ウィアード・インヴェンション〜戦前期海外SF流入小史〜025

フヂモト・ナオキ


フランス編(その十五) モーリス・ルナール&アルベール・ジャン/渡部尚一訳『影の秘密』Le Singe

 モーリス・ルナール Maurice Renard(1875〜1939)といえばフランス古典SFの大物。文学史でも昔からSFもの、ったらロニーあにぃとルナール叔父貴にちょいと触れてお茶を濁すことになっている。というかアンドレ・ビイはそーだったな。
 もっとも邦訳には恵まれておらず、代表作Le Peril bleuをパクった(翻案?)Up aboveをJohn N. RaphaelがPearson's Magazineに1912年に発表してるのを、三津木春影がすかさず翻案したってのが注目されるぐらいか?
 Up above、全然手に入らんと思ってたら、数年前にジョージ・ロックの御大がアンソロジー作ってリプリントしとったの? 今頃気づいてもどこにも売っとらん。たはは。

 さて、知られておる唯一の長編邦訳はアルベール・ジャンAlbert Jeanとの合作。出だしが出だしだけに、なんじゃそりゃと飛びついた日本人は多かったものと思われ。
 飛びついてしまった大下宇陀児先生の一文を引こう。

「"Blind circle" by Maurice Renard and Albert gean. 表紙に、"A mysterious tale"といふ文句と、もう一つ"Four bodies of the same IDENTICAL MAN!"といふ文句があるので、商売柄早速買つて来たのだが、パリの或るアパアトに妻君と二人きりで住んでゐる宝石行商人が、或る時、同時に四つの場所で死んでゐたといふ話である。最初には、そのアパアトの階段を登り切つたところで死んでゐるのを発見され、細君だの友人だのが大騒ぎをしてゐると、警察から同じ人間が情婦のところで死んでゐるといふ知らせが来る。二つの死体を並べて見ると、どちらも同じ人間であつたが、すると又第三第四の報知があつて、結局この四つの死体を解剖までやつて見るが、容貌や体格ばかりではく、凡ての個人的特徴が一致してしまふ。――どんな解決がつけられてゐるか、実をいふと、まだお終ひまで読んでゐないのである。」

 大下先生が最後まで読んだかどうかは不明。というのもこの英訳大変評判がよろしくない。
 ブライラー先生は、翻訳として、っーか、英語としてどうよ。とか書いてるし。
 渡部尚一訳「影の秘密」を掲載した<新青年>昭和2年2月増刊号の後記は以下。

「WOW! 先づ第一に之は又一段と声を大きくして、堂々二百枚の巨篇「影の秘密」を見て戴き度い。読んだら何とか言つて貰ひ度い(と云ふ迄もなく、WOW! と来ること必定)全然同一の死体が全く異つた四ヶ所で発見される、その戦慄! 最初の二十六頁を読んで、後の頁をめくつて見たくない人があつたらWOWだ。そのために、故意と二十六頁以下を区切つて巻末に持つて行つてある所以です。本格物の味を心ゆくまで満喫して頂き度い。」

 このくだりJ・MさんやなくてS・Uさんの署名なんやけど上塚貞雄担当作品やったの?
 実際の所は巻頭に掲載されているパートは、メロドラマっぽいシーケンスが続き、死体も二つしか出てこーへんので、後半までたどり着けず、息切れして倒れてしまった読者多数説。
 クロード・シリュグは友達のエリック・アルバンの妹マグザンスに惚れて婚約まで行くんやが、この娘さんは、クロードの兄貴のリシャール・シリュグにあったとたんこっちに惚れてしまい婚約解消。リシャールは妻帯者で、その嫁のシャーロットにエリックはぞっこんという、ややこしさ。
 そのリシャールの死体が出てきたので、形としては万事解決なんやが、その死体が一つではなくて四つ、ってのが問題。って、これ本格物ですか。
 SFといって紹介しているところですっかりネタバレですけど、でも、ミステリやと思い込んで読んでたら、激怒するやろ。

 問:なんで四つ?
 答:こっそり立体コピー機開発しますた

 表向き宝石商のリシャールは、宝くじで大金がころがりこんだので、それで物質コピー機の研究をはじめちゃったんですね。ありがちありがち、いや成程。って、納得すんのかよ、<新青年>の読者は。

 なんとなく勝手に英語経由の翻訳だと思い込んでいたんやが、改めて目を通すと、英語で読んでたらRichardをリシャールじゃなく、ついリチャードって訳してしまう気が。
 この渡部さんが何者なのかよくわからんのだが、<新青年>で渡部尚一となると、思い当たるのは大正13年にアーサー・リーヴの『拳骨』の科学考証の記事を書いていた工学士の人ぐらい。あと、大正の末にロサンジェルスから森下雨村に手紙を書いて来た、渡「辺」尚一さんってのもいるが、さてこの三人のワタナベ尚一さんは同一人物? でも、フランス語からの訳だったとすると、お手紙の人は繋がってないと見るべきなのか。
 「影の秘密」だけに、もう一本、渡部尚一名義の原稿があって、そこに全ての謎が、という仕込みがなされていたりすんのかっ。是非、捜し出して御一報を。

 あと、「クリシー街の遺書」の脚本化をロルドといっしょに手伝ってグラン・ギニョル座に出したとかゆーアルベール・ジャンについては全然調べられてません。

 以下に目を通したことのある邦訳作品をリストアップ。

 戦前および今のところネットでの言及が全然見当たらない占領期の邦訳作品について触れておこう。
 「静かなる嵐」は、ルナールっぽくなく、普通に男女の機微を書いたといって良いような代物で拍子抜け。一方、「クリシー街の遺書」はエドガー・アラン・ポーだと思ったね。
 「ブーヴァンクールの奇妙な運命」となるとSFといって良いだろう。透明化の薬品を研究していたブーヴァンクール氏は、その薬液の服用によって菫色の光?に包まれた状態になる。そいでもって、なんと鏡の中の世界へダイブ。
 後の二作は悪くないので、機会があれば是非。

 占領期の二作はどちらも二頁の掌編。「罹災地に聴く」は一応スーパーナチュラルなんやが、短い過ぎてなんとも。「三十年」は「静かなる嵐」系統やね。


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