ウィアード・インヴェンション〜戦前期海外SF流入小史〜041

フヂモト・ナオキ


ドイツ編(その十四) ベツヘル/辻恒彦訳『銀行家が戦場を馳駆する』Der Bankier reitet uber das Schlachtfeld(1926)

 本作『銀行家が戦場を馳駆する』(『新興文学全集18』平凡社、1928年所収、後「世界プロレタリア傑作選集」の一冊として1930年、独立した形でも刊行されている)を「一種のデカダン文芸、世紀末SFなのである」(『プロレタリア文学はものすごい』平凡社、2000年、239頁)とSF認定したのは、おそらく荒俣宏御大がはじめて。

 このベッヘルJohannes Robert Becher(1891〜1958)、ドイツ語のカナ表記が変化して戦後はベッヒャー表記で知られることになった文学者なわけやが、東ドイツの文化大臣になって国歌(廃墟からの復活)の作詞をするまで登りつめててしまったせいなんか、はたまたホントに忘れさられてしまったんか、戦後出ているベッヒャーの単行本では『銀行家が戦場を馳駆する』が訳されていた話は完全にスルーされとる気が。いや大体、荒俣先生もよくわからん無名作家扱いで、原作もよくわかっていない模様(ラスト、原作通りっすよ、旦那)。

 ベッヘル/ベッヒャーでSFゆーたら(CHCl=CH)3 as (Levisite) oder der einzig gerechte Kriegのはず。
 で、探すと、その題でDer Bankier reitet uber das Schlachtfeldもひっかかってくるので、同じ作品の副題やろ、とずっと思いこんでいたんやが、買ってみたら、何っ。別物っ。

 戦争モノということで伝統的にカップリングされとるんで、ひっかかってくんのか〜。

 さて読んでみると、実際のところ、SFとして楽しめる作品かというと微妙〜。
 第一次大戦終了直後の、未だ血もしたたり、死臭の漂うようが如き戦場跡が観光地として見世物化されている様が、廃墟のただ中に国際コンペで造られた五十階建の「世界大戦ホテル」、はたまた「戦場利用株式会社」などというハッタリの効いた代物を配して語られるわけだが、現代では戦争遺産・戦争遺跡というコンセプトが確立されているし、その遥か以前に戦跡探訪というツーリズムも成立している。
 本来あった勝利と栄光の追体験ではなく、凄惨な殺戮現場を訪れ、地獄絵図を目の当たりにすることが観光化されているというところが新しかったのだろうが、これはやはり本来の作者が意図したであろう、捻りを効かせた反戦小説として読むしかない気が。

 ちなみにLevisiteについては村山知義が『西部戦線異状なし』と対比して、「これに対して同じく世界大戦を取扱つた小説に、裁判事件で有名なベツヒヤーの「CHCH=CH2 As 或ひは唯一の正当なる戦争」がある。此処では憎むべきものは最大限度の憎悪をもつて、惨しい光景は最大限度の惨しさをもつて、描き尽されてゐる。毒瓦斯を吸ひ込まれて「皮膚の上には痒ゆいプツプツが、気管や咽喉には敗血性的脱疽状の腫物が出来始め、血の混つた嘔吐が出、肺は水を一杯吸ひ込んだ海綿のやうに膨れあがる」兵士達の微細を極めた描写は物凄い極みである。 私はこの二つのすぐれた戦争小説の優劣を云々しようと云ふのではない。ただ、後者にはたつた一つ、素朴さが欠けてゐる。」なんて感想を残している。

 ビミョーにタイトルが間違っているが、裁判云々は『玉座の上の屍』という詩集とLevisiteが国家反逆罪にあたる作品として大揉めになった話。Levisiteについては、創元のベッヒャー詩集だと「毒ガス反対を表明した小説「レヴィジーテ 唯一の正義戦」」、飯塚書店のベッヒャー詩集には「唯一の正義戦争としてのプロレタリアートの独占資本国家にたいする戦いを描いた小説「レヴィズィーテ・唯一の正義の戦争」」として言及されてますな。

 『玉座の上の屍』には「(CHCl:CH)3As」という詩が収録されていて、飯塚書店版に訳載されているが、同じ本に収録されているという「爆撃飛行機」も辻恒彦訳があって、やはり毒ガス攻撃な詩。ということで、これは内容的にLevisiteと密接につながった詩集らしい。

 どさくさにまぎれてに触れておくと、第一次世界大戦を予見した未来戦小説といえば未来戦小説なラムスズスWilhelm Lamszus(1881〜1965)の『人間屠殺所』佐藤緑葉訳、<近代思想>連載→単行本・泰平館書店、1914年/Das Menschenschlachthaus : Bilder vom kommenden Krieg(1912)[英訳:The human slaughter-house. (Scenes from the war that is sure to come.)]も、地を這うような凄惨な戦いを描いた小説で(一応、勝ちゃうんですが)、SFとして読むのはほぼ無理かと。

 未来戦モノ、imaginary warモノとSFは近いようで結構、溝があるのである。

 ところで『銀行家が戦場を馳駆する』を訳した辻恒彦さんってのも気になる人だが、戦後の活動がさっぱり。1899年和歌山生れで、田辺中学から五校経由で東京大学法学部に入学。同じ田辺中学出身で三校経由で東大に入った脇村義太郎の回想によれば、1921年に入学、1922年5月に休学して、ドイツへ留学。1923年末に帰ってきたという。なんでもドイツで下宿していた家の娘さんと婚約してたけどうやむやになったんですってよ。朝日新聞社におちて、外資系の会社で輸入にかかわる仕事をしていて、書籍の輸入販売も手がけていたという。

 川口浩(山口忠幸)によれば「バーマク・メグヴィンという大型器械専売のドイツ人商社に勤めていた。ドイツ語が達者なのは当然のことだが、道楽半分に店も持たずにドイツ書の輸入販売もやっていた。左翼的な新刊書、とりわけ文芸関係の図書が多かった。上落合にりっぱな家を持ち、当時としては珍しく大型オートバイをかっこよく乗り回していた」(「懐旧の時代とその人びと」)んだそうな。
 もっとも、一緒に住んでいた時期もあったという林房雄によれば「本人は商売のつもりであったらしいが、もともと紀州のちょっとした金持の坊ちゃんで、人に物をくれることの好きな親分肌だから、辻書店はたちまち破産した」とか。

 ドイツ留学時にはチャペックの『R.U.R』の舞台も見ていて、当然築地小劇場にもつながってくるのだが、雑誌などで名前を見かけるのは1930年までで、それ以降はメディアからはすっかり姿を消してしまう。本当に筆を折ったのか変名にかくれたものか。とにかく1937年には、理研入りして、そこで出世しているらしいんやが、小川信一経由で大河内正敏につながったの?
 なお五校時代のツレに佐藤栄作がいて、昭和40年代の佐藤栄作日記にも名前が出てくるらしいんで、戦後も活躍なさっておられたのではないかと思われるが、よくわからん。プロレタリア文学史の人とかで取材した人はいなかったんやろか。


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