続・サンタロガ・バリア  (第124回)
津田文夫


 秋たけなわということで、CDを買っているのはいいけれど、聴く暇がない。バーンスタインのマーラーはあれから6番しか聴いてないし、ゼルキンのベートヴェン・ピアノソナタ集は「月光」どまり。そこへフィッシャー・ディースカウのシューベルト歌曲集21枚を買った(何故買った)もんだから、未聴CDが増えるばかりだ。その上ELPの「タルカス」40周年記念CD/DVDやデイヴィッド・シルヴィアンのベスト盤2枚組まで加わって、こりゃ年末までCDはいらんわなあ、と思いいつつ「タルカス」リミックスを聴いて感心するもやっぱりボンヤリな音でもオリジナル・ミックスがしっくりくる老人症候群。オマケの「Oh My Father」は、構成がゆるいけれど、レイクの思い入れたっぷりなヴォーカルとギターに涙がちょちょ切れる。YouTubeで何回も聴いた曲だけれど、ステレオから流れる音のリアリティは格別です。

 9月に面白いものを読ませてもらったせいか、しばらく読みたいものが見つからず、ハヤカワJコレで唯一未読だった上田誠『曲がれ!スプーン』を読む。戯曲集だからセリフとト書きしかないわけで、表題作は読みながらやや違和感があった。でも「サマータイムマシン・ブルース」はノリがよくて愉しく読ませてもらった。なんとなく同志社だなあ、という感触があり、今はもうなくなったオンボロのSF研の部室を思い出す。ここまできちんとしたドラマにはならないけれど、変な事件はいくつもあったなあ。

 積ん読の中から次に取りだしたのは、パトリシア・A・マキリップ 『アトリックス・ウルフの呪文書』、奥付は5月だ。マキリップの魅力は三村美衣がこの作品をSFMで取り上げたときに書いてくれている。読み手との相性がよければ、マキリップの見せる魔法は本当にファンタジイそのものだ。人によっては物語づくりが甘すぎるというかもしれないが、それも含めてのマキリップらしさだと思う。ただし本書は、部分部分は最高の出来なのに、全体としては壊れている一作。
 最高の魔術師アトリックス・ウルフが、本来手を出すべきではなかった戦いに強力な魔法を使ったため、それに関わった国に歪みをもたらした上、森の女王が愛した夫と娘が巻き添えを食って夫は異形と化し、娘は行方不明となったまま。ウルフは見かけは初心者向けの呪文書と見える狂った呪文書を魔法学校に残したまま、狼となって人間界から離れている。ある日、ウルフの魔法で苦境に陥った王国の王弟で魔法学校の学生となっている青年がそれを見つけて…。
 本来なら『影のオンブリア』以来の作品となってもおかしくないのだが、どうにも物語がぎくしゃくしている上にキャラクターの魅力が十分でない。城の台所で、無口でひたすら鍋洗いをしている(この台所の描写が素晴らしい)出自の不明なボンヤリした女の子(当然、森の女王の娘)なんか、最高のキャラなんだけど物足りないんだなあ。そこここに現れる森の風景や魔法によって生じる効果の描写は素晴らしいのに。それでもこの作品が好きなことには変わりないんだけど。

 新刊も読もうかと手に取ったのが、ジョン・スコルジー『アンドロイドの夢の羊』。ジサン・バアサンが若返って戦争に行くシリーズの2冊目を読んで毛嫌いしたのに、訳者あとがきにユーモアたっぷりとか書いてあったのを見て、それじゃ読んでおこうかと思ったのが大間違い。やっぱりコイツは天敵思考の持ち主であることを再認識させられたのであった。普通のSFファンはこんな面白い話のどこがいけないのかと思うでしょうが、イケナイのである。我が倫理警報はコレを読んでいる間中鳴りっぱなしで、読み終わった後は腹が立って少々眠れなかったくらいだ。SFを読んで我が倫理警報が鳴ったのはウン十年前にオースン・スコット・カードの『無伴奏ソナタ』と『ソングマスター』を読んで以来だ。その後カードは大森望が訳した2冊と数作の短編以外読んでいない。たぶんスコルジーも2度と読むことはないだろう。

 読みにくい名前の作家第2弾という新☆ハヤカワ・SF・シリーズの6冊目、ハンヌ・ライアニエミ『量子怪盗』は酒井昭伸の訳だというのに、読み始めからしばらくはギクシャクした進行で、もの凄い抵抗感。まあ、途中からスピードアップするんだけれど。 訳者の趣味も手伝ってか、キャラづくりがもろマンガである。それもアメコミじゃなくてフランス風なやつ。「フィフス・エレメント」でもいいか。とにかく笑わせるエピソード満載なはずなんだけれど、そこはイギリスのニュー・スペースオペラ、なかなかピントがあってくれない。それでも一人称ボクの展翅娘ミエリちゃんの頭/体を乗っ取って怪盗とセックスしたあげく、怪盗にフリーズさせられちゃう女神様(大年増)なんかは大笑いだ。小説の語りの上手さはスコルジーより下だけれど、作品に注ぎ込んだ野心は遥かに上等。

