続・サンタロガ・バリア  (第6回)
津田文夫

 2001年はああして終わったわけだけれど、いまだに21世紀という感じがないな。
 年というものがもはやカレンダーの数字/地球の1公転にしかすぎないかのような感覚がある。でも、朝比奈隆が亡くなり、ウィーンのニューイヤー・コンサートに小澤征爾が立っているのを見てるとそういう時代なのかとも思う。ここ10年ぐらいの間に亡くなった大物の名前を見ていると確かに20世紀は終わったということがわかるけれども、じゃあ21世紀かというと、そうでもないんだね、これが。このままちゃんと生きていれば2020年代ぐらいには無事死んでる筈なんだが、果たして21世紀に死ぬ実感というのが湧くんだろうかね。

 正月早々死ぬ話じゃ意気が上がらない。昨年読んだ本の話に移ろう。
 1章読むたびにこのバカと思いながら読んだ『知の欺瞞』は、まったくもってナンセンスなしろものだった。いったい物理屋というのはこんなバカが普通なのかしらん。菊池博士が例外なのかね。たとえば、ラカンのトポロジーというもの(私にも訳のわかんない)が数学的にまったく間違っていようが、ラカンに十分な影響力があれば、辞書に(2)として〈精神分析学用語。とくにラカンが使用する〉というように数学用語から派生した別の意味を持つに過ぎない。まあ、あの文章じゃそこまで影響力を持たないだろうけど。
 自信のないやつが他人を非難する文をものする場合の通例だが、このバカどもは自分で引用した文章に対して一所懸命にいいわけを並べ立てている。ここに引用されている著者たちは誰も科学を非難しているわけでもないのに。それどころか科学に片思いしているだけではないか(ファイアーベントやクワイン、クーンは片思いじゃないけれど、自分が論を進める上で、ついでにこれらの人間の作品を引用したために自縄自縛のいいわけをしなくてはならない羽目になっている)。
 この本から気に入った文章を2,3引用すると、まずは著者たちがうれしそうに引用したオイラーの孫引きから−
 オイラーは物質が実在することが自明であることをいったあとで、「こうして、人間にせよ獣にせよこの真理を疑う者はない。もしも、小作人がこのような疑いを抱いて、たとえば、彼の地主の差配が存在するとは信じないとその目の前に立って言ったとすると、彼は、当然の理由で、頭がおかしいとみなされるだろう。」と書く。
 最初この文章の意味が分からなかった。オイラーってフランス革命より前の人だったんだ。最近筑摩文庫から出た『オイラーの贈り物』を息子に買ってやったんだが、2ページ読んでほったらかしだ。それはどうでもいいが、こんな文章を引っぱってくるようじゃ、著者たちの頭も18世紀以来進歩していないんじゃないかと思われる。
 つぎは、ボードリヤールのカオス理論の浅薄な理解を非難するところで、
「そもそも、カオス理論が原因と結果の関係を逆転させるなどということはありえない(人間のかかわる出来事についても、現在の行為が過去に影響を及ぼすとは到底思えない。)」
 カオス理論なんて知らないので、ほっといて、問題はカッコの中身だ。物理屋は過去は物理的な事実で出来ていると思っているらしいが、過去に影響を及ぼさない現在などありえないというのが、常識的な判断だと思うぞ。あの考古学の捏造スキャンダルが記憶に新しいところだ。過去を書き換えない現在なんて人類が文字を覚えて以来なかったんではなかろうか。その意味では科学だって書き換えの歴史だ。証明された理論のみをご神体とする物理屋の科学バカぶりはこんな文章にも現れる。これだけ読むとまともに見えるかも知れないけれど、
「たとえばニュートンの神秘主義や錬金術は、科学史や人類の知の歴史にとっては重要な素材だが、物理学にとっては重要ではない」
 まあ、物理学的な発見など遅かれ早かれ誰かがやるのだから(数学についてはよく分からないけどゲーデルやカントールがいなくても遅かれ早かれ不完全性定理や連続体仮説は提唱されたのか)、ということもあるのだろうし、教科書や参考書があれば原典なんぞは趣味の問題といえるのかも知れない。でもなあ、この一文にはそれまでの論議の流れからして知的傲慢と頽廃が匂う。
 いつまでもバカどもにつきあっていられないので最後に「われわれに理解できる限り、これには何の意味もない」と粉砕されたヴィリリオという人(この人の名前はこの本で初めて知った)の文章を引用(曾孫引きだ−翻訳もチョット怪しいかも)しておこう。
「人が今なお《空間》と呼ぶことに執着しているものは、実はまさに《光》、太陽光がまさにその一つの相もしくは反射にすぎないようなサブリミナルな、準光学的な光なのではないか、そしてそれは、歴史や年代記に流れる過ぎ去っていく時間ではなく、一瞬のうちに露出する時間を基準として計られるようなひとつの持続の中でのことなのではないか、・・・〈中をかなり略す〉すなわち、大きさであると同時に次元でもある一方向を保有していて、宇宙を測定する全方位へと同じ速度で拡がっていく光のあの速度の厚みであり深さであろう・・・」
 あまりに散文的な訳だけれども適当に想像してくだされ。空間に関するほとんど象徴主義的言及でしょ。さすがマラルメの国(って信じちゃイヤよ)。
 つまるところ、こいつらは三流の悪魔祓い師に過ぎず、まえがきから京極堂なみの豪快な憑き物落としを期待していたら、素朴なアメリカ人の憑き物が落とせるかどうかの腕前だったわけだ。
 いやぁ、それにしても血圧の上が90あるかないかの人間の頭にここまで血を上らせるとは、われながら不思議だったんだが、考えてみたらこの本の冒頭でSFに言及しているんだね。この言及の仕方にわが被害妄想的SF魂が反発したらしい。今その部分を読み返してみても大した言及ではないと思えるが、なぜかわたしのSF防衛隊がスクランブル発進しちゃったのである。ヤレヤレ。

