みだれめも 第203回

水鏡子


□1ヶ月の書籍購入 206冊36,308円という馬鹿なデータを前回載せて、さすがに今月は費用も冊数も前回を下回るだろうと思っていたら、リストを終えた次の日(6月27日)に2万円を超える出費が待っていた。新刊は高い。

・北村寿夫『新諸国物語』全2巻14,280円
・東雅夫編『屍鬼の血族』(B本)1,181円
・ミエヴィル『ジェイクを探して』1,029円
・マーチン、ドゾア、エイブラハム『ハンターズ・ラン』1,050円
・ブレイク『地球最後の野良猫』903円
・五十嵐太郎、磯達雄『ぼくらが夢見た未来都市』945円
・SFマガジン8月号 939円

 北村寿夫『新諸国物語』が元凶である。昔講談社から「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」の代表作3つを集めたソフトカバー大判の合本が出ていて、けっこうほしがっていた。あのころは定価2000円ちょっとの本が内容と照らし合わせて買えなかったんですがね。完全版とはいえ5倍を超える定価の本書を、いま拾っとかないと後悔しそうで衝動買いする。金遣い、モノ集めが荒くなっている気がする。ノスタルジー本だから、中味についてあまりひとに勧めるまでのものではないのだが、知らない人も多そうなので簡単に説明する。もともとは昭和27年というぼくの生まれる前の時代に始まったNHKラジオの少年向け時代伝奇ドラマで大人気を博したシリーズである。
 格下の映画会社であった東映は昭和29年にシリーズ代表作である「笛吹童子」「紅孔雀」を映画化、空前のヒットを飛ばし一躍業界トップにのし上がり、その後の昭和30年代東映時代劇黄金時代を現出する。
 当時映画は最大大衆娯楽であった。東映時代劇を中心に、ぼくは幼児無料の恩恵で、子育てをだしにした父親に連れられ、毎週のように映画館連れていかれた。
 おまけに、そのあと貸本屋にも連れていってもらっている。今から思えばみごとに父親の趣味を引き継がされた気がする。

 さて、この少年向けラジオドラマ→映画化大ヒット→東映時代劇黄金時代(これにゴジラに代表される東宝特撮映画が加わる)、さらにそこに、時代小説の空前のブーム、そこから転回した五味康祐や山田風太郎の忍法小説ブームという大衆文化の発展と受容のされかたは、なにか連想されないだろうか。今のおたく文化、ラノベ文化とおんなじパターンではないか。アイドル系や現代もの系も百花繚乱、吉永小百合らの青春路線や小林旭らのアクション路線とそれなりに選択の幅があったが、どうもうちの父親は、虚構性の高い方が趣味だったようだ。父親が会社の図書室から借りてきた〈子供が読んではいけない〉大人向けの小説を、こっそり盗み読みするというのが小学生なかばのころのぼくのひとつの自覚的悪徳行為であったのだが、エロを期待して読んだはずなのに、けっこう真面目な父親でそちらの期待は、満たされなかった。盗み読んだ憶えている本は2冊だけ。1冊は島田一男で、当時のスパイ・ミステリ系連続ドラマの原作本。もう1冊はなんだかぼーぼーばくばくしていて小学生にはよくわからない『たそがれに還る』という本だった。ヒロ18とかいうヒロインに大人向けの本の女性はこんなふうなんだと激しく誤解をした記憶がある。

