今年開かれる第54回日本SF大会(島根県米子市)の企画の一つに「海外SF研究会(KSFA)とは何だったのか? あるいはサンリオSF文庫のあとさき」というものがあります。そもそも私は参加しないのですが、出席者はジジイばかり(私もそうですよ、はい)なので記憶が怪しいから、お前が資料を準備せよとの編集長ご下命を受け作成しております。どうせこの通りには進まないだろうけどね。とはいえ、大会参加できない人にでも分かるように、KSFAが何をしてきたのか、サンリオ文庫を基準線にした俯瞰図(下記)を基に、成果の一覧をここに披露しておきます。
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1970年代初めごろ、戦後の高度成長期が終わろうとしていました。日本の高度成長は、国民の収入が上昇する時期と、若い労働人口が増大する時期とが重なった、相乗効果=消費市場の拡大によるものとされます。しかし、それを支える安いエネルギーコストがオイルショックで失われ、円安固定された為替レートが変動相場に移る中で、高度成長も終焉を迎えます。そういう社会の不安感が、1973年の『日本沈没』ブームとも結びつくのです。
70年代半ばは、賃金は今日比4分の1、国家予算は10分の1といった規模でした。物価も安かったとはいえ、まだ貧しかったのです。それがバブル崩壊までの20年間に4倍増し、ほぼ現代の水準に達しています(以降、失われた20年の大停滞期に入ります)。
SFでは、関西の大学SF研創部ラッシュが起こっています。中高生でSFに触れた世代が、大学に入っても類似クラブがないので、個別に立ち上げていた時代です。大学間の交流も盛んでした。
そんな中で生じた1つのエポックに、筒井康隆が主導するネオ・ヌルとSHINCONがあります(→@)。この経緯については、過去に詳細に書いています。既存の大会を凌駕するプロフェッショナルな大会という考えで、最初で最後の企画も多数投入されました。参加者数が1000名を越えた最初の大会です。KSFAと直接関係はないのですが、このとき作られたファンジンが後にインパクトを残したため、重要な関連項目として記載します。
SHINCONの影響が現在まで及ぶ例として、ちくま文庫から復刊されている70年代の『日本SFベスト集成』があります。
当時の筒井さんは既にSFプロパーから離れ、一般小説誌で活動していたのですが、大会を盛り上げる一環で、多くのSF企画を引き受けていました。同アンソロジーはその一つです。例えると、日本SF作家クラブの50周年キャンペーンを一人で張っていたようなもの。それぐらい実行力があったといえます(40歳になったばかりですから、当然なのかも)。SHINCONを知る人は少なくなりましたが、その関連成果は今でも手に取ることができるわけです。
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SHINCONを目指したファンジンの1つが「れべる烏賊」(→A)です。コミケやフリマも一般化していない時代なので、翻訳の同人誌を売る機会はSF大会くらいでした。ガリ版、手製本、限定100部というとても原始的な冊子です(当時はこういう手作りスタイルも多かった)。ただ内容は、コードウェイナー・スミス特集4作、ル・ヴィンやラスらを含む女流作家特集6作、ディレイニー特集では『エンパイア・スター』(サンリオSF文庫に改稿収録)一挙掲載など2作、ラファティ特集2作、他にボブ・ショウなどもあり、いま見ても呆れる内容です。4月に販売開始すると早々に完売。
これでは売るものがないと、お金を集めてタイプ印刷(注)の翻訳誌Millenniumを作成、同誌にはミラーの「大いなる飢え」、スタージョン「帰り道」(これらは後にSFマガジンに転載されます)、C・スミス、ベスタ―、ライバー、シマックなどが載っていました。SHINCONの手伝いもしながら5月から始めて8月には完成と、当時の大学生(自分のこと)はどれほどヒマだったのかと思います。
(注)タイプ印刷はワープロのように自分で版下を作れません。原稿をまず書いてから、専門業者に頼むため、印刷まで相当の時間を要します。
さて、SHINCON前年の1974年暮れ、喫茶リーブル(注)に桐山芳夫(同志社SF研)、安田均(京大SF研・第2期)、寺尾まさひろ(大阪大SF研)が集い、SFファングループには創作系と内輪ゴシップ系はあるが翻訳専門がない、新しいグループが必要だと合意。KSFA=関西海外SF研究会が設立されます。
@の神戸大、関西大、SF研未所属のマニアOBからも参加者が現われ、最初のプロジェクト『ヒューゴー賞完全リスト』(→B)が企画されます。ヒューゴー賞に挙げられた未訳作品を「全て読んで」紹介するというものです。序文浅倉久志、協力伊藤典夫と、うるさ型を事前に抑える万全の体制です。SHINCONを目標とするも、完成は10月になりました。しかし出ると大きな評判を得て、1年後には奇想天外の別冊としてほぼ企画丸取りで出版。
(注)曽根崎ではなく大阪西梅田の旧旭屋書店にあったもの。当時の建物は木造でした。この地区は阪神系のビルに再開発され、過去の面影はもうありません。
オービット全6号(→C)は安田均編集による個人誌です。執筆者がKSFAのメンバー中心のため、関連に含めました。KSFA設立趣旨に則った翻訳と書評(SFマガジンの採点表もありました)を行うファンジンです。毎号特集を組み、詳細な解説を載せるのが特徴。
最終号は水鏡子が編集長になり、「SFのくだらなさ」を特集して物議をかもしました。大森望がファンレターを書いたのもこの頃です。
