてが世界に通じる扉であり、さらには世界の本質そのものでもあると。


 たまにむかしの作品に出会うとなんかほっとする。
 長篇の場合は、さすがにいろんなところで稚拙なところや不自然さ、テンポののろさというふうな、技術的に古びた部分、朽ちた部分に目がいくけれど、短篇だと、そんな部分にひっかかり、立ちどまる前に、気分よく話を読み終えてしまう。
 エレン・ダトロウの吸血鬼をテーマにしたアンソロジー『血も心も』(小梨直訳、新潮文庫・七二〇円)は、過去に発表された作品四つに、現代作家の書き下ろし十三篇を加えた作品集。様々に技巧やアイデア、仕掛けをこらした現代の作家たちの作品もよくできたものが多いのだけど、かれらが束になってかかっても、今世紀初頭に書かれたレオニード・アンドレイエフの正調幻想小説「ラザロ」や、四九年発表の、都市伝説の風格漂うフリッツ・ライバーのSF作品「飢えた目の少女」の、堪能の味は得べくもなかった。
 あるいはぼくが新しい時代の空気についていけなくなってきているだけのことかもしれないと、思う部分もないではないが、たとえば先にあげた作品が、幻想小説として、あるいはSFとして、読みたかったところのものと表現されたところのものにずれるところがないのにくらべ、現代作家の作品は、SFとか、怪談とか、サイコ・サスペンスといったふうに、どんな分類をされたものでも読んで感じる感触にほとんどちがいがみあたらない、そんな均質性が強まっている気がする。
 そんな現代作家の作品のあと、フィリップ・K・ディックの初期作品を集めた『永久戦争』(浅倉久志訳、新潮文庫・五二〇円)を読むと、ほとんど鼻白むような説明口調で不自然な語りをつきつけられるのだが、次から次と図式を立ちあげ、立ちあがらせた図式でもって世界を作り、図式にぶつからされた人間たちの思いであるとか反応を、書きとめ、しあげていくやりかたが、いかにもSF小説の本道みたいにみえてきて、へんな言い方になるけれど、なにも”小説”を読みたくてSFファンになったわけではなかったと開きなおりをしたくなった。


 隠遁した大富豪ダロウの招きに応じた英文学者ブレンダン・ドイルは、その地で耳を疑う実験に参加を求められる。なんと時の穴をくぐりぬけ、一九世紀のイギリスに、コールリッジの講演を聞きにいくのだという。信じられぬ思いで参加したドイルであったが、その帰途を襲われたことから波乱万丈の冒険活劇の幕が切っておとされる。
 ドイルを襲った頭目こそ、この時間の穴を生みだした張本人の一味だった。 かれらを率いるは、何百年と生きぬいてきた、魔術を駆使するエジプトの闇の王。時の風穴を通じ、魔力のみなぎっていた過去と一九世紀の現在とをつなぎ、大英帝国を転覆し、エジプトに昔日の栄光を取り戻そうとする陰謀団だった。さえない英文学者にすぎなかったドイルだが、時間の織りなす因果の糸に絡め取られて、いつしか陰謀団に立ち向かう最大の敵として、時空を駆けめぐることになる。
 ティム・パワーズ『アヌビスの門』(大伴墨人訳、ハヤカワ文庫・上下巻各六四〇円)は、SFであるよりなにより、一九世紀大衆伝奇文学の香り(と思しきもの)を甦らせようとすることに、作者の腐心が窺える、血湧き肉踊る古風な活劇譚である。ジプシーや乞食の軍団、猥雑なロンドンの市井風景、詩人、魔術師、騎士団、男装の麗人。多くのものが、卍ともえのプロットのなか、消化しきれる暇もなく、駆けぬけていく。
 時空間を縒り合わすタイム・パラドクスの因果の妙こそ、時間旅行をテーマにしたSFの醍醐味であり、事実仕掛けの処理の面では、本書もそつないうまさをみせるのだが、作者の意識が物語に淫する方に向いているため、その種のSFのつもりで読むとかえって読みどころを捉えそこなうおそれがある。
 本書以外にも、バイロン、シェリー、キーツといった詩人たちの経歴を忠実になぞりながら、かれらと吸血鬼一族との争いを描く『石の夢』(浅井修訳、ハヤカワ文庫、上下巻各六八〇円)という作品が、今年刊行されている。


