内 輪   第283回

大野万紀


 先月の話題といえば、何といっても理研の小保方さんによるSTAP細胞騒動でしょう。論文に捏造といえるような大きな問題があって、スキャンダルとなりました。この分野には全くしろうとのぼくですが、報道を見る限りクロといって間違いないのでしょう。ただ、STAP細胞のような万能細胞が、まるでシステムをリセットするように作れるというのはとても面白く、興味のあるところです。今回も、まったくのでっちあげというよりは、ずさんな実験で科学的根拠は証明できなかったが、それなりに面白い結果が出ていたというのであれば良かったのですが。
 この4月9日で、MicrosftはWindowsXPのサポートを停止します。それでWindowsXPのPCが動かなくなるわけじゃないが、セキュリティ上の危険が放置され、それが自分だけじゃなく、他人にも損害を与えかねないとなると、やっぱり対策しないわけにはいきません。とはいえ、何でちゃんと動いているものを、時間と金をかけてアップグレードしないといけないのか、割り切れない思いが残るのも事実でしょう。IT業界にいるものとして、いつまでも古いソフトの保守を続けることはできないというのはわかりますが、これだけ世界的にも影響の大きいプラットフォームとなると、1企業の都合で振り回されていいのかと思います。ちょっと話は違いますが、レコードとか、写真フィルムとか、レガシーな技術をどう継続させ、少数派のユーザを守っていくのか、テッド・チャンの「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」を読み直してみたくなります。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『My Humanity』 長谷敏司 ハヤカワ文庫
 書き下ろし1編を含む4編を収録した短篇集。著者の初短篇集なのだそうだ。
 「地には豊饒」と「allo, toi, toi」は『あなたのための物語』のスピンオフというか、同じガジェットである疑似神経制御言語ITPを扱った話で、これは他者の経験や学習を伝達したり(「地には豊饒」)、さらに進んで、脳内に本来の自己には存在しない器質を作り出したり、自然にはない機能を獲得させたり(「allo, toi, toi」)できるというものだ。テーマとしてはイーガンにも似ているが、イーガンが自意識の問題から自己というもののあり方に深くこだわっていくのに対し、長谷敏司はむしろ社会との関わりに重点を置く。
 「地には豊饒」では伝統文化の継承(〈特徴を強調した日本人〉)の問題を描き、「allo, toi, toi」では犯罪者の犯罪傾向を中和させるような応用実験が行われる――もっとも刑務所内での悲劇は、ITPとは直接関係ないように思うのだが。
 書き下ろしの「父たちの時間」とともに、この路線――おおざっぱに言えば、ハードSF的ガジェットとリアルな人間社会との関わり、相剋――解説で述べられている「プライベートな人間関係のなかで、テクノロジーによって変容する人間性(ヒューマニティ)を真摯に描く」(それが、本書のタイトルともなっている)ことも含め――が著者のSFとしての本領発揮だといえるだろう。
 「父たちの時間」がまさにそのような傑作で、原発の放射能対策として開発されたナノマシンが自己増殖をはじめ、その対策に追われる研究者を描いた作品だが、パニックものではなく、仕事としての研究に没頭して家庭を顧みない主人公の男から、自然界におけるオス=父の意味を考察し、その(生殖以外に存在意義がなくて)余剰を冒険やら開拓やら闘争やらの外向けのベクトルに向けがちなことを、ぐっと身近な日常に即して描いていく。
 その余剰の産物としての、暴走するテクノロジーの象徴としてのナノマシンは、すでに別種の生物と化し、急速な進化を遂げて、巨大で奇怪な珊瑚状の構造物となり、やがて海底から持ち上がって人間世界に侵出してくる。
 そういえば、放射能から発生し、海で育って日本に上陸してくるものって――そうか、今年はその60周年なのか。