現代SF全集全5巻(→D)は米村秀雄編集による翻訳アンソロジー叢書です。ハヤカワのSF全集をパロディ化した全35巻別巻1なのに、内容は冗談ではなく100ページもある翻訳です。編者が好む手書き謄写版ながら、さすがに印刷製本は業者に依頼しています。最初の1巻アンダースン&ディクスンは、埋もれた《ホーカ・シリーズ》を復活したいという情熱だけで出したもの。稲葉明雄の翻訳を無断で載せるという暴挙も。
これを含めて、アンダースン&ディクソン『くたばれスネイクス!』、ニーヴン『ガラスの短剣』、プリースト&ショウ『リアルタイム・ワールド、思いがけない明日』、エリスン『驚異のパートナー』、ファーマー『奇妙な関係』と、それぞれの短篇集を抄訳した内容でした。月報つき。
SFセミナー77(→E)KSFA主催のオープンな催しとしては唯一のもの。詳細はこちら。発表者がそれぞれのテーマについて、学会形式で6つの研究成果を発表するというガチな内容でした。対談やインタビューなどのぬるい企画はなし。最後には記述式の試験を行い、採点結果を返却。ゲストの柴野さんは途中放棄、あまりの点数の悪さに蒼ざめる人も。
この集まりの名称は、そのまま東京の「SFセミナー」(1980〜)に移り定着しています。
SF年鑑1981(→F)SFの出版を年次で総括する年鑑はない、翻訳、創作を問わず全てをレビューしてみようという趣旨です。岡本俊弥編集。「SFチェックリスト」欄など書誌情報はあり、まとめ易い環境にはありました。とはいえ、注目作、ベスト推奨作の要約レビューなど、編纂を進めるうちに200ページを越え、総製作費は倍増、国立競技場並みのスキャンダルに発展。こっちは事後なのでどうしようもないですが。
「SF年鑑」は翌年から東京に移り、版元を変えながらも1986年まで継続されました。1982年SFファンジン大賞(最初のファンジン大賞です)で、翻訳・紹介部門を受賞しています。
NOVA-Express
通巻56号(→G)簡易で手早く情報を送る手段としては、LOCUSのような月刊情報誌が有効です。この頃アメリカでは、CompuServeなどのパソコン通信萌芽期でしたが、時間制の通信費を含め何しろコストがかかります。Niftyができるのは1987年、まだまだ紙の時代です。最初は海外情報のみでしたが、やがて国内の出版関係情報、レビュー、コラム等を掲載。3号まで大野万紀編集、以降20号まで岡本編集、この後吉田守、阿部寿、島田武など主に神戸大学関係者が編集を務めました。
体裁は手書きオフセット、20号は特別にタイプオフセットにしたもの。架空レビューなども載っています。阿部寿編集の途中からは完全にタイプオフセットにグレードアップしました。200人程度の購読者があり、当時学生の大森望などが発送係を担当。
NOVA-Quarterly
通巻4号(→H) 月刊NOVA-Eが休刊したのち、情報欄を縮小し、レビューとコラム専門の季刊誌として独立。岡本が編集。毎号デザインを変えてアクセントを付けています。途中まではタイプオフセット、出版間隔が空いた最後の60号(1990)のみ、PCワープロ出力のオフセットです。NOVA-Eの号数を引き継いでいます。
60号の内容は今でもオンラインでも読めます。1983年SFファンジン大賞
レイアウト部門受賞。
NOVA-Monthly通巻27号、ゼロ号からなので28号か(→I)
NOVA-Qが滞っている1989年に東京で誕生。大森望編集で始まり、20号以降は浜田玲、古田尚子編集。旧NOVA-Eのレガシーを取りこみ、プロ情報やプロのコラムなどを大胆に取り込んだ紙面構成でした。
東京編集なので「関東」海外SF研究会を名乗っていましたが、ルーツはKSFAのNOVAなので含めています。NOVA系はこのNOVA-Mで途絶えました。
京フェス(京都SFフェスティバル)1982〜(→J)
「SFセミナー」は東京で再開されましたが、その関西版をやってみようという発想で始まったものです。創始者は大森望、後に小浜徹也もサポート。京都大学SF研が主催するので、継続性に課題があったものの、創始者自ら毎年参加するなど強力指導の下、もはや古都の伝統行事となっています。
初期の企画はKSFAメンバーが主力。若手作家や評論家などがたくさん出演しました(写真は第1回の一場面)。また、KSFA10周年、25周年のパーティは京フェスと同時に開催しています。
Thatta文庫
全60冊?(→K) 米村秀雄編集。翻訳叢書というか、コピーホチキス止めの小冊子に翻訳小説(短編、中編、長編を問わず)を載せ、完結するまで何巻でも出し続けた異色ファンジンです。しかも種類はとても多く、どこまで出たかも正確には分かりません。途中までで未完も多数。翻訳者も複数いて、中村融まで参加しています。
同じコピージンなのでthattaの名前を冠していますが、thatta本体とは特段の関係はありません。1986年SFファンジン大賞
翻訳・紹介部門受賞。
Thatta 通巻122号(→L)
詳細はこちらを参照。寺尾まさひろ編集でスタートした後、片岡俊、池原宏、菊池久美子らが編集を歴任。会員制コピー誌で、大半の購読者がプロか業界関係者という機密ファンジンです。内容は執筆者次第、どんな話題で何を書こうが編集者からのお咎めなし。校正もしてくれません。なので、13年間122号も続いたのでしょう。
俯瞰図にはありませんが、このあと執筆者を絞りながら、大野万紀編集の公開オンライン版に移行、通巻300号を既に越えています。同時期に始まり18年を経過した岡本編集のBookReviewOnlineも、このthattaの流れを汲むオンラインレビュー誌です。KSFA最後の系統、Thatta系はこうして生き残っています。恐竜が鳥になったようなものか。たぶん、編集者が死ぬまで続くことでしょう。
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