 宇宙広域警察海賊課。凶悪な宇宙海賊と戦うため、超法規的捜査権限を与えられ、横紙破りの行動のため世間からは海賊以上に海賊的と嫌われている。その集団きっての腕利きが、捜査官ラテルと黒猫型異星人アプロ、人格をもつ宇宙船ラジェンドラというドタバタ・トリオ。ますます化け物じみてきた黒猫アプロにひきずりまわされ、行く先々で破壊と騒ぎをまきちらしつつもスマートに事件を解決していく。
 神林長平『敵は海賊・不敵な休暇』(ハヤカワ文庫・六六〇円)は人気シリーズの長篇第四作である。
 かれらが宿敵と狙う相手は、世間から伝説と思われている大海賊 冥。
表の世界も裏の世界も彼なしで存在しえない大物で、太陽系を陰から見まもる守護天使みたいになった自分の立場に倦んでいる。太陽系で意のままにならないのは海賊課だけであり、それがために海賊課にはある種の信頼感さえ抱いている。
 海賊 冥がほとんど神のような存在で、彼と海賊課とで活気あふれる平穏を謳歌している世界であるから、世界に取っての事件とは、 冥の手になる神の秩序を覆さんとする超常的な存在の出現以外にありえない。それに海賊課のトリオがどうからむかが物語のみそとなる。海賊をやっつけようという意味では敵は善かもしれないけれど、自分たちの望みのままに現実を変えようとする輩は、やはり海賊なのである。
 現実を変えるというのが比喩的な表現に終わらないのが、神林長平のこだわり続けている小説世界である。
 今回の敵も、人が頭の中に生みだした物語のとおりに現実を作り変える力をもつ人間で、現実と虚構が交錯するなかで、その事実を登場人物たちに自覚させながら行動させるというめんどうでひねくれた物語を展開していく。
 さらにはこうした現実と虚構をめぐる考察が、そのまま支配と自由であるとか、善と悪、自分であるということなどの問題に連なりながら、派手な笑いとアクションの、あくまで隠し味として生きてるところにこのシリーズの魅力がある。



『敵は海賊・不敵な休暇』
    神林長平
    ハヤカワ文庫JA
    六六〇円


 究極の時間SFと銘打たれた『時間衝突』(創元文庫SF)の序文のなかで、SF作家ブルース・スターリングは自らが大きく影響を受けたとして、著者バリントン・J・ベイリーを次のように評している。
「ベイリーは科学者ではない。彼の著作は、ハード・サイエンスのせせこましい教条主義的正確性とは無縁だ。講義を聞いたり、教科書を読んだりするのとはまるでちがう。ベーリーは有能な作家ではあるけれど、偉大な文学者ではない。
 そのかわりベイリーは、本物の〈SF作家〉である。古今東西、最高のSF作家である。純粋な知的冒険の達人である。ベイリーを読むことは、すなわち、華麗なる奔流に呑みこまれ、流されていくことにほかならない」
 この人の本が出るのは、最新刊の『ロボットの魂』(大森望訳、創元SF文庫・六五〇円)で七冊めだが、どの解説も、おなじ絶賛をくりかえしている。だれもが、科学的信憑性や文学的完成度については、とりあえず横においとくことにして、SFはこうでなくっちゃ!といっている。
 解説中のフレーズをひろっていくと「ドン・キホーテ的蛮勇の産物」「ばかばかしいまでのイマジネーション」「マニアのアイドル」「観念性と軽薄さを同時に武器にする離れ業」「この宇宙にがまんがならんというのが、もっとも書きたいところなのではないか」「寓意とでたらめが同居」「えらく高級なようでいて低俗そのものであったりする」というぐあい。
 最新作は、隠遁したロボット師が子供がわりに作りあげた自由意志をもつロボットが、盗賊になったり、元帥になったり、天下を狙ったり、革命家になったりするピカレスク・ロマン。そして同時に、自分には意識があるのか、それとも単なる複雑なプログラムの産物にすぎないのかと哲学的な命題に悩み、答えを探し求める物語でもあったりする。
 この著者の作品として破天荒さに欠けるぶん、話としてのまとまりがあり、泣きのはいったラストもちょっと感動的で、とっつきやすく、最初に読むのに最適の本。続篇も年内刊行予定である。   (水鏡子)


