続・サンタロガ・バリア  (第61回)
津田文夫


 もう3月も終わりかと思うとタメ息が出るんだが、こういうところが年寄りになったということなんだろうな。

 ケンペが1957年にベルリン・フィルを振ってメニューインと演った名演と評判のブラームスのヴァイオリン協奏曲が出るということで、久しぶりにケンペのCDを検索してみたら見たことのないものがいくつも見つかった。特に驚いたのが、なんとレオニード・コーガンを相手にイタリアの放送交響楽団を振ったベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が出ていたこと。あの博捜をもって鳴る尾埜善司『指揮者ケンペ』の演目リストにはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の記録がまったく無いのだ。コーガンはソ連独特の鋼の音色を鳴らすタイプで30年余り前は廉価盤のブラームスでお世話になったものだが、好きにはなれなかった。この1956年のラジオ放送用ライヴではそれほど剛腕な感じがしない。まあ、音が悪い(おまけに一部音が跳んでいる)所為もあるだろうが、ケンペのバランス感覚がまだ柔らかさを感じさせるコーガンを引っ張っていっているんだろうな。このCD以外にも正規版BBCライヴで1965年5月に録音されたショスタコーヴィチ交響曲1番が出ていてひっくり返った。これも『指揮者ケンペ』に言及がない。ロイヤル・フィルを使って同時期にこの曲を振ったことは書いてあるんだけれど。ウーム、長生きはするもんだってか。

 桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』は改変歴史物とまでは行かないが、実際には存在しなかった高炉製鉄を山陰のたたら製鉄の旧家に持ち込んだ野心作。作品中の大きな炉は角炉でしょというヒトもいるかもしれないが、角炉では「飛ぶ男」には狭すぎるからねぇ。まあ、作中で高炉と明言していないので、架空の形式の巨大溶鉱炉でもいいんだけど。ただし脇役に造船所の一族を使っていることもあり、どこまでリアリティに気を配っているかは不明。この作者のものを読むのは2つ目だが、どうも神経質的な感じがしてちょっと辛い。

 ジョン・スコルジー『老人と宇宙(そら)』はまったく期待せずに読んだだけ、面白く読めた。若いのにこんなもの書いていて本物のオヤジどもにバカにされないのかねぇ。まあ、老人とは名ばかりでやっていることは宇宙海兵隊物語だからなあ。第一この主人公達のモチベーションにどれだけ共感できるかといったら、まじめに考えることがバカバカしくなってしまう。敵方の宇宙人の設定を含め、面白いじゃないかという意見はあっても当然のエンターテインメントではあるけれど。

 映画化のおかげで出たというブライアン・W・オールディス『ブラザース・オブ・ザ・ヘッド』は結構お気に入り。いやあ50過ぎたオールディスは若い(若かった?)ねえ。柳下毅一郎の訳がまた良く出来ている。パンク・バンド?の前半が新鮮で、後半はいかにもオールディスらしい、というかイギリス作家っぽい運びになっていて、これはこれで読ませる。背景が薄っぺらい恨みはあるけれど、この長さじゃ欠点とも言えない。それにしてもノーフォークのイメージがこんなにもわびしいとは、やはり一度行ってみたいな。

 椎名誠『銀天公社の偽月』は『砲艦銀鼠号』みたいにキャラクターによるひとつながりの連作ではなく、共通した世界での様々なエピソードというほどバラけてもいない変わったスタンスの連作短編集。『銀鼠』が陽ならこちらは陰か。物語的な筋が希薄なだけやや読むのに苦労する。そこら辺が「純文学」の謳い文句なのかな。独特な造語感覚はここでも健在。

 短編集を読むのは初めての野尻抱介『沈黙のフライバイ』は、あまりにストレートなSFでうれしさ半分、無い物ねだり半分というところ。本気でホラーにもミステリにも頼らないまっとうなSFを書くんだとういう意気込みは素晴らしいが、その分雑駁な小説の楽しみは乏しく、SFの希少な王道/オールド・スタイルが堪能できる一方、そういう風に考えるか普通?というツッコミも浮かんでしまう。これがSFの生きる道というのも分かるんだけどねえ。ただこれをケナす気は全然ない。SFファンだからね。

 いきなりベストセラー・チャート入り作家となった森見登美彦『【新釈】走れメロス』は、『乙女』と『きつね』のスピンアウトみたいな作品集。「山月記」はやや性格を異にするが、表題作を含めた前半が『乙女』で笑える。後半は『きつね』でちょっと分かりにくい。新釈ものは、昔なら石川淳をはじめいろいろな作家がやっていたと思うけど、モリミーはライトノベル時代のライト文士足り得そうだ。


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