内 輪   第197回

大野万紀


 2007年です。もうひと月たってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願いします。
 「のだめカンタービレ」を見ていたら、こたつの恐ろしさについて語られていましたが、本当ですね。いったんこたつに入ってしまうと、出られない。何もかもこたつでやるしかなくなってしまう。そこで、本来なら自分の部屋のデスクトップPCで書くべきこの文章も、予備機の古いノートパソコンを使って、リビングのこたつに入ったまま書いているというわけです。でも書いていると眠くなって、そのまま一眠り。やっぱりこたつは恐ろしい。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『夜は短し歩けよ乙女』 森見登美彦 角川書店
 『太陽の塔』の流れにつながる京都大学生小説。四つの連作からなる長編だが、なるほど間違いなく傑作である。『きつねのはなし』もいいけど、やっぱりこういうのが好きだ。先斗町を飲み歩く黒髪の乙女の話、糺ノ森の恐るべき古本市の話、十一月祭でゲリラ的に上演される「偏屈王」の話、冬の京都を襲うはやり風邪の話。いずれも傑作だが、ぼくは最初の先斗町の話で圧倒された。ほんわかした黒髪の乙女、いつものダメダメな先輩、そして空を飛ぶ男に、夜の街を走る三階建ての市電(様々な電飾がほどこされ、屋根には古池や竹林まである)、伝説の老人との飲み比べ。いかにも煌びやかで楽しげで、夜の京都の幻想に満ちている。いやあ堪能した。こんな女性はあり得ないとみんな言うけど、何だか既視感があるんだよねえ。ぽわんぽわんとした酒豪の女子大生。30年くらい前の京都に実在したように思うのは気のせいか。登場人物や神様や、ダルマやリンゴや緋鯉のぬいぐるみのような小道具まで、すべてが奇蹟のようにつながって(むしろ演劇的な作りを感じた)気持ちよく落ち着くところへ落ち着く。大学祭の章の、小さなダルマをぶらさげ巨大な緋鯉のぬいぐるみを背負って歩く彼女の姿も、ビジュアル的にステキだなあ。先輩じゃなくても惚れるよ。

『ぼくのキャノン』 池上永一 文春文庫
 文庫化されたのを機会に読んだ。沖縄のとある村の秘密。戦後この村はオバァらによる独自な統治により、とても豊かな村となった。帝国陸軍が遺したカノン砲を「キャノン様」として村の守り神とし、その信仰の元に、男衆や寿隊という秘密結社を組織し、本土の資本を排除する。時には血を流すこともあるこの過激な統治の秘密とは……。オバァたちの3人の孫たちがそれに巻き込まれ、村を探っている謎のアメリカ人や本土から来た敵役の美女と対峙することになる。『レキオス』や『シャングリ・ラ』ほど奔放ではないが、これもまた同様に常識を越えたマジカルな物語である。オバァたちがすごいし、子供たちがすごいし、寿隊がステキだ。濃密な魔法の空気が漂ってはいるが、オカルトやファンタジーというよりはやはりマジックリアリズムというのが相応しいだろう。特に謎が深まっていく前半は、むしろ伝奇SFといってもいいセンス・オブ・ワンダーがある。ただし、謎が解けてしまうと、ちょっと勢いが落ちてしまう。あんまり爆発的に膨れあがるような謎ではなかったということだ。もっとSF的というか、ぶっとんだすごい謎を期待していたのだが。

『星と半月の海』 川端裕人 講談社
 動物をテーマにした短編集。それぞれの短篇は共通する登場人物がいたりして、ゆるやかに繋がった連作となっている。「みっともないけど本物のペンギン」はウォルドロップの「みっともないニワトリ」を高校生の頃に読んで触発されたという作品。これは傑作だ。絶滅動物への切ない感情と、まるでドキュメンタリーのような「理科小説」の科学性が相まって、とても印象的な作品となっている。結末は本当にしんみりと感動させられる。表題作「星と半月の海」はオーストラリアの海でジンベエザメを研究する女性科学者の物語だが、作者のもう一つのテーマである、家族の問題が深くからんでくる。家族といっても、ここでは親と子のつながり、生命の継続という側面が強く、それは「ティラノサウルスの名前」でも、「世界樹の上から」でも同様に描かれている。親から子への血のつながりは、大きく生物の進化と結びつき、まるでフラクタル図形のような壮大な自己相似形のメタファーを形作る。それは「墓の中に生きている」で、マダガスカルの人々の(何故かM島と表記されているが)死生観と結びつき、遙かな過去から未来へと連なる壮大なクライマックスを迎える。これまた客観的にはSF小説とはいえないかも知れないが、ぼくにとっては十分にSF的なセンス・オブ・ワンダーに溢れた「理科小説=サイエンス・フィクション」だった。

