内 輪   第272回

大野万紀


 淡路島で4月13日に震度6弱の地震がありました。朝早い地震だったせいもあり、阪神淡路大震災の記憶が鮮明によみがえりました。あまり大きな被害も出ず、一安心でしたが、考えてみれば東北・関東では、これに近い地震がしょっちゅう続いているのですね。
 いずれは間違いなく大地震が来ることはわかっているのだけれど、それが明日なのか10年後なのかわからない。われわれの日常が、ずいぶんと脆い基盤の上に成り立っていることを思い知らされます。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『空間亀裂』 フィリップ・K・ディック 創元SF文庫
 ディック中期の長編で、本邦初訳。
 ときに西暦2080年、世界は人口爆発に苦しめられていた。避妊薬は無料となり、売春も法的に認可されている(その娼館衛星のオーナーというのがすごい異形の人物だ)。大勢の貧しい人々には働き口がなく、〈凍民〉となって冷凍睡眠している。史上初の黒人大統領候補ブリスキンは、かつて夢見られ今は放棄された惑星殖民計画の再開を宣言するが……。そんな時、超高速移動機の内部に亀裂が発見され、そこから別の時間、別の世界が覗き見られるという……。
 昔の手塚治虫のマンガで読めばぴったりくるような、ユーモラスで本格的で、どこかチープなSFだ。話がごちゃごちゃしていたり、あんまり意味の無い登場人物やエピソードがあったり、唐突で不可解な展開があったり、というのは確かにそうなのだが、話は面白いし、とにかくどんどん進むので、エンターテインメントとして何も問題ない。
 なるほど、本書はディックの作品の中では駄作だという評価が定着している。それはわかるのだが、本書の解説はどうしてここまでエクスキューズしないといけないのだろうか。駄作という評判は、元となった中篇が完成しているのに、蛇足的なエピソードを追加して無理やり(おそらくは金のために)長編化した、というところからきているのだろう。でもそんなの関係ないよね。設定も面白いし、あれよあれよと話が進んでいくのはむしろ好感できる。

『蛇の卵』 R・A・ラファティ 青心社
 1987年のラファティの長編である。傑作。そしてすごく面白いし、読んで楽しい。
 ただし、このお話をこの世の論理で理解しようとしてはいけない。ここでは動物も人間もコンピュータも、みんなおしゃべりで、超知性を持ち、死をも怖れず(というか、死はフェーズの違いにすぎない)、大陸に一夜にして海ができ、透明な海賊船が大暴れし、超古代も超未来も同じタペストリーの中にある、そんなお話なのだ。
 ホラ話というには知性的にすぎるが、頭のいい大嘘つきの物知り爺さんが、みんなを面白がらせようと、爺さんの知識と想像力の限りを尽くして語る物語なのである。大事なのは世界観や設定ではなく(いや世界観はしっかりとあるのだが)、キャラクターだ。それもライトノベルでいう意味のキャラクターではなく、神話的、原型的なキャラクターたち。むしろ昔の忍者ものや武芸帖、サイボーグ009なんかまでも思い起こした。
 物語の時間はごく短い。超知性を持つ選ばれた12人の子どもたち(サルやアシカや、天使や、人間や、人型コンピュータの少女も含む)が順次登場し、それぞれの技や特性を披露し、いわば見得を切る。この中に誰か「蛇の卵」がいる。そして敵はこの浮き世(フローティング・ワールド)を支配するカンガルー。何でカンガルーなのか(きっと理由はあるのだろうが)なんて考えちゃいけない。とにかくそういうものだ。殺人事件やミステリ風なプロットもあるけれど、ストーリーはホント、重要ではない。何かと過剰なキャラクターたちと様々なイメージの万華鏡。ラファティ爺さんの語りにあわせて、おお、ほお、とどよめくのが、本書の一番の楽しみ方だといえるだろう。ホント。

