内 輪   第226回

大野万紀


 新型インフルエンザの騒動はいつのまにか終息してしまったようですが、騒動は終わっても新型インフルエンザそのものが終わったわけではない。やつらはまだそこにいて、機会をねらっている、というわけです。油断大敵。アメリカでは100万人が感染しているというし。
 あのかたくななまでに電脳化を拒否していた水鏡子が、ついにインターネット環境を構築。何か大変なことになりそうな悪寒、いや予感がします。いよいよサイバーがパンクだぁ。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『レインボーズ・エンド』 ヴァーナー・ヴィンジ 創元SF文庫
 アニメ「電脳コイル」を見た人なら、本書の世界もイメージしやすいだろう。日常の現実の上に、何重にもオーバーレイされた仮想現実のレイヤー。それがすごく自然に描写されている。とはいえ、そういうものだと思って読まないと、アニメならともかく言葉だけだと本当にわかりにくい。コンピュータやネットワーク関係の用語(そのままではなく、意味が拡張されている)や、未来の俗語なども説明無く出てくるので、なおさらだ。〈シンギュラリティ〉の提唱者ヴィンジのヒューゴー賞受賞作なのだが、本書はシンギュラリティものではなく、その一歩か二歩手前の物語。メインのストーリーはアルツハイマーから回復した意地悪爺さんと、その孫娘の冒険。この近未来の新しい世界に生まれ変わった、元詩人の爺さんが、子供たちや、同じような老人たちと一緒に学んで職業訓練する学校での学園ドラマでもある。何しろクライマックスはその学校の学習成果の発表会(ちょっと「ビューティフル・ドリーマー」の永遠に続く文化祭のノリもある)。もう一つのメインが、図書館の書籍をデジタル化するのに、いったん裁断してしまうという計画と、それに反対する勢力との図書館戦争。互いにネット内で味方を集めて、リアルとバーチャルの両方のレイヤーで全世界注目のもと、大騒ぎする。爺さんたちも地下に潜って大冒険。そしてそれらのさらに背後にあるのが、何と人類のマインド・コントロールをたくらむ悪党と大国の諜報機関の暗躍。そんなのがからみあって、お話はかなりややこしいのだが、なあに、じじいと孫娘の未来の日常生活を中心に見ていけば(「電脳コイル」では婆と孫娘だったね)、その他はあまり気にする必要のない背景情報にすぎない。狂言回しのスーパー・ハッカー〈ウサギ〉や、仮想人格を乗っ取られる学生さんなどが、なかなか面白い。ストーリーはほとんどギャグなのだが、ベースの設定は相当に緻密でハードなので、悪ふざけというよりは、やはりこういうのが「今の未来」なのだなあと思う。向井淳の解説はとても適切だ。

『恋文の技術』 森見登美彦 ポプラ社
 書簡体小説。手紙だけで構成されている。著者の分身のような主人公の院生が、クラゲの研究で修士論文を書くため能登半島にある実験所で半年暮らす。そこで文通武者修行と称して、京都にいる友人、先輩、家庭教師をしていた小学生、受験生をしている妹、そして大学の先輩でもある森見登美彦に手紙を書く。その内容から、読者は彼らの人間関係、ネットワーク、学生生活、性格や癖までが浮かび上がってくる。基本的に、おバカで楽しく、ちょっと切なくて不安な学生生活の思い出が蘇ってくる、懐かしく楽しい正当なユーモア小説なのである。確かにこんな連中いたよなあ。大塚さんみたいな女傑(というか面白主義者のわるもの)もいたなあ。ごく短い描写の中で、能登の四季の移り変わりが目の当たりに描かれ、京都の風景や、昔から変わらない研究室の学生たちのバカ話、ほんわかとした(あんまり今風でない)恋愛が描かれる。登場人物たちはみんな頭が良く、愉快で、おバカだけど馬鹿じゃない。男はみんな妄想癖のあるぼーっとした性格(マッチョ志向の鬼軍曹を除く)で、女は(子供も)みんなほんわかとした可憐で包容力のあるタイプ(これも研究室の支配者の、いちびり女王――他の作品だと女神様だ――を除く)で、ある意味リアルではあるが、みんな著者の分身であり、おまけに主人公の目を通してのみ描かれるので、ファンタジーな人物たちである。これはこの小説の弱点でもあるが、むしろ魅力にもなっている。登場人物たちがみんな魅力的なので、ぜひとも映画かテレビドラマで見てみたい。まあドラマ化するには構成がちょっと難しいかも知れないけれど。とても楽しい読書体験でした。でも、それはそれとして、主人公は(著者は)、おっぱいおっぱい、言い過ぎ。

