続・サンタロガ・バリア  (第27回)
津田文夫


 なかなかニューアルバムが出ないのでアジアン・カンフー・ジェネレーションに浮気していたら、インディーズ時代のアルバムを2枚出してきたバンプ・オブ・チキン。1999年の「Flame Vein」と2000年の「The Living Dead」、オマケが1999年盤からシングル「アルエ(ARE)」。バンプは1999年と2000年でインディーズからポップ・ロックのバンドに変化している。同時代で追いかけていたヒトは面白かっただろうな。「The Living Dead」は2000年のメジャー・デビュー・シングル「ダイヤモンド」にそのままつながり2003年のシングル「ロストマン」までを十分に射程内に捉えていたアルバムだ。「The Living Dead」はその後のメジャー盤よりもほんの少しプロデュースが甘い。しかし、その僅かな甘さがアルバムを聴きやすくしている。8曲目の「Everlasting Lie」の間奏のギター・リフなんかまるで1969年にいるみたいだ(次の「グロリアスレボリューション」でアジカンの現代に戻るけど)。とりあえず何回か聴けそう。

 今月の予定ではプリーストまでいくはずだったのに間に合わず。
 ジェイムズ・P・ブレイロック『魔法の眼鏡』は物語がシンプルで何のヒネリもないような一見子供向けファンタジイのように見えるけど、物語の中核をつくっているのが変なオヤジの内面が外化している世界という見方をすれば、読んでる方のオヤジにはかなり気持ちの悪いコワい話だったのだ。

 佐藤亜紀『雲雀 Hibari』は『天使』のサブ・ストーリー集。冷たくゴージャスな文体の威力が其処此処に発揮されていて、読んでいるとマゾっぽい気分に襲われる。そうかあ飼い主のスタイニッツが死んじゃったのかあ、もう話の続きはないのかあ、枝編ならあるかも、などとボワーっと思ったりしましたよ。でも、一番強いのは女だって「花嫁」に書いてあったなあ。

 小川一水の『第六大陸』の横にあったのでコレも今頃読んだ『手塚治虫 COVER』エロス篇・タナトス篇。マンガやアニメのイメージに寄りかかる度合いがそれぞれ違っていても手塚治虫の磁力圏内に収まった短編群。作品の出来とは関係なしに大塚英志「ふしぎなメルモ 機能はもうこない だが明日もまた・・・」が大塚自身の個人史を絡めてフィクション化しているのが印象的だった。『竜神沼』サンコミックスだったっけ、好きだったよなあ、確かに。『気ンなるやつら』とかね。ガキの頃白黒テレビで見た「わが青春のマリアンヌ」も石森章太郎お気に入りの映画だった。

 エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』はまず「風の子供」にヤられる。とってもベタな愛おしさについつい頬がユルむ。創元推理文庫版『スター・キング』を読んで泣いたのは中学校2年生の時でした。「太陽の炎」みたいなハミルトン的ワンダーの方向性がいまじゃ絶滅しているが、もしかしたらライトノベルには残っているんだろうか。いや、いまどきライトノベルだってそんな甘いのはないか。

 コニー・ウィリス『犬は勘定に入れません−あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』さすがにウィリスにドタバタコメディを書かせたら面白いことこの上なしだし、大森望もよく頑張った。しかしこれってスゴく狡い話の造りなんじゃなかろうか。よくもまあここまで想像力が働く(デッチ上げる)よな。昔、ベデカーの1920年代のロンドンとイギリスの案内各1冊を手に入れたときには、パラパラやりながら世の中にはこれだけで話がデッチ上げられるヤツがゴロゴロしてんだろうなと想像したものだ。それにしてもあんまりよくできた名人芸のSFコメディ(タイムパラドックス自動回避/修復装置付) はなあ、ちょっと鼻白む時もある。主人公が男の子すぎるのがいけなかったんだろう。


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