『コロロギ岳から木星トロヤへ』 小川一水 ハヤカワ文庫
 天冥をちょっと休んで一息ついた、みたいな書き下ろし長編。とても読みやすく(ちょっと突っ込もうとすると実はややこしいのだが)、読後感もさわやか。いいジュヴナイルのようにも読める。なんとBL風味まである。
 「時間SF」とあったので、『時砂の王』のような話かと思ったが、全然そうじゃなかった。そもそもタイムトラベルもタイムスリップも出てこない。だが、時間軸を空間軸として感じる(らしい)高次元の超存在が登場し、人間のレベルでは200年間の時を越えた「双方向」コミュニケーションが描かれるわけで、確かに「時間SF」には間違いない。
 舞台は2014年の北アルプス、コロロギ岳のコロナ観測所と、2231年の木星トロヤ群小惑星のひとつアキレス。アキレスで、放置された宇宙戦艦に忍び込んだ2人の少年が、船内に閉じ込められ、何とか助けを求めようとする。ところがそこにいたのは、この空間にひっかかって動けなくなった高次元存在(の尻尾)。その存在、カイアクの頭は2014年のコロロギ岳にあって、観測所をぶちこわしてしまった。観測所の若い女性天文学者は、カイアクと会話し、200年未来の少年たちを救おうとする。
 未来からのメッセージは少年たちのモールス信号(それを〈時間蛇〉カイアクが過去へと伝える)。現在から未来へのメッセージは、何と驚いたことに――いや、それは本書を読んでのお楽しみ。
 しかし、過去へのメッセージは何しろ超存在を経由するのでわかりやすいのだが、未来へのメッセージは、さすがにそんなにうまくいくのかと突っ込みたくなる。だって10年前のタイムカプセルすら、どこにあるかわからなくなるのが現実というものだ。未来の不確定性は大きく、カオス的で、予測困難。カイアクがいるといっても、こいつはあんまり役に立たないのだ。
 そのあたりのSF的ディテールは小説ではあまり明確に書かれていないのだが、それを真面目に考えようとすると、とてもややこしくて、頭がパニックになる。そもそも時間線は1本ではない。それなら「少年たちを救う」ということがそもそも成り立たない。時間軸も無限に多重化されている。つまり並行宇宙だ。普通の場合なら、年表のような1次元のイメージで時間を考えていても問題はないが、本書での時間はそんな凍り付いたものではない。Aという行為が原因でBが起こり、という因果関係の連鎖であり、それが能動的に変えられるということは、過去も未来も決定していないということだ。カイアクはいったいどこにひっかかって動けなくなったというのだろう。
 ところで、本書の帯はおそらく編集者の言葉だろうと思うのだが、「不意打ちのように」終わっていて、何だかむずむずするよ。

『見晴らしのいい密室』 小林泰三 ハヤカワ文庫
 2003年に出た『目を擦る女』の、三編を入れ替えた再編集版短篇集である。「脳喰い」「空からの風が止む時」「刻印」が、「探偵助手」「忘却の侵略」「囚人の両刀論法」と差し替えられている。外された「空からの風が止む時」はいい話だったのだけどなあ。
 どの話も(「探偵助手」は除く)一度は読んでいるのだが、久しぶりに読むと新鮮である。ホラーがかったコミカルなミステリーという味わいで統一されているのだが、基本、異常な話だ。そういう意味ではSFである。とても異常なくらい「論理的」なので、ハードSFといってもいいだろう。特に、多くの作品が量子力学的世界観を背景にした、複数世界の重なり合い、仮想現実と現実の同一性、そして自意識と客観性のテーマを扱っている。今ではむしろ現代SFとしてありふれているとさえ思えるようなテーマである。だがそのようなテーマを扱っても、作者の扱い方は独特であり、そこにはきわめて強い独自性がある。
 とりわけ「予め決定されている明日」は最初に読んだ時びっくりして飛び上がったほどの大傑作だ。算盤と紙で計算される仮想現実世界なんて、他に誰が小説にしただろうか。あ、小川一水がいるか。でもバカSFのように見えても、これは全く論理的で、正しい結論なのだ。
 「目を擦る女」は量子力学テーマのホラーといえる作品で、グロテスクでとても怖く、そして哀しい話である。他にも「忘却の侵略」や「未公開実験」がとりわけ語り口が面白く、楽しく読むことができた。
 「囚人の両刀論法」はゲーム理論テーマのロジカルな話だが、2010年という比較的新しい作品で、現実の社会に対するいらだちのようなものが見て取れる。このあたりから、わりと生な形での社会批評が作者の作品に現れるようになったのではないだろうか。