 SF関係以外で、仕事の周辺の本とかもちょっと感想を書いておこう。

 野見山暁治『四百字のデッサン』は、週刊文春の坪内祐三のコラムで紹介されていた一冊。洋画家野見山暁治は、明治期から昭和戦前期に洋画の大家として知られた南薫造が東京美術学校(芸大)教授だった頃、南のクラスに籍を置いていたことと、田中小実昌の義兄であることでこちらの視野に入ってきた。南も小実昌も我が地元出身なのである。野見山の文章はベラボーにうまい。日本エッセイストクラブ賞受賞はダテじゃない。画家の野見山には南の影響が全くといっていいほどないし、この本でも南のミの字さえ見つからない。しかし、空想に頼らない闊達な文章は、縁のなかった師南薫造の文章の上手さを思い起こさせる。南は漱石にその絵をケナされその文章を褒められたエピソードの持ち主である。小実昌の方はその名のタイトルで一文があり、その他の文章にも言及があって野見山はこの義弟を気に入っていた様子である。小実昌が義兄をどう思っていたか、小実昌の読者でない者にはよく分からない。集中一番の文章は椎名其二のプロフィールを紹介したものだが、この本を読むまでそんな人物がパリにいたことは知らなかった。

 歴史好きの大学の先輩からこれを買って読めと強引に勧められた見延典子『敗れざる幕末』は、頼山陽の弟子で山陽の死に際に遺稿の書き継ぎを頼まれ、その後福山藩士として黒船到来時の幕府筆頭老中で福山藩主の阿部正弘に仕えた儒者、関藤藤陰の生涯を綴った物語。まあ、見延さんには昔当方主催のイベントに出ていただいたので、買うことに躊躇はなかったけれど読むチャンスがなかった。で、SFに読みたいものがないということもあり読んでみた。広島弁をしゃべる主人公とその周辺の人々がたのしいが、作中関藤藤陰はずっと石川姓で呼ばれる。それは関藤家から石川家に養子入りして晩年生家を継ぐまで関藤姓に戻れなかったためである。山陽の遺稿を生涯大事にしながら、阿部正弘の懐刀として活躍した藤陰は、いつまでも青年のようなフレッシュさで描かれており、「敗れざる幕末」というタイトルはやや重すぎる感じがする。作中の最高潮はやはり、黒船到来時のエピソードだろう。江戸詰の藤陰は幕末のオールスターズとあちらこちらで言葉を交わす。黒船を見に行って興奮し、阿部正弘の前で攘夷を口にしてしまい正弘から疎まれるシーンが心に残る。
 この黒船到来時の阿部正弘を筆頭とする幕府の対応について、見延さんはこれまでの幕府無能説をやむなく採用しているように見えたので、タイミングよく文庫化された加藤祐三『幕末外交と開国』を読んだら、アメリカ側の資料と日本側の資料を付き合わせてみれば幕府は決して無能な外交をしていたわけではないことが明快に語られている。わずかとはいえここ10年くらいに読んだ幕末ものからして、どうも幕末の徳川幕府無能説は明治薩長政府のプロパガンタが効き過ぎた結果ではないかと思われる(この話は前にも書いたなあ)。

 NHK大河ドラマの低視聴率で騒ぎもようやく一段落した夏頃から『平家物語』を読みだす。岩波文庫の4冊本を読みながら河出文庫の中山義秀訳の3冊本で追いかけた。昔は中学校の古文で読んだイケズキ・スルスミという先陣争いに出てきた馬の名前ぐらいしか印象はなかったし、その後も杉本秀太郎の解説本を読むくらいで、桃尻訳『源氏物語』を読みかけて挫折したため『双調平家物語』には手を出さなかった。今回は時間をかけて読んだおかげで、巷間流布しているエピソードがこうも印象の違うものかと納得した次第。これが仏教説話の一大エンターテインメントであることは間違いないが、この物語のあらゆるエピソードがいろいろな書物で様々に変奏されて断片的にこちらの頭にあるものだから、ああアレはもともとこういう挿話だったのかと得心のいくことが多かった。とりあえず印象が強かったところを一つ挙げると、木曾義仲が死を迎えるときに見せる今中四郎との、まるで恋人同士のようなやりとりと、最後までついてきた巴御前のエピソードが分量はほんのわずかながら強烈なイメージを残す場面。何はともあれ読めばそれなりの功徳があることは、『失楽園』(渡辺淳一じゃない方)以上であることは間違いない。ま、日本人だからね。

 最後は、昔平凡社から出た16巻だかの著作集を全部読んだ加藤周一『『日本文学史序説』補講』。著作集を読むほど好きだった割には、第2期の著作集は読んでない。とくにかもがわ出版から本を出すようになってからは、まったく手を出さなくなった。筑摩で文庫落ちしたこの本も親本はかもがわ出版だ。それでも読む気になったのは『日本文学史序説』に対する加藤周一自らの解説が読めるという愉しみがあったから。その作品から感じられる加藤周一の印象は、柄が大きく大味でありながら、間然として正論を吐くというものであった。ここでもその片鱗は感じられる。加藤には福永武彦や中村真一郎という壊れやすい繊細な神経と感性を持って文学に取り組んだ友人がいたことが強く影響しているように思われる。繊細な神経と感性を持つ文学者は日本には掃いて捨てるほどいたが、大構えでコワモテな声を響かせながら、なおかつ繊細な神経と感性を内に秘めていると思わせる書き手は珍しい。加藤周一は間違いなくその珍しい日本人文学者のひとりだっただろう。晩年のインタビュー形式ということも手伝って、大構えが目立つうえところどころ取りこぼしもあるけれども、ありがたいことには変わりない。


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