続・サンタロガ・バリア  (第126回)
津田文夫


 地球が1公転する基準日が1月1日というのは単なる決めごとだけれど、その巡りがどんどん早くなる感覚というのは年寄りの愉しみなのかなあ。

 美少女アンドロイドものを立て続けに読むのはどうもなあと、少し間をおいて読んだ長谷敏司『BEATLESS』は、表皮と筋肉と骨が微妙に、いやかなりズレているように見える一作。読み終わってからもしばらく首を捻っていたんだけれど、何がどうしてこうも引っかかるのかわからないので、検索してredjuiceの連載中のイラストを見にいったり、他人の感想を読んだりもしたのだが、やっぱりわからない。
 よくわかるのは「アナログハック」という言葉の日本語的意味範囲を確定したこと。'Analog Hack'をググッても、この作品で使われているような意味はない。作中最初にこの言葉に出会った時、大昔に読んだ『攻殻機動隊2』の、セキュリティ責任者が素子の義体は視線誘導だから気をつけろと叫んだシーンが浮かんできた。それは単純なレベルだったが、ここでの超AIヒロインはアナログハックによって主人公の五感全てと心理を計算通りコントロールしているわけだ。
 ただし超AIが「人間の幸福」を計測して、それを実現するよう方向付けられているかどうかは検証不能なわけだから、基本的にはファンタジーの成就以上のものは描きようがない。古くは『マン・プラス』やレムのスーパーコンピュータものや『ニューロマンサー』のAIみたいに人間に関わることがAI自体に意味を持っているのかどうかが読み手に意識されるようなら、物語の中で人間と共に行動する(動かないヤツもいますが)超AIは一つのキャラクターと化さざるを得ないことになる。
 必ずしもこの作品に啓発されたわけではないのだけれど、最近よく頭に浮かぶことの一つに、デジタルは人間のアナログの代替物ではないのではないかということがある。先日仕事で、旧日本コダック社が独立してできた会社の技術者によるデジタル画面のカラーコントロールをメインにした講演を聴いた後、その人と話をしたら同世代のジャズファンだったので、アナログ録音のCD化を聴いていると、どこまでいってもデジタルとアナログは別のものじゃないかという話題で盛り上がった。アナログは常に揺れ動いていて確実性がなく、デジタルは常にフラット化して確実である。デジタル技術は人間のための技術ではないのかもしれない。
 作品に話を戻すと、この15年あまりでエヴァの影響力が如何に広く深く浸透したかがよくわかったのと、長谷敏司と小川一水は割と似ているような気がしたことが収穫の一つかな。

 大橋博之『SF挿絵画家の時代』はSFMの連載時に読んでいたのだけれど、改めてまとめて読むとかなり重たい印象が残る。300ページもない本だけどね。ジュヴナイルや児童向けリライトを読まずに育った人間としては、ここに取り上げられた画家の半分はリアルタイムでその絵を見たことがない。大正後期から昭和戦前期生まれの画家が大半を占めていることもあって、その通ってきた道はかなり似通っている。書き手が紹介の仕方をパターン化していることもその印象を強めているが、それぞれの作品そのものは多種多様だ。ここで採りあげられた画家たちが今後大きく取り上げられることはあまりないだろうと思うと、大橋博之の仕事の貴重さは認められてしかるべきだろう。

 学生時代からいつか読んでみたいと思いながら、手を出しそびれた中国学者に大室幹生と中野美代子がいる。今年は中野美代子『カスティリオーネの庭』が文庫になったので読んでみた。1715年27歳で清朝中国に渡って以来50年一度も中国を離れず、乾隆帝30年に77歳を迎えたイエズス会士の画家カスティリオーネの独白を中心に、イエズス会の宣教師たちが皇帝の広大な宮廷の一角に西洋庭園を築く話である。冒頭、十二支像からなる噴水時計の一体が故障して、それを見に行ったカスティリオーネたちが台座の影に白骨死体を発見したところで章替えになったときは、エッまさかミステリなのかっとうろたえたけれども、そういう話ではなかった。中野美代子はその分厚い学者的教養を駆使して乾隆帝とイエズス会士たちが作りだしたその時代のイコンをカスティリオーネの目を通して描いてみせる。その一方で間もなく死を迎えるカスティリオーネの独白を通じて一種のデカダンを醸してみせるのだ。奇想小説としてはあまりにも静かだが、絢爛は保たれている。

