続・サンタロガ・バリア  (第155回)
津田文夫


 先月書いた新しいステレオセットでの発見というのは、カセットデッキで再生した40年以上前のテープが結構いい音で鳴るというか、音の輪郭がはっきりしたことだった。特に生録はリアリティが増して新鮮だった。FMライヴ放送のダビングも面白いし、NHKテレビで放映した「ザ・ピーナッツ・ショー」のダビングを聴いても鮮度が上がったように聞こえる。ザ・ビーナッツの師匠である作曲家宮川泰率いるジャジィなバックバンドは結構達者だが、当時最新のロック「対自核」ではエレキのノリがイマイチなことが分かる。
 手持ちのCDをあれこれ聴くと、当たり前のことだけれど、音の輪郭がはっきりすることと演奏そのものの価値はあまり関係が無い。特にクラシックは茫洋とした音だったときの方が感激しやすかった。買い換えて一番感心するのは、いわゆるオーディオ・チェック用CDの音である。オーディオの神様のひとり故長岡鉄男御用達のセイシェル島の波の音CDを聴くと、以前より波の打ち寄せる音の位置が低くなり、波しぶきの泡立つ音の粒がより細かくはっきり聞こえてくる。
 デジタル時代のステレオにはやはりデジタルの録音が良いかと思って、たとえばサイモン・ラトル/ベルリン・フィルのマーラー「復活」を聴いてみると、元々ピンとこない演奏だけあって、以前のステレオに比べ見事に分離するオーケストラの各パートの輪郭の濃さだけが目立つだけで、相変わらず寝てしまいそうな退屈さを覚えた。最後の3分は神鳴る曲なので、さすがに目が覚めるが、もう一回聴く気にはならない。
 デジタル録音で新しいアーチストを聴いてみようということで、近所の家電量販店の半額CDワゴンで見つけたアリス=紗良・オットのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番(2009年録音)を買って聴いてみた。伴奏はトマス・ヘンゲルブロック指揮のミュンヘン・フィルだ。これが音は間違いなくイイが、演奏には全く反応できないシロモノだった。ビックリしてケンペが同じミュンヘン・フィルを率いて67年にネルソン・フレイレのバックを務めたCDとギレリスがロリン・マゼール指揮のフィルハーモニア管弦楽団をバックに弾いた72年録音のCDを聴き直してみた。この2枚はどちらも素晴らしい演奏で、ギレリスはチャイコフスキーがこの協奏曲を献呈した恩師のピアニストにワシの指を壊す気かと突っ返されたというエピソードを思わせるノリの良い演奏だし、ケンペのオーケストラ・コントロールにはひたすら感心するばかりで、第3楽章の終結部/コーダに入る一瞬、息を止めるかのように置かれたわずかな間が聴く者に緊張感をもたらし、キメがきちんと決まる。
 紗良=オットはテクニック的には十分だが、チャイコフスキーの書いた音を演奏機械的になぞっているだけに聞こえる。ヘンゲルブロック指揮のオケもケンペのバランスを知っていると主旋律ばかりが目立ってオーケストラの旨味が出てこない。紗良・オットの見事な音響のピアノを聴きながら、思い出したのはアブデル・ラーマン・エル=バシャのピアノだ。エル=バシャは紗良=オット以上に明快な音響とピアノのコントロールができる技量の持ち主だが、何回か書いたように、その演奏がピンとこない。紗良=オットにも同じような感じがあるということは、おそらくクラシック演奏においては90年代頃にひとつの演奏様式の時代が終わったということを意味しているのかもしれない。要はこちらの好きな20世紀後半の演奏スタイルがもはや現代の演奏家には受け継がれていないということなのだろう。そういえば21世紀になってスタンダードなオケのレパートリーのCDがあまり発売されなくなったことにもその様式の切断が影響しているのかもしれない。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ20冊目となるケン・リュウ『紙の動物園』は、編訳者である古沢嘉通による日本独自の第1短編集。15編を収録。本国でも第1短編集が出るか出ないかのうちに日本で独自に短編集が編まれるのは、古澤さん自身を含めてそれなりにコアなファンが(商業出版を可能とするだけの)一定数いるということなのだろう。
 世評の高い表題作や「もののあはれ」が好きではない。この手の感覚ならば、これまで数多くの日本の作家たちが表現してきたように思うのだ。そりゃ、欧米の読者や若いSFファンには新鮮だとは思うが。しかし、この短編集の良さはケン・リュウのヴァラエティ豊かな短編群の優れたサンプルをそろえて見せたところにある。最初の2編のようなものからハードSFっぽいのやパンクっぽいものまで、叙情を主としたりアイデアを披露することに力を入れたりと、技のデパートみたいなところがある。ブラッドベリからテッド・チャンまでなんでもござれ的な器用さだけれど、オリジナリティはしっかりとあって読んでいて嬉しい短編集であることは確かだ。

