みだれめも 第138回

水鏡子


 山田風太郎の発言のなかでもいちばんわからないのが自作に対する評価軸で、忍法帖中いちばんいいのが『笑い陰陽師』であるとか、『風来忍法帖』もよく思っていない。明治ものでは『明治断頭台』が気にいってるとか、できが悪いのでずっと文庫化しなかったといっているのがぼくの風太郎本ベスト10候補のひとつ『御用侠』だったりするから始末が悪い。

 『文藝別冊 山田風太郎』(河出書房新社 1143円)は風太郎の単行本未収録作品を目玉に対談やエッセイを集めた追悼ムックで、整備されたビブリオがありがたい。何度もくりかえし言っていることだけど、やっぱりここ数年の風太郎というのは老いた麒麟で、そんな作者を神棚に祭りあげる文章に興をそがれることが多々あって、今度の本のエッセイや対談なども大半はつまらない。そんななかで種村季弘「回帰するユートピア」が鋭い踏み込みで光っていた。とはいえ単行本未収録作品三編の発掘はありがたく、とくに「開化の忍者」は、出だしから収束までいかにも風太郎らしい含蓄にみちた秀作で、なんでこんなものが、それも1974年というどちらかというと<新しい>時期の作品が、単行本未収録で残っていたのか理解に苦しむ。これもやっぱりできが悪いと思っていたからなのだろうか。ただ面妖なのは、この話を読んだことがある気がすること。掲載誌も守備範囲外の「週間小説」だし読んでいないと思うのだけどね。

 この本の対談のなかでも風太郎が言及している<出来が悪くて本にしなかった>という幻の忍法帖が『忍法創世記』(出版芸術社 1700円)である。
 凡作などととんでもない。大傑作とは後述の理由等で言いづらいが、読み応え充分の佳作である。日下三蔵解説にあるように「後期の数作『忍法剣士伝』『秘下戯書争奪』『忍者黒白草子』『忍法双頭の鷲』などよりはるかに上の作品」である。『柳生十兵衛死す』よりずっといい。
 時は室町南北朝末期。伊賀と柳生の長年の確執を打ち止めにするため、伊賀頭領の三姉妹と柳生家三兄弟が婚姻をすることになる。ただしどちらが輿入れもしくは婿入りするかを巡って、関係者の眼前で交合試合を執り行なうこととなった。
 この出だしからしてとんでもない。さらにここにこの珍妙な野試合からんでくるのが伊賀の家宝である鏡と勾玉、柳生の家宝たる一振りの剣である。
 そしてじつは相思相愛であるこの三組のカップルは成就直前にて南朝方の内紛によって敵味方に引き裂かれることになる。天皇の三種の神器を強奪もしくは破壊しようとする過激派大塔衆とそれを防ごうとする菊水党。しかもその背後には更なる深謀が張り巡らされていた。
 本にならなかったのも見当がつく。実際には三種の神器争奪は、もひとつパッとしなくて、話はむしろ伊賀柳生の三種の家宝の争奪に話の軸がずれていく。それでもこの家宝、あきらかに三種の神器を模しており、しかもそれが話の出だしで交合試合に使用されるのである。やっぱりひとによってはお怒りになることだろう。
 ただ初期配置からいけば、これはもっととんでもない話になる予定だったのではないか。とにかく敵味方の構図がめったやたらに入り組んだ話である。伊賀柳生三種の家宝は、単に三種の神器を連想させるためだけに配置されたものではなかったはずだ。三種の神器の争奪戦は複雑怪奇に入り乱れ、三種の家宝はその偽物として縦横無尽に飛び交って、最後の最後においては、破壊された神器三種に代わって神器の座に鎮座してしまうはずだったのではないか。交合試合に使用された器物がである。少なくともページ81で展開される神器の出自を巡る会話はそんな方向性への伏線であったはずである。
 そういう展開に持ち込めなかったことが、牢姫という超絶キャラに話を託さざるを得なくなったということでないかという気がして、その意味で日下解説にあるような必ずしも構成上の破綻がない作品とはいいがたいと思うのだけど、むしろ逆にそういうことが作品の疵としてみえてこないところが本書のすごさといってみたい。

 これは、先に触れた「開化の忍者」にもいえることなのだけど、出来がいい風太郎の作品は、完璧にギャグにしかならないシチュエーションを悲壮美をもって描き出すという離れわざをいともやすやすとやりとげる。しかもここがすごいところなのだけど、登場人物たちは命を削る悲壮な覚悟で動き回り、その悲壮感が読み手に真摯に伝わってくるというのに、その一方で著者は描写の端々にギャグですよー、滑稽ですねーとコメントを重ねる。このギャグ的センスと悲壮感のバランス感覚は神韻まさしくほかの作家にまねのできないところであって、日下解説で言及されたできの悪い作品も、構成上の難点のほかにこうしたバランス感覚がうまく働かなかったケースがあるように思う。
 オールディスの『AI』もワトスンの『オルガスマシン』も、じつは同じようにギャグ的シチュエーションをシリアスに描き出そうとして、しくじった部分がたくさんあってそれが読んでてつまらなかった理由のひとつかもしれない。『忍法創世記』を堪能しながら、後知恵的にそんな感想を持った。


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