 有名ミステリ作家の純SF(P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』青木久恵訳、早川書房・一八〇〇円)、有名SF作家の純ミステリ(ケイト・ウィルヘルム『炎の記憶』藤村裕美訳、創元文庫・六五〇円)と、それぞれのジャンル読者にちょっとした意外性と、力量拝見といった意地のわるい愉しみを与えてくれる作品があいついで出版された。
 このところ、SFともミステリともつかない話が増えて、ともすれば見逃しがちになるのだが、今年出た本の中には、むしろ意識的にSFでもミステリでもあることをめざしたものがいくつかある。
 SFとミステリのそれぞれがもつジャンル的な味わいを、どちらが主というふうなく、互いに損なうことなく積極的に重ねあわそうと意図している。
 ローレンス・ワット=エヴァンズ『ナイトサイド・シティ』(米村秀雄訳、ハヤカワ文庫・五二〇円)は、近い将来地軸のずれで放射線が降り注ぎ、早晩放棄されることになる衰退した惑星植民地が舞台となる。
 タフな女探偵のもとに依頼にきたのは廃屋に住む浮浪者たち。もはや二足三文の値打ちすらないはずの土地からかれらを追いはらおうとする人間たちがいるというのだ。仕事を引き受けた女主人公がつかんだ真実とは…
 SFじゃないと怒る人も出てきそうだし、その一方でSF特有の小道具をいかにも日常用品ふうにちりばめるてぎわは、B級の娯楽作でありながら、読者を選ぶタイプかもしれない。肩のすかしかたとかさりげなさが好感を呼ぶ、こじんまりしてひねこびた佳作である。
 それよりむしろ一般受けのしそうなのに、リチャード・バウカー『約束の土地』(木村仁良訳、創元文庫・六八〇円)がある。
 限定核戦争後のアメリカで、私立探偵に憧れる一人の青年のもとに、依頼人があらわれる。かれは自分が禁断の実験によって生みだされたクローンだと主張し、その親にあたる人間を探しだしてほしいという。
 かくして青年は退屈な日常から脱け出し、夢の私立探偵稼業に邁進する…


1993年 総括

 純文学から大衆伝奇、軍事小説、ヤング・アダルト、さらにはコミック、アニメ、ファミコン・ソフトにいたるまで、石を投げるとSFがらみの設定、手法の作品にぶつからないほうがむずかしいという状況下で、昨年あたりから〈SFの冬〉という言葉が囁かれ出している。個々の作家の活動は沈滞したわけではないが、周辺領域が活性化し、SFの蓄積してきたものが取りこまれ、普遍化されていく過程で、市場としての固有性が、見えにくく、頼りなくなってきている感じなのだ。ジャンル外の収穫をつまみ食い的に拾ってみても、中島らも『ガダラの豚』(実業之日本社)、氷室冴子『銀の海 金の大地(1)〜(6)』(コバルト文庫)、池沢夏樹『マシアス・ギリの失脚』(新潮社)とあげていくときりがなく、酒見賢一、佐藤亜紀と実力派新人を着実に送り出しているファンタジイ・ノベル大賞(新潮社)も今年三人目の大賞受賞者を出し、SF・幻想文学の今後の核を担っていく勢力としてますます目の離せない存在になってきている。
 迎え討つかたちのジャンルSFでは、まずベテランでは、半村良の大河長篇を締めくくる『妖星伝 魔道の巻』(講談社)と夢世界と現実世界の相互侵犯という十八番を演じた筒井康隆『パプリカ』(中央公論社)があげられる。
 中堅作家としては、大原まり子の元気ぶりが目だった。生理的な皮膚感覚を手放すことなくわがまま自由に想像力を開放し異形の未来を紡ぐ作風は、この時代にあってむしろ風を得たふうで、ジャンルSFの伝統に蓄積を取りこみ、物語の豊饒を約している。今年の作品の中からは、時間警察と超能力部隊の戦いを描いた『タイム・リーパー』(早川書房)をあげておきたい。
 その他の収穫では、宇宙時間テーマともいうべき谷甲州『終わりなき索敵』(早川書房)、ビジネス社会SF、草上仁『お父さんの会社』(ハヤカワ文庫)、宇宙広域警察海賊課が活躍する神林長平『敵は海賊・不敵な休暇』(ハヤカワ文庫)などがある。
 この〈豊饒〉とも〈冬〉ともつかない状況の俯瞰地図を提供してくれる本を二冊。巽孝之『ジャパノイド宣言』(早川書房)は、境界領域まで視野においた日本SFの現況図であり、榎本正樹『電子文学論』(彩流社)は、SFも含め展開されているエンターテインメント・ジャンルの相関関係を図面化している。
 翻訳SFについては、とびぬけた傑作はないが、将来にむけて着実にジャンルの安定とふくらみを保証していく、並の上といったクラスの作品がたくさんあった年だった。羅列するが、ほぼ同格の作品がまだ同じくらいある。
 R・A・ラファテイ『どろぼう熊の惑星』(浅倉久志訳)、J・ケッセル『ミレニアム・ヘッドライン』(増田まもる訳)、G・ベア『タンジェント』(山岸真・他訳)、ウィリス&フェリス『アリアドニの遁走曲』(古沢嘉通訳)、M・レズニック『パラダイス』(内田昌之訳)[以上ハヤカワ文庫]、A・ライトマン『アインシュタインの夢』(浅倉久志訳、早川書房)、G・R・R・マーチン編『ワイルドカード2』(黒丸尚・他訳)B・ベイリー『ロボットの魂』『光のロボット』(大森望訳)、M・キュービ=マクダウエル『エニグマ』『トライアッド』(古沢嘉通訳)[以上創元文庫]、D・R・クーンツ『ウォッチャーズ』(松本剛史訳、文春文庫)、ラファティ『トマス・モアの大冒険』(井上央訳、青心社文庫)