 飛びつくような新刊SFがないので、筒井康隆編『70年代日本SFベスト集成4 1974年度版』に手を出す。40年前に読んではいるのだろうが、全く忘れている。かろうじて記憶に残っているといえるのは、小松左京「夜が明けたら」、諸星大二郎「生物都市」、かんべさんの「決戦日本シリーズ」くらい。筒井の傑作「佇むひと」でさえ、読み出してから、この話だったとようやく思い出す始末だ。
 豊田「渋滞」、星「有名」、田中「スフィンクスを殺せ」、永井豪「真夜中の戦士」そして半村「フィックス」を読むとこの時代のイラつきが伝わってくる(真城昭「砂漠の幽霊船」と亜羅叉の沙「ミユキちゃん」も含めていいかも)。以前誰かが70年代はシンドい時代だったと云っていたけれど、それがよく分かる。
 河野典生の『街の博物誌』の1篇「トリケラトプス」と石川喬司「夜のバス」がそのイラつきから少し離れている。特に「夜のバス」は紀田順一郎の回想記を読んだこともあって心に残った。

 新潮文庫から出ている10巻構成で編まれたこの100年の名作短編集成はすでに刊行を終えたが、今回読んだのは『木の都 日本文学100年の名作第4巻 1944-1953』。収録作は織田作之助から室生犀星まで15編。この集は筒井のSFアンソロジーと違って、作品から伝わってくる時代の気分が期待したほど明確でない。太平洋戦争末期から敗戦、戦後混乱と朝鮮戦争そして占領の終了・日本独立というめまぐるしさとその時代の気分をわずかな数の短編でつたえることはむずかしく、そればかりを反映する作品を並べることは編者たちの選ぶところではなかったのだろう。
 織田作の表題作は、太平洋戦争が激化する前の大阪郊外にあった古レコード屋との付き合いを綴った1篇。端正な文章が気持ちよい。結末では、ある日訪れるとこの店は廃業しているわけだが、それが太平洋戦争開始とともに出された「企業許可令」や翌年の「企業整備令」によって戦争の役に立たない商売「平和産業」が一掃されていくことを反映していると思われるのに、解説では一切触れられていない。
 この集にはいくつかこの時期の有名作が選ばれていて、坂口安吾「白痴(はくちがワープロ変換できない)」や島尾敏雄「島の果て」、太宰「トカトントン」そして井伏「遙拝隊長」あたりが選ばれている。確かにこれらは戦中戦後を扱って代表的な短編だけれど、15編を読んだ後ではこれらの短編がこの集のイメージを決定づけてはいないのだった。
 どちらかというと豊島与志雄「沼のほとり」のような戦時中の市井の1エピソードの静けさや永井龍男「朝霧」のようなちょっとメタフィクションがかった作品、そして松本清張の明治初年ものの1篇「くるま宿」やその後の剣豪小説のティピカルとなった五味康祐「喪神」それに中国戦線の一兵士を主人公にした長谷川四郎「鶴」といったエンターテインメントが印象に残るのだった。最後の室生「生涯の垣根」は庭造りの話。

 上田早夕里『妖怪探偵百目2 廃墟を満たす禍』は第1巻に出てきた強力な祓い師「拝み屋 播磨遼太郎」を巡るエピソードで構成された連作短編だが、起承転結でいえばまだ承あたり。最近の上田早夕里のエンターテインメントは小説技術がかなり安定していて、読んでいてあまり抵抗感がない。そのかわりビックリできないというもどかしさがある。ある意味、中堅作家としてのプラトーに達しているともいえる。
 『薫香のカナピウム』も読んでみたけれど、こちらはSFとしてかなり力が入った設定を創り出している。ただオビで「少女のビルドゥングスロマン」と書かれてしまうと、それなりの心構えが読む方にできてしまうので、その部分がやや常套に見えてしまうのはもったいない。オリジナルな設定に対して物語の方が定型になっていると感じるのもその所為か。でも、物語作りがスムースなことはここでも証明されている。

