みだれめも 第209回

水鏡子


 本の雑誌9月号;「西村寿行の10冊」の補遺。書ききれなかったこと、書けなかったこと。

 依頼された時はうれしかったのですがね。だんだん苦しくなる。ぼくの2カ月後の依頼を受けているS某も同じことを言っている。誰にしようか、誰ならできるか、作家を選んでいる時間はとても楽しい。至福の時間と言っていい。問題は作家を決めた後のこと。作家を決めた時点で選ぶ作品にある程度のめどはついているとはいえ、読み返さないと粗筋が思い出せない。読んでみると駄目だったりする。たとえば『鯱』が駄目だった。記憶の中で上位に選んでいた『安楽死』は、読み返すと主要人物の記憶喪失という設定に耐えられなかった。読んでいない作品も、じっくりは無理にしてもとりあえず目を通す必要がある。駄目な小説と見当がついている物の駄目であるのを確認する読書はわりと疲れる。S某の選んだ作家は著作の半分以上がノンフィクションで、そちらのほうも全部目を通すのだという。ごくろうさま。

 ぼくの記憶の中でだと、1970年以降の日本は、PC・携帯環境なんかはともかく、そんなに今の日本と変わらなかった印象があった。永遠なる現在という認識だった。西村寿行を読み返してみると、これはやはり違う時代の日本だった。なにより衝撃だったのは、日本が今よりはるかに〈貧乏〉だという現実だった。『蒼茫の大地、滅ぶ』の東北六県切捨ても、その背景にあるのは権力者間の確執以上に、切捨てなければ国家財政が破綻するという状況の東北、中央政府双方の一致した認識の下での、それぞれの生き残りを賭けた対立だった。今回の震災があの時代に発生したものであったら、日本の悲惨さは今の比ではなかったろうなと思った。他の作品も読みながら、今の時代と引き比べ、日本が貧乏だったのだと驚くとともに、この時代の日本ですら、現在のほとんどの国家より裕福な社会であるのだと思いめぐらす。経済的基盤というのはきれいごとですまない大切なものなのだと感じ入る。
 それにしてもあの頃は大臣というのはとっても偉い権力者だと(みんな)思っていたのだなあ。今読むと、その毅然たる権力行使が嘘臭く非現実的に見えてしまう。小説に問題があるというより、現実に問題がある気がする。困ったものである。

 選んだ10冊のうち3冊に続篇がある。読まないように。
 少なくとも、選んだ本の続篇として読むことは避けてほしい。たまたま同じ名前のキャラがたまたま同じ時代で動き回る別の話だと思ってほしい。同じ設定ですらないと思ってほしい。そうでないと、名作の感動や余韻、抒情が消し飛んでしまう。とくに『垰』。交通事故で亡くなった愛娘の手記を片手に彼女の旅した足跡をたどる抒情に満ちた作品が、第2部になると、じつは娘の死は謀殺で、日本国の闇の歴史をめぐる超能力集団の死闘に巻き込まれたためだという話になる。

 『往きてまた還らず』の伊能と中郷は、左遷されアルコールと女にうつつを抜かすダメ男になって甦る。中期・後期の寿行の得意パターンのひとつで、犯そうと、もしくは犯した美女の下僕にされてこきつかわれるダメ男たちが無手勝流で事件に突っ込んでいく、虚無的な滑稽小説である。『鯱』などもそれに近い。滑稽の底に流れているのは虚無主義である。この系統でいちばん好きなのは『日輪』宮田雷四郎で、ここまで明るく突き抜けるのは寿行の中でも珍しい。ただしお勧めするほどのものではない。寿行のシリーズものは総じて第1作がいちばんよくてだんだん壊れていくのだが、『日輪』だけは壊れ方がいい方向に出た。伊能・中郷コンビのものは『鷲』の字が冠されたシリーズで、巨大テロ組織を敵に回して全世界を走り回る。超能力をつかわないぶん、『鯱』よりましだが、僧頭保行が復活した巻(そんな巻があるのだ)などは、かれらのあまりのなさけなさに、泣きたくなる。