 とまあ、地味なストーリーの中に、実にいろんな要素を組み込んだ傑作だ。
 もう1編「Hollow Vision」は『BEATLESS』からのスピンオフということで、シンギュラリティを越えた超AIの存在をバックに、宇宙空間での海賊との戦いを描く、アクション満載の宇宙SFだ。ただし、シンギュラリティ後の世界なので、人間とコンピュータはどっちがどっちだかわからず、擬装に仮想を重ねた被造物の「かたち」と人の「こころ」のありようというが、ちょっと混乱する。色々と大技小技があって面白いのだけれど、もう少し整理が必要だったように思う。でも、結末の大技には思わず笑った。絵を思い浮かべるとすごく面白いなあ。

『オービタル・クラウド』 藤井太洋 早川書房
 今度は今から6年後、2020年というごく近い近未来の宇宙開発を描いた〈テクノスリラー〉である。読後感は圧倒的に読み応えのある近未来ハードSFのそれだが、この(たった)6年先の未来という設定が、実在する様々な技術やアイテムとあいまって、強いリアリティと、本当にそうなるのという微妙な距離感とを与えている。
 イランの打ちあげたロケットの、デブリとなるはずの2段目が、地球に落下するのでなく、わずかに高度を上げ、さらに軌道傾斜角も変化した。通常ではありえないこの現象を、流れ星の発生を予測するWebサイト<メテオ・ニュース〉を運営するフリーのWeb制作者、木村和海が発見し、ネットに載せる。
 そこから始まるこの物語は、木村と同じくフリーのIT技術者で、そこらのハードやオープンソースを組み合わせてたちまち独自のインフラやアプリを作り上げてしまう、ギークの鏡みたいな女性エンジニアの沼田明利、大金持ちのアマチュア天体写真家でセーシェル島に豪華な観測施設を持つ、気のいいほら吹きのオジー・カニンガム、民間宇宙ツアーをプロモーションして、自ら打ちあげた軌道ホテルに滞在しようとする投資家のロニー・スマークと娘のジュディ・スマーク、そして世界のネットワークから切り離され、機材もなく、紙と鉛筆と自分の頭だけで研究を進めるイランの科学者、ジャムシェド・ジャハンシャ博士。こういった人々を巻き込んで、JAXA、NORAD、CIA、そして某国のエージェントや夢破れた技術の革命家ともいえる宇宙テロの首謀者がからむ、地球規模の大事件に発展していく。
 いや、とにかく面白い。登場人物たちがみんな素晴らしい。頭が良く、前向きで、ユーモアがあって、個性的。悪役のテロリストすら、ブラックユーモアを解するロマンチストである。
 とはいえ、誰も超天才ではなく、そこらにいる(かどうかは別にして)ごく普通の人間たちだ。特に主人公の二人は、頭が良くて腕の立つ技術者だとはいえ、しろうとの一般人であり、それがこの物語で堂々と主役を張っている。登場する驚くようなアイデアやアイテムにしても、SF的な新発明でも何でもなく、今ある既存のアイデアや技術をひねった(一部はSF的に誇張した)ものであって、試しに検索してみれば、必ず見つかるものなのである。ちょっとネタバレになるが、メインアイデアであるスペース・テザーにしてもそうだ。昔からハードSFに登場しており、現実の宇宙実験についてもJAXAの技術資料が簡単に検索できる。もっともその資料によれば、地球磁場の力では衛星軌道を変えるのに何十日もかかるので、本書のような高度な機動をさせるのは、6年未来程度じゃ難しいだろうけど。まあそこはSFのパワーだ。軌道エレベータのためにスリランカを赤道まで動かすのに比べれば簡単簡単。
 こうしてみると、本書の中心にあるのが、すごい天才が見たこともない新発明をして世界を変えるというのではなく、頭のいい普通の人たちの集団が、公開されている既存の技術をブラッシュアップし、組み合わせ、改良することで、これまでにない新しい世界を切り開くことが出来るという、まさしくインターネットの理想、オープンシステムの理想、集合知の理想を描くものだとわかるだろう。これは前作『Gene Mapper』でも同様であり、作者の本心に近いものに違いない。そして、ぼく自身、共鳴するところでもある。
