内 輪   第290回

大野万紀


 サンリオSF文庫総解説といい、京フェスでのMIYACON話といい、このところ昔話をすることが多くなったのですが、SFマガジンの12月号「ラファティ特集」を読んでびっくり。山本雅浩さんが「ラファティのモノカタリ」と題して評論を載せているではありませんか。これはもちろん屈指のラファティ論となっているので、ぜひ読んでいただくとして、山本さんといえば、もう30年ほど前、当時の京大SF研で、じんきちさんとして名前をなした優れた論客なのです。懐かしさにおおっと声を上げましたね。卒業後、就職した某企業の研究者として活躍しているとは聞いていたのですが、こんなところでまた文章を読むことができるとは。ぜひまた、あの切れ味鋭くユーモアにあふれた評論を書いていただきたいところです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『プリティ・モンスターズ』 ケリー・リンク 早川書房
 やっと読んだ。評判通りの傑作短篇集。あんまり怖くはないが不思議で不気味なホラーというのが一番わかりやすい表現かも知れない。ホラーであり、幻想小説であり、SFである。
 収録作は、既訳の短篇集『マジック・フォー・ビギナーズ』と『スペシャリストの帽子』とかなり重なっているが、再読したという感じがしない。読む度に、違う話を読んでいるようなカオスな感覚がある(単に忘れているだけという気もするけどね)。ショー・タンの幻想的なイラストが各編の扉についた10編が収録されている。
 「墓違い」は死んだガールフレンドの墓を暴こうとした少年が間違った墓を暴いて、死んだ女の子にからかわれる。ホラーなのに怖くはない。でも、この話を語っているあたしって誰かと思うと、不思議でぞっとしてくる。
 「パーフィルの魔法使い」はファンタジイで、戦乱の世、魔法使いが棲むという沼地の塔に売られた少女が、離ればなれになった少年と心を通わそうとする。すごく寓話的で、不気味な雰囲気がある。
 「マジック・フォー・ビギナーズ」では謎のテレビ番組「図書館」が物語のこちらとあちらをつなぎ、離婚の危機にある夫婦と、子どもたちと、番組の中の主人公と、怪物たちと、様々なレベルでフラクタルな相互乗り入れをしている。この「図書館」がすばらしく魅力的な世界で、ある意味ではディック的な墓穴世界なのだが、また楽しい冒険に満ちているのだ。傑作。
 「妖精のハンドバッグ」は異国から移民してきた祖母のハンドバッグの中に、もうひとつの世界があるという、わりあいわかりやすいファンタジイで、すんなりと物語にはいっていける。
 「専門家の帽子」は、森の中の詩人の館に住む、父親と双子の子どもたちとベビーシッターの物語。詩と魔術が大きな力をもち、明示されない不気味なできごとが、物語全体に重くのしかかっている。
 「モンスター」はサマーキャンプに来た少年少女たちがモンスターに遭遇する話だが、あきらかにモンスターとは幼く野蛮なかれらそのものなのだ。
 そして「サーファー」。表面的にはストレートな近未来SFとして読めるし、ファーストコンタクトものでもあるし、主人公の父親がSFファンというSFファン向けの楽しみもあって、一番好きな作品だ。全世界にパンデミックが広がる中、医者である父と、そのころはソフトウェア大国になっているコスタリカへ逃れたサッカー好きな少年。体育館に隔離され、閉塞された小世界で、栄光と挫折を味わう。これは、ぼくにはティプトリーの傑作「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」を強く想起させられた。さまざまなレベルでのあこがれと挫折。神のようななにものかにすがりつきたい感覚。片想いの気分。
 「アバルの治安官」も不思議なファンタジイで、魔法使いの母と娘の話。邪悪な魔法使いだったはずの母が、なんか普通っぽい人間になっちゃった。毎日沸いて出る幽霊たちを掃いて捨てないといけないとか、とてもユーモラス。
 「シンデレラ・ゲーム」はショートショートで、再婚した両親のもと、幼い義理の妹とシンデレラごっこをすることになった少年の話。わりと日常的。でもシンデレラごっこってこんな怖いものだったのか。
 最後の「プリティ・モンスターズ」も作者らしい傑作で、海辺の町で少し年上の少年にあこがれる少女の、ロマンスものっぽいストーリーと、学校に伝わる通過儀礼的な儀式で、犠牲者となる少女を山の中へ拉致する女の子たちの物語が、それぞれ別の物語として語られつつ、これまた互いに侵犯しあい、批評しあい、そこから派生するもうひとつの、これは純粋にホラーとしか呼べない物語が呼び出されて、ついにはすべてが混淆し、その恐怖になだれ込む。これも傑作だ。
 ひとつひとつがじっくりと読むことを要求する作品で、確かに読むのに時間がかかったが、堪能した。