 中野美代子が清朝中国のイエズス会士を描いて読み手に何の疑問も持たせないように、佐藤亜紀は架空の18世紀初頭のパリを描いて間然とするところがない。でもその前に佐藤亜紀『小説のストラテジー』が文庫になったので読んでみた。いやー、やはり佐藤亜紀は切れまくってますね。小説の読み方をここまで切れ味よく解説されちゃうとほれぼれします。切って捨てられた部分もおいしいのではないかなあと思うような不届き者も読んでいる間は頷くしかありません。で、佐藤亜紀『金の仔牛』を読むと佐藤亜紀の手練手管は前作のコメディ『醜聞の作法』以上に極端化されていて、もはやオペラ・コミックの域に達してしまってる。ここではテノールやソプラノやバリトンやアルトやバスやコントラルトが響き渡って爽快である。テーマは資本主義!というか金融論ですね。リヒャルト・シュトラウスみたいにキッチュな日本人作曲家が曲を書いて舞台化してくれないか知らん。上演時間は3時間程度で。

 海外SFがでないなあと待っていたらR・A・ラファティ『昔には帰れない』が配本になっていたので、嬉しくなって早速読み始めた。伊藤さんがパート1に集めた短めの作品が一般的なラファティのイメージで楽しく読める。中でも表題作が楽しい。パート2はやや長めのシュールなラファティが楽しめる。後書きで伊藤さんがいうように、中にはわかりにくいのもあるけれど、それを含めてラファティの面白さだろう。巻末の「1873年のテレビドラマ」は伊藤さん解説にあるようにラファティ自身のお気に入りであり、おそらく浅倉さんのお気に入りでもあった作品だけれど、パート1やパート2の最初の方の短編すなわち伊藤典夫印ラファティと比べるとラファティらしくないようにみえる。それでもキャラクター同士の反応はラファティ以外の何者でもない。そしてなによりこれはラファティとしてはもっともSFらしいSFになっている。井上さんの短編集が待ち遠しいですね。

 同じ翻訳SF短編集でもラファティとは大違いなロバート・チャールズ・ウィルスン『ペルセウス座流星群 ファインダーズ古書店より』は、リアリズムという普通小説の流儀でじっくりと書かれたある種のSF連作集。だけど、作者自身が言うように連作という意味合いからすると、関連の薄い短編と濃い短編が入り交じって、副題ほどの統一性はない。ここでのロバート・チャールズ・ウィルスンの作風は「時間封鎖」三部作以上にリアリズムが効いていて、大人の読み物だという感じが強い。SF的アイデアは割とバカっぽいんだけれど、用意されたストーリーは子どもにはわからない事情で書かれている。そのような特徴は、読み手に、これよりうまく書かれたリアリズム・ストーリーはいっぱいあるよなあ、でもそれらはSFじゃないからねえという感想をもたらす。感触は『クロノリス−時の碑−』の日常描写に近いかも。

 1991年に筑摩新書で出された山本博文『長崎聞役日記−幕末の情報戦争』は居間の本棚で10年以上も積ん読されていたんだが、なぜか今頃になって読んでみた。長崎聞役は元禄期に成立した「役」で、九州各藩が幕府の許可を得て、出島やその他の情報を収集して自藩に伝える役割であり、中級武士が担当した(と書いてある)。この本は、各藩の聞き役同士が、程度の違いはあるものの、緊密なコミュニケーション(要は飲み会だったりするんだけど)を取りながら、連携していかなる活躍をしていたかを描いた、テーマが特殊な割には読みやすく書かれた1冊。幕末ものを読んでいていつも気になるのが、明治維新以降彼らはどうなったのかという点だけれど、ここではあっさりと御用御免となって明治2年に長崎聞役は消えてしまっている。まあ、外国船があちらこちらの港に自由に出入りするようになっては、出島の重要性はゼロだから聞役という「役」がなくなってしまったということですね。江戸時代は「役」の有無が人の生きる道を規定してた時代なので、それは仕方がないことだったが、できればその後の聞役たちの身の振り方も簡単に書いてくれていたらよかったなあ。

 今月の最後は小松左京『大震災’95』。今年の初めに出た文庫だけれど、ようやく読んだ。小松左京のまとまった文章を読んだのは久しぶりである。『日本沈没 第2部』を読んだのもだいぶ前だし、あれは谷甲州の書きっぷりが前面に出ていたように思う。
 この本を読んでいると、もう小松左京はいないのだ、そして小松左京の衣鉢を継いだ作家もいないのだということが強く感じられる。この本での小松左京は、それまでの巨人ぶりを相変わらず発揮しながらも60代半ばにさしかかり、弱音を吐いている。まあ、当たり前だろう。思考の廻り方は、いかにも小松左京、さすが小松左京、このスケールで全部を考えられる人間はまずいないだろう。しかしさすがの小松左京も生身は初老の一作家である。その落差は大きく、何よりも本人にとって大きい。この本で小松左京が示したことや願ったことが2011年にどれだけ実現していたのか、3.11はそれを証明したのだろうか。


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