内 輪   第287回

大野万紀


 既報ですが、本の雑誌社より、9月に『サンリオSF文庫総解説』なる本が出ることになりまして、先月と今月はずっと古い本ばかり読んでいました。おまけにSFマガジン9月号でもオールタイムベストの紹介があり、こっちでも昔の本を読み返すことに。というわけで、新刊がほとんど読めていません。今月は2冊だけです。
 7月26日に、大阪であった小松左京三周忌の『山本弘のSF秘密基地LIVE#36「小松左京の素晴らしき世界」』にゲスト参加してきました。小松さんの進化論についての考え方や、あまり触れられることのない作品について、いろいろとお話ししたのですが、そこで74年のMIYACONの話になって、あのときのパロディ版「日本沈没」がすばらしかったという話題が出ました。その後、mixiの方で、当事者のみなさんから、色々と当時の話を聞くことができました。脚本を書いたのは、残念なことに若くしてお亡くなりになった佐藤朗さん。演じたのは、田所博士が青木治道さん、山本総理が山本義弘さん、渡老人が小笠原成彦さんなど、当時の関大SF研メンバーが中心の配役だったとのことでした。ぼくも当時大笑いしながら見た記憶があります。懐かしいなあ。というか、このメンバーとは今でもほとんど毎年、SF忘年会などで会っているのですが。
 そして話題は、当時の、70年代の関大SF研創世記の武勇伝に。これがめちゃ面白い。今ちょど、80年代の大阪芸大を舞台にした、DAICONメンバーらの登場する「アオイホノオ」というドラマをTV大阪でやっているのですが(すごく面白いです)、思えばその前の世代も、同じようにアホなことに情熱をかけていたわけですね。
 MIYACONの「日本沈没」は、映像が残っていることがわかったので、今度の京フェスの合宿企画にでも上映できないかと、話をしているところです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』 チャールズ・ユウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 作者は76年生まれの台湾系アメリカ人作家。翻訳は72年生まれの円城塔。
 主人公の「僕」はタイム・ワーナー・タイム社に雇われてタイムマシンの修理とサポートを担当する技術者。友だちはおらず、いろいろとスイッチのある電話ボックス大の箱みたいなタイムマシンの中で、美少女人格をもったアニメ声のコンピュータ・プログラム、タミーと、薄汚い非実在犬のエドといっしょに、会社の所有する〈マイナー宇宙31〉の時空の中を行ったり来たりしながら過ごしている。社会人しているけど、ほとんど引きこもりに近い。
 そんな僕は、ほんのはずみで「もうひとりの僕」を光線銃で撃ってしまった。そこで生じたパラドックスのタイム・ループに閉じ込められ、僕はそこから脱出しようとして、『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』という本を書きながら、失踪した父を探そうとする。
 記憶とも幻想とも実在ともつかない時空の狭間の中で、僕と父のぎこちない痛切な関係が語られる。僕の父こそ、移民の身ながらガレージでこつこつとタイムマシンを開発した人物なのだ。だが彼は社会的には敗北し、発明者の名声も得られず、母と僕を残して失踪してしまった。
 ――というような物語は、タイムマシンのコンピュータを使って「僕」のつづる本の中に記録され、細切れの断片として語られる。お話自体が自己言及の中にあり、さらにこのタイムマシンとは現実の宇宙というよりは、人工的なマイナー宇宙(「SF的な宇宙」もそこに含まれる)の中の存在であって、その駆動の原理とは〈継時上物語学〉なのである。
 つまり、冒頭に引用されているドイッチェの「時間は流れない。時間とは数多の宇宙の特別な連なりにすぎない」という言葉通り、微妙に異なる無数の宇宙のバリエーション(ただし大域的で無限な存在ではなく、ある限界をもった有限でローカルな宇宙)の連なりを、意識で、言語で選択していくことによって時間線というものをバーチャルに存在せしめているということである。
 作者は(イーガンが塵宇宙を語るように)数学的な概念を援用しつつ、この人工宇宙と物語的時間旅行の概念をイメージさせようとする。数学や言語と意識の関わり、それが家族の個人史につながる。このあたり、まさに円城塔自身の作品とも通じるところだといえる。
 実は日本の読者だけの特権かも知れないが、本書は自己言及性を本書の中だけに閉じず、円城塔の作品(「松ノ枝の記」)に組み込まれることによって、より大きく複雑なループ構造をもつことになった。「まるで円城塔の作品を読むようだ」といわれるのも、テーマや文体だけのことではないだろう。
 さて、ひとことでいえば、インターネット世代の『銀河ヒッチハイク・ガイド』という感じの本書だが、後半はそういう軽みから遠ざかり、わりと湿度の高い父と子の物語になってくる。そもそもここでタイムループというのが無理っぽい。うーん、作者には失礼な言い方だが、いっそ円城塔の作品だったなら、もっと面白く、知的な魅力に富んだ作品になったかも知れないと思う。面白くないわけじゃなく、知的じゃないわけでもないが、ちょっとくどくて、疲れるのだ。まあタイムループだからくどいのはあたりまえか。
 だけど、ここで描かれる深い感情、例えば「ノブレス・オブリージェ」という言葉への激烈で重い感情。とうていノブレスじゃない僕たちは、そんな言葉の前には沈黙するしかない。そんなところに現代を描く文学としての痛切さが満ちている。