 本書で唯一(でもないか、もう一人くらいいるか)普通じゃない人間として、JAXAの関口というスーパーマンが登場するが、これがまた素晴らしい。彼も決して超人ではないのだが、国際政治のシステムの中で、ここを動かせばこうなるといった既存のツールを使いこなす力をもっている人間なのである。また、ちょっと目を見張ったのが、ジャーナリストとして宇宙に出たジュディ・スマークだ。初めは金持ち娘の、お気楽でちょっとオタクっぽいチャラチャラ感が微笑ましいのだが、危機が深まるにつれてその骨太な凄みが増してくる。親父のロニーもそうだが、結末近くの展開には、笑いと感動が溢れてくる。これこそ投資家というものだ。そして結末の美しいスペクタクル。いやあ、堪能しました。これって映画で見たいよね。とんでもない金がかかるだろうけど。

『空襲警報』 コニー・ウィリス ハヤカワ文庫
 『混沌ホテル』に続く、THE BEST OF CONNIE WILLISの翻訳後編。訳者が「シリアス編」とした5編と、おまけにSF大会でのゲスト・オブ・オナーのスピーチや、デーモン・ナイト記念グランド・マスター賞受賞記念スピーチ(とその予備原稿)も収録されている。このスピーチがとにかくステキなので、海外SFファンなら必ず読むべし。
 シリアス編というだけあって重い、暗めの話(滅び、老い、死、喪失、無秩序……エントロピーの増大)がテーマの作品が多いが、そういう避けられないものに直面しての、淡々とした日常生活や夫婦、家族、そしてペットへの愛といった、ごく人間的で前向きな(あるいは決して後ろ向きではない)対処が描かれており、読後感は憂鬱なものではない。
 「クリアリー家からの手紙」は戦争かテロか事故がわからないが、とにかく破滅後の、しだいに黄昏れていく日常を描き、そこに一通の手紙という爆弾を放り込む。
 「空襲警報」は長編『ブラックアウト』『オール・クリア』と同じくロンドン大空襲を舞台にした〈オックスフォード大学史学部シリーズ〉の初期短編で、以前は「見張り」というタイトルで訳されていた。
 「マーブル・アーチの風」は、やはりロンドン大空襲が題材になっているし、「混沌ホテル」と同様なコミュニケーションの混乱やすれ違いという側面もあるが、基本は老いとエントロピーの増大をテーマにしたファンタジイで、ぼくの大好きな作品の一つでもある。つまり自分も年取ったなあということか。いちいち思い当たることがあるものねえ。でも読後感は爽やかである。書かれたのは99年だが、まだ携帯が一般的ではなかったのだろうな(アメリカは意外にも携帯の普及は遅く、一般に広く使われるようになるのは21世紀になってからということらしい)。ここに携帯電話があれば、話は全く違ったものになってしまったかも知れない。
 「ナイルに死す」は死をテーマにした、ホラーというか幻想小説。小説的な技巧も見事。ここでももし携帯電話があったなら……。
 「最後のウィネペーゴ」は、まさしく破滅というものはある日突然一斉にやってくるものではなく、日々「世界はいつも終わりつづけている」ということを描いた傑作だ。「絶滅は一日単位で起きている」。誰しも「手遅れになるまで、なくなってしまうまで、本当の意味ではそのことを理解しない」。後書きのこの言葉が本当に心に染みる。とはいえ、犬は笑わないというのは、どういう意味なんだろう。文字通りの意味じゃないと思うのだが。犬は笑うよねえ。

『新生』 瀨名秀明 河出書房新社 NOVAコレクション
 『NOVA10』に収録された大作「ミシェル」と(初出ではないが)『極光星群』収録の「Wonderful World」、「月刊アレ!」掲載の「新生」の3編が(順序はこの逆)収録された、小松左京オマージュの連作集である。いや、もはやオマージュを越えて、小松左京のヴィジョンを引き継ぎ、さらに発展させた独自の作品だといえるだろう。いずれも以前に読んでいるのだが、今回通して読むことで、その意義がよりはっきりしたと思える。
