みだれめも 第158回

水鏡子

 


『マルドゥック・スクランブル 燃焼』
 長篇第2分冊である。ますます絶好調。「楽園」がすばらしく魅惑的。鏡明の解説も絶品。次作完結篇が待ち遠しい。

○<SF>という冠に、今の日本で正反含めてどれくらいの力があるんだろう。
 昔の経験則から抜けられないぼくなんかには、習慣性をもつ娯楽小説読者のなかに、SFという言葉に惹きつけられる少数で確実な集団と、SFというラベルがつくだけで鬱陶しがる移り気な大部な集団が存在するという思い込みがある。伊藤さんがSFスキャナーで、パングボーンの『デイヴィー』が<SF>じゃなく<ノベル>として刊行されているといった事例を紹介して愚痴をこぼしていたのは、60年代のことだから、洋の東西を問わない昔からのSFの宿命のようにも思える。ファンタジイやホラー、ミステリなどの冠には、そこまでのアレルギーは見受けられない気がするのは、単にぼくがそちらの人でないせいで、そちらの人たちはそちらで同じようなことを感じていたりするのかもしれない。
 たとえば宮部みゆきや浅田次郎を支えているのはそういう移り気で大部な集団なのだと感じている。作家にはSFやファンタジイへの親和性がある。それでもそういう客層に支えられる作家であるには、そういう客層の求める文法と枠組みに見合う成長を求められるのだといった思いもあって、いつか読めばいいかなと後回しにして機会を逸するところがある。『ドリームバスター』や『ブレーブ・ワールド』に、いいのかなあ、こんな趣味に走った話を書いて、と危惧したのは、このての話が、ぼくのイメージのなかの「移り気な大部な集団」の求める枠組みから逸脱している気がするから。
 井上剛『死なないで』を読んだ。その感想を咀嚼しながら確認の意味も含めて、まだ読んでなかった『マーブル騒動記』を読んだ。感じていたのは、この人の引き受け先は「SFを鬱陶しがる移り気な大部な集団」の方ではないか、SF新人賞という冠はそんな読者を引き寄せるのにかえって障害になるんじゃないかと思った。
 指さすことで生き物を殺す力を手にした少女が<現実>と和解するシリアス・タッチの物語、高級黒和牛が突然知性を獲得して社会に大混乱を引き起こすコメディ・タッチの前作。どちらも話の行く先に不安を覚えることはない。根底にあるのは情の物語であり、読者に対して小説世界の掌握に、日常から切り離された架空世界構築の努力をなんら必要とさせない。安心して読めるかわり、安心して、読まずにすませてかまわないという判断も、ぼくの趣味嗜好のなかでは生じる。宮部みゆきや浅田次郎を読んでいない心根と通底する。このタイプの作品は絶賛もむずかしいが罵倒もまたむずかしい。評価はどちらも中の中。

○反対に、三島浩司『ルナ』は第4回日本SF新人賞という冠に引き寄せられる客層に似合うタイプの作品。それも小松左京や筒井康隆最盛期のころの客層だ。世界に地に足がついた<厚み>がある。<厚み>の部分で過去の日本SF新人賞のなかでもいちばんの手ごたえがあった。「ソラリスの海、日本列島襲撃」というのが、この本につけたぼくのキャッチである。宇宙から飛来した巨大蛋白物質が遭難した人間の意識を取り込み、日本列島を囲い込む。肉親を忌避するウィルスに犯され、世界経済から途絶され、崩壊した日本社会のなかで、必死で生き抜く大阪の人々を活気豊かに描き出す。ソラリス撃滅の裏設定が、たったひとりの人間の理知的行動によってもたらされ、しかもその意図がほとんどストレートに撃滅班に伝えられることに若干構成の弱さが感じられるが、この分量のなかでは妥当なところだろう。評価上の下。

