内 輪   第207回

大野万紀


 京フェスが終わり、年末が近づくと、『SFが読みたい!』用の「マイ・ベスト5」を選ぶ季節となります。身近には、このためだけにSFを読んでいるような人もいて、それって本末転倒じゃないかとも思いますが、まあそれが色々なSFを読む動機となっていれば、それもいいのかなと思っています。ぼく自身は、ここに書いてきた、自分で読んだ本の中から、えいやっと、その時の気分でベストを選んでいるのですが、最近は一般的な評価よりも自分自身の好みをより優先させようとしています。例えば下で紹介している『ゴールデン・エイジ』など、客観的に見れば傑作とはいえないのですが、これがぼく好みなので、上位に上げてしまうのです。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一 講談社現代新書
 評判のノンフィクション。特別新しい知見が書かれているわけでもないのだが、生命を単に自己複製するシステムとするのではなく、生命とは動的平衡にある流れである、と改めて定義する(だから著者はウイルスを生物とは見なさない)、それを観念的にではなく、実験的な事実に基づいて説明するところが興味深い。また、ストレートにその事実を解説するのではなく、著者が暮らしていたアメリカの大学での生活を描き、科学者たちのある意味生々しい「研究の現実」を描き、そして生物学の発見物語の裏側を辿って見せてくれる。存在しないものを「発見」した野口英世、ワトソンとクリックがDNAの二重螺旋を「発見」する前に核酸こそが遺伝物質であることを見いだしたエイブリー、そのワトソンに発表前の実験データを「盗み見」されたフランクリン、DNAを人工的に増殖させる装置(PCR)の発明に寄与したが、名前の出ることのなかったマリスといった人たちの、人と研究について語る。
 この語り口がうまい。科学者というより、ノンフィクション・ライターの語り口である。また科学的説明の部分も、比喩がとてもわかりやすい。とりわけ本書のクライマックスである「動的平衡」の話に入ると、砂粒が常に置き換わっていく砂の城を例にあげながら、生物を構成する分子が本当にダイナミックに動き、流れ、置き換わり続けているありさまを説明する。まさに「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」だ。このあたり、普通に新陳代謝で置き換わっていくように想像していたけれど、もっと遙かにダイナミックな動きなのだった。
 著者の文章のうまさは、エピローグの、著者の子供時代のエピソードにも結実している。ぼくは川端裕人を「理科小説」と評したことがあるが、著者のこのエピソードもまさしく理科小説の趣がある。
 ところで、著者は本書でよく「折りたたみ」という言葉を使っている。この言葉には「動的平衡」のような説明はないのだが、文学的表現というよりはもっと科学的に意味のある言葉のように思える。タンパク質の折りたたみなどと関係しているのかな。

『悪魔の薔薇』 タニス・リー 河出書房新社
 奇想コレクションの新刊は中村融編集のタニス・リーの日本オリジナル短編集。9編が収録されているが、すべて初訳で、編者によればSF的な作品を外した、79年から88年にかけての「ホラー色の強い幻想怪奇小説」を中心とした作品集である。確かにその意図は成功しており、いかにも作者らしい、耽美的でエロティックな雰囲気の強い、「大人のおとぎ話」風の短編集となっている。
 前半は時代が現代に近く、ヨーロッパ的で、怪奇の要素が強い幻想小説−「別離」、「悪魔の薔薇」、「彼女は三(死の女神)」−が続くが、時代が遡っていくに従って、より幻想味が強くなり、おとぎ話や寓話に近くなっていく。「愚者、悪者、やさしい賢者」や「蜃気楼と女呪者」、「青い壺の幽霊」などがそうである。どの作品も美しく、酔いそうなくらいに耽美的なのだが、ぼくとしては後半の作品の方が好みだ。ファンタジーの退屈という言葉があるが、どの作品も面白いとはいえ、どれも同じようなテイストがある。その点、寓話やおとぎ話風の作品にはその奥に生命力があり、世界の広がりがある。アラビアンナイトにもシンドバットの冒険があるように。そういう意味で、実はタニス・リーにも、70年代のLDG作家たちと同世代の雰囲気をもったSF作品があって、『バイティング・ザ・サン』なんか本当に面白かった。そっち方面の作品ももっと読みたい気がする。

