内 輪   第285回

大野万紀


 えーと、まだ公表していいのかどうかわからないのだけど(といいつつ、3月に大阪でやった酉島さんのSF大賞受賞を祝う会では編集さんの許可を得て公表してしまいましたが)、ずっと昔にやった翻訳を訳し直す機会をいただき、今ひたすら読み直し、訳し直しをやってます。
 しかし、PC上でテキストファイルを見ながら電子辞書やネットを参照しつつ翻訳できるって、ちょー便利だなあ。昔は重い辞書を引き引き、印刷の悪いペーパーバックを読みながら、原稿用紙に書いては消し書いては消ししてたんだから。肉体労働だったよね。特に辞書にないような用語や言い回しには困ったもんだが、今は図書館や色んなところを走り回らなくても、ネットでおよそ見当を付けることができる。便利なもんです。
 それにしても、まあ誤訳や訳し漏れの目に付くこと。あからさまな誤訳はそんなに多くなくてほっとしているけれど、微妙なのがいっぱい。もう見たくない。でもそっちは仕方がないけれど、昭和の時代の口調や言い回しをどうしたものか。今読み直すとちょっと気持ち悪いかも。まだ最終的にどうするかは決めていないのだが、基本そのへんは初訳のままにしておこうかと思っています。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『オマル 導きの惑星』 ロラン・ジュヌフォール 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 2012年に書かれた新しいフランスSF。現代フランスSFの新作が訳されるのはそれだけでも素晴らしいことだ。その上、本書はいかにもSFらしい冒険SFで、前半ちょっと進行がゆったりすぎる気はするが、訳者も解説で書いているとおり、ジャック・ヴァンスやラリー・ニーヴンのような趣きがあって面白い。
 これも誰かがいっていたが、アメコミというよりヨーロッパ系の、(成人向き)バンドデシネの雰囲気がある。詳しいわけじゃないが、昔「HEAVY METAL」なんかによく載っていた、奇妙な生き物たちが人々と共存する異世界の、どこか官能的で、性と暴力と色彩と情感に満ちたSFマンガの世界。
 本書はシリーズの第一巻ということで、一応の完結はしているが、多くの謎は残されたままだ。まあそれでも世界のSF的な構成はほぼ見えてきたわけだし(ラリー・ニーヴンやダン・シモンズというより、ぼくはおっ小松左京か、と思ったよ)、投げっぱなしでいらいらするというわけでもない。ゆっくりとしたペースで読んでいきたい作品だ。
 総面積が地球の5千倍もあり、住んでいる種族はそれが果てのない平らな世界だと思い込んでいるという、超巨大な世界、オマル(ちなみに、原文がわからないけれど「惑星」という言葉はこれでいいのだろうか。いや、この世界では単に「世界」の意味で使われている言葉なのかも知れないが)。そこにはヒト族、シレ族、ホドキン族という三種の知的生物が割拠しており、過去には激しい戦争もあったが、今は小康状態で互いに共存している。かつてあっただろう高度な科学文明は衰退しているが、地上には列車が走り、空には長さ1キロ以上あるような巨大な飛行帆船が行き交っている。三種族の共同統治区に停泊中の巨大飛行帆船イャルテル号へ、搭乗チケットと謎めいた卵の殻に導かれて、種族も出自も違う6人の男女が呼び寄せられていく。彼らにはそれぞれの過去があり、それぞれの冒険があった。彼らを乗せて目的地へと飛び立った飛行船は、海賊に襲われて大破し、荒涼とした世界を漂流することになる。やがて選ばれた6人は不思議な絆で結ばれ、奇妙なゲームをしながらそれぞれの生い立ちを語り、招待者のいる目的地へと導かれていくことになる。
 世界の空間的な巨大さだけでなく、歴史の時間的な深みもあり、まるごと大きなひとつの異世界が築かれているという広がりが感じられる。重要と思われる人物がどんどん死んでいくので、これからどうなるのかと思うが、続編が楽しみだ。

