みだれめも 第193回

水鏡子


■春先から独り身になった。
 生まれてはじめての独り身の自由と不自由を満喫している。
 不自由の最たるものはなんといっても自由時間の減少である。朝、起こしてもらうことを前提に、夜の1時2時まで起きていたのが、職場への遅刻が怖くて12時には寝るようになった。炊事洗濯掃除の手間は当然でてきた。おまけに、2日に一度は1時間近くかけて市場やスーパーで賞味期限切れ半額素材をあさりにいくという新しい遊びを覚えてしまい、本を読む時間がさらに減った。2日に一度というペースは、買った素材が賞味期限切れ、ときには消費期限切れのため二三日中に片づけなければならないからだ。値段に惹かれてつい買いすぎる。あきらかにブックオフ感覚の消費行動。強引に食べ切るからあきらかに栄養過多だ。メタボが進む。

 経済効果はそれなりにある。本腰を入れれば朝晩合わせて三百円くらいでそこそこ贅沢に賄い続けることが可能とわかると外食は吉野屋でさえ割高に見える。半額食材の値段と比較するから、菓子の値段がとんでもなく高く感じる。食玩ブームを契機に常態化していた間食癖がかなりの規模で失速した。メタボが退く。プラマイゼロか。なぜか、本やゲームやパチンコ代は失速しない。どうも別会計らしい。


■自由度を増した生活設計の近接目標として、1階の6畳間一部屋を書庫にすることを計画中である。今2階に置いてるかなりの本をそこに移そうと考えている。床を補強し、平行移動書庫を設置してトータル百万くらいの見積もりで業者に問い合わせた。想定収納量は文庫本換算で2万冊強。書庫+本でおよそ4トンくらいか。

 移動書庫は高かった。設置費を含めてそれだけで百万を軽く超えるという。五十円百円で買った本を並べる器としては高価すぎる買い物に思えた。かといって固定式の書庫にすると、面積の6割以上を通路にとられる。1万数千冊では、一間ぶっつぶすのはもったいなすぎる。

 頭を捻って考え出したのがキャスター付きの移動本棚。900W450D220の移動型。複式11段にして、裏表それぞれ2列に文庫本を並べて置く。1段200冊弱入るので、1台あたり2000冊。計算上では一列7台で2列。計14台が収納可能で、これに壁際片面に固定書架を置く。普段は隙間なくびっしり詰め込んでおき、必要に応じて2台抜き出して、書架を見る空間を作る。計算では3万冊が収納可能になる。実際には文庫以外の本も置くから2万5千冊といったところか。

 一応見積もりをとってみたら、やっぱりかなりの金額になる。床の補強や照明の設置の仕方もさることながらキャスターつき書棚がそこそこかかる。それでも将来増加分を含めて3万冊ならまあ許されるかと思いながら仔細を検討していくとたいへんな問題点に気がついた。
 遅まきながら計ってみると移動棚1個に乗る本の重量が460kg。これに棚の自重を加えればへたをするとひとつ500kgを超えてしまう。キャスターが果たして持ちこたえることができるのか。かりに持ちこたえたとして、ほんとうに移動させることができるのか。今仮になんとか動かすことができたとしても、70歳になった時点でも動かすことができるのか。業者の方もぼくの方も書棚込みで300sくらいの感覚でいたのである。
 1台あたりの重量を減らすしかない。天井との兼ね合いで無駄の少ない220Hまでの高さについては維持したい。複式にして文庫2冊がきっちり入る奥行き450Dを23センチにすると、あまりに薄っぺらくて倒れそう。ならば動かすところは横幅の900W。これを600Wにして全21本。費用はさらに上がるし、ほとんどジグソーの世界である。

 業者さんも難色を示した。細長い煙突のような書架でしかもキャスターつきとなると、転倒防止の保証ができないとのこと。やめたほうがいいですよ、といわれた。
 それだけではない。
 床の補強の話のとき、「本はけっこう重いんですよ」「駐車場とかは5.5トンの耐荷重が要求されますけどそれくらいですかねえ」「うーん、もしかしたらそれくらいいるかもしれない」なんて会話をしていたのだけど、単純計算で9トンになる。ふつうの民家の一部屋にそんだけ重さを加えて大丈夫だろうか。少なくとも、床の補強に関しては一から見直しする必要があるようで、業者さんも難しい顔で帰っていった。

