続・サンタロガ・バリア  (第5回)
津田文夫

 いやぁ、京フェスは盛況でしたね。京大現役スタッフのみなさまどうもありがとうございました(ってここで礼を云ってどうする)。
 菊池博士のテルミン・ミュージック講座はなかなかに面白うございました。息子のひとりが楽曲リストを見て「なんだコレ」と不思議がっておりました。古沢Review IKAファンジンの出来映えも満足です(ワイン飲みたかった)。岡本俊弥のニオイがするとしたらこのちょっとしたよそよそしさかな。

 遅ればせながら『知の欺瞞』を読んでいる。まだ読み始めたばかりだ。これを読んだらチンプンカンプンの現代フランス思想への憂さ晴らしになるような感想がSFMにもあったような気がするが、自分も『アンチ・オイディプス』が出たとき、岩波の現代フランス思想解説(2000円以上した)を傍らに置いて読んだのに、ひとっ言も理解できなかった人間だ。「身体無き器官」がなんなのかついにわからずじまいだった。
 でまあ、つらつらと読み始めたわけだが、序章あたりではさもありなんと思いつつ、ラカン粉砕の章を読んでいると、なにかおかしい。何か違う。ラカンなんか『エクリ』とか本の題名を知ってるくらいで、読む気も起こらないが、著者たちが一知半解、衒学的と非難する材料に引用されたラカンの複雑怪奇な文章の見本−全体でもわずか数ページ程度−を眺めている内に、おかしなことにラカンを弁護したい気持ちがわいてきたのである。
 確かに著者たちは数学や物理などに堪能な物理科学の専門家だろうし、ラカンがその種の術語に対していいかげんな理解しかしていないのも本当だろう。ラカンの誤った数学概念の使用や術語の乱用は、批判されてしかるべきだし、こんな難解な文章が一般の本好きに受け入れられるとも思えない。だからといって著者たちが「ラカンは、ひょっとするとうわべの博識をひけらかして、聴衆を感服させようとしているのではないのか?」とか「われわれは新たな宗教を相手にしているのではないかと疑っていいようだ」と書いているのを喜んでいられもしない。なぜだろう。
 著者たちは引用したラカンの文章にある数学の概念や術語を微細に追いかけて、正しい解説を付け、ラカンのいい加減さを糾弾している。そのことはラカンが自らの言葉をいたずらに難解にしてる上に、しかも信用できないものにしている証明にはなるだろう。
引用されたラカンの文章を著者たちの批判対象である術語概念にあわせて読んでいるとまったくそのとおりと快哉を叫んで、訳のわからん文章を笑えば済んでしまいそうだ。しかし、魔術の呪文のごとくちりばめられる術語、まるでひとりよがりに見える文章の組み立てがなんのためにあるのかという点では、たった数ページの恣意的な引用からでもラカンの意図は明瞭である。
 それはこの本の著者たちがあえて言及しないキーワード、ラカンの訳の分からない文章の中心をなしているもの、主体=患者を言葉でとらえることだ。
 ラカンがどういう評価を受けようと全くどうでもいいことだが、ラカンは精神分析学者とされているんだよな。著者たちは「ラカンの精神分析学・・・での具体的な業績の正しさを判定しようなどとはいっていない」と書いている。確かに言及されているのは著者たちの専門分野から見た術語の誤りばかりである。が、彼らの文章を読む者にとっては、ラカンは完全なサギ師であると証明されたようなものだ。
 数学や物理はもちろん、精神分析学と心理学の違いもわからない門外漢の目からみると、ラカンが数学的なジャーゴンにテロリズムをかけたので、物理屋帝国の暗殺者に粛正されたかのようにみえる。
  この著者たちは、ちょっと見には良識的な批判者だけど、結構ゴーマンでサディストな感じの人たちかもしれないな。次の犠牲者は若き日のジュリア・クリステヴァだって。著者たちは「女王様も裸だ」といってるし、愉しみだね、ウヒヒ(ってバカ)。

 と話が品下ったところで、京フェスの帰りにようやく京都の本屋で手に入れたエロゲー原画集「脅迫」とわが最愛のエロゲー・ノヴェライズ作家清水マリコとの遭遇に移ろうかとおもったが、「妄想通」で唐沢先生も看破しているとおりなので、自己規制によりまたの話だ。


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