      文庫解説の系譜 ―読書展開の指針として
                       水鏡子

 SFを読むためにまず評論集やガイドブックを買う人間がそんなにいるとは思えない。ふつう傾向の似かよった本を探そうとして、いちばんたよりにする手掛かりは、本のあとがき、解説の類だろう。そのときいちばん参考にするのはもちろんなかでとりあげられている本の書名や作家の名前であるけれど、もうひとつ注意を払う値打ちのあるのはその雑文をだれが書いているかということだ。解説を書く人間の守備領域は比較的決まっていて、作品の傾向にあわせて編集者が解説を発注していくからだ。
 そうした解説者の守備領域に関する知識がかならずしも読者サイドに継承されてきていない気がする。そこで今回の初心者向けSFの小特集の補完として、主な文庫解説者の傾向と対策を時系列的(年齢に活躍時期を加味)に箇条書きにすることとした。

1 福島正実
 SFマガジン初代編集長(60ー68年)である。アシモフ、クラーク、ハインラインを中心とする英米SFの公式的体制的イメージを日本に定着させることに心をくだいた。『夏への扉』『幼年期の終り』『鋼鉄都市』などの翻訳があり、そのSF史観は〈講談社文庫海外SF傑作選〉8巻、〈現代SF全集〉全36巻に結実している。SFのありかたについては、40年代キャンベル=アスタウンディング誌と、50年代前半のバウチャー=F&SF誌及びスリック雑誌系に掲載されたロアルド・ダールやリチャード・マシスンなどの異色作家を立脚点としている。現代SFのイメージを40年代アスタウンディングから「終着の浜辺」の時代のJ・G・バラードまでで構築している。
 同時代の紹介者に矢野徹がいて、やや高踏的エリート主義に傾きがちな福島正実に対し、冒険小説、サスペンス小説的通俗性の高い作品を翻訳紹介し、ジャンル的バランスをとっていた。
 両者ともSF観の中心にはハインラインを置いていた。
 経歴的には二人と同じくらい古いが、同人誌『宇宙塵』の主催者としての立場からプロデビューの遅れた柴野拓美の場合、中心にいるのはハインラインよりクラークだろう。読者的立場から掌握している領域はかなり広いものの、ハル・クレメント、J・P・ホーガンなどの翻訳を中心に、ハードSFの紹介と普及に役割を限定している。

