続・サンタロガ・バリア  (第55回)
津田文夫


 夏の名残があっという間に消えてしまったような感じで、季節の変わり目に久しぶりに風邪をひいてしまい何かとピンチ。まあ、そんなときに本が読みたくなるのはヒトの習性ってもんだね。

 海水浴の行き帰りに読んだのに、すっかり忘れていた川端裕人『川の名前』はとても良くできた夏休みモノ。あとで思い返すと主人公の家庭環境の特殊性やライバルの少年の設定などが紋切り型なことや環境原理主義的な感触があるけれど、読んでる最中はあまり気にならない。スタンダードなレベルで読ませる力があるからだろう。気に入った理由には多摩川やその上流(支流?)の秋川がこどものころの遊び場だったのでこの作品の舞台がイメージしやすかったこともあるのかな。中国地方の川ではこうはいかないかも。

 一部(?)で話題の小松左京/谷甲州『日本沈没 第二部』は前作のイメージとは大分違ってはったりの派手さがない、いかにも谷甲州らしい生真面目なフィクション。難民化したその後の日本人の運命を描くというほとんど不可能なことに挑戦しているわけで、その意味では書いただけでスゴイことなのだが、如何せんこの分量ではプロローグで終わってしまわざるを得ないのだった。30年前に読んだ前作のディテールは全く覚えていないけれど、ところどころでイメージやセリフや登場人物の名前がフラッシュバックする。

 浅倉久志編訳『グラックの卵』は若島正編ニュー・ウェーヴ本とおなじくらい変わったバランスのユーモアSFアンソロジーだ。その理由は浅倉さんが後書きに書いているとおり年代順で括られていることもあるのだろうが、ジョン・スラデックの「マスタースンと社員たち」とハーヴェイ・ジェイコブスの表題作がユーモアSFのイメージをかなり逸脱してニュー・ウェーヴよりな印象が強いからだろう。特に「グラックの卵」はそのオチにほとんど意味はなく、本筋からの逸脱性が作品の魅力になっているところは主流派の実験的スタイルような感じがする。

 牧野修『月光とアムネジア』はジェットコースター小説で、読み始めたらあっという間に最後までいってしまった。架空の地方の架空の方言でまず気をひいて、舞台の仕掛けが忘却地帯で話はその忘却地帯に入って向こうへ抜けるまで一直線。不死身体質の隊長に手塚治虫の『ノーマン』にでてきた急速再生が超能力というヤツを思いだした。

 あっという間に読めるという点では『月光とアムネジア』の上を行く京極夏彦『文庫版 陰摩羅鬼の瑕』は、1000ページまではイッキ読みだったのに、京極堂登場のところでページをめくる手が止まった。この京極堂がまるで書割りに口が付いてるみたいに見えたのだ。ページ半ばで林羅山のたくらみと儒教と仏教に蘊蓄を傾けているところでは今回は京極堂もやや影が薄いね程度で愉しんで読み飛ばせたのだが、如何せんいつものご登場が物語の主筋と絡まりようが薄くてなんか場違いな出方をしているように感じられる。まあ、今回の主役は関口であってあとのメンバーはそれぞれの役どころで出てきたに過ぎないということなんだろう。

 小川一水『天涯の砦』はタイトルが大仰だけどいつものことか。巨大宇宙ステーションの事故/実質テロで破壊分離されたセクターに取り残された、年齢・性別・職業が全て違う10人近いキャラを動かす野心作。後で思い返すとなんで外国人が一人も居ないのかちょっと不思議だが、そんなヤツの面倒までは見きれないということだったんだろう。初期設定がやや甘いような気がするけれども、この手のサバイバル・アクションものとしてよくできているんじゃなかろうか。主筋はともかくハードSFとしての魅力はまた別にあって様々な真空の恐ろしさが描かれているし、異常事態におけるコンピュータの機能とか結構面白い。あとFF10のゲームキャラみたいな格好を思わせる衣装の女の子が出てくるんだが、その子が悪役テロリストに延々とビンタされるシーンは牧野修の林真理子から嫌悪されたという作品のそれを思い起こさせる。


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