続・サンタロガ・バリア  (第35回)
津田文夫


 2005年というのがようやく躊躇せずに使えるようになった今日この頃。年々歳々新しい年に頭がパッと切り替わらないようになってきた。健忘症もどんどんひどくなって、年末年始は何をしていたのかも思い出せないや。ということで、今年もよろしくお願いします。

 どうやら正月休みはエリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』を読んだだけだったようだ。自閉症といえば『万物理論』だけれども、こちらはイーガンと違って大ワザ繰り出すわけじゃない。小説の構成については主人公の視点を離れて物語を進行させる部分に不満が多いのだが、今より少し未来の技術で軽減された自閉症者である主人公の視点から考え出される様々な叙述は読む者に強い印象をもたらす。世の中それだけじゃ済まないだろう、なんだこのマンガチックな悪役管理職は、とツッコミを入れたくなる部分はあるにしろ、作品の説得力はそれ以上のリアリティを獲得しているので、結局のところ読まされてしまうわけだ。「光がくる前から暗闇はそこにあるから、暗闇のスピードは光よりも速い」と主人公が考えたくなるのは、この作品の中ではファンタジー以上の力がある。結末で、主人公の精神が解体状態から立ち上がってくるところは、処刑されたベン・ライクの復活を思い出した。

 トマス・M・デイッシュ『アジアの岸辺』はホラー・コメディに傾いたSF/ファンタジイ短編集。表題作が一番印象に残る作品で、確かにマスター・ピースたる雰囲気をたたえていて、知的に過ぎてやや鼻白む感じが残る他の短編よりも一頭地を抜いている名編。どの作品も基本に意地の悪さが存在していて、居心地が悪いところにディッシュの真骨頂が見られるとういうのが、どうやら編者の意図らしい。「カサブランカ」「国旗掲揚」「第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場跡」あたりがストレートに意地悪。「話にならない男」がこんな話だったのかと今頃になって感心してみたり。SFばかり読んでるとバカになりますよといわれてるようなものか。

 そこへいくとスタニスワフ・レム『高い城』では、思いっきりSFはもはや救いがたいほど愚かな作家と作品と読者によって支えられていると罵倒されてしまっている。しかしねえ、やっぱりレムだってSF大好き少年だったに違いないわけで、かなりアヤしい少年期の自伝を含めてSF的なアイデアやスタイルからいろいろ学んでいるような感じがする。書評的なエッセイに見せる抜群の切れ味は、読んでいてさすがSF界ナンバー1の知性だと唸らせるに十分だけれど、ロッテンシュタイナーが批判していたようなズルさや偏狭さも目立っている。でも読んでいる間は結構仕合わせ。

 今月はこれぐらいしか読んでないので、日本作家の作品をひとつ。牧野修『蠅の女』はノヴェラ程度の長さで一気読みできる。良くできた普通のホラーで始まるけれど、表題の蠅女が召還された途端、ギア・チェンジでスプラッタ・コメディへ移行。わずかな時間ではあるが、楽しいひとときが過ごせる。


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