2 伊藤典夫、浅倉久志
 福島正実がキャンベル=アスタウンディング誌の権威をかなりまでに絶対視していたのに比べ、彼が編集するSFマガジンで現代SFの発掘・紹介の中心的役割を果たした伊藤・浅倉両名の場合、むしろ、キャンベルを批判的継承したファングループ〈フューチュリアン〉出身者たち、ジュディス・メリル、デーモン・ナイト、ジェイムズ・ブリッシュたちの影響を強く受けている。作品群的にはギャラクシー誌のイメージに重なる。
 ジャック・ヴァンスやコードウエイナー・スミス、さらにはマイクル・クライトンやカート・ヴォネガットといった60年代SFの紹介からニューウェーヴ運動まで英米SFの動向全般をほぼ一手に引き受け、後進の準拠枠となった。
 翻訳紹介にあたっては協力しあい、SFの全スペクトルを遺漏なくとりあげるので、紹介内容はかなり交錯するが、嗜好的には若干の相違がみられる。浅倉久志は『時の凱歌』や『タウ・ゼロ』『竜を駆る種族』といったストレートでスマートな宇宙小説、冒険活劇に惹かれる傾向があり、伊藤典夫は異色作家の流れに近い都会派ファンタジイを好む。伊藤典夫による編訳短篇集には『ジョナサンと宇宙くじら』『黒いカーニバル』などがある。
 時代的にはいずれも40年代から80年代までまんべんなく視野に収めているけれど、しいて中心部を断じるなら、60年代後半だろうか。

3 野田昌宏
 キャプテン・フューチャーをはじめとするスペースオペラの領域では追随を許さない。『SF英雄群像』に代表される書誌的知識、『スペースオペラの書き方』でみせたドラマ作りのノウハウを駆使して、スペースオペラの楽しさを語り尽くす解説は独自の境地を生み出している。いかんせん対象をスペースオペラで枠作りしているため、紹介される作品群の大半がたくさん読んでいてもふーんで片づけられるものが多い。福島SFマガジン時代にの海外SF紹介の二本柱の一本で、この野田昌宏の「SF実験室」と伊藤典夫の「SFスキャナー」のどちらに軸足を置いたかで、翻訳SFのファンの方向性はほぼ二分された。

4 鏡明、荒俣宏(団精二)
 早川文庫創設当時、〈コナン〉をはじめとするヒロイック・ファンタジイの普及に努めたのがこのふたり。同じようにコナンと〈uィアード・テールズ〉をもちあげていたが、興味の方向はわりと分かれる。鏡明の焦点はヒーローで、アメリカン・パルプのなかでの英雄像やパルプ誌のヴァイタリティといったアメリカ文化考現学的色彩が強い。『最後のユニコーン』のようなモダン・ファンタジイへの偏愛も、〈アメリカ文化〉をキイに了解していきたい。人脈的にも「一の日会」常連組で伊藤典夫に近く、SFサイドの人間である。ただし、ストレートなSFなストレートに感動することに抵抗を(昔は)していた。荒俣宏は当初ダンセイニをもじったペンネームを使用していたように、幻想文学の本流に位置する。人脈的にも、紀田順一郎などに近い。その百科全書的活躍はご承知のとおりだが、SFジャンルへの理念的貢献は以外と少ない。

5 山野浩一、山田和子、野口幸夫
 70年前後は、バラードたちのニューウエーヴ運動に端を発した英米SFの活況の本格的な紹介が行なわれた時期である。NWの文学的実験は、文学・社会・政治的に先鋭的言辞を産み、SFというジャンルのもつ体制主義的な思考を糾弾するようになる。日本におけるその旗振り役となったのが山野浩一であり、季刊NWSF誌を創刊、バラード、ディック、レムなどを積極的に評価する。かれらのグループがサンリオ文庫の選定の中心となる。山田和子はNWSF誌の編集長。後期の文章はフェミニズム色が強くなる。

6 川又千秋、高橋良平、森下一仁
 伊藤典夫、鏡明たちと、〈一の日会〉等、東京でファン活動をやっていてプロになっていった人たち。
 川又千秋が傾向的にはもっともNWSFに近い。つまらない本はつまらないと解説で書いてしまうところがある。ディック、シマック等を評価する。高橋良平はSF映画雑誌『スターログ』の副編集長だった関係で映画関連の作品解説が多い。この人の解説で、評価をほとんど加えず、詳細な映画化情報を開陳している本は、本人にとってつまらなかったとみてまちがいない。森下一仁は温厚な性格。不慣れな読者を意識したていねいな文章だが、なんでもこなせるところから、若手の敬遠する老大家の近作などのお鉢がよく回ってくる。解説から作品傾向を判断することは困難。

