続・サンタロガ・バリア  (第52回)
津田文夫


 サッカーに思い入れはないのだが、それでも日本代表は結構ハラハラドキドキさせてくれていたんだなあと、決勝トーナメント関連番組を見ながら思った。強豪同志の試合は確かに面白いが、そこまでだもんなあ。

 大植英次率いるハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーを聴くのは2回目。演奏そのものはあまり記憶に残るような音ではないのだけれど、何しろ今回はコンサート形式とはいえ「ワルキューレ」第1幕だ。映像では何回も見ているが、生で聴いたのは初めて。「ワルキューレ」第1幕はもともと歌い手が3人しかでてこないので地方公演でもできる。字幕がないので、約1時間ちんぷんかんぷんなドイツ語のセリフのやりとりが続くわけだけれど全く飽きない。昔はこの大袈裟なばかりの音楽劇に全然魅力を感じなかったんだが、今はとても面白く見ることができる。ワーグナーの音楽が好きかといわれれば、まだ首を捻るのだけれどね。

 エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』が文庫になったので読んでみた。てっきり現代的なスタイルの作家だと思っていたもんで、次々出てくるケッタイなお話しに不意打ちを喰らいっぱなし。バカSFといわれた「刈り跡」はこんな話だったのね。アイデアが読めてしまうのもいくつかあるけれど、これだけ愉しめれば文句はない。ジャンル・エンターテインメントみたいに読めるのに読後感はそうでもない。同時に読んでいたウィル・セルフより余程奇想コレクション向きな作品集だなあ。

 そのウィル・セルフ『元気なぼくらの元気なおもちゃ』は奇想コレクションでは異色の、ということは本当の現代文学。訳者が分からないというくらいだから何が描きたいんだかよく分からないものも混じってる。たとえば巻頭と巻末のヤクの売人兄弟の話は確かに続いているけれど、巻末の方の作品は巻頭の作品からはまったく見当もつかない方向に動いていく。が、それはおもしろさを求めた結果には見えない。読者を愉しませたいという欲求が作品からあまり感じられないところが現代文学たるゆえんか。

 若島正編『ベータ2のバラッド』を読んでいると70年代半ばの大学生の頃に戻ったみたいでなんとなくこそばゆい。デイレイニーの表題作からしてその若々しさに涙がにじむ。ウェルズ除けば、原文が掲載されたニューワールズ・クォータリィのペイパーバックやF&SFがぼろアパートのダンボール箱の山に埋まっているはずだ。当時バリントン・ベイリーは原文で読もうとしても全く歯の立たない難解な作家だった。そういや生まれて初めてMODEMなる単語を目にしたのは「オリヴァー・ネイラーのキャビネット(安田さんのつけた訳題を忘れた)」を訳そうとしていたときだった。物づくし的な文章のところで出てきたんだけれど当時いくら調べてもわからず、KSFAのメンバーに訊いて回った覚えがある。大野万紀さんや岡本俊弥さんは大学でコンピュータをいじっていた(パンチ穴の空いた紙テープがプログラムだった頃?)ので、モデムは黒い箱だよと言う答えが返ってきたと覚えている。以前はあれほどパソコンのカタログ・スペックのウリのひとつとして大々的に取り上げられていたモデムも今では話題にもならない。うーん思い出話が続いてしまうなあ。リチャード・カウパーも当時は結構お気に入りでペイパーバックも結構集めていた。とても落ち着いた文章を書く人で、普通小説を書いていても不思議はないタイプの作家だった。サンリオで解説書くのに勉強したらミドルトン・マリという英国文学界の大物批評家の息子だというのでさもありなんとは思ったけど、なにか不幸なイメージのつきまとう作家だった。こんなこと書いていると終わらないのでやめよう。

 古川日出男『ルート350(サンゴーマル)』の短編を読みながら、この作者のたくらみが時々分からなくなる。語りのパワーを感じることは感じるんだけれど、話のもって行き方には付いていけないときがある。目次を見返してみるとそれぞれおもしろさは思い出せるのに。たぶん古川日出男の想像力にしっくりこない部分があるのだろう。

 短編「日の下を歩いて」が好印象だったジェフリー・A・ランディス『火星縦断』。ベタなタイトルのとおり短編でも感じさせた丁寧で落ち着いた雰囲気の火星トラヴェローグ。坦々と進む物語の中で主要登場人物も淡々として死ぬ。火星の風景の描き方は見事で手応えがある。いい作品であることは間違いない。しかし、なんとなくものたりないんだよなあ。クルー全員のプロフィールの作り方なんかまるで小説の書き方に則ってるみたいで読みやすいけれど月並みだし、そこにあるべき熱情が十分に伝わらないという点でいわゆる文学的感興に乏しい。SFとしてしか読めない佳品か。


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