『多聞寺討伐』 光瀬龍 扶桑社文庫
 扶桑社文庫から日本SFの名作を復刊するシリーズが出た。とはいえ、この『多聞寺討伐』は昔ハヤカワ文庫から出た同名の短編集の復刊ではなく、かなり重複しているが新たに編み直した〈時代劇SF〉集である。単行本未収録の1編を含む11篇と、ハヤカワ文庫『多聞寺討伐』の「あとがきにかえて」が収録されている。まあ、光瀬龍といえば宇宙SFだが、歴史SF――というか、捕物帖など時代劇の体裁をとった作品が多いので時代劇SF――も数多い。あらためて読み返したのだが、SFとしてはきわめてストレート、古い作品が多いせいか、タイムパトロールと時間犯罪者の戦いや、宇宙人がUFOでやってきたり、といった話があまりひねりもなく扱われている。ただし、視点はあくまで江戸時代や過去の時代の人々にあるので、それは奇々怪々な出来事、ホラーやオカルトなものとして描かれているのだ。傑作「多聞寺討伐」にしても、SFとしての結末はあるのだが、おどろおどろしい雰囲気の時代劇ホラーとして読める。作者は時代劇が大好きだったということで、江戸情緒や過去の人々の口調や生活描写がいかにもそれらしく、イキで、味わいがあって、面白い。どの作品もそういう意味では読み応えがあるが、SFと時代劇のバランス感としては「多聞寺討伐」、キャラクターの魅力では「歌麿さま参る 笙子夜噺」が抜きんでている。いずれも実写で見てみたい気もする。

『エッジ』 鈴木光司 角川書店
 去年の年末に出た本だが、色々と評判を聞いてしまったものだから、読むのが遅くなった。SFに出てくる科学について、SF的な超科学とトンデモ科学の違いは、SFファン(特にハードSFファン)にとってほとんど自明なものなのだが、いざ説明しようとするとこれが難しい。結局は語られるアイデアそのものより、語り口や(科学に対する)作者の態度といったところに判断基準を求めざるを得ないようにも思う。本書の場合、作者はおそらくはオカルトよりも科学に敬意を払って、科学的なイメージャリイを重視しようとしているように思える。にもかかわらず、残念なことに、本書で描かれる科学はSF的に納得できるものというより、はっきりとトンデモの方にシフトしている。冒頭、コンピュータが計算するπの値が途中から全て0になるというシーンが描かれる。世界中で多発する異変の一つとして、宇宙的に異常な現象が起こっているというとても興味を引くシーンだが、πの数列がある範囲で何かメッセージを伝えたりするのと、無理数が有理数になるというのとでは根本的に異なる。どうやら、重力加速度や光速度といった物理定数の変化と同じレベルでとらえられているようすだ。いきなり突っ込みたくなるところではあるが、しかしフィクションとして書かれている限りは、トンデモ科学だって何ら問題なし、というのがぼくのスタンスだ。ホーガンだってへっちゃらだものね。本書の場合、世界各地で起こる謎の失踪事件と、それを追うフリーライターのヒロイン、彼女に恋するテレビ局のディレクター、18年前に失踪したヒロインの父といったキャラクターと物語が、緊迫感をもって結合し、それに宇宙的な異変が関係しているとわかってくる展開など、抜群に面白い。特に上巻は文句なしにぐんぐん読める。下巻に入るとちょっと一本調子になってペースが落ちるのだが、それでも面白さは持続している。ところが――うーん、何でこんな話になるんだろう。この結末の付け方はそれまでの話からして違和感がある。著者はやっぱりSFを書こうとしたんじゃなかったのか?

『ルナ・シューター 3』 林譲治 幻狼ファンタジアノベルス
 完結編。本書でも、月面でのラミアとの激しい戦闘が描かれるのだが、その一方で本書のメインには、主人公の涼と、ラミアのスーパーコンピュータ上でシミュレーションとして蘇った、涼の元恋人、樹里との対話がある。このシミュレーションは「意識」をシミュレーションしているのではなく(ラミアにはそんなのわからないから)、人間の分子構造からコンピュータ上に組み上げていったものらしい。もちろん、彼女は意識をもち、生きているといっても良く、涼との過去の記憶や、様々な感情もある。しかし、彼女は「ヒト」なのか。どうやらラミアともある程度コミュニケーションでき、いくつかの機材を操ることもでき、人間の心理や行動を理解し、しかも大変な野心家であるらしい彼女は、果たして人類の味方なのか、それとも敵なのか。人類側はある決断を行い、ラミアとの限定的だが激しい戦争は、ついに最終局面を迎える。よくある人工知能やコンピュータ上の意識の問題を、独特の切り口から扱っており、読み応えがある。最後には、どうして人間はやらなくてもいい戦争をやってしまうんだろう、と、じっくりと考えさせられる。作者はあとがきで「謎の円盤UFO」が背景にあるように書いているが、非常に限定された環境での異星人との戦争ということでは、ぼくは「戦闘妖精雪風」を思い浮かべた。最終的に戦闘よりも機械知性や意識の問題がクローズアップされるところも同じような印象を受ける。


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