内 輪   第193回

大野万紀


 翻訳家の斉藤伯好さんと浅羽莢子さんの訃報を知りました。浅羽さんはぼくと同じ53歳ということで、ショックが大きいです。謹んでお二人のご冥福をお祈りいたします。

 3年間使っていたDVDレコーダーのRD-XS40がそろそろ怪しい挙動を示してきたので、買い換えることにしました。 ちょっと悩んだけど、わが家はまだ当分地デジ化の予定がないので、安いアナログでいこうと、RD-XS38に決定(何で新製品の方が番号が小さいのか)。 ネット接続と編集機能に慣れ親しんでいるので、事実上東芝以外の選択肢はないのです。HDDにため込むのは恐怖感があり、容量は200Gもあれば十分。 スカパーもあって、この機種は設定がややこしいのだけど、それも何とか終了。 さすがに新しいのは機能も豊富で動きもきびきびしていますね。もっとも使い方は以前と変わらないのだけれど。 地デジはねえ、テレビを買い換えないと意味ないし、コピーワンスが何とかなるまでは様子見です。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『進化論』 井上雅彦編 光文社文庫
 テーマがテーマだけに、まるっきりSF短編集だ。SFっぽいホラーとホラーっぽいSFが18編収録されている。〈進化〉でホラーというと、モロー博士の島テーマが目につくようだ。印象に残った作品は、上田早夕里「魚舟・獣舟」、牧野修「ランチュウの誕生」、蒼柳晋「書樓飯店」、谷口裕貴「貂の女伯爵、万年城を攻略す」といったところ。上田早夕里や谷口裕貴の異界と化した未来のイメージが素晴らしい。牧野修はまたとてつもなくイヤな話で、読まなきゃ良かったと思わせる。SFっぽい方では野尻抱介「楽園の杭」があるが、強烈なイメージの作品が多い本書の中では大人しく地味な感じがする。そこがいいんだけれど。堀晃「逆行進化」は中心にあるアイデアがちょっと納得しにくい。梶尾真治「おもかげレガシー」はエマノンものの最新作だが、あまり印象的ではない。総じてホラー系の方が面白かったが、「進化論」じゃないよねえ。

『ニュートンズ・ウェイク』 ケン・マクラウド ハヤカワ文庫
 イギリスのニュー・スペース・オペラがまた一つ紹介された。これまたシンギュラリティ以後の世界を舞台にしたお話で、チャールズ・ストロスやアレステア・レナルズと同類とのことだが、読後感はかなり異なる。堺三保解説ではピーター・ハミルトンも同様だということなのだが、ピーター・はミルトンは訳された長編を読んだ限りではどうも違うタイプのような気がする。〈ナイツ・ドーン〉を読まなきゃわからんけど。さて本書は数百年後の宇宙の話であるが、妙に現代と連続していて、「主体思想」なんて出てきたり、マイクロソフトをテーマのギャグがあったりする。でもぼくには笑うに笑えず、ちょっと居心地の悪い感じがした。で、物語の舞台ではシンギュラリティによる「昇天」の後、残された人類が銀河に植民し、主に3つの勢力に別れて共存や小競り合いを続けている世界。第4番目の勢力として、ワームホールのゲートを支配するカーライル家があり、本書はカーライル家に属するヒロイン、ルシンダの率いる調査隊がゲートを抜けてテラフォームされた未知の惑星に現れるところから始まる。この惑星エウリュディケは、300年前の強制昇天から直接逃れてきた地球人の子孫が開拓した星だった。ルシンダの行動により”後人類”の戦闘機械が起動されてしまい、その上他の勢力もこの星に集まって来て、様々な思惑がからんだ争いが始まろうとする。物語はそこからさらに宇宙のあちこちに飛んで、いかにもスペース・オペラっぽい楽しい展開を見せる。SF的大道具・小道具もてんこもりで、ぼくには面白く読めた。とはいえ、スペース・オペラとしての面白さはあるのだが、あまりにも現代と地続きで、異質さが感じられず、紹介されたシンギュラリティ以後SFの中ではとても普通の宇宙SFに思える。いや、だから悪いというわけではないのだけど。シンギュラリティということについては、「昇天」という言い方でもわかるように、結局クラークの『幼年期の終わり』で描かれたオーバーマインドへの合流の今風な表現なのだな、という理解でよろしいのでしょうか。で、残された人々がオーバーロードのレベルで銀河をバタバタしている、と。どうもそんな感じなんですが。ヴァーナー・ヴィンジのオリジナル論文はSFMの2005年12月号に載っているので、また勉強しておかなくちゃね。