『クトゥルフ少女戦隊(1)』 山田正紀 創土社
 創土社の日本作家によるクトゥルー神話シリーズ〈クトゥルー・ミュトス・ファイルズ〉の一冊。
 正直いって、ぼくは山田正紀(の作品)とはどうも相性が悪い。ぶっとんだ設定や饒舌な語り口というのはむしろ好きな部類なのだが、そして実際面白いと思うところも多いのだけど、なぜかミスマッチ感が強いのだ。本書もそうで、客観的にはむちゃくちゃやってて面白いなあと思うのだが、どうも乗れない。クトゥルー、戦闘美少女、異能バトルと、ラノベ風、アニメ風、オタク風なアイテムがあふれているのに、どこか外部の視点で、それへの共感が感じられず、ちょっと白けてしまうのだ。こんな言い方があっているのかどうかもわからないし、もしかしたらすごく失礼でピント外れな言い方かもしれないが、山田さんって、オタク系じゃなくてサブカル系という気がするのだ。
 ぶっとんだアイデア、変な連想を呼ぶ言葉、科学的な用語のとんでもなく外した使い方、そういったものは面白いし、パンクで、バロックでいいのに、アクションの途中でドライブ感を止めてしまう長い長い説明口調はちょっとイヤだ。饒舌はいいけど、長すぎるわ!
 山田さんも、思いついたダジャレやおやじギャグを、どうしても使いたくてしかたのない症候群にかかっているのかも知れない。ダジャレといって悪ければ、言葉の自由連想。もちろんそれが効果的な場合もあるのだが、うざい、と思う瞬間がある。そうなるともうダメだ。先端的な科学用語や、宗教的、文学的概念、あまり聞いたこともないような用語を使った自由連想な組み合わせ爆発が、面白いというよりひたすら混乱を招く。本書で展開される小松左京論も含め、読み応えのある要素も多いのだけれど。
 あー、とにかくGがいっぱい。それだけでもうダメ。でも続編も読まなくちゃなあ。そう思わせるだけの力は確かにある作品だ。

『妖怪探偵・百目(1)朱塗の街』 上田早夕里 光文社文庫
 異形コレクションに載った「真朱の街」の設定とキャラクターを生かした連作短篇集。書き下ろし1編と「小説宝石」に掲載された4編、それに序章がついている。
 妖怪と人間が共存している近未来の日本の街が舞台。ホラーかファンタジーか、いやむしろ「ゲゲゲの鬼太郎」を思わせるような設定だが、内容はどちらかというとSF風味の強いハードボイルド・ミステリだ。
 「続・真朱の街(牛鬼編)」は設定と登場人物の紹介編。絶世の美女妖怪・百目が経営する探偵事務所と、その助手の相良邦雄。かれはある因縁から百目に雇われている人間で、気の弱い元科学者の若者だ。その実、人間社会に背を向けた世捨て人でもある。そして妖怪酒場のマスターで、百目や邦雄と仲のいい妖怪・牛鬼。ここでは導入編として、かれら主人公たちのキャラクター紹介と、先端科学とオカルト、人間と妖怪や使い魔たちが共存するこの街の妖しい魅力が語られる。
 「神無しの社」ではこの街にただ一つ残る神社での初詣に行った邦雄たちが、ある妖怪と出会う。ここまでは、わりあいささやかな、ぬるい事件が描かれるのだが、次の「皓歯(こうし)」では暗いミステリの雰囲気が前面に出て、さらに「炎風」で大きく転調し、そして「妖魔の敵」では本格的なオカルト・アクションが描かれて、一挙に物語が動き出すことになる。
 「皓歯」はこの街へ流れてきた母と子の人情話に妖怪がからむのだが、ここで警察庁の妖怪事件を専門に扱う部署と、その刑事・忌島が登場する。かれもなかなか魅力的なキャラクターだ。ホラー的に始まるが、ストーリーとしてはやや弱いこの話の後、「炎風」は本書で最も興味深く、読み応えのある作品となっている。妖怪・かまいたちが起こす凄惨な殺人事件が主題の、アクションも多い、まさにハードボイルド・ミステリなのだが、もう一つのテーマが人間そっくりの反応を示すヒューマノイド・ロボットであり、何と妖怪とロボットの恋という、SF的なテーマが前面に出てくる。オカルトとSFのハイブリッドといえばクトゥルーものなどがそうだが、ここではさらに現代SFよりの、意識、共感といったテーマが描かれていて、それが人ならぬ妖怪と関わるのだから面白い。
 そして「妖魔の敵」では、本書の中でずっと背景に描かれてきた、妖怪たちを抹殺しようとする陰陽師、蘆谷道満の流れを引く凄腕の拝み屋、播磨遼太郎が登場する。かれと妖怪たちの壮絶な闘いが始まるが、これはそのプロローグであり、物語は次作へと続く。妖怪と人間のなあなあな共存というこのシリーズの大設定からすれば、それを破壊するようなこの物語が、どのように進んでいくのか、興味深いところだ。