『てのひらの宇宙 星雲賞短篇SF傑作選』 大森望編 創元SF文庫
 『日本SF短篇50』とか、昔の短篇アンソロジーが続けて出るなあ。本書では、星雲賞短篇部門の受賞作から、1作家1作品、70年から2000年までの、長い作品を除く11編が収録されている。
 星雲賞といえば、SF大会で選ばれるわけだから、その当時のSFファン、それも大会に来るような一部のファンの趣味・嗜好が優先されるわけで、一般の評価とは若干異なる傾向があるように思う。とりわけ海外作品、特に短篇ではその乖離が大きく、同じSFファンでも、海外SFが好きなファンの思うベスト作品とは、ずれていることが多かった。だから、まあお祭りで選ぶファン投票だね、という感じで、やや距離を置いて眺めていたように思う。とはいえ、選ばれる作品がダメなわけではないし、SF大会の星雲賞授賞式は受賞者や代理受賞者がみなとても嬉しそうで、見る方も楽しかった。それに、国内作品についていえば、読者の数も多く、より妥当な結果になっていたと思う。
 本書を見ても、確かにオタクっぽいマニアが選んだ作品だな、と思わせるものもあるが、それも含めてむしろこんなユニークな作品が選ばれていたのかと、改めて感心するような傑作、怪作が収録されている。編者が後記で「星雲賞受賞作の中から出来のいいものを選んだという意味ではありませんので、くれぐれも誤解なきよう」と素直すぎるくらいの言葉を書いているが、いや、やっぱり読み返すとどれも面白い。
 特に前半は本当に日本SFの傑作が並ぶ(小松左京の「ヴォミーサ」は小松作品としては小品にすぎるが)。筒井康隆「フル・ネルソン」はいいなあ。こういうのは古びない。荒巻義雄「白壁の文字は夕陽に映える」もいい。神林長平「言葉使い師」、谷甲州「火星鉄道一九」、中井紀夫「山の上の交響曲」と、傾向の違う傑作が続く。
 後半はマニア度が高くなり、梶尾真治「恐竜ラウレンティスの幻視」(これは素直でストレートな作品だ)、菅浩江「そばかすのフィギュア」、大槻ケンヂ「くるぐる使い」(今読むと、津原泰水の作品を連想させられる傑作だ――結末がちょっと弱いけど)、草上仁「ダイエットの方程式」、大原まり子「インデペンデンス・デイ・イン・オオサカ(愛はなくとも資本主義)」と続く。最後の2編は怪作といっていい。こういうのを嬉しく読めるのもSFファンならでは、といえるのではないだろうか。

『厭な物語』 アガサ・クリスティー他 文春文庫
 クリスティーからカフカ、ソローキン、そしてこの手の小説ではおなじみシャーリー・ジャクスン、パトリシア・ハイスミス、ジョー・ランズデール、ローレンス・ブロックやフレドリック・ブラウンら、11人の11作品が収録されたアンソロジーである。
 編者の記載はないが、ネットで見ると文藝春秋のSchün Ngashさんとわかる。解説は千街晶之。テーマはずばり「厭な物語」で、いずれ劣らず後味の悪い、残酷で悲惨な物語である。
 とはいえ、グロい描写が多いわけではなく、救いがないとか、怒りを覚えるとか、ひどい奴らだとか、不条理な運命だとか、そういう類の「厭さ」である。ミステリ作家や純文学作家の作品が多いが、いわゆる「異色作家」と呼ばれるメンバーともかぶっている。
 はじめから「厭な物語」とわかっているので、あまり読んでショックな話はないのだが、ソローキンの「シーズンの始まり」はそうくるか、と思った。また今読み返してもシャーリー・ジャクソン「くじ」は傑作。これはアジアの一部では今も現実にあることなのだけど。
 厭というか、本書の中でも異色で、下品な厭さがあるのがランズデール「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ」。こんなのを読むとアメリカの田舎には行きたくなくなる。
 ブラウンの作品は軽妙さというより、沼地での幻想的な描写がすばらしい。関係はないのだが『指輪物語』のシーンを思い浮かべた。
 しかし、何といっても本書の表紙。これが一番「厭」かも知れない。厭だ、こっちを見るな! あっちへ行け!


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