『図書室の魔法』 ジョー・ウォルトン 創元SF文庫
 ヒューゴー賞、ネビュラ賞、英国幻想文学大賞受賞という本書は、1970年代後半から80年にかけて、ウェールズの田舎に住む孤独で本好きな15歳の少女モリが、堅苦しい女子寄宿学校に入れられ、大好きなSFに読みふけりつつ、やがて地域のSFファンたちと交流し、居場所を見つけていくという、当時をリアルタイムに知るSFファン(特に海外SFファン)なら間違いなく共感しそうな青春物語である(ちょっとあざとい気はするけど)。
 そしてその実体は、魔法とフェアリーと邪悪な魔女ともう一つの世界に関わるダークファンタジーでもある。
 まずは第一の(そしてこれが本書をヒューゴー、ネビュラを受賞させた側面だと思うが)地方の孤独なSFファンが仲間を知る物語について。いやあ、ル・グィン、ディレーニイ、ティプトリー、まさに同時代のSF作家たち、作品名が次々と出てきて、若くて自意識過剰なSFファンが一人で(後半では地域の読書サークルのSFファンたちと共に)それらを批評し、感想を述べあうのが楽しい。そのとおりとうなずく人も多いだろうし、え、どうして? と疑問に思う人もいるだろう。ぼく自身その両方の感想をもったが、まあ周囲に話す相手がおらず、SFを一人で読んできた15歳の少女の感想なのだから、こんなもんだろう。ひとつだけ言うとしたら、キース・ロバーツの『パヴァーヌ』を読んで歴史改変SFとして評価するのはいいとして、ロバーツが見ている「古い人々」の存在をどうして無視できるのか。これも「信頼できない話者」のしわざなのか。
 本書で描かれるSFファンたちはやや理想的にすぎるかも知れないが、実感としてもこんな感じだし、納得ができる。ただ日本やアメリカのファンに比べれば、ファニッシュな側面が少なくて、すごく真面目な感じだが、地方だとこうだったのかも知れない。
 自分は人と違う、特別な存在だと自意識を肥大させてしまう年頃なのに、孤独なSFファンはさらにそれをこじらせてしまいがち。ファンダムに残るいろいろな言葉がそれを示している。
 で、本書のもう一つの側面、ダークファンタジーとしての側面について。モリによれば、気の狂った母は本当の邪悪な魔女で、自分と亡くなった(ある意味魔女に殺された)双子の妹は、フェアリーを見て話をすることもできる。またいくつかの魔法も使えるが、それはあからさまに超自然的なものというより、誰も気付かぬうちに偶然や運命をねじまげる類のものである。一見、中二病的な、ラノベ的な設定にも見えるが、中二病にしてはあまりにもリアリティがありすぎるので、ほとんど何かの症例研究のように読めてしまうのが困ったところ。
 確かに「信頼できない語り手」の語ることではあるが、ここはやはり語り手のいうままに、事実として読むのが正しいのだろう。となると、モリがSFファンであるなら、この二つの世界の存在をなぜそのまま放置できるのか。この分裂はとても気持ちが悪い。
 日本のアニメでもラノベでも、妖怪や神さまや異界の存在が日常的に存在し、主人公のまわりで二つの世界が交錯するのはよくある設定である。だがここにはそういう親しみやすさはない。フェリーはとても異質な存在だが、例えば冥王星人のような人間とは別の存在ではなく、人間と(とりわけモリのような魔法を知る人間と)密接な関わりがある。SFファンの合理性はむしろ冥王星人をこそ希求するだろうに。
 本書では最後までフェアリーと魔法は実在し、母の悪意は存在し、SF的合理性とは折り合おうとしない。傑作には違いないが、そこがぼくにはひどく居心地悪く感じるところだった。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』 仁木稔 ハヤカワSFシリーズJコレクション
 長編『グアルディア』『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』と書き続けている作者の未来史シリーズ〈HISTORIA〉に属する短篇集である。表題作と「はじまりと終わりの世界樹」、「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On,and...」「...'Story'Never Ends!」の連続する3編を含む5編が収録されており、最後の2編は書き下ろしである。
 妖精とか亜人とか呼ばれる人工生命体が人間より「劣る」存在として使役される、もう一つの歴史。彼らを犠牲にすることで、人類は〈絶対平和〉を確立した。表題作では妖精を憎悪し、遺伝子工学を敵視する原理主義者が、おぞましい事件を起こす。「はじまりと終わりの世界樹」はこの世界史の出発点となる、〈遺伝子の母〉たる少女の物語で、ティプトリーのいくつかの短篇を彷彿とさせる、傑作SFである。そして「The Show Must Go On!」以下の3編は、亜人たちに娯楽としての代理戦争をさせるゲームデザイナーを中心にした連作で、最後には〈絶対平和〉の崩壊が示唆される。
 本書は、もちろん現代世界の社会状況をこれでもかというぐらいに反映しているのだけれど、それ以前に、自立した世界構築をもつ本格SFの傑作である。ル・グィン(「オメラス」など)とのテーマ的な関連もそうだが、ぼくにはコードウェイナー・スミスを強く思い起こした。作者が意識しているかどうかはわからないが、このSF的な未来史はまさに<人類補完機構>の世界設定を思わせる。亜人はアンダー・ピープルに、遺伝子管理局は人類補完機構(むしろ、それ以前の訳語である福祉機構の方が似合っている)に重なる。
 もちろん違いはある。アンダーピープルが当時の被差別民を象徴している(動物だけど魂をもっている)のに対し、亜人は人類そのものの否定的な傾向を切り離すための存在であり、人間だけど魂をもたない(ように作られた)存在である。まあでもカワイイし、かっこいいよね。
 しかし、スミスの世界も決して単純ではない。そもそも、カワイイを冷酷で残酷な世界に置くことはスミスから始まったものではないだろうか。まあパラノイアックな50年代SFに、他にもあったかも知れないが。
 なお、ソ連のドミトリ・ベリャーエフが野生のキツネを交配してとても人なつっこい犬みたいなキツネを作る実験をしたのは事実で、たしかNHKでもやっていたし、Wikipediaにも記述がある。