 傑作を書いたときに寿行の書きたかったことと、作者か編集者かが設定やキャラに惚れ込み未練を持って、書き継ごうとしたときに寿行が書きたい小説はぜんぜん別物になっているのだと思う。そこをむりやり帳尻を合わせようという所作が無残を生んだということではないか。

 ほんとうは寿行は戸川幸夫のような動物小説の作家になりたかったのでないかと思う。寿行の動物小説は高い評価を得ているが、それはあくまで「動物小説においてもすぐれた作品を書いている」という評価であって、バイオレンス・ロマンの作家の無視できない側面というにすぎない。たぶんデビュー短篇「犬鷲」の直後にそれを大きくふくらまして脱稿した『老人と狩をしない猟犬物語』がその時点で本になっていたら、学校図書館が競って購入する、気骨はあるが清廉かつ狷介な、孤高の作家になっていたのでなかったか。それもひとつのしあわせな作家像であったように思う。あの長編は、たぶん文春かどこかに持ち込んで、没にされたんだろうなあ。


かじいたかし『ぼくの妹は漢字が読める』☆+
 初刷の奥付が7月1日。評判を聞いて購入した本が7月19日3刷本。売れてるようです。
 23世紀。漢字が死語になっている世界。近代文学とはライトノベルのことであり、文学論争とは、義妹派と実妹派の対立だったりする。文学志望の少年イモセ・ギンは、義妹派の頂点に立つ正統派文学の大作家オオダイラ・ガイの知己を得、義理の妹二人を連れて彼の邸宅に赴くが、そこでタイムスリップ現象に巻き込まれ平成の日本に飛ばされる。
 物語は終わっていない。「雷のとどろく音」かなと思ったけれど、「バック・ツー・ザ・フューチャー」第1部の方のようだ。のりとしてもそっちのほう。
 設定・アイデアは秀逸だが、構成が大雑把。設定の派手さを抑え込むには全体にはしゃぎすぎで、小説の奥行きに欠ける。

 理由は後付けの部分もある。引き続いて読んだ橋本和也『世界平和は一家団欒のあとに』☆☆☆+が、まさに派手な設定を小説的に味のあるキャラの存在感で抑え込んだ作品だったから。
 父親が元勇者、母親が魔法使いの元お姫様。異世界に召喚された父親は魔王を倒すがその最後の魔法で回復役の王女とともに現代日本に送り返され、幸せな家庭生活を営む。姉貴が魔法使いとスーパーウーマン、妹が回復魔法、弟が怪力無双で、本人は生命を刈り取る能力者という超人一家。なぜか、現代日本で正義のために戦うことが運命づけられている。ちなみに彼らの祖父は世界を支配する直前までいった悪の組織の大頭目。この組織を壊滅したのが父親による最初の正義。そんな主人公たちにつぎつぎと襲いかかる地球の危機。パロディ色の強い人情ギャグ(小説としては少し困りもの)というのが先入観。
 それが、シリアスで〈地味な?〉、落ち着きのあるきちんとした〈小説〉になりうるとは読むまで思わなかった。全部で10巻。基本的に読み切りで、毎回魅力的なキャラを生みだしながら、家族以外はほとんど再使用しない、ある意味贅沢仕様。第1作こそぎこちないが作品の質はほぼ安定して高い。メインは主人公と回復能力をもつ女友達と妹(女友達と同級生)の3人。この3人に、家族や敵キャラがからんで事件が起きる構図。主人公と女友達はラノベ王道のまっとうな性格だが、妹美智乃の個性がなかなか。他のサブキャラも存在感満点で読み応えあり。

茅田砂胡『天使たちの課外授業』☆☆
 新シリーズだそうだ。(どこが)。学年が1年上がって、3人組に新顔一人が加わって、どうやら今後仕事人稼業を始めるみたい。今回の犯人は動機付けに時系列的な破綻がある気もするけれど、読んでる最中はまるで気にならない。