 「新生」は、小松の「岬にて」を思わせる短篇で、人類の「何もかも振り捨てて先へ進もうとする」業のようなものを讃え、ポリネシアへ進出したラピュタ(ラピタ)人に思いを馳せ、そしておそらくは人類を越え、どんな運命にも耐えて地球に広がっていった生命そのものへの賛歌を謳う作品である。唐突で激しいセックスシーンは、まさにその命の宴である。
 だが一方で、このような小松左京的といえる、生命や、果ては宇宙そのものへの擬人化した共感、感情移入というものへの懐疑も当時からあったわけで(「宇宙よしっかりやれ」という小松左京の言葉への気恥ずかしさがその象徴だ)、しかも今ではむしろそちらが現代SFのエッジになっているのではないかと思う。人間の理性など信用せず、ヒューマニズムを捨て、ポスト・ヒューマンな世界を描く、例えばピーター・ワッツの『ブラインド・サイト』のように。伊藤計劃の『ハーモニー』のように。今それをあえて持ち出すところに、3.11以後の瀨名秀明の思いがあるような気がする。それは科学を科学として人間とは離れたところで見るのではなく(「エレガントな」科学への批判)、人の思いや共感により重きを置く姿勢だといえる。
 つづく「Wonderful World」で、それはより鮮明になる。これは「未来」を描いた作品であり、今読み返してみるときわめて重要な作品だったとわかる。SFは未来を描こうとし、小松左京はそれを「未来学」という学問にまで発展させようとしていた。だがそれらの試みは今見ると影が薄くなっている。もちろんSF作家の社会を見る目が捉えた、その当時はとんでもない発想と思われたことが現実になったことも多い。社会批評的な面では特にそう思う。例えばカジュアルな監視社会の到来であるとか、そういうものだ。科学的な予測では両面あって、当たったものも外れたものもあるが、外れの方がインパクトは大きい。21世紀になってもまだ月面基地もできていないとか、携帯電話が普及する社会を予測できなかったとか、しかしまあ、そういうことはあまり大きな問題じゃないだろう。問題は「未来」というものがいわばカオスなものであって、マクロなレベルで予測したり計画したりできそうもないものだということだ。
 「Wonderful World」では天才科学者が「メタファー」という概念を用いてそれを克服する。ここで「メタファー」とは、普通の文学的な「比喩」「暗喩」の意味ではなく、ブラッドベリを経由して、人々の「倫理」が(この「倫理」という言葉も辞書どおりの意味から少しずれているように思える)集合的に、自己組織的に向かう方向を示している。そこをアトラクターとしてコンピュータシミュレーションすることで、カオスな未来を正しく予測するものだ。それは個々人の求める方向とは必ずしも一致しない。そこで葛藤が生まれ、恐ろしい事件も起こる。このメタファーというやつは、もしかして今はやりのビッグ・データ(の進化形)なのだろうか。いやむしろ、これは昔なつかしい「集合的無意識」そのものであり、むしろヒトの集団の上に、その個々の人間の意識を素材として立ち上がる集合知性の存在をとらえたもののように思える。それは独自の意識をもって、人類を動かしていくのだ。これは地球生命や宇宙そのものをヒトの理性の延長上に捉えようとした、小松左京の思いを継いだものではないだろうか。さらに3.11以後の世界を、冷たく突き放さず、人間の心に寄り添った上で(「思いやりの心」をもって)描きたいと思った時の、SF的な道具として現れたものではないだろうか。
 厳密に分析したわけではなく単なる思いつきだが、瀨名秀明は小松左京的な意味での「ヒューマニスト」ではないのか。ポスト・ヒューマン(例えばロボットのような)を描く時も、よりヒューマンな視点で描きたいというのではないだろうか。
