内 輪   第270回

大野万紀


 編集後記にも書いたけれど、「本の雑誌」が大森望特集。にやにやしながら読んでいたのだけれど、ついつい昔を思い出してしまう。まだ彼が学生だったころね。
 大森さんが通っていたころのKSFAの日曜例会は、阪急ファイブ横の「れい」という喫茶店。関西では有名なタレントの大久保怜さんがやっていた。 Wikipediaで大久保怜を見ると、喫茶店でのオタクとの戦いについても書かれている。いや、そんな殺伐とした印象はなかったんですけど。
 Togetterによると、Wikipediaの記述は竹内義和さんの話が元だったみたい。そんなこともあったんですね。
 おっと、岡本俊弥とかぶってしまった。ま、いいか。どうせ年寄りの昔語りです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『心はどこにあるのか』 ダニエル・デネット 草思社
 ずっと前に読んだはずと思い込んでいたが、ふと本棚から取り出してみると、途中までしか読んでいないことがわかった。デネットはアメリカの哲学者で、認知科学や人工知能関係でも有名。かのホフスタッターの友人で、人工知能はやがて意識をもつ論者。だからSF者の味方だ(こんな紹介でいいのか)。
 なぜ途中までしか読んでいなかったか、今度読み返してわかった。訳者が後書きに書いているが、はじめの2章はこの本の哲学的な基礎、定義域を論じたところであり、しろうとには難しいのだ。そこで挫折したみたい。意識とは何かを論じるにあたって、様々な哲学的な準備をしている。「志向性」という用語が重要なのだが、ここでの「志向性」は哲学用語であり、しろうと的には「意識」という一般の言葉を厳密に表そうとするものなんだろうな、と思えばいいのだろう。
 3章からが本題で、心には様々な段階、レベルがあり、それは進化の中で発展してきたものであること、人間の心、意識というのは、他の動物に比べて特別なものであることを論証しようとしている。その中心には「言語」の存在がある。
 哲学書なので結論があるわけではないが、考え方の方向性としてそのように論じているわけだ。
 面白いのだが、人間の意識って本当にそんなに特別なものなのかという疑問は残る(動物学の実験の成果が引用されているのだが、科学の本ではないので、詳しく書かれているわけではない)。擬人化(そして擬「自分」化)への批判はよくわかるが、犬だって猫だって、カラスだってイルカだって、ヒトとよく似た意識存在だと思えてしまう。でないと、赤ちゃんや障害をもって生まれた人、事故や病気で植物状態になった人などの心をどう捉えるのかというところで、もやもやしてしまうような気がする。同様に(デネットも他の著書で批判しているが)「哲学的ゾンビ」というのも、ぼくにはどうにもよくわからない概念なのだ。そのあたりは単に観点の違いだけなのかも知れないが。

『天冥の標 VI 宿怨Part3』 小川一水 ハヤカワ文庫JA
 3冊に渡った第6巻もここで終わり。まさにシリーズ中盤のクライマックスである。
 いやもう太陽系が大変なことになってしまうのだ。〈救世群〉(とカルミアン)の太陽系征服戦争と人類(とロイズ=ミスチフ)の反撃、そしてまた思いがけない展開と、悲劇、羊飼いの少女(?)とノルルスカインはどうなるのか、アイネイアとミゲラの二人はどうなるのか(この二人はとても好ましいヒーロー/ヒロインなので、何とか幸せになって欲しいなあ)、それからついに第7巻ではハーブCが登場するみたい。早く読みたいよ!
 というわけで、壮絶な宇宙戦闘(異星人の超兵器が混ざっているので、ハードSF的というよりスペース・オペラ的だが、それがかっこいい)、征服者と挫けない被征服者、巨大な悲劇とロマン、とにかく大きな動きが次々と起こる劇的な物語だったが、それとは別に面白かったのが、登場人物(人物じゃないのもいるが)たちの様々な語り口。特にカルミアンの口調と、被展開体たちの話っぷり、それからメララの方言。メララの方言は、ロバーツの『アニタ』の魔女ばあさんの言葉みたいで、微妙なわからなさがいい感じだ。カルミアンの失敗した機械翻訳みたいな言葉は、こいつらがまともな言葉で話せないはずがないので、そのイヤらしさを際だたせている。実際、本書で大きな展開があってからは普通に話しているのだから。
 教訓。何度も言うけど、やっぱり〈淫獣〉の言うことを聞いてはいけないのだ。