『はい、チーズ』 カート・ヴォネガット 河出書房新社
 未発表の短篇集。主に50年代の高級スリック雑誌に、スリック雑誌の読者を喜ばせ、家計を支えるために書かれた小品で、なぜか実際には出版されなかったもの。14編が収録されている。
 いずれもとても気持ちよく読めるお話だ。ほろりとした人情味もあり、意外性もあり、サスペンスもあって楽しめる作品集となっている。オー・ヘンリーみたいなよくできた話もあるし、ハラハラドキドキで、映画やTVドラマになってもいいと思われる話もある。それだけで十分なのだけど、そこはヴォネガット、単にもてなしのいいストーリーというだけでなく、そこに少しだけひっかかるような何かが含まれている。
 最初の3篇はいずれも、世間や大会社といった大きな体制・ルールの中で、それに波風を立てるような事件が起こり、最後は収まるところに収まる(そしていくぶんかの希望が見える)ような話。それは平穏な日常の中で、隠された思いをしゃべり出す装置だったり(「耳の中の親友」)、従業員に無関心な大企業の中で、無為な時間をすごしているサラリーマンの前に現れた新人の女性社員だったり({FUBAR」)、地域の平穏を乱すような小説を書いた主婦だったり(ヒポクリッツ・ジャンクション」)する。しかしそれらは決して大きな体制そのものを揺るがすようなものではない。最初の装置は、まさに悪魔のささやきであるが、女性社員も主婦小説家も、悪ではなく、善や悪ではとらえられない小石なのだ。
 「エド・ルービーの会員制クラブ」は殺人犯として追われる男のサスペンス。この作品や、催眠術師との闘いを扱った恐怖劇「鏡の間」、おそるべき殺人のアイデアを語る「はい、チーズ」などには、ディックと同様なパラノイアックな時代性を感じる。
 「セルマに捧げる歌」は音楽の力をかりて歌い上げる人間賛歌、「この宇宙の王と女王」は寓話風に描かれた貧富の差による暗い悲しみと、ほっとする結末、「新聞少年の名誉」の描き出す人間の勇気と尊厳、これらの作品には、ややべたではあるが、人間性というものが信じられた時代の、前向きな明るさが感じられる。
 SF的な題材を扱いながら愛情のもつれに帰結する「ナイス・リトル・ピープル」や、スターリン体制を批判する「化石の蟻」のような作品もあれば、するどいオチを重視した「ハロー、レッド」、「小さな水の一滴」、「説明上手」といった作品もある。中でも親子関係と夫婦関係という違いはあるが、その真実の暴露を扱った「ハロー、レッド」と「説明上手」のオチは強烈だ。
 本書でぼくが一番好きなのは、うだつのあがらない独身サラリーマンの夢みたいなファンタジイである「FUBAR」。ミュージカル仕立てにすれば楽しいかも。大森望の、卒論ネタを赤裸々に暴露した訳者後書きも面白い。