 そして「ミシェル」。ここでは『虚無回廊』のSSが現れ、「ゴルディアスの結び目」の部屋が存在し、そして(これは微笑ましいオマージュとしても読めるが)『果しなき流れの果に』との関連が言及される。大きく2つの物語があり、1つは『虚無回廊』にも出てくる天才的な音楽家で科学者のミシェル(「Wonderful World」の科学者の息子でもある)の物語。もう1つは「ゴルディアスの結び目」に関わるジョン・ダン博士の物語である。そして全体を統べるのが小松左京が学んだイタリア文学の、ダンテの『神曲』なのだ。ついでにいえば、「新生」というのもダンテの詩集の名前だが、直接関係あるのかどうかは知らない(参考文献には載っているので関係あるのだろう)。そういう仕掛けはともかくとして、突如天空に現れた超構造体"SS"を巡る物語は、小松左京と同じく、人工知能=AIならぬ「人工実存」=AEをキーとして、意識、コミュニケーション(ここではコンミュニケーション)といったテーマを語りつつ、詩人ジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る」の詩を引いて、謎めいた結末を迎える。結局「虚無回廊」は宇宙と人の(というかあらゆる知的生命の)実存を結びつける回路として存在したのではないかとも思わせるが、そのあたりにはむしろ小松左京的な「まあハッキリいわんでも何とかなるやろ」風のあいまいさが残されている。中に出てくるラマ教の坊さんのエピソードでもそうだが、そんな小松左京的な(京都学派的なともいえるのか)ほっといても思いは伝わるという緩さや、ある意味で大げさなセンチメンタリズムともいえる部分が出てくるのは、イラっとする人もいるだろうが、ちょっとはんなりして、ほっとするところでもある。

『星の涯の空』 ヴァーナー・ヴィンジ 創元SF文庫
 銀河の外側方向と中心方向では物理法則が異なり、光速度も変わるというぶっとんだ設定の遠未来宇宙SF〈思考圏〉シリーズの第三作で、第一作『遠き神々の炎』の直接の続編にあたる作品だが、前作が出たのは95年なので、もうほとんど内容は忘れている。とはいえ、ポイントは堺三保の解説でさらりと触れられているので、そこを読んでおけば大丈夫。まあ読んでなくても別に困ることはない。
 前作で邪悪な銀河知性との戦いにより、高度な宇宙文明圏を追われて中世的(というかある程度の科学文明があるので近世的といった方がいいか)な惑星に不時着して暮らすことになった人類の生き残りたち。この星の先住民は鉄爪族という、犬型で集合知性を持つ生物だ。彼らは単独でも普通の動物として生きられるが、数体が集まって互いに音波で思考を共有させることにより、より高度な知性をもつ存在となる。
 ちなみに本書でSF的に一番面白いのは、この集合知性のあり方を、まるでコンピュータネットワークの上に現れる人工知能のように描くところだろう。〈思考圏〉の設定にあまり説得力がない(もちろんそれはわざとやっているのだろうが)のに比べ、さすがはシンギュラリティの概念を提唱したコンピュータ学者でもあるヴィンジの面目躍如というところだ。本書では、熱帯種と呼ばれる野蛮な種族の扱いや、無線技術を使った集合意識の拡張、新たなノードを加えることによる集合的自我の変化といった話が面白い。
 けれど、基本的に本書はそういうハードSFというよりは、普通に手に汗握る異世界での陰謀と冒険の物語である。鉄爪族の中では、人類との協力関係、発明や陰謀、商売などの様々な能力に特化した有力な個人の暗躍により、勢力間のパワーバランスに変化が生じ、そして人類の側でも、邪悪知性との戦いを知らない若い世代と、ここまで人類を何とかまとめてきたリーダーのラブナとの対立が深まっていく。ついに起こったクーデターにより、ラブナは地位を追われ、未開の地を彷徨うことになる。一方、かつての鉄砲娘ヨハンナも、成長はしていたがやっぱり猪突猛進な鉄砲娘のままで、熱帯種のいる地方へ探検に出かけるが、そこで陰謀に巻き込まれてしまう。
 本書は主にラブナとヨハンナの二つの困難な冒険を描いていくことになる。急ごしらえのサーカス団をやったりとか、面白いエピソードがいっぱいで飽きさせない。鉄爪族があんまり犬っぽく見えないのが個人的には残念なところだ。犬じゃないから当たり前なのだけど。
 ところで本書の表紙絵は鶴田謙二さんだが、どこにもクレジットがない。聞いたところだと、ミスで入れ忘れたんだって。何とまあ。


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