『時砂の王』 小川一水 ハヤカワ文庫
 小川一水の時間SF。2300年後、未来の人類はETと呼ばれる異星から発した謎の増殖戦闘機械群と致命的な戦いを続けている。全人類の存亡をかけて結成されたメッセンジャーたちは時間を遡ってETと戦い、その根を絶つという作戦に賭けた。何度も地球は壊滅し、その度にまた過去へ遡っては新たな時間線を切り開いていく。過去の人類と協力し、指導し、共にETと戦いながら、人類が生き残ることのできる絶望的なチャンスを掴むために。そして、3世紀、卑弥呼の時代へ、彼、使いの王は現れた……。
 正直、かなり無茶苦茶な設定である。いくつもの時間線をまたがり、並行宇宙を渡りながら戦うという話は、以前読んだ海外SFにもあったなあ、と思いつつ、邪馬台国の軍勢がそんな機械生物みたいなやつ(ここでは「物の怪」と呼ばれている)と互角に戦うことができるというのが、あんまりぴんとこなかったり。まあ過去に戻ると(これは人類側も同じだが)使えるリソースが少ないというのが理由らしい。
 とまあ、色々とはてな?と思うところはあるのだが、すぐにそういう細かいことはどうでもよくなる、骨太なストーリーが展開し、悲壮な戦闘シーンが続出する。卑弥呼や使いの王の造形も、やや類型的ではあるが、好もしい。ローカルな戦いの背後に、宇宙的な背景が広がっているのも良い。

『ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉』 ジョン・C・ライト ハヤカワ文庫
 ついに完結。結局スペース・オペラにはならなかったなあ。超巨大な恒星間宇宙船フェニックスも太陽系の中をうろうろしていただけだし。
 しかし、以前から言っていることだけれど、この三部作はとても人に勧めるわけにはいかない話で、とにかく読みにくいし、ストーリーはちっとも進まないし、わけのわからない議論ばっかりしているし、大体登場人物たちがまるで人間じゃないし。けれども、ぼくは大好きなのだ。米村秀雄も同意見だったから、ぼくだけではないと思うが、こういうバランスを無視したような、SF的アイデアばかりをとことん突き詰めた(本書ではシンギュラリティ後の意識のあり方ということかな)作品は、ぼくとしてはほとんど無条件に肯定したい。
 読みながら、何度も頬の緩む場面が出てきて嬉しくなる。1セコンド以下の戦いを、ここまで熱く書き込むかねえ。いや、すごくハードSF的ではあるけれど、それは科学的に意味のある話かといえば、とてもそうは思えない。そもそも何が書いてあるのか、ぼくにもちっとも理解できない。でも、そのわけのわからなさは、とても心地の良いわけのわからなさだ。SFだ!
 コンピュータ・ギークたちが酔っぱらって議論しあう真面目なバカ話。
「あれ、何でアトキンズがこんなことをするんだ?」
「バージョンが違うのさ」
「でもカーネルは同じだろ?」
「それが仕様だ」
ってな感じ。
 これでもっと短ければ、本当に文句なしなのだけど。たぶん、この三分の一くらいでちょうどいい。

『千の脚を持つ男』 中村融編 創元推理文庫
 シオドア・スタージョン、アヴラム・デイヴィッドスン、キース・ロバーツらの、モンスター小説を集めたアンソロジー。怪物ホラー傑作選とある。まあ何というか、古色蒼然とした微笑ましい話が多いのだが、昔の話ほどSF的な感じがする。新しめの話はSF性にこだわらず、むしろ怪物性とでもいうものを前面に押し出している。機械や、人間自身の怪物性も含めて。
 古めかしい話ではあるが、ディヴィッド・H・ケラー「妖虫」や、P・スカイラー・ミラー「アウター砂州に打ちあげられたもの」、シオドア・スタージョン「それ」といった昔風の情感のあるモンスター話は好きだ。キース・ロバーツの「スカーレット・レイディ」もひたすら凶暴な怪物(車だが)が出てきて、人間にはそれに立ち向かうすべはない。ジョン・ウィンダムの「お人好し」を怪物ホラーと呼んでいいのかどうかわからないが、こういう奇妙な味のファンタジーも確かに面白い。一方でフランク・ベルナップ・ロングの表題作や、デイヴィッドスン「アパートの住人」、ジョン・コリア「船から落ちた男」などは、あまりぼくの趣味には合わなかった。


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