『NOVA+ バベル』 大森望編 河出文庫
 日本SF大賞を受賞したオリジナル・アンソロジー〈NOVA〉シリーズの続刊はプラスがついた。8編が収録されている。
 宮部みゆき「戦闘員」。ごく普通の日常生活の細やかでリアルな描写がゆっくりとしたペースで積み重ねられていく。一人暮らしの老人、少年、公園の老女……。庶民的な生活の一コマ一コマは著者の並外れた描写力により、その心情に共感を呼び、その姿が目に見えるかのように描かれる。これが宮部みゆきのわざだとわかってはいるのに、そこに差し挟まれる非日常の、客観的にはあり得ない異物が、しだいにその影を大きくしていくのを、どきどきしながら読み進めてしまう。SFとしてもホラーとしても決してすごいという話ではないのに、このみごとなストーリーテリング。最後の一言には熱い血を感じて、叫び出したくなる。
 月村了衛「機龍警察 化生」では、事件捜査の過程で明らかとなった〈機龍警察〉シリーズの重要なSF的背景の一部が描かれている。だが謎はますます深まったともいえるだろう。
 藤井太洋「ノー・パラドックス」はタイムトラベルテーマの新機軸ともいうべき超絶本格SFである。タイムゲートの発明で、21世紀から28世紀までの間、ワームホールで作られた二つの時点間の時間旅行が可能となった。過去は変え放題、過去が変われば未来も変わる。過去の自分とも共存できるし、自分殺しも可能。「原因なんてなくていい。矛盾はない!」結局、並行宇宙間を意識の同一性でもってつなぐと考えればわかりやすいのだが、それを複数の登場人物でやるともう大変。一人称で描かれているので、とりあえずその複雑さを意識しなくても物語は面白く読めるのだが、ちゃんと理解しようと思うと、コンピュータでグラフ化しないといけないのではないか。よくもまあこんな話を思いついたもんだ。傑作。ユーモアタッチで描かれており、エンターテイメントとして魅力的なキャラクターたちが登場する。とりわけ20世紀生まれの、刑事コロンボを思わせるベテラン調停者フォークがステキだ。そして彼とコンビの、26世紀に木星系で製造された、ちょっと魔女っぽい作業体の美女アイシア。ふたりの活躍はもっと読みたい。
 宮内悠介「スペース珊瑚礁」は、宇宙の借金取り〈スペース金融道〉シリーズの最新作。今回は博物館に勤めるアンドロイドの借金取立てで、アンドロイドと人間の悲しい歴史が背景にある。まるでスマホのゲームみたいなネットゲームや、プログラムに関する実感のこもった語り、SF経済学とでもいうべきこの世界を動かすアイデアも面白いが(でもちょっと無理があるような気がする)、しかし非情なボスのユーセフって、実はすごいやつだったんですね。それにリュセ教授の可愛いこと。最後のオチも決まっている。
 野﨑まど「第五の地平」は、モンゴルのチンギス・ハーンが何と宇宙征服を目指す話。そのぶっとび方にはびっくりするが、さらに驚くのは、これが遊牧の大草原を平面から5次元へと広げようとする、次元SF、数学SFとなっていること。というか、図も使って、ほとんどそれだけを語る話なのである。数学SFといっても別に難しい議論があるわけではないが、このぶっとび方には、ちょっとベイリーのバカSFを思わせる。
 酉島伝法「奏で手のヌフレツン」は、生きた太陽や月(巨大な蟲っぽい)が凹面状の大地を這い、選ばれた人々(人間ではなさそうだけど)がその太陽の足となる異世界での、主人公である奏で手のヌフレツンと家族の物語である。また音楽SFでもある。例によって漢字を組み合わせた独特の造語が幻想的で、リリカルな雰囲気をかもし出しているのだが、この世界は明らかに人工的な球か円筒の内部世界なのであり、小林泰三っぽいハードSFな側面も強く感じられた。
 本書の表題作である長谷敏司「バベル」。未来のイスラム世界(ソマリアに軌道エレベーターが建造されている)が舞台で、主人公のハリムは、カイロでビッグデータによる流行予測を行う会社のプロジェクト・リーダーである。グローバルなインフラ作り(それが世界の共通言語=バベルとなるものだ)を目指す彼は、ローカルなイスラム社会での、暗黙のルールや人間関係のしがらみと衝突する。だが、そんな社会的ストレスこそが集団としての人々の行動をコントロールするアトラクターだとして、新たな高みへの挑戦を開始する……。ビッグデータ、3Dプリンタ、カオス系のシミュレーション、そしてボコ・ハラムやイスラム国のようなテロリズム。そういったきわめて現代的なテーマを近未来のイスラム社会に落とし込んだ力作であり、傑作である。この作品の中心にある、社会集団に関する未来予測を高い精度で行うことが社会を変革していくというテーマは、瀨名秀明の「Wonderful World」とも共通するものだが、瀨名が「倫理」「メタファー」という言葉で集合的無意識のようなものを人間集団のアトラクターとして捉えるのに対し、長谷は意識や意味の解釈をできるだけ廃し、「ストレス」という力学的なものをアトラクターとする(確かにその方が現実には扱いやすいだろう)。そんな違いも興味深いと思った。
 最後の円城塔「φ」は、筒井康隆の「残像に口紅を」のように、しだいに文字数が少なくなって、最後は空になるという実験小説だが、それ以上に記号で作られた宇宙の論理構造を描く、一種の数学小説でもある。イーガンやチャンのような物理学にベースを置くものではなく、数理論理学がベースなので、記号で表現されるものである小説についての、自己言及的なお話ともなっている。重要なのは、ここで記号=文字の操作、演算、解釈を行っているのは一体誰かということではないだろうか。文字がだんだん少なくなっていくという、見た目ではわかりやすい小説だけに、よく考えると頭が痛くなり、わからなくなる。
 しかし、それにしてもこれだけの作品が集まっているとは、何とも豪華なアンソロジーであり、日本SFの豊穣さを感じさせる作品集である。


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