 この数字、ぼくにとって別の意味で衝撃があった。
 うちの本は今現在、全部2階にあるのだけれど、だいたい3トンくらい、多くてせいぜい3.5トンという見積っていた。たいへん甘い見積りだった。
 5トンは確実にある。古い家の2階に5トン。
 5トンはやっぱりやばいだろう。
 値段がどうのと言っている場合でない気がした。
 6畳間書庫計画はやっぱり進めていかなければならない。(以下続報)


北方謙三『水滸伝 1〜19』 ★★★★
 累計500万部を突破する、これだけの長さの本としては異例のベストセラーである(そうだ)。もっとも茅田砂胡や『ゼロの使い魔』『彩雲国』を読んできている立場としては、本の充実感からすると、たった500万部しか売れていないのかという無念だったりする。 
 腐敗を極める宋の役人に非道い目に合わされたり義憤を抱いた108人の好漢が梁山泊に集って旗揚げするという『水滸伝』。基本的には義憤=行動の直情径行の義士たちが将来的な展望もなく宿命のまま群れ集い、その一人一人の卓越した能力で官軍に伍して戦う話である。卓越した力をもつ108人の宿星が群れ集うまでの個々人のエピソードが並列的に魅力的に語られて中国4大奇書の一角を占めているわけだけど、正直それほど楽しんだ印象はない。
 それを基本ラインを崩さずに力強く様変わり再生させた技量は凄い。
 北方謙三はこの物語を、巨大国家宋と戦うため、地に潜り、機を狙い、人を集め、資金を蓄え、兵站を組織する革命集団の物語に組替える。宋江を「替天行道」を著した思想家にして梁山泊の精神的支柱に、晁蓋を戦闘集団としての梁山泊のリーダーに据えた。宋江=カストロ、晁蓋=ゲバラのイメージだという。巨大国家宋はむろんアメリカである。そして位階第三の慮俊義は闇の塩ルートを確立し、梁山泊が何年間も宋と伍してた戦える軍資金の調達者である。
 きちんとした物語として整合性をもたせるために、そして、宋という体制と梁山泊という組織との集団による全19巻一瞬の緩みもない横綱相撲を演じさせるために改変は多岐にわたる。花和尚魯智深は暴れ者のイメージが消え失せ、各地を巡り、つなぎを重ねる思慮深いオルガナイザーとなり、方士公孫勝は妖術使いではなく、闇の暗闘を繰り広げる致死軍を統括する忍びの統領となる。『金瓶梅』の主役たる播金蓮など武松と兄への愛の板ばさみで自死する貞淑な人妻に変貌する。百八人は勢ぞろいすることなく次々戦死していき、かわりに青面獣楊志の養子楊令を筆頭に次世代のメンバーが登場する。(かれらは生き延び続編『楊令伝』で死んだ親たちに代わって活躍する)。原典巻頭で消え去る元禁軍武術師範王進による隠遁先子午山における梁山泊関係者の再教育の発想も秀逸。
 そして最大の創作は、だれもが指摘するように宋の秘密機関「青蓮寺」の設定である。宋の腐敗を食い止めるため改革を断行しようとして旧勢力につぶされた王安石の想いを抱きながら、宋国の秩序維持を目指す闇の国家機関である。
 物語の前半は、『水滸伝』本来の物語を語るなか、塩の闇ルートを探る中で梁山泊の気配を感じ取った青蓮寺と梁山泊の暗闘が中心となる。各地各人のエピソードも闇塩ルートの攻防をめぐる話の中で有機的に関連づけられていく。

 傑作といっていい。『楊令伝 1〜5(未完)』を含めて3週間、この本だけを読み続けた。『シュピーゲル』とか『彩雲国』の新作を買ってきたまま棚上げにして読み続けた。原典が原典だけによく考えるととんでもない表現(たとえば、林沖の騎馬が敵軍に飛び込むと敵兵の体が十数人宙に舞う、とか)がどんどん出てくる。それが全然誇張に感じられないところなど、相当の筆力である。19巻全体の半分、最後の数冊にいたっては7割近くがただひたすら戦争シーンに費やされ、そこに文章的なゆるみはほとんどない。読み終えたときにはくたくたになったけど、くたくたになるまで読んだ体験自体がひさしぶりである。

