みだれめも 第144回

水鏡子


 遅まきながら、牧野修『MOUSE』をやっときちんと読んだ。SFMで一、二作読んだりしていたはずで、しかも収録作を全部雑誌で持っているものだから、本を買わずにすませてしまって、本になった段階での通し読みをここまでさぼってきておりました。
 読んだ理由は、ここんとこ、毎年日本SFベスト5に牧野作品を選ぶかたちになっていて、短いコメントを添えることや、作品評価の補助線に、『MOUSE』についての印象が抜けているのが、どんどん心苦しくなってきたせい。直接的には、『傀儡后』の感想が、『MOUSE』を読まずに書けなくなったせいである。
 で、ごめんなさい、傑作でした。『2001年版SFが読みたい』でぼくの選んだ90年代ベスト10の3位から5位くらいのあたりに放りこんでください。
 あいもかわらぬ<痛み>の伝わってくる表現力は『傀儡后』でも健在で、ただし磨きがかかってきたぶん滑らかさが増し、またここしばらく牧野作品を読んできた過剰刺激に若干こちらも耐性が生じてきたようで、<痛さ>との距離をとったつきあい方のこつもつかめてきた感じがある。いいことかどうかは疑問だけどね。せっかく作者が技術を駆使して伝えてみせる<痛さ>であるのだから、すなおに受け取る読み方がほんとは正しいのだと思う。まして作者自らあとがきで書こうと思ったのが「皮膚と触覚の話」だというような作品ならば、いっそう。
 でも、痛いのって、ときたまはいいけど、しょっちゅうてのはやっぱりやだから。

 『傀儡后』を読みながら、この手法はSFなんだろうかと思った。小説そのものは疑う余地ないSFである。けれども、痛みを伴って伝わってくるもの、それは、ひとつの事件がうごめいていくプロセスのなかで、まきこまれていく人々の感得するものであって、じつはプロセスそのものではない。そして、じつはというかたちで披瀝されるこの事件の真相、世界の秘密が解明されていく部分、ある意味SFとして最も読みどころであるはずの部分が、全体のぐじゃぐじゃした重さと痛みを支えきれずにそこだけ浮きあがって安っぽくなる。仮にこの部分が欠落していても小説として致命傷にならない気がするのだ。ある種の軽味、滑稽さを意図したいびつに歪んだ仮面ライダーネタ部分などよりはるかに浮いている。本書ほどではなかったけれど、『スィート・リトル・ベイビイ』のときも同じような違和感があった。昔読んだ作品はそういう違和感はなかったような気がするなあと思ったのも、『MOUSE』を読んだ理由だったりする。
 短編連作と長編の差というものもあるのだろう。牧野修の切れる文章に長編は読む側が疲れきる部分と刺激の連続に麻痺させられる部分がある。ただ、それだけではないかもしれない。
 両者を読み比べてみたときに、世界自体の牧野修的普遍性はいたるところに目につくけれど、選び取られた文体は、それはじつは世界に対するスタンスということにほかならないのでないかと思ったりしているわけであるのだけれど、『MOUSE』と『傀儡后』で正反対といっていいくらい異なっている。『MOUSE』の世界は、間主観性の中で、客観が言葉によって変容させられる世界、目で見ることのできないはずの世界を、まるで目に見えるように描いていくという離れ業をなしとげている。それは「知性と視覚」に立脚した文体だ。一方の『傀儡后』を異様ではあるけれど、目に見えてしまった状況を「皮膚と触覚」の側から書いた世界と言うことはできないか。そしてSFは「世界の秘密」を物語るとき、その原理原則は、見えない仕組みを見えるかたちに開示する、「知性と視覚」に立脚して書かれる物語だったのではないか。

 冬樹蛉がSFMの『月の裏側』のレビューで指摘したように、最近のSFには、人類が融合し自我を喪失していく物語が少なくない。この前紹介した「クチュクチュバーン」もそうだったし、「エヴァンゲリオン」も「もののけ姫」もティプトリーも、<ブギーポップ>もその気がある。そのなかで、どこまで「知性と視覚」の側に立つか、「皮膚と触覚」の側から書くか、二者択一ではもちろんなくて比率配分の世界だけれどそのなかに、SFであることと小説であることの微妙なスタンスの違いが生まれてくる気もする。このあたり、前に『月の裏側』について書いたときの文章を読み返さずに書いているのでだぶっていたらごめんなさい。これはじつは<宗教>と<科学>といった対立にもつながるところがあって、SFは<科学>の側に立っているように思われやすいのだけれど、むしろ意外とその両者に対して等距離を保とうとしながらぐらぐらする<哲学>なんかに助けを求めていると思っている。
 融合進化を遂げる人類という発想は、神の則物化を図ろうとしたSFのヴィジョンとしてはむしろ王道のひとつといってよく、『ソラリス』だって『幼年期の終り』だってそのヴァリエーションのひとつである。
 なによりこの話になるたびにぼくの頭に浮かんでくるのは、『幼年期の終り』である。
 人は、自我も個性も失って、進化形態<神>=オーバーマインドになるべきか、あるいは超知性体=悪魔=オーバーロード=<超人>となって、神の下僕を務めながらエデンの林檎にもたらされた知性をたよりに神への長い道をたどるべきか。
 クラークは、カレルレンへと寄り添うかたちで悪魔=オーバーロード=<超人>への賛意を明らかにする。そしてそれは同時にSFというジャンルの方法論ともオーバーラップするはずである。
 SFの思想は悪魔の思想である。


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