内 輪   第298回

大野万紀


 久しぶりに仕事が重なって、今月はあまり本が読めませんでした。読みたい本はどんどん出るので、積ん読がますますたまっていきます。ほんと、どうしたものか。目で1ページ1ページスキャンしながらではなく、USBか何かで直接頭にダウンロードできたらいいのに(それを読書というのか)、なんて思ってしまいます。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『泰平ヨンの未来学会議』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫SF
 何と映画化されるということで改訳・復刊された1971年の長編である。長編としては短いが、内容は凝縮され、ずっしりとした読み応えがある。
 未来学というのが、いかにも七〇年代を思わせるが、小松左京が批判されながらも何とか明るい未来を見ようとしていたのに対し、レムはもうあっけらかんと真っ暗だ。もちろんそれは、未来を予測してというよりは、現代の人間たちの本性をえぐり出すことによって描かれたものである。ブラックな、グロテスクなユーモア。だからそれは時代を越えて、21世紀の今読んでも、まったく古びることはない。
 現実よりも表面的な物語を重視し、あらゆるものが幻想のベールで覆われ、真実よりも自分の見たいものを見ようとする人々。そしてそのことを薄々であっても知りながら、目を覚まして地獄を見るより、空想のお花畑に生きようとする人々。後半でヨンの見るベールの下の姿は、笑っちゃうくらいにグロテスクでおぞましいが、でもそんな一生懸命な人々に何となく愛おしさすら覚えてしまう。それほどまでに絶望的な世界。
 ヨンが出席した未来学会議の最中にテロ事件が起こる。だがテロリストにも鎮圧しようとする軍隊にも、本質的に大きな違いはなくて、レムはそんなことには興味をもたない。それより、そこで使われた強力な幻覚剤の効果による、何重にもなった一種の夢オチの世界を、執拗に描写していく。すべては幻覚だったということにしてもいいし、さらにひっくり返してそれこそが現実だったとしてもいい。それよりも、この限りない認識のループの中で、人間のおろかさ、どうしようもなさ、愛おしさ、哀しさが増幅され、津波となって押し寄せてくる。幻覚の描写や様々な名前、用語が、訳者の腕により(ちょっと古めかしく感じるところもあるが)見事に訳されていて、それも読みどころである。

『ヴァルカンの鉄鎚』 フィリップ・K・ディック 創元SF文庫
 最後まで残されたディックの未訳長編という売り文句だが、その昔、訳す価値無しと誰かがいっていた記憶があるなあ。
 でもディックはディック。ディックの”駄作”は決して読むに耐えない話ではなく、いろいろと辻褄の合わないところがあっても、とにかく読ませる。B級という言葉には肩の力を抜いた娯楽作品という肯定的な響きがあるが、ディックのB級SFは、それだけではなく、その背後に何か不気味で底知れないディック・ワールドといえるものが覗いているのだ。
 本書でもそうだ。本書は1960年の作品で、エース・ダブルの片割れとして、いわゆる安物の娯楽SFとして出版された作品であり、内容はというと、人類を支配しようとするコンピューター〈ヴァルカン3号〉と、その決定に従うだけの世界連邦のエリートたち(その中で懐疑を抱く主人公)、そしてその支配をくつがえそうとする〈癒しの道〉教団の、三つどもえの戦いを描く、ディストピアものである。魔神のようなコンピューター、官僚主義に毒され、権力を目ざして権謀術策に明け暮れるエリートたち、暴動で人が死ぬのもやむを得ないとするカルト的宗教団体。どれもろくなもんじゃない。主人公である北部アメリカ弁務官のバリスだけは、その中でまともというか、人間的な心をもった人物として描かれている。そして次から次へと襲いかかる苦難。だがバリスはそれに立ち向かっていく。くり返される裏切り、戦い、謎、迫力ある描写とあいまって、読み応えは十分あるのだが、あらためて全体を見ようとすると、何が何だかわからなくなる。
 ヴァルカン3号が悪者で、バリスが良い者だとはわかるのだけれど、みんな一体何をしようとしているのか。整合性はなく、悪夢のようにその場限りの論理であれよあれよと動いていく。重要な役割を果たす女性レイチェルにしても、かなり意味不明な行動をとるのだ。結果として表れてくるのは、非人間的なもの、機械的な組織、心をもたないシュミラクラに対するディックの恐怖、嫌悪である。それこそ、ディックの根源的なテーマといえるものだ。
 *初登録時にタイトルの漢字が間違っていました。大変失礼いたしました。(冷汗)

『怨讐星域 1~3』 梶尾真治 ハヤカワ文庫JA
 『1・ノアズ・アーク』、『2・ニューエデン』、『3・約束の地』の3冊に分かれているが、三部作というわけではなく、31編の短篇による連作長篇である。SFマガジンに2006年から連載が開始され、2014年まで断続的に描き続けられてきた作品だ。
 2000枚という大作だが、一つ一つの短篇はそれぞれがほぼ完結しており、短くて、とても読みやすい。
 太陽フレアによる地球の滅亡が数年以内に迫っていると発表された。だがその時にはすでに、アメリカのアジソン大統領と選ばれた3万人だけを乗せた世代間宇宙船ノアズ・アークが、地球を捨てて172光年彼方の〈約束の地〉へと向かっていたのだ。取り残された人々は、大統領と旅だった人々を呪い、復讐を誓う。その誓いがかなう時がきた。驚異的な転送装置が発明され、人間を瞬時に遠い異星へも転送することができるようになったのだ。多くの人が転送装置によって〈約束の地〉エデンへと向かった。だが、その星はほとんどが海で、転送の精度も十分ではなかったため、たどり着けた人々はごくわずかだった。彼らは、ほとんど着の身着のままで、恐ろしい土着の生物たちがいる世界に、家族も民族もばらばらになって、放り出される。彼らはそこで未知の生物と戦い、未開の状態からしだいに文明社会を再建していく。ノアズ・アーク号で逃げ出した連中がやがてここにやってくる。そのとき、徹底した復讐を果たすことを誓いながら。そしてまた地球には、転送を受け入れずに残った人々もいる。彼らは彼らで、おだやかな最期を迎えようとしていた。
 というわけで、物語はおもに宇宙船ノアズ・アークと、〈約束の地〉エデン、そして残された地球の三カ所を舞台にして、およそ時系列にそって様々なエピソードが語られていく。だが、SF的なアイデアや政治的・社会的な大きな物語は背景として語られるのみで、ほとんどはそういう状況の中での、普通の人々の、ごくささやかな日常が描かれていく。時には大きな事件も起こるが、描かれる観点はあくまで等身大の、一人一人の目から見たものである。
 SF的にはすごくオーソドックスで、3万人の乗る恒星間宇宙船や物質転送といったテクノロジーがごく近未来の時代背景とミスマッチな感じはあるけれども、そこは特に問題ではない。それよりも異常な世界の中での平凡な日常、とりわけ、滅亡する地球に残った人々のエピソードが心に残った。破滅を前にした世界なのに、頭のおかしい男たちがマンガみたいな車に乗ってヒャッハーと走り回るわけでもなく、まるで現代の、人口減少する地方での普通の日常生活みたいな、ボーイ・ミーツ・ガールが描かれる。そんな、心に染みるようなエピソードが多い。
 だからこそ〈怨讐〉というテーマにかなり違和感がある。その違和感がピークに達するのが最後のエピソードだろう。作者もこの言葉をもてあましていたのではないだろうか。そしておそらく悩んだ末に、この結論を選んだのだろう。そしてそれは正解だったと思う。
 *初登録時にタイトルの漢字が間違っていました。大変失礼いたしました。(冷汗)


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