『敵は海賊・海賊の敵 RAJENDRA REPORT』 神林長平 ハヤカワ文庫JA
 〈敵は海賊〉の文庫書き下ろし、6年ぶりの最新刊だ。タイトルの通り、海賊課の宇宙フリゲート艦ラジェンドラが書き下ろした小説形式の報告書となっている。ラジェンドラはなかなか文才があるといえよう。
 宗教政治が支配するランサス星系の惑星フィラールで、ヨウ冥教という謎の宗教団体が現れ、反政府的な活動をしているという。彼らは海賊ヨウ冥を神としてあがめている。神ではない本物のヨウ冥はそれを知って、虚構の神とその信者を殲滅しようと考える。一方、海賊課へは、フィラールの聖なる巫女サフランが、ヨウ冥教に入信して行方不明となった弟ポワナの捜索を依頼しにやってくる。
 ヨウ冥教なら海賊と関係あり、敵は海賊というわけで、ラテル、アプロ、そしてラジェンドラはサフランと共に、ヨウ冥の海賊船カーリー・ドゥルガーの痕跡を追ってフィラールへと向かう。ところで当のポワナはというと、すでにカーリー・ドゥルガーに乗船し、本物のヨウ冥と対面していたのだった……。
 相変わらずアプロとラテル、それにラジェンドラの掛け合い漫才は面白く、ヨウ冥たち海賊のぶっとんだ無茶苦茶さも面白い。そういうコミカルな面と、表面的な行動はともかく、いったい彼らは本当のところ何をしようとしているのか、いったい何が起こっているのか、どこまでももやもや感が消えないこのストーリーとの乖離はどうだろう。結局、ラテルたちとヨウ冥というふたつの主観がすべてであって、それが「敵は海賊」と「海賊の敵」ということなのだが、それ以外のことはほとんどどうでもいいのだろうと思える。何とかそれを解釈しようと努力するラジェンドラの苦労がしのばれます。
 ところでヨウ冥の「ヨウ」は「陶」の、こざとへんのないやつです。念のため。

『ヒトデの星』 北野勇作 河出書房新社
 泥の世界とヒトデナシといえば『どろんころんど』を思い浮かべるが、もしかしたら同じ世界なのかも知れない。まあ、何をもって同じというのか、というのも本書のテーマではあるが。
 工場があり、通勤電車があり、駅前の商店街があり、路地があり、ささやかな家があり、四畳半にテレビがあり(アナログのブラウン管テレビのようだ)、妻がおり、猫がおり、金魚がいる。まるで昭和の日常のような……というか、作者のいつもの〈北野ワールド〉のような……しかし、これらは全て泥でできており、ヒトデから作られたヒトデナシたちが、今は消えてしまったヒトの真似をしている世界なのである。
 本書もまたハードSFといってもいいような、量子力学「的」世界観の中で、とても人間的な(人間ではないのだが)情感が描かれる。それにしてもこの寂寥感、喪失感。ナノテクノロジーによりフラクタル化され、繰り込まれ、多重化され、カオスとなった泥んこ世界。その中で一人のヒトデナシは、失われた「日常」を作り出そうとする。カオスの中から創出される「日常」。その懐かしさ、切なさ、それは「家族」の存在であり、本当は存在しないかも知れない「記憶」から生じるものである。ヒトデナシの意識や認識、自分というものは、実はこの世界を満たしている「泥」=「テレビ番組」=すなわち情報の海からもたらされたものであり、そのシナリオ=プログラム=物語は、サラリー=塩=塩基=DNAとなって彼の存在に埋め込まれる。このような駄洒落のような連想が本書には満ちあふれ、科学的リアルと日常的ファンタジーを結びつけている。そう、それこそが「サイエンス・フィクション」なのである。

