続・サンタロガ・バリア (第7回) |
BUMP OF CHICKINの『jupiter』を買ってきてまだ1回しか通しで聴いてないけれど、まあ期待通りの作品というところ。「ハルジオン」以上に強い印象を与える曲はない。「ダイヤモンド」より「ラフ・メイカー」が好きだったが、入らなかったのは残念。
去年ラジオで聴いた「天体観測」が耳に引っかかって、シングルを買ったら(こんなことは上々颱風以来10年ぶりだ)いたく気に入ったので、「ハルジオン」も聴いてみた。
これが「天体観測」以上の出来だったのでびっくりした。いまのところ若者応援歌のつまらなさより、ナイーブな新鮮さがはるかに上回っているので、しばらくつき合ってみてもいい。上々颱風ほど長持ちはしそうにないけど。
今風もよいのかなと中古屋で椎名林檎のセカンドを買ってみた。いやあ、スゴいですね。ここまできちんと作られているとちょっと引いてしまいますね。BUMPの男の子は二十歳の女の子の敵ではありません。「罪と罰」がポップで心地よいけれどなんかパロディっぽくてマジに心で聴く態勢になれない。ジャニスの「サマータイム」が聞こえてきそうだ。
80年代の音楽はほとんど聞き逃しているので、試しにプリンスの『サイン・オブ・タイム』を聴く。これはベックではないかい、というのが第1印象。なんでもアリでかっこ良い。『マイルス・デイビス自伝』でプリンスを高く評価していたな。で、マイルスの『ビッチェズ・ブリュー』が聴きたくなってレコード屋にいったら品切れだったので、去年出た70年のライヴ『アット・ザ・フィルモア・イースト』を買ってくる。マイルスは格好良さだけで吹いてるので、当然カッコ良い。マイルスがいないときはチック・コリアが一所懸命にリターン・トゥ・フォーエヴァー(ラ・フィエスタ)のリハーサルをしているのがほほえましい。スタンリー・クラークのあのフレーズはデイヴ・ホランドが創っていたわけだ。アイアート・モレイラもいるし。
ELPの『マンティコア・ヴォールト』が出ないので、ピンク・フロイドのベスト版を聴いているのだが、やっぱりデイヴィッド・ギルモアのブルース・ギターがいけないようで、ついついイージーリスニング。『狂気』は昔すり切れるほど聴いたし(CDは持ってません)、『ポンペイ・ライヴ』はNHKの「ヤング・ミュージック・ショー」で見て以来、ベストビデオのひとつなんだがなあ。
SFにいこう。
『ダイヤモンド・エイジ』は、まあ無敵でしょ。いきなり4歳のおんなのこだもんなあ。まともな勝負にならないよ。おおきくなって学校を出てから、シックな女学生服をサッと脱ぎ捨ててモダンガールになる場面もめちゃカッコええやん。汚れシーンもあっさり流すし、軍団が助けにくるところは、「スズダル艦長の罪と栄光」だよね。ツッコミとしてこのアイデア自体に無理がある(説得力に欠ける)とはいえるけれど、それは読んだあとの話。とってもよくできたおとぎ話に文句をつけてもしょうがない。『スノウ・クラッシュ』より面白いかと云われると首をかしげるけど。
バラードの『コカイン・ナイト』はいかにもバラード節といった趣のミステリ(いや現代の怪談か)。太陽と空っぽのプールが本当に好きだなあ、このひとは。それに寒いところよりは絶対に暑いところが好きというのも相変わらずだ。SF時代から現代小説へと移って行くにつれ、舞台がどんどん狭くなってきている気がする。そりゃ、昔だって表向きの舞台は限られていたけれど、その舞台はいつも時間と宇宙につながっていた。この作品でも時間と宇宙につながっていないわけじゃないが、もはや物理的な意味ではつかわれていない。神話的というかずっと人間くさい時間と宇宙になっている。それはたしかにひとの心または内宇宙といってもいいかもしれない。でもまあ、バラードの描くひとの心というのは時代精神といったほうが正確な気がするね。どうでもいいことだけれど、この作品の舞台はマルベージャの近くということになっていて、マルベージャと姉妹都市縁組みしているところに住んでいるものにはちょっとこそばゆい。
さっき『本の雑誌』の書評を見てちょっとビックリ。バラードがずっと60年代から見た未来を書き続けてきたことは分かり切ったことじゃないか。40階建てのアパートを舞台にして『ハイ−ライズ』なんて題をつけてたころから、すでにバラードは最新テクノロジーを見捨てていた(最初からついていく気がなかったか)。バラードはブラッドベリ同じように怪談を書いているのだ。
東京に出張するときはいつもブラッドベリの『二人がここにいる不思議』をもっていくんだが、3年経つのにまだ3分の1も読んでいない。そういうときだけしか読まないことにしているので、まだ2年ぐらい保つだろう。今回読んだのは「トラップ・ドア」といういかにもブラッドベリの怪談らしい小品。作品としてはほぼパターンといえる。・・・一人暮らしの初老の女性は最近屋根裏で物音がするようになったのが気になってしようがない。あれやこれや理屈を考えてあげく屋根裏へ通じる落とし戸は結局開けられず、とうとう大鼠退治の業者を呼ぶ。業者に家をまかせ、外から帰ってくると業者がいない。派遣会社はまた新しい人間をよこすという。開きっぱなしの落とし戸を自分でのぞくと・・・。で、古典的怪談はあざやかにフィニッシュ。
このプロットにはなんの目新しさもないが、作品は素晴らしい出来映えで、感心することしきりである。ブラッドベリの天才はプロットやアイデアを誇るものではなくて、その語り口、物語への愛情を感じさせる過不足ない文章にあることを再確認させてくれる。この作品はいまでも脚本にすれば1時間足らずのウェルメイドなドラマに仕立てられるだろうが、ブラッドベリのかもし出す感覚はまず再現されないだろう。その意味でブラッドベリは二〇世紀前半の幻想小説家の最後の生き残りといえるんだろうな。ところでブラッドベリとバラードは似ているといったのは、川又千秋さんだったよね。
SFの話はこんなところ。
大塚英志はいまのところ角川文庫から出している『「彼女」たちの連合赤軍』と『定本物語消費論』より面白いものがない。『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』のような最近作は読んだ後の印象が薄い。副読本に読んでいる『江藤淳コレクション』の方が面白い。スーパー・ハードマインドとスーパー・ソフトマインドの同時存在が江藤淳の持ち味だ。素晴らしく切れる短編形式の文芸及びその他の評論と父母や妻、近しい友人そして自分自身に言及するときのベッタリとした感情。前者の江藤淳は読みやすく面白い。後者の江藤淳は読みにくくウットウしい。「一族再会(抄)」は(曾)祖父や祖母の話は前者の江藤淳で母の話では後者である。長編の評論(読んだのは『海舟余滴』だけだけど)は「南洲残影(抄)」でもヒロイズムが顔出してくるのでちょっとイヤ。「近代以前」の藤原惺窩や林羅山はカッコ良い。ヒロイズムが鼻につくより先に鮮やかさだけで終わってしまう長さだから。でも福田和也や大塚英志が強く反応するのは後者の江藤淳である。
忙しいのにそんなモンに手を出していないで、さっさとアラビアン・ナイトブリードを読んで寝よう。