『SFマガジン700【海外編】』 山岸真編 ハヤカワ文庫1
 SFマガジン創刊700号記念の短篇集で、こちらは黒い表紙の【海外編】。
 SFマガジンに掲載され、著者の短篇集には未収録の(アンソロジーなどには収録されたものがある)傑作を集めたものである。詳しいことは編者の解説に書かれている。
 クラーク「遭難者」、シェクリイ「危険の報酬」、マーティン「夜明けとともに霧は沈み」、ニーヴン「ホール・マン」、スターリング「江戸の花」、ティプトリー「いっしょに生きよう」、マクドナルド「耳を澄まして」、イーガン「対称(シンメトリー)」、ル・グィン「孤独」、ウィリス「ポータルズ・ノンストップ」、バチガルピ「小さき供物」、チャン「息吹」の12編が収録されている。
 超有名な作品から、あまり知られていない傑作まで色々だ。もっともクラークのように、今読むとちょっと古いなと思えるような作品(レーダーの開発にクラーク自身が関わっていたことを知れば、また違った目で見えるだろう)や、ウィリスのように、SFマニアじゃないと喜べないような(これはジャック・ウィリアムスンへのオマージュ)作品も含まれているのだが。
 SFマガジンの創刊号に載ったのに、まったく古びていないというか、現代そのものと思えるのがシェクリイの「危険の報酬」だ。シェクリイ作品は玉石入り交じっているが、きちんと再評価されるべきだと思う。
 マーティンの「夜明けとともに霧は沈み」は、異星のエキゾチシズムに溢れる作者の初期作品だが、ホラーっぽい描写に持ち味がある。
 ニーヴンはブラック・ホールが話題だったころの懐かしい感じのハードSF。
 スターリング「江戸の花」はSFマガジンが世界初出という記念すべき作品だが、ちょっと初期の小松左京や風太郎を思わせる文明開化の幻想譚。
 ティプトリーの「いっしょに生きよう」は晩年の作品で、ユーモラスで心温まるという、当時ずいぶん作風が変わったなと思わせたものだ。頭の中で唱える歌が面白い。
 マクドナルド「耳を澄まして」は、ナノテクの暴走というお得意のテーマだが、長編だと少し冗長になるところを見事な切り口で短篇にまとめている傑作だ。
 イーガンの「対称(シンメトリー)」は短いが、理論物理・数学的ハードSFという、ちょっと「ルミナス」を思わす短篇で、この作品を理解するには、まずわれわれの時空(空間3次元と、時間1次元が区別される)と、構造が異なるエキゾチックな時空とが共存しうるということを仮定しないといけない。用語の意味がわかりにくくて読み直してしまった。「四等価次元空間」というのは、空間と時間の区別がなく、4つの次元がすべて対称な時空で、ビッグバン〈以前〉に存在したという。それが実験の結果、瞬間的に現れ、すぐに崩壊して「二等価次元空間」になった。これは空間2次元と時間2次元が直交している時空で、時間軸が2つあるという、とても想像のしにくい時空だ。それがわれわれの時空(「三等価次元空間」というのか)に包み込まれるように存在し、その界面にまた「四等価次元空間」もわき出してくる。すごいイメージだけど、頭に描きにくい。そもそも彼らはどうしてそれが「二等価次元空間」だとわかったのだろう。
 ル・グィン「孤独」は文化の多様性と共存についての思弁小説(スペキュレーティブ・フィクション)。読み応えある話だが、文化相対主義というのは時々すごく居心地が悪く感じる。どちらが「正しい」とはいえないのも確かだが、彼女らの文化もまたひとつの抑圧ではないのか。レズニックの「空にふれた少女」や、最近のボコ・ハラムのことなども思い浮かべた。正直、こんな世界には住みたくない。
 バチガルピ「小さき供物」も短いが衝撃的な作品で、「第六ポンプ」へとつながる環境汚染の物語。ここでまたぼくは小松左京の「静寂の通路」を思い起こした。
 チャン「息吹」はよくできたSF寓話で、熱力学の、エントロピー増大の法則を真の「冷たい方程式」として扱っているのだが、宇宙という閉じた系の中で、知性はどう生きようとするのか、という問題を、じっくりと心に染みる物語として描いている。


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