『咎人の星』 ゆずはらとしゆき ハヤカワ文庫JA
 「うる星やつら」のように 宇宙からやって来てヒロインの家に住みついた美少年。でも金髪幼女のおまけつき。ラムちゃんにもテンちゃんがついてきたし、似たようなものか。
 そして楽しいラブラブ・コメディが始まるかと思いきや、児童ポルノ(児童じゃないけど)みたいな描写がてんこもりとなって、シチュエーションとしては邪神ものエログロ・ホラーSFコメディでありながら、一部のエロゲーや過激な同人誌のように過剰な情念がどろどろと流れ出し――そして暗い。楽しくない。陰鬱。社会や時代性、家族や個人の内面に関わる観点が、とっても鬱系だ。
 それは本書の中の言葉でいえば〈まがいもの〉である〈甘美な非現実〉への怨嗟であり、本書の時代的背景となっている20世紀末から現代までの日本社会の、とりわけ(おそらくは作者自身も含んだ)オタクたちへの拒絶、その悲痛ともいえる叫びである。「お前たちは嫌いだ」というかのような。
 本書の最後には、小説の文脈を無視するかのように、作者自身が顔を出し、太宰治と坂口安吾を論じながら、今の〈萌え〉批判を展開する。日本の(あるいはアジアの)男たちがいかに〈堕落〉し、女たちがいかに〈悪しきもの〉となっていったかを論ずる。その対象がいわゆるオタクの男女であるように見えるのは、それ以外の〈一般人〉は論ずるに足りない〈蛮族〉だからなのかも知れない。この論考(どうやらもとは「ユリイカ」に掲載されていたようだ)は、それなりに説得力があり、面白く読めたのだが、小説としては作者の生な苛つきが強烈で、何とも疲れるというか、はっきりいって面倒くさい。才能のある作家だと思うので、小説部分をもっと何とかして欲しいと思う。

『黒き計画、白き騎士』 ケイジ・ベイカー ハヤカワ文庫
 昨年12月に出た短篇集。2010年に亡くなった著者の、単行本としては初めての翻訳である。副題に「時間結社〈カンパニー〉極秘記録」とあり、不老不死の改造人間であるエージェントを使って、過去から失われた至宝を手に入れる秘密結社〈カンパニー〉の活動を背景とする連作シリーズから、15編が収録されている。
 実際に読んでみると、そういう紹介から受ける印象とは異なり、何だか50年代SF風の、ウィットと懐かしさを感じる作風だった。いや、いいんじゃないでしょうか。まさに50年代娯楽SFぽくって面白かった。
 とにかく、大きな物語や派手なストーリーはなく、不老不死の改造人間が過去の時代で起こした、ささやかで小さなエピソードが中心。作者はカンパニーだのタイムトラベルだのという設定をあまり重視していないように思う。そもそもSF的なテーマや科学的整合性にはほとんど興味がないみたいで、カンパニーの仕組みやタイムパラドックス、24世紀の陰鬱な管理社会などの設定には、突っ込みどころが満載だ。タイムパラドックスなんて、証拠がなければ何をしてもかまわないというようなおおらかさ。さらに歴史上の重要なイベントなどにもあまり興味を示さない。むしろ不老不死の改造人間という存在をそれぞれの時代の中に置くこと自体が面白かったようで、彼らがそれをどう感じ、どう日常を暮らしていくかという方に作品の主眼が置かれている。
 その中で本書に何編か収められている超天才少年アレックスの物語は少し観点が変わっており、この連作はタイムトラベルとも歴史ともほとんど関係なく、超管理社会である未来社会でのひとりのミュータントの物語として読める。とっても50年代SF的だ。


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