7 安田均、小川隆
 伊藤典夫が紹介作業にくたびれたあと、しばらく紹介者空位の時期がある。4、6の人たちは、海外SF紹介の第一人者というしんどい地位を引き受けようとは誰もしなかった。
 そこに関西から登場してきたのが安田均である。早川書房、『奇想天外』、『幻想と怪奇』、サンリオ文庫と、地方の利点を生かした広範な活躍を行なう。奇想天外誌に海外SF紹介コラム〈クレイジープラネット〉を連載する。守備領域は70年代のG・R・R・マーチンをはじめとするLDGグループ、とプリースト、ワトスンに代表されるポストNWのイギリスSF。ただし、マーヴィン・ピークやジェイムズ・ブランチ・キャベルといったピュア・ファンタジイまで視野に置いた目配りの広さを誇った。翻訳に『サンドキングス』『逆転世界』がある。現在はゲーム界の大御所。
 一方、東京では、SF書評誌『SFの本』の創刊を契機に、小川隆が登場する。60年代アメリカ西海岸文化の影響が強い。黒丸尚、巽孝之とともにサイバーパンク唱導の中心となる。翻訳に、『スキズマトリックス』『ブラッド・ミュージック』がある。
 安田均は関西海外F研究会(KSFA)を率い、そこから8のメンバーが登場する。小川隆は、ぱらんてぃあを創設し、山岸真が登場する。

8 大野万紀、米村秀雄、岡本俊弥、水鏡子
 神戸大SF研メンバーである。安田均の自宅が神戸だったことから、彼の行動範囲の拡大に伴い、活躍の場を増やしていく。
 基本的には70年代が守備領域だが、大野万紀はハードSF、米村秀雄は冒険宇宙小説、岡本俊弥は文学境界域、水鏡子は50年代と棲み分ける。大野万紀に『残像』『くたばれスネイクス!』、米村秀雄に『エンパイア・スター』『ナイトサイド・シティ』の翻訳があり、岡本俊弥が総指揮を振るった本に、『最新版SFガイドマップ』(サンリオ)、水鏡子に『乱れ殺法SF控』の著書がある。海外SFの紹介をしているくせに水鏡子は英語が読めない。

9 巽孝之、小谷真理
 ポストモダニズムの文学理論を武器に現代SF論を積極的に展開する。SFは現代社会を映し出す〈現在小説〉であるというのが持論で、その意味で小松左京、山野浩一と続く正統的論者である。
 本職は慶応大学の文学部の助教授(注:現在は教授)。サイバーパンクの立て役者のひとりである。小谷真理は奥さん。巽孝之の文章技法、論法を身につけ、フェミニズム、ジェンダー論に道を拓く。ただし、両者とも10代からのヘビーなファンダム育ち。基本的にはアウトサイダーではない。

10 山岸真
 伊藤典夫、安田均に続く第3の海外SF紹介者。かなり疲れきっているはずだが、第4の紹介者が現われないので、80年代からずっと英米SF現代事情を紹介し続けている。小川隆のぱらんてぃあ出身だが、〈クレイジー・プラネット〉の安田均の影響を強く受けている。この年代から、伊藤典夫の〈SFスキャナー〉に育てられた人間はいなくなってくる。グレッグ・ベアの短篇集や『80年代SF傑作選』を編んだりと。現代SFの積極的な摂取、紹介を続けているが、心の故郷はLDGではないかとにらんでいる。

11 大森望
 ディック、ラッカー、ベイリー、ワトスンあたりを好み、SFの本質は〈バカSF〉にありと決めつけた。答えを出してしまったあたりから、SFに関してはやや失速気味の気配があるが、インターネットに新本格にとあいかわらずの八面六臂の活躍をみせる。SF史観の基本は安田均で、水鏡子を加味。