 『ゲーム・プレイヤー』は奥さんが先に読んで、最後以外は退屈だぞーといっていた。しかし、みんなの書評ではなかなかの評判である。で、読み始めたら、ホントに退屈なのだった。あまりの退屈さに半分で他に浮気することにした。浮気先は『鏡の中は日曜日』『今池電波聖ゴミマリア』『エナメルを塗った魂の比重 鏡稜子ときせかえ密室』といったところ。日本のエンターテインメントって読み易さに特化しているなァ。平井和正や夢枕獏のつくり出した流れはどんどん速くなっているようだ。
 名古屋の天才は本当に天才的に頭がいい。この小説はそのテーマに従って小説の外形に気配りしたもののようである。だってマラルメなんだもん。というのがわたしの見立てであるが、ホントにそうかどうかは書いた人に訊いてみなくちゃ分からない。気になったことが2つ。コール・ポーターの歌がない。綾辻氏から引用したのは綾辻夫人ではないのか。
 小松賞受賞作は最後の50ページの代わりにそれまでの世界があと200ページぐらい続いてくれていたら嬉しかった。SF味のうすいことはあまり気にならないが、バトルロワイヤル部分と最後のアイデア紹介がつまらないのは勿体ない。せっかく遊べる世界を作ってるのに残念。 
佐藤友哉は前作の主人公(?)の姉が高校だったときの話。あまりの一人称の多さに誰のナレーションかわからなくなる。基本的にオタク文化の知識内でつくられているので、「パーフェクト・ブルー」とかのアニメや鬼畜といわれるエロゲー・シナリオなんかも連想される。鏡稜子の魅力が前面に立たないこともあって、前作ほどは楽しめなかった。400ページ近い新書だが、でも読むのは2時間もかからない。
 ヤングアダルトっていうのが、この小松賞受賞作や佐藤友哉の世界を直接には取り込めない点でやはり限界はあるのだろう。別にそれで困ることもないのだろうけれど。それにしてもこの2作に比べると殊能将之は特「殊能」力の持ち主として見える。新本格の世界ってこんなのばっかりなのか。
 『呪禁官』や『BAD』を読んだときも思ったのだけれど、もしかして2001年はSFの復活があった年なのかな。冬から一瞬ロケットの夏になったのか(たとえが悪いって)。〈20世紀SF〉全6巻の存在もその印象を強めているんだろうな。因みに〈20世紀SF〉の捉え方として、ベストテン的順位づけすることには違和感がある。あれは講談社文庫海外SFアンソロジー大量出版以来の事件であって、作品としては別格であろう。
 などと浮気をしたあと『ゲーム・プレイヤー』にもどったら後半が面白い。ゲーム帝国の裏社会や最後の大業もキマってめでたしめでたし。奥さんに言わせると最後の大業を書くために話を作ったんじゃないのということになるが、『フィアサム・エンジン』であれだけのことをやって見せたんだから、これぐらいの見せ場があって当然でしょう。リーダビリティに徹したわが日本のエンターテインメントからはほとんど受け取れない質の楽しみがある。しかし、この終わり方は『マン・プラス』かね。
 次回は『ダイヤモンド・エイジ』や『グリーン・マーズ』やバラードの話ができるんだろうか。


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