岡本家記録とは別の話(THATTA その歴史とヴィジョン篇)

 岡本家記録(Web版)(読書日記)もご参照ください。9月は 『四畳半神話体系』、『バースト・ゾーン』、『デカルトの密室』、『テクノゴシック』などを収録。一部blog化もされております(あまり意味ないけど)。

 ということで、ここでは上記に書かれていない記録を書くことになります。本編は読書日記なので、それ以外の雑記関係をこちらにまわしてみることにしました。

THATTA200号

  小浜徹也も指摘していますが、
THATTAが200号を迎えて既に8ヶ月が経過。その間、記念行事も200号に至る経緯の説明もなく、淡々と過ぎております。うーむ、まあオンライン後86号(7年9ヶ月)という中途半端な号数なので、やむをえないかもしれません。とはいえ、歴史の闇に葬られたミッシングリンク(ってこればっかり)を明らかにするのも一興ですので、今回は禁断のプライベートマガジンTHATTAの 、7世代にわたる簡単な歴史を書いてみることにしましょう。中身を含む詳細は、Online100号記念にでも。

 THATTA創刊は、1983年5月のこと。苑田卓(寺尾まさひろ)さんの個人誌でした。そもそもこの誌名も、パキスタンの世界遺産から採られたのではなく、苑田=その他=That TA=THATTAに由来しております(ご存知でした?)。

1.苑田卓編集 1号〜8号(1983年5月〜12月)平均28頁8冊

 翻訳を正式にやると肩肘が張る。ということで、カジュアル翻訳ファンジンが最初の目標でした。そこに創作発表をするメンバーが加わり、体裁は普通のファンジンに近づいていきます。会員制がとられ、一般には販売されませんでした。初期はオーナーが(執筆者と、一部寄贈先を勝手に決めて)無料配布していました。比較的あとでも、会費は正式には徴収されず、郵送料カンパ、実費オーナー負担で継続されました。


THATTA2号(1983年6月)の目次と巻頭言より
翻訳を中心とした手書きB6サイズ16ページで、コピー・ホチキス製本


8号(1983年12月)段階で、創作・翻訳は3倍の分量となる。体裁は変わらず。

2.山岡峻(片岡俊)編集 9号〜40号(1984年1月〜1986年7月)平均49頁32冊

 編集の実権が副編集長に移り、編集長は名誉職化(資金提供するオーナーには留まる)。この時期の片岡は、編集スタジオに勤めるアルバイト学生(京大SF研)でしたが、普及を始めたワープロを屈指して、豪華な紙面を作りました。会員も拡大し、多くのプロ原稿が集まるようになります。菅浩江、鎌田三平さんらの名も見えます。プライベートマガジンのためか、エッセイの中身が本音レベルなのが最大の特徴でしょう。


34号(1986年1月)、山岡時代の典型的な目次
翻訳、エッセイ、レタールームと盛りだくさんで88ページ、しかし体裁は変わらず。

3.池原宏編集 41号〜62号(1986年10月〜1989年1月)平均33頁22冊

 100ページ近くの原稿を毎月集めるのは大変。片岡時代は2年余りで力尽き、副編集長は交代。池原宏はオーナーの競馬仲間(当時はまだ違ったか)で、緊急登板することになります。41号が42号の後から出たり、突然ページが減ったりと激しく変動しながら、2年間勤めることに。スタイルは、手書きがワープロ化した以外は、ほぼ初期と同様にもどりました。


42号(1986年10月)
この頃になると翻訳は名目だけで、中身はエッセイが主流となる。
ちなみに、副産物THATTA文庫が、この年ファンジン大賞の部門賞を受賞しています。

4.菊池久美子編集 63号〜88号(1989年3月〜1991年6月)平均42頁26冊

 87年頃(?)に仙台からKSFAに異動してきた菊池誠・久美子夫妻は、連載小説や表紙絵などを書いていましたが、菊池久美子が編集手腕を買われて副編集長に就任。4コマ漫画で編集後記を書くという画期的な方針が好評で、雰囲気もソフトに変わりました。頁数は安定し、月間のペースも守られました。この4コマ漫画は、別冊ファンジン「副編集後記総集編」(1991年9月)にまとめられ、一般にも販売されました。


87号(1991年5月)

5.池原宏編集(第2期) 89号〜103号(1991年8月〜1993年7月)平均39頁15冊

 菊地家がドイツに転勤する関係で、ふたたび池原宏が編集責任者に就任。いきなり8頁の号を出したり、発行号数が激減したりで、ほぼ隔月刊となりました。途中100号記念号を刊行。水鏡子が14ページ、岡本が15ページとページ浪費を尽くし、執筆者11名で100ページを達成。


100号(1992年11月)記念の100ページ(表紙を含む)、さすがに製本が出来ずに上下巻に

6.菊池久美子編集(第2期) 104号〜122号(1993年10月〜1996年11月)平均32頁19冊

 2年間の海外赴任を終えて、帰国した菊池久美子による第2期編集時代。しかし、もはや月間のペースは守れず、隔月刊は変わりませんでした。頁も最初期並みの薄さ。書き手の執念も薄れ、印刷版の終末を案じさせる内容でした。1995年1月には阪神大震災をはさみ、多くの被災者を出しながら継続。紙版123号(1997年2月予定)は、予告がされたもののついに発行はされず。それでも会員名簿(下記)は、最大規模まで膨らみました。愛読者は多かったのです。


112号(1995年2月)は震災特集、末期120−122号はOnlineでも読める。
1996年の最終会員名簿を見ると、約60名のうち20名余はプロ(セミプロ、関係者というとほぼ全員)だった。

7.大野万紀編集 123号〜(1998年2月〜現在)現在まで86冊相当

 時代はインターネットに急速にシフト、THATTAも紙版停滞から1年強、1998年2月にHPとして復刊しました。頁数に換算するとそれほどではないにしても、7代目の大野編集長は7年半という最長不倒距離を誇っています。欠号も 初期の6ヶ月分程度。また、HP版は「THATTA」を襲名したものの、苑田卓オーナーではありません。媒体(有形から無形)はもちろん異なりますし、性格 (クローズドからオープン)も異なるものです。

 今の執筆者は固定されていて、大野、水鏡子、津田文夫、岡本の4名体制。昔日の華やかさは失われ、50代オッサンの渋さで勝負。(読める人は限られるけれど)最初から読んでいけば、それぞれの20年の人生が紙面から読み取れます。 プライベート時代は、今のソシャールネットワークのように機能していました。私生活に「歴史」がのぞくところも、200号22年を経た時間の副産物といえるでしょう。

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