 しかし傑作といいながら、評価は星4となってしまった。大きく2点のひっかかりが残ったところにある。
 まずひとつは文体。北方謙三を読むのはじつははじめてなのだけど、読み出してまず感じたのは文章から作者の色や情感がまるで受け取れないことだった。
 文章が下手だとか、砂を噛むようなとか、そういう意味ではない。先にも書いたように筆力という意味では凄いのだ。百人を超える登場人物がきちんと書き留められ、それぞれの生き様死に様が印象的に書き分けられる。ただ、作者にとって文章とは物語や構想を語るためのもの、思いや志を乗せるためのものでしかないと感じたのだ。語りで楽しむ、語りで遊ぶ、といったところがない。それはキャラクターについても同様で、小説の中心はあくまで構想された物語が語られることが中心で、登場する人物は仮託された過去と人生観を語るための存在でキャラとして愛されている感じに欠けた。唯一の例外が黒旋風李逵。このキャラに関わるときだけは、文章のはしばしに作者の愛があふれるのが感じられた。もちろん19巻の長丁場である。出ずっぱりの常連メンバーには少しずつ想いが乗っていくのだけれど。まあ、100を超える人間の生き様死に様を律儀に書いていく物語である。情が濃くなると暑苦しくて読めたものではなかった気もする。
 そんな思いを抱いた理由もラノベばかり読んでいるからかもしれない。『水滸伝』と比較してあらためて、ラノベの内容のひ弱さ、結構の脆弱性、構想の杜撰さといった部分に思い当たったりもしたのだけど、そうした中身の薄さや筆力のなさに代わるものとして、文章部分に刹那的な読む楽しさをまぶす手法というのがラノベ文化のなかではそれなりに育っているのではないか。キャラ萌えなどもむしろそうした文章技法の一環であるのかもしれない。くりかえすが文章のうまいへたではない。あくまで文章文体というところに作者が求める役割だ。筆力文章力はライトノベルよりはるかにうまいし格調にあふれている。
 もう一点は評価の高い多岐にわたる改定部分。前情報を仕入れすぎたせいもあるかもしれないけれど、『水滸伝』を現代小説に組替えようとした場合、わりと「想定の範囲内」の改定作業という印象がある。たとえば青蓮寺という敵組織の設定など、裏打ちの厚みは敬意を表するものであるにしろ、ミステリ・ジャンルで密度の高い作品を著してきた作家という経歴からすればわりと簡単に発想できる設定であったと思える。そして組織対組織の集団戦が想定されたところから多岐にわたる改定は知的な構想の積み重ねの中から意外と演繹的に紡ぎ出された印象がある。
 実際、様々な改定の大半について、作家的心性の発現によってなされたという感じがあまりしなかった。知的に突き詰めていったプランナー的発想のような気がした。ここでぼくが作家的心性の発現と感じたのは子午山の王進や、百八人が勢ぞろいできないところなど。逆にプランナー的発想と見えるところは、青蓮寺や闇塩ルート、公孫勝の致死軍、オルガナイザー魯智深といったようなもの。それが悪いといっているわけではないんだけどね。これまで読んできた作家と較べて微妙に違和感が残った。
 念頭にあるのは、陳舜臣の『秘本・三国志』。中国への仏教伝播の思いを秘めた放浪集団を設定し、かれらの視点から魏蜀呉の争いにからんでいく。馴染みの『三国志』がまるで異なる風景で展開されることに衝撃を受け夢中になった。あのときみたいに読み終えたあとまで尾を引く衝撃がなかった。引き比べてしまう分評価が少しおとなしくなった。

『楊令伝 1〜5』(未完)★★★★
 宋江の死で終わった『水滸伝』の続編である。北で金国の勃興と侵攻、南で宗教集団による叛乱、そのいずれにも梁山泊による関与がなされる中、梁山泊の生残り組が、青面獣楊志の子、楊令を頭領に迎えて再度宋に牙をむく。『水滸伝』がわりと余韻の少ない終わり方をしたせいと、登場人物の大半は顔なじみのせいであんまり別の話を読んでいるという感じがしない。ただ、戦争規模が『水滸伝』より拡大し、楊令のキャラも宋江・晁蓋・林沖を兼ね合わせたみたいなスーパースターでありすぎて、前作に較べるとスケールを広げすぎた粗造りの印象がある。
 しかし、なんだろう。ぼくには傑作を読むと、この傑作に辿り着いた作家の軌跡が気になって、読める読めないの問題は残るものの、その作者の他の作品をかき集めようとする性癖があるのだけれど、北方謙三に関してはいつものような衝動が発動しない(それでも何冊かは買い集めた。『楊家将』『武王の門』『悪党の裔』など)。そのへんの気持も『水滸伝』の評価星4つにつながっている気がする。

田中芳樹篇訳『岳飛伝』★☆
 『楊令伝』の宋軍に聞き覚えのある名前がある。『岳飛伝』をぱらぱらめくると『楊令伝』で見覚えのある登場人物がどんどん出てくる。しかたがないので読んでいる。北方本のような翻案ではなく、古典の翻訳本である。語りが退屈。


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