 翻訳SFがちょっと品切れなので、ついにスタニスワフ・レム『ソラリス(新訳版)』に手を出す。レム・コレクションのハードカバーは買ってさえいなかった。
 学生時代に読んだのはSF全集版で、どちらかというと『砂漠の惑星』の方が面白かったという記憶がある。タルコフスキーの映画は大阪中之島のホールで見たけれど、原作の印象とはかなりかけ離れていたように感じた。でもわりと好きだった。ハリーはエロチックだったと思ふ。
 ということで新訳版を読むのはやはり初読に近いようだけれど、頭の中にはすでにいろいろな情報が入っているので、そこら辺との兼ね合いで率直に読めないかと思っていた。ところがさすがはレム。読み出したらそんな雑念なんぞとは関係なくソラリスの世界が脳裏に現出するのであった。
 プロローグで主人公が宇宙船からステーションに乗り移るところから始まっていたのをようやく思い出す。『ソラリス』は、そのメカの古めかしさやニュートリノ物理学の時代遅れをものともせず、ホラーとして、ミステリとして、なによりもSFとして最高のレベルで成立している作品であることが、改めて確認できた。悲劇が喜劇であり、絶望が希望であり、理解し得ないものが驚異であり、それでも人間は生きていく。
 と、レムに心酔していたら、レム・コレクションの『短編ベスト10』が出たので、さっそく突撃。見事に粉砕されてしまった。
 昔から「泰平ヨン」シリーズとは相性が悪かったのだけれど、まずは「航星日記・第二十一回の旅」の内容のすごさと話づくりのギャップにめまいがする。これに続く「洗濯機の悲劇」「A・ドンダ教授 泰平ヨンの回想記より」そして「航星日記・第十三回の旅」も読むのが大変。その論理と思考の及ぶところは決してユーモア小説とは呼べないだろう。
 「泰平ヨン」に比べれば、不気味で技巧の極地をゆく怪奇小説「仮面」(昔「SFマガジン」で読んだときも好きだった)や宇宙飛行士ピルクス・シリーズの1篇でよく出来た宇宙船幽霊譚「テルミヌス」は非常に読みやすい。「ロボット物語」やトルルルとクラウパツィウスの寓話的短編はその中間にあるようだ。

 フィリップ・K・ディック最後の翻訳長編『ヴァルカンの鉄鎚』は、買って読み出したら、あっという間に読み終わってしまったディック流ジェットコースター小説。それにしてもこの時期のディック・ワールドは面白い。作品内の雰囲気は50年代の時代相を色濃く残しており、人類が自ら1台のコンピューターにすべてを委ねていること自体がこの時代の典型的ディストピアである。しかし、ディックの反抗心と小説作法上の節約が物語をジェットコースター化しており、ディックの個性が横溢していて味わい深い。

 石川喬司「夜のバス」をしみじみ読むことができたのは、紀田順一郎『幻島はるかなり 推理・幻想文学の七十年』のおかげである。
 紀田順一郎は横浜本牧の旧家佐藤家に生まれたが、父は日銀のサラリーマンだった。その父は終戦時40歳で死去。紀田本人は虚弱体質で内向的な性格、そして蔵と呼ばれた木造倉庫に大量の本があり・・・と典型的な読書人の生い立ちの始まりである。只の本好きから本格的な職業人としての本読みに変化していく過程とその中で出会った多くの人々(そのうちの重要な人物のひとりが「夜のバス」で回想される故人O・Sこと大伴昌司だ)との関わりが語られるところは、まさに紀田順一郎ならではの回想といえる。ただ紀田の書き手としての礼儀正しさからか、いわゆる熱さは感じられないが、それでも重厚な思いの丈は感知可能である。
 これはこの書物の価値とは関係の無いことであるけれど、以前も書いたように当方に推理小説への共感があまり無く、幻想小説には何人か大好きな作家・作品があるため、勢い荒俣宏や国書刊行会の幻想文学大系の成立に興味がわき、また平井呈一のエピソードも興味深く読ませてもらった。SFファンとしてはなによりも大伴昌司との関係を詳しく書いているところが嬉しい。
 

 積み残しのノンフィクションはまた来月にでも。


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