『増補エロマンガ・スタディーズ』 永山薫 ちくま文庫
 2006年に出た単行本版に短めな増補が追加された、主に70年代以後の男性向き「エロマンガ」「美少女マンガ」を、きわめて網羅的・包括的に扱った「入門書」である。
 読んでいて、この文章はとてもなじみがあると思った。現場で、山のように実際のブツを見てきた人の文章だ。いわゆるアカデミックな評論家的視点ではなく、傑作もクズも大量の実物と生にリアルタイムに触れて、そこからボトムアップに個別にも普遍にも観点を広げていこうとする視線がある。その対象にどっぷりと浸かった人の生々しさがある。米沢嘉博の文章がそうだし、SFでいえば伊藤典夫や水鏡子もそうだ。要するにそのジャンルの熱心なファンの視点だ。
 著者は1954年の大阪生まれで、70年代から30年以上、アンダーグラウンドな雑誌の編集など業界の内部で働きながら、様々な評論活動を行ってきたという。うわー、年齢的にもごく近いし、業界は違うけれど親しみがもてるなあ。
 内容についていえば、まあ特殊な趣味に特化したマニアックな作品に関してはさすがにどん引きしちゃうので何ともいえないが(エロは好きだけどグロは苦手なので)、「普通の」エロマンガについては普通に納得できる。手塚治虫も永井豪も少女マンガもCOMもラムちゃんも、うん同世代だなあ。そして三流劇画系よりもロリコン系のマンガっぽいエロマンガを中心に論じるのも納得。とりわけ業界の栄枯盛衰、ジャンルの変遷の話題はさすがに面白い。
 なお、後書きで東浩紀も指摘しているように、本書ではレディースコミックやBLのような女性向きエロについてすっぽりと抜け落ちている。これは男性向けに集中したかったとか、そこまで広げるとこの枚数ではおさまらないとか、色々と理由はあると思うが、やっぱり何かひとこと欲しかったように思う。


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