『ひとりっ子』 グレッグ・イーガン ハヤカワ文庫
 日本オリジナル短編集。90年から2002年までの7篇が収録されている。解説が奥泉光というのも興味深い。
【以下、ネタバレとなる記述が多いので未読の方は要注意】
 年代順というわけではないが、本書の収録作は大きく二つに分けられると思う(いや、「ルミナス」があるから三つか)。「行動原理」、「真心」、「決断者」、「ふたりの距離」はいずれも90年代の作品だが、(イーガンの読者には)わかりやすい、〈いつものイーガン〉である。人間の意識、個人のアイデンティティというものがテーマになっているが、インプラントのような、今ではSFのガジェットとして当たり前になっているものを、ここまで深く考えて描いているのは本当にすごいと思う。ただし、問題意識とその思弁の深さはすごいのだが、「真心」の〈ロック〉や「ふたりの距離」の意識の交換のようなアイデアを実現したいとする登場人物たちの偏執的なといっていい心理は、小説的なリアリティよりもテーマを表現したいという作者の欲求の方にシフトしているように思える。奥泉光の解説でも、グロテスクさ、あからさまな描き方に笑ってしまう、と書かれている通りである。ただ、同じように理解しがたく笑ってしまうような話であっても「ルミナス」は、より抽象的な数学の論理が現実とぶつかるわけで、これはもう大傑作としかいいようがない。何しろ登場人物の心理がどうとかいった問題じゃないので、SFはここまで書けるのだと、ある意味感動してしまいます。でも、あらためて読み直してみると、ここにも宇宙というのはただ一通りのものではなくて、とても多様なものなのだ、そして“今この”宇宙も、実はかなりローカルなものであり、別の論理を持つ宇宙はごく近い(「ルミナス」では少なくとも火星より近い)ところにあるのだというイーガンの多くの作品に現れているテーマを見いだすことができる。そして、「決断者」ではこれまでと同様に意識の問題を扱いながらも、自由意志、意識による決定というテーマがより中心的になり、それが2000年の「オラクル」、2002年の「ひとりっ子」の連作へつながっていくように思える。
 自由意志による決定とは、まさに量子力学の観測者による確率の収束であり、イーガンが採用した多世界解釈では、それによって世界の分岐が発生する。SF的にはもちろん多元宇宙ということになる。実は「オラクル」が読んでいて一番わかりにくかったのだが、それは表面的なタイムトラベル、歴史改変もののSFに見えながら、ヒロインが一体何をしているのか、どこに問題意識があるのかがとても理解しにくかったことによる。普通に読めば、C・S・ルイス(ジャック)とアラン・チューリング(ロバート)による人工知能論争の話に読めるはずなのだが、とても重要そうに言及される「選択」「分岐」というテーマが、どうにもぴんとこなかったのだ。それは「ひとりっ子」を読むことで、少なくとも理解はできるようになった(でもそれに共感できるかどうかは別の話だ)。
 「ひとりっ子」はある科学者夫婦が自分たちの遺伝子からコンピュータ内に産み落とした人工知能の女の子を(人工人体にロードして)育てる話である。イーガンの小説としては読みやすいし、ストーリーも面白い。アンドロイドSFとしても良くできている。ただし、メインテーマはその人工知能がクァスプという特殊な量子コンピュータ上で動くことにより、彼女の意識による「選択」が彼女の「分岐」を生じないということにある。主人公はこのことに、いわば多世界解釈への挑戦にパラノイアックなほど固執している。小説中でも多くの人はそんな「分岐」など気にしないという態度をとるのだが、おそらくイーガン自身は主人公と同じくらいこのことにこだわっているように思える。なるほど、SFで歴史改変なり、タイムパラドックスなりが描かれるとき、それが並行宇宙を想定したものであったなら、結局は改変されず、パラドックスもない世界が残るわけであり、何のこっちゃという気持ちはぬぐえない。ヒットラーの意識に干渉してユダヤ憎悪を無くすことができたとしても、アウシュビッツへの道を選択しない宇宙がそれを選択する宇宙から分岐するだけで、多元宇宙の全体を見れば悲劇はちっとも回避されていないことになる。もし選択によって分岐が起こるのではなく、全宇宙がひとつの道に収束するのであれば、その選択は確かに大きな意味があったといえるだろう。いや、そりゃあぼくだって、アウシュビッツの悲劇がある世界より、ない世界の方がいいし、それがこの世界だけでなく、可能性世界の全てに渡ってそうであればとても嬉しいと思う。だけど、あらゆる確率的可能性の全てに責任をもつなんて、ちょっと荷が重すぎる。「ルミナス」なら(おそらく日常との乖離があまりに大きいので)まだ共感できるのだが、こっちはちょっとバランスが悪い気がする。もっとも、「ひとりっ子」と「オラクル」を一つの物語として捉え、多元世界の悲劇を少しずつ解消し収束させていこうとするヒロインの物語だと考えると、これはこれでSFとしてすごく真っ当な話で、とてもよろしいんじゃないでしょうか。