『月光とアムネジア』 牧野修 ハヤカワ文庫
 薄い本というのは、それだけで嬉しくなる今日この頃。記憶が3時間でリセットされてしまうという〈レーテ〉という現象が発生する。愚空間と呼ばれる特殊な場が数キロから数十キロに渡って発生し、それに巻き込まれた人間は3時間ごとに記憶喪失になるのだ。愚空間というか、ここは「まぬけ時空」といってほしかったなあ。それはともかく、主人公の刑事は組織の殺し屋を追い、特殊部隊の一員となってその〈レーテ〉に突入し、謎の少女に出会う。刑事の過去の惨劇や、〈レーテ〉内での恐るべき奇現象、殺し屋の正体など、アクション、ホラー、サスペンスがてんこもりなのだが……しかし例によって本書も「牧野修の小説」としかいいようのないものである。普通のリアリティはなく、あるのは悪夢のリアリティ。「アガタ原中県」「ゆずす飯」「ケモン帆県」といった独特の言語感覚。そういう「牧野修世界」を怖い物見たさで楽しむ、そういう小説である。サイコドクター風野春樹の解説がとても良くこの世界を〈解説〉している。

『日本沈没 第二部』 小松左京・谷甲州 小学館
 33年前の小説の続編である。そういう意味ではあまり期待しないで読み始めたのだが、実質谷甲州の作品となっていた本書は、思っていた以上の傑作だった。終わっていない、とか、結末が取って付けたようだ、とかいう批評があるのは承知しているが、帰るところを失って25年たった「日本人」がどのように生き、どのように考えるかを描く本書に、結末などあるはずもないのだ。大きく4つの現場がある。ひとつは沈没した日本のあった海上に、メガフロートを浮かせて新たな国土を築こうとする現場。ここは覇権主義的な中国との最前線でもある。もう一つは地球シミュレータを駆使して地球環境の変化を探ろうとする現場。ここは政治の意志決定とからみ、日本の未来を変えていく。三つ目はその政治の中心、日本国首相の意志決定の現場で、一般人の目からその事実を書き留めていこうとする女性秘書の物語。四つ目は中央アジアに移住したが、環境の変化から現地人に敵視され、難民となった入植者たちの現場。反政府テロリストとなった日本人たちと、日本政府の連絡員、国連の難民高等弁務官事務所に勤める日本人補佐官の現場。これらの現場がからみあいながら、物語はほとんど地べたに足の着いたリアルな視点で描かれていく。言い換えれば、大所高所からの物語はほとんど語られることなく(もちろん首相のパートではそれが語られるのだが、本人ではない秘書の視点で、断片的にしか現れてこない)、何が起こっているのかわからないまま、現場で最善を尽くそうと努力する人々の姿が、地味に、プロジェクト現場のリアリティをもって描かれる。海外のプロジェクトに参加し、日本を客観的に見ることのできる目で描かれた日本人論であり、あり得たかも知れない、これからあり得るかも知れない未来の現実なのである。欠点は、ちょっと「大人」の視点にすぎるということ。小松左京なら、もっとハチャメチャな、日本論にがんじがらめにならない若者の視点も導入しただろうと思う(それが外相であり、結末のビジョンなのかも知れないが)。

『SF魂』 小松左京 新潮新書
 日本沈没の再映画化のタイミングで、ということなのだろうが、これはこれでタイムリーに出版された、小松左京の自伝エッセイである。もちろんぼくなどまさしく小松左京の子といっていいくらい、本書に書かれているような作品やイベントに同時代的に関わってきたわけで、特別目新しいことが書かれているわけではないのだが、それでも改めて通読すると、小松さんのどんどん前へ進んでいく、そしていつまでも若々しさを失わない姿勢に圧倒される。自分の年を考えてしまうよ。いやホンマ。結語の、「SFとは思考実験である。SFとはホラ話である。SFとは文明論である。……」と続けて、「SFとは希望である――」と締めるところはぐっとくる。2番目にホラ話がくるのがステキだ。まったく「SF魂」だなあ。

『天涯の砦』 小川一水 ハヤカワSFシリーズJコレクション
 重大事故を起こして宇宙空間を漂流しはじめた宇宙船と宇宙ステーションの断片。その中にはまだ生存者がいた。しかし外部にそれを知るものはなく、彼らは自力での生還を目指し、死と直結する宇宙空間の環境の中で一人一人、生き残るための戦いを始める。という近未来サバイバルSFである。しかし、そういう紹介で想像されるようなありきたりな話ではなかった。まず、事故を起こした宇宙ステーションの内部での描写が、徹底的にリアリズムである。無重力空間での質量のふるまい、真空の部屋と空気のある部屋との違い、そういった科学的な描写はまさにハードSFである。しかし、それと同じくらいに、サバイバルする人々の人間描写もSF的なリアリズムに満ちている。太陽系の植民が始まったばかりの時代の月と地球世界の政治力学や、そこでの職業、貧富の差、希望やあこがれ、憎悪や絶望、そのようなものがしっかりとリアルに深みをもって描かれている。これは確かに作者の新境地だといえる。結果的に英雄的なふるまいをする人物はいても、誰も英雄ではなく、そんな環境におけるただの日常的な――とてもイヤな面も含めて――人間なのだ(ただ何人か、ちょっと特別な存在がいるが――それも本書のアクセントとなっている)。惜しむらくはエピローグだろう。結末の付け方は別に問題ない。けれど、それまでの1秒1センチを刻むような緊迫感と、このエピローグとのテンポの違いにはちょっと違和感がある。


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