○世界の<厚み>、物語の<厚み>というのはなんなんだろう。日常性が付与されているという意味だと、むしろ浅田次郎や宮部みゆきの小説になってしまうのだけれども、あそこにはあそこの文法や枠組みに基づく<公>性がやはりある。私小説など純文学的作品にもそれなりの、文法や枠組みに基づく<公>性はやはりある。私的経験則が世界を重層的に裏貼りし、知的に架空構築された世界を純文学や人情小説以上に<私>性で覆いつくして、世界に手ごたえを与えてくれるといったこと。そういうことだと言えないか。
 そんな<厚み>のある小説は、題材が古びても、結構が粗雑でも、はたまた表の物語が<愚作>のレベルに終始してさえ、読んで充足感に満たされる。その充足感を長くとどめておきたくて、その気になれば数時間で読み終えられるイージーリーディングな文章を、1週間以上かけてちびりちびりと読みつづった。
 シオドア・スタージョン『海を失った男』を今年の海外SFの頂点に置くことはおそらくない。頂点に置くには、題材が古びていたり、結構が甘すぎたり、ときにはどう考えても愚作だろう、とあげつらうべき部分が多すぎる。
 けれども、他にどんな傑作を並べられようと、今年読ませていただく及びいただいた、海外SFすべてのなかで、本書を読ませていただいたありがたさにまさるものはたぶんない。ぼくのいちばん大好きな「孤独の円盤」が収録されたもうひとつのスタージョン短編集が出ていれば、そちらに軍配をあげていたと思うのだけど年末あたりにならないと出ないというんじゃしかたがない。本書は今年読ませていただいたいちばんありがたい短編集である。
 若島正解説は愛にあふれて、非常に心地いいけれど、異論もまたいくつかある。とりわけ日本におけるスタージョンの受容状況については、ぼくの認識とかなりちがいがあるので、そのあたりにも言及しながら解説に準拠しながら各短篇に触れていく。
 日本においてスタージョンが、『人間以上』の作家というより異色作家短編集『一角獣・多角獣』の作家であった、という発言は、これは歴史の歪曲といえる。
 「異色作家短編集」が一世を風靡した短編集叢書であったことは事実だが、短編集の評価を決定したのはソフィステケートされたミステリ・ファンが称揚した、ダール、エリン、コリアといった切れ味の鋭く人間心理の機微をえぐる<わかりやすい>小説だった。ファンタジイ系の作家についてもフィニイ、ブラッドベリといった<わかりやすい>作家だった。そんななかでスタージョンは二重に黙殺されていたように思う。ひとつに彼がSF作家と認知されていたこと。ミステリ・ファンにとって、SF作家は外様である。ミステリ系を中心とした「異色作家短編集」の評価において、当時ロバート・シェクリイとシオドア・スタージョンはほとんど言及された記憶がない。
 ちなみにこれらの作家が異色作家短編集に収録された根拠はわりと推測が簡単だ。創刊当初のSFマガジンをみると、幻想派の代表としてブラッドベリ・シェクリイ・スタージョンを並べるのが定番だったのだ。(対置される本格派はアシモフ・クラーク・ハインラインである)
 そしてスタージョンが黙殺されたもうひとつの理由。< >書きでしるしたように異色作家の代表作家たちはいずれも知性を感じさせる<わかりやすい>小説ばかりだった。彼らに比べて、そしてSF作家であるブラッドベリやシェクリイとくらべても、スタージョンには、なんとも<得体のしれない>ところがあった。そしてそれは、『人間以上』やSFマガジンに掲載された中短篇を経由してスタージョンを感触していたSFファン以外にはかならずしも扱いやすいしろものではなかったように思える。
 70年代の終わりごろ、「異色作家短編集」は新装版で復刊される。旧版18冊のうち12冊が復刊された。12冊の内容は、まず、ダール、エリン、フィニイ、ブラッドベリといった評価を決定づけた第1期6冊である。残り6冊のうち5冊は第2期6冊のうちの5冊である。欠号になったのは、第7巻のフレドリック・ブラウン。これが見送られた理由は創元文庫の短編集と内容がだぶったせいだろう。
残りの1冊がシャーリイ・ジャクスンの『くじ』だった。機械的に繰り上げていけば復刊されておかしくない第13巻『一角獣・多角獣』は復刊されなかった。