12 中村融、尾之上俊彦、まきしんじ、三村美衣
 大森望とほぼ同世代(かな)。バランス的には尾之上俊彦がいちばんで、SFマガジンのヒューゴー・ネビュラ特集や、ベンフォードの本の解説をしている。山岸真の後継にいちばん近い位置を占めている気がするが、本人にその気がなさそうである。
 中村融はテリイ・ビッスン、ティム・パワーズなどの翻訳がある。このグループのなかでいちばんの論客だろう。進化論的イメージとSF論とを重ねあわす、ブライアン・ステープルフォードなどイギリスSF批評の取り込みに余念がない。
 世代の若返りのなかで、ビッグ・ネームの作家について、SF論的骨格から解説を書ける人間がいなくなってきているなかで、貴重な働きをみせているのがまきしんじ。最近はアシモフの解説などに健筆をふるう。
 ヤングアダルトからスタートレック、児童文学まで、境界領域で歯に衣をきせぬ元気のいい文章を書いているのが三村美衣。ジャンルの俯瞰理解から入っていくので、好き勝手言っているわりに、客観評価は信用できる。
 その他の目につく人材としては、『聖者の血』を訳した中原尚哉、レズニック、ソウヤーの紹介を一手に担う内田昌之、ファンタジイ紹介の中野善夫などのぱらんてぃあ出身者がいる。

13 堺三保、古沢嘉通、菊池誠
 関西方面出身者。堺三保はアメコミ、TVドラマ等への造詣が深い。〈ワイルド・カード〉、〈ミッドナイト・ブルー〉などの秀作の解説もしているが、重要視する必要のない本も多い。古沢嘉通は『火星夜想曲』『魔法』『夢の終わりに』などこわもてのする本を好んで訳し、紹介している。とうぶん海外SFの年刊ベストには彼の訳した本が必ず紛れ込む状況が続きそうなので要注意。最近のハードSFの解説の常連となっているのが菊池誠。本職も大学の物理の先生である。
 その他、今後の有望株としては冬樹蛉に注目のこと。


◎初心者に勧めるSF              水鏡子
  ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
    短篇集『故郷から一〇〇〇〇光年』



 たしかにSFには、数十ページ読み進めないと世界背景が浮かびあがってこないような作品も少なくない。読み慣れていない読者にそういう苦痛を与えることが好ましくないことは事実だ。
 けれどもそのことがすなわち、SFに不慣れな読者に日常世界から隔絶した異世界を舞台にした小説を読む準備が整っていないことを意味するわけでは当然ない。少なくとも『エヴァンゲリオン』はいうに及ばず『ドラゴンボール』を読みこなしている人間を相手にしていうべきことではない。
 ならば最良のSFのエッセンスを備えた本を渡せばいい。ただし最初の十数行で世界の輪郭を浮かびあがらせ、そのまま読者を引きずりこみ、最後まで放させない本を。
 最初はブライアン・オールディスの『地球の長い午後』を考えたのだけど、どうせなら同工異曲の連作中編集よりもヴァラエティに富んだ短篇集がいい。そしてその後のSFを読むさいの、比較検討するものさしとしての役割を十二分に果たす作品集を。
 巻頭の「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」を読むために、前もって必要とされる知識などなにもない。あとはこの本を読者が気にいるかどうかだ。たとえば「苦痛志向」なんかわかりにくいと指摘される向きもあるかもしれない。けれどもこの小説のわかりにくさは、たのしみとしてのわかりにくさである。読者が小説世界のイメージを固めることに手間取るがためのわかりにくさとは別のものだ。宇宙税関ドタバタコメディ「セールスマンの誕生」の珍妙なわけのわからない商品の、めちゃくちゃなトラブルと同系統の「論理性を後ろ盾にしたわけのわからなさ」そのものを娯楽にしてしまうSFの本来的な魅力のひとつを十全に発揮した佳品である。こういうわけのわからなさをはしゃぎ気分で楽しんでいただこうとするサービス精神が満ち満ちている一方で、表題作や巻末の「ビームしておくれ、ふるさとへ」のように暗い心情を謳いあげた名品もある。この明るさと暗さの絶妙な混淆が本書の最大の魅力であるといっていい。(ついでに初心者宛ての惹文句をひとつ教えておこう。この巻末作品はこれまで日本で紹介された、もっとも暗いスタートレック・オマージュ作品である)
 ここに収められたひとつひとつの作品に匹敵する濃い内容の長編を果たしてみつけだせるかどうか。道のりは険しいものがあるけれど、SFの可能性については、それくらい高い要求を掲げて探索を続けてほしい。少なくとも、若い時分くらいは。


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