ナオミ・ノヴィク『テメレア戦記C』☆☆☆
 3巻目から少し持ち直した。万国巡り竜事情といった趣向で、今回は波乱万丈。使役竜の待遇改善と黒人奴隷解放運動をからめて取り上げようとする著者の心意気は評価したいし社会状況をめぐる考証も相当なものだと思うのだが、エンターテインメントの枠組みのなかで真摯に向かい合うにはかえって技量不足をみせつけられる。もう少し踏み込んだ描写や開陳、心情吐露がないと、せっかくの心意気がアリバイ工作のようにみえてしまう。第2巻の中国編の展開からも著者にとって重要なテーマであるのは間違いないところなのだが。ドラゴンたちの会話が馬鹿っぽすぎるのもテーマとの兼ね合いからは少しつらい。というより、主人公を筆頭に登場人物全般が書き割り的で馬鹿っぽい。多面的に目配りのきいた知性の勝った作風が、登場人物たちの安っぽさで、結果的に中途半端で平板に流れる。文句をいいつつ、読むのを止めない程度は好きなのだけど。

 龍つながりで榎木洋子を読み出す。これまで未読だったのだけど家の中に60冊以上並んでいるので、とりあえずリダーロイスのシリーズだけでも片付けることにした。
 元篇が手に入らない。昔持っていたのだけど、古本屋にあまりにごろごろしているので、いつでも入手できると思って、家にあるのを図書館に寄贈してしまったのだ。一部残っているのを読むと、デビュー当時の小説づくりはかなりつらいものがあるのだけれど、問題は。このシリーズ、登場人物、エピソードが密接に絡み合っていて、読み残しがあるとけっこう欲求不満が生じる。
 全体評価としては無難な作家という評価。読んどかなければという思いを抱くところまではいかないし、とくに初期の作品は紋切型が目につくけれど、無難な作家と割り切れば、物語の進め方や世界の設定、魔法のシステム化などで手堅い部分も目につき、仇役キャラへの入れ込みなどで光る部分もそれなりに目につく。ひと月40冊読んで、それほど嫌にならなかったくらいの好感がある。まあ、少しは飽きはきたけど。ひと月40冊読んで、疲れがあまりないという問題もある。長篇コミックを読むような気楽さ。
 多くの国が立地する魔法の使える中世風異世界。頂点に位置するのは神のごとき力を持つ、地水風火、四種の龍で、彼らを守龍に抱くことのできた国は栄華を極めるという設定。
 そんな世界に現代の日本から高校生が召喚されて王様になったり、国を守る麒麟、じゃなかった龍を求めて主人公らの一隊が山ん中をうろつき回ったりする話。つい戯言的に小野不由美を引き合いに出しそうになるのだけど、めざすところがぜんぜんちがう。

 一番いいのは『龍と魔法使い』本篇・続篇・外伝合わせて16冊。☆☆☆
魔法使いと人間のふりをした龍の子どもがかけあい漫才をしながら旅をし、事件を解決していく話だが第10巻で深刻な事件が起こる。そこから『龍の娘篇』にいたる巻が著者最良の部分だろう。過去に戻って歴史を曲げる大罪を犯した龍とその贖罪の物語。

 『緑のアルダ』15冊☆☆もその続篇みたいな話。龍の棲まない国に龍を連れ帰る占い師の話。
 続く『乙女は龍を』7冊☆は現代日本から召喚されて龍の長老選びを任された女の子の話。ギャグタッチを多用し新境地を目指したようだが、苦し紛れのセルフパロディみたいで世界が安っぽかった。
 最新作『ウミベリ物語』は現在2巻目まで。壊れたような歯の浮くロマンス会話を臆面もなく開陳するこれまた新趣向だが、読み応えが居心地悪くてなんかへん。失敗作になるか、一皮むける契機になるのか、現時点ではなんともいえない。 


THATTA 280号へ戻る

トップページへ戻る