 話がすこしずれたのだけど、『新諸国物語』の実体験はTVドラマ版である。
ただこのTVドラマは時代的にぼくの少年期のはずなのに、微妙にぼくの視聴体験とずれている。「紅孔雀」「白鳥の騎士」、外伝「風小僧」を楽しんだくらい。関西エリアの放映がきちんとカバーされてなかったみたいで、「笛吹童子」の評判などむしろ児童雑誌の特集で、憧れを刻み込まれたような気がする。ちなみにこのころ夢中になっていた少年時代劇は、「変幻三日月丸」「竜巻小天狗」「天下の暴れん坊」「怪傑鷹の羽」「琴姫七変化」「風雲児時宗」「風雲真田城」「隠密剣士」といったところで、みごとに時代伝奇系それも忍者もの(というより忍術使い系)に特化している。ちがうのは「琴姫七変化」「風雲児時宗」くらい。小学校に上がったあたりであるというのにほとんどの作品の主題歌がいまでも歌える。ちなみに「変幻三日月丸」は当時大人気だった「スーパーマン」と同時間帯で、チャンネル争いで負けてなかなか見られなかった記憶がある。小さい僕はSFファンであるよりも、時代伝奇のファンであったということだ。

 昭和31年『柳生武芸帳』、昭和33年『甲賀忍法帖』『梟の城』、昭和35年『赤い影法師』と、忍者が主役を占める時代小説がブームとなるのだが、ここに尾崎秀樹の非常に興味深い指摘がある。(「忍法ブーム その基底にひそむもの『大衆文学論』所収」)

 氏によれば、この時代の忍法ブームは第3のブームだという。カブキ演出に新しい転回の見られた文化・文政期にひとつのメルクマールがあり、大正期を中心とする昭和にかけての一時期に、立川文庫から大衆文学への忍術小説・映画の興隆があったのだという。
 うーむ、文化・文政期ですか、カブキですか。射程圏外の指摘を受けると、基礎教養の欠落に忸怩たるものが生まれるのだけど、ここで尾崎秀樹が3つの時代の共通項として指摘しているものが面白い。彼に言わせると「だいたい忍術ブームはマス・メディアの更新期に起こる傾向がある。」というのだ。
 SFの活性化は現実社会における情報爆発と不即不離にある。ならば、この指摘は忍法小説とSFの縁戚関係を示唆するものかもしれない。

「新諸国物語関連年表」というのを作っていたのだけど出来あがらなかった。脈絡なく次回載っけるかもしれないけれど、ポシャる可能性が五分。期待しないでお待ちください。

□学生時代からの知り合いで渡辺さんという同志社SF研のOBが、うちから自転車で5分くらいのところにいる。幻想文学寄りの趣味嗜好で、昔、創土社から出たクラーク・アシュトン・スミスの短編集などに関わったりしているけれど、ファン活動もほとんどしてなく、基本は読書家、蒐集家。古本屋回りさえあまりしない。高いハードカバーを定価でいっぱい買っている。出版関係者にとって神様みたいなありがたい人である。この人が、家を新築した。建てるにあたって、うちのを参考に平行移動書庫を設置した。6畳一間に除湿機しかつけていないうちの貧乏書庫と違って、16畳ぶちぬき、冷暖房完備、部屋の一角には書斎スペースを設置した豪華仕様。うちの場合は、レール部分にコンクリートの橋げたをつけただけだけど、新築でもあり、またあまりにも重たすぎるということもあって、床全体をコンクリートを敷き詰めて補強したとのことである。ライトノベルなどほとんどない。せいぜい1千冊あるかないかといったところ。古本屋を経由したものが少ないだけに、とにかく本がきれい。
 それはまあ、それだけの金をかけて集めたものだから、とやかくいうこともないのだが、一点だけ許し難いことがある。

 棚の高さがすべて規定値のままなのである。

 つまりSFマガジンを並べることのできる書架に文庫本が並んでいる。それができるだけのゆとりがあるとかないとかいう問題ではない。書架というのは可能な限り、本がさきざきたくさん収納できるよう工夫をこらし、将来構想を含めた余剰空間を作り出していくものであり、そうして生み出された余剰空間を埋めていくべきものである。変化に富んだ起伏をつけていってこそ、書架にも並んだ本と同様個性が付与されていくのであり、おなじ高さの本棚が機械的に並んでいるというのは書架を単なる〈もの〉としてしか認めていないということになる。書架本体にも個性の付与を。それが書架に対する持ち主の誠意であると思うのだ。

 変だろうか。
 変だろうな。
 うん。絶対に変だ。


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