過去のスタージョンに対する評価はなによりここに端的に現れている。古書価の高騰などというのは、近年のスタージョン評価の高まり(これはもちろんアジテーター若島正の寄与するところが大である)と当時の不人気の相乗効果ととるべきである。
 個別の短篇に移る。
「ミュージック」 イントロとして配置した軽い曲、という解説だが、むしろ短さの割に重い。本書の中では「ビアンカの手」に直結する唯一の作品。『一角獣・多角獣』にはこの系列の短篇がいくつもあって、ぼくはあまり好きではない。それが個人的に『一角獣・多角獣』を全体としてそれほど評価していない理由だったりする。(短編集としては『奇妙な触れ合い』の方が好きだ)
「ビアンカの手」 『人間以上』の解説でよくわからない小説と書いたのが25年前。ひさしぶりに読み返すと難しくなくなっていた。端正で、むしろ古風な面もある美を賞賛した小説で、とにかくビアンカの手の描写がなまめかしい。もっともこの小説が難しくなくなったのが、喜ばしいことであるのかどうか。若干疑問がないわけでもない。この小説が難しかったむかしの自分の健全さがちょっと懐かしかったりする。難しくなくなったし、結構美がやや勝るところがある秀作だとは思うけど、こういうスタージョンが好きなわけではないことも、一応再確認した。ただ、商業戦略からいえば、この作品を表題作にしたほうがよかったのではないか。題名の魅力としては、これが一番だし、グレアム・グリーンを蹴落としたという付加価値までついているのだから。
「成熟」 本邦初訳のはずなのに、なぜか既視感がある。40年代後半の作品には、50年代のものより全体に大造りな甘さがあるけれど、それなりの傑作。「アルジャーノンに花束を」の先行作品ではないか。たしかスタージョンの最初の離婚理由は「未成熟な性格」といった話だった記憶がある。「成熟」の意味を2年も聞きまわったという話とつながるのかどうか。つながっていてもおかしくない奥行きが感じられる。
「シジジイじゃない」 シジジイ・ネタではむしろ「反対側のセックス」の方が好きだったけど、今回読んでみるとよくできた話じゃない。むかし読んだ印象がもっと退屈だったのは、解説からすると、歳月の差というより翻訳の差なんだろう。
「三の法則」 これは意余って力足らず。それでも「意」が伝わってくるのがスタージョン。設定に平井和正「悪夢のかたち」を思い出した。
「そして私のおそれはつのる」 『人間以上』の小変奏。語り終えた題材を気軽に使いまわしたような安楽さがある。長い割には収録作中いちばん軽い。これはこれで好き。
「墓読み」 珠玉。傑作。読め!
「海を失った男」 この話は苦手だ。人称も手ごわいし、内容も読み飛ばしづらい。最後まで読んで、そういう話だったのかと納得して、もういちど最初から読み返す。F&SFが、さらなる短縮を求めたのも理解できる。
 全体評価としては、日本で出たスタージョン短編集としては文句なしにベスト。こうしてみると、未訳中篇にはまだまだ佳作がありそうで、今後も訳出が続くことを期待したい。
 それには、この作家がディックなみにブレイクしてもらわないといけないのだけど・・・
 微妙に社会倫理を逆なでするところのある作家だからなあ。難しいかもしれない。

樹川さとみ『楽園の魔女たち ミストルテインの矢』
 魔女たちをモデルにした扇情小説が大ヒット。ファンにつきまとわれて4人は大混乱。一方、エイザードの元には女性騎士団が派遣され・・・。
 うーむ、こうきたかと意表をつかれた発端なのに、期待のわりには話がさくさく安直に進む。どうも作者の目線は、本書でほのめかしている帝国対反帝国連合のきなくさい大絵図に向いているようだ。次の巻はかなり重量級か? 作品評価下の上だけど、中の上クラスに楽しんだ。

上遠野浩平『しずるさんと偏屈な死者たち』つまらない。よーちゃんとしずるさん(及び入院している病院)の関係に仕掛けがありそうなのだけど、1冊目ではほのめかしすらほとんどない。ほとんど骨組みだけのミステリが単調に並んでいるだけ。とりあえず下の中。
○同『ジンクスショップへようこそ』中の下。 今年の上遠野は物足りない。


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