『雷の季節の終わりに』 恒川光太郎 角川書店
 日本ホラー大賞受賞作『夜市』でデビューした作者の長編第一作。こちらの日本とは一部重なり合うが別の世界にある小さな町、穏。そこに暮らす少年が、ある秘密を知り、町を追われることになる。はじめ、この異世界の町にこちら側の現代日本と同じ語彙があるのに違和感があったが、まあ交流はあるわけだからすごく無理というほどではない。重なって存在するもう一つの世界のありようが、SF的というよりはファンタジーの文脈で幻想的に描かれており、二つの世界の間にある荒野の描写などはとても印象的だ。それは日本的な死後の世界を強く想起させる。この世とあの世の狭間の世界。だが、「風わいわい」という鳥のような物の怪に取り憑かれた少年の冒険は、むしろバイオレンスで、ホラーというか、ミステリというか、世界の描写とどこかなじまない感じがある。登場人物も世界も独特な雰囲気があり、とても良いのだが、何となく中途半端な気がするのは、焦点が絞り切れていないというか、せっかく出てきた人物や世界観が、物語の中での役割を果たし終わる前に退場し、宙に浮いたままにされるからである。魅力的なあれやこれやについて、もっと語って欲しかったという感じが強く残るのだ。続編がいくらでも書けそうな気もするが、どんなものかなあ。

『剣嵐の大地(1)』 ジョージ・R・R・マーティン 早川書房
 3分冊がそろったのでようやく読み始め、まずは1巻目を読了。〈氷と炎の歌〉の第三部である。やっぱりすごく面白い。異世界ファンタジーというよりは戦乱の中世に生きる人々を描く歴史小説として読めるし、基本的に本書は過酷な時代と制度の中で翻弄される、それでも知恵と勇気を絞り、必死に生きていく登場人物たちの運命をドラマチックに描く骨太な大河小説である。とはいえ、本書ではいよいよゾンビや人狼やドラゴンのようなファンタジー要素が前面に出てきていて、普通の歴史小説ではない、SF・ファンタジーとしての姿がますます重要になってきている。つまり、キャラクターの小説に加え、大きく世界を描く小説として(まだ現段階では仄めかしばかりだが)、読み応えが増しているのである。分厚い本書であるが、何人もの視点キャラクターごとの比較的短めなストーリーが並行して語られるという手法をとっているため、大変に読みやすい。何編もの主人公の違う連作小説を同時に読んでいるような感じだ。本書では、女戦士ブリエンヌに連れられて逃亡するジェイム・ラニスターの章、個性的な無法者集団と共に旅するアリアの章、蘇ったドラゴンを連れたデーナリスの章などが特に印象に残った。悲劇の多いこのシリーズだが、本書のラストのデーナリスの章では、思いっきりかっこいい彼女の姿が描かれていて楽しかった。さてまだ三分の一。先は長いなあ。


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