続・サンタロガ・バリア (第159回) |
同志社大学SF研究会45周年祝賀会のため4ヶ月ぶりに京都へ行ってきた。朝9時前の新幹線に乗り10時30分過ぎに京都駅に、その後四条河原町へ出て、新しい丸善に行くか、清水寺へ行くか思案して、とりあえず南座向かいのバス停で東山五条行きのバスを待っていたら、外国人観光客がステップまで溢れかえっていたので、徒歩で清水寺を目指すことにした。
学生時代5年いた京都だが、神社仏閣に興味なく、以降毎年京都に行っているのに清水寺に行くのは初めてだ。南座の西通りを下り適当に左折していったら、なんとJRAの場外馬券売り場にぶつかった。細い道をひっきりなしに乗用車が通り、大勢の警備員が交通整理をしており、右手には建仁寺が見える。建仁寺を過ぎて東大路に出て、そのまま坂道を上って突き当たりで右折、あとは2年だか3年だかの坂を上るばかり、ようやく観光客でごった返す道に出た。人出のほとんどは中国人の団体客と思われる。とりあえず拝観料300円を払って舞台まで行くと奥の方の舞台は建物が修繕中でネットをかぶっていた。早々に退散して出ようとしたところ、人気の無い門の奥に石碑が3つ並んでいたので、覗いてみると西郷南州がどうたらこうたらと書いてある。月の字も見えたのでこれはと思い、廻りを見たら標柱があり、やはり勤皇僧の月照と信海の碑だった。フーンと思いつつ坂を下る。暑さと脚の疲れに坂の途中の喫茶店に入ったら12時もだいぶ過ぎたというのに客の1人も入ってない。レイコを飲みながら暇そうなママさんと少し世間話をしていたが、やっぱり誰も入ってこない。ガラスの向こうにはワンサカと人が流れているのに。店を出て、来た道を降って東大路でバスに乗り、再び四条河原町で降りて12番のバスで堀川下長者町を目指す。会場には開始時間の14時より少し前に着いた。
5年ぶりに会う先輩・同輩・近い年代の後輩は相変わらず。5年分の容姿の衰えは自分も含めて致し方のないところ。45年間続く大学SF研はいくつかあるけれど、創立者がずっと現役学生を見守って来たところは同志社だけだろう。それにしても隔世の感を抱くのは、現役学生たちが読書会をメインの活動としているところだ。自分が現役の頃は、あの頃どこも同じの麻雀クラブだった。ただそれに加えて毎月数十ページのガリ版ファンジンを出し、学園祭には教室内にリングを組んでプロレス・ショー(100円だか200円だかの入場料で何十万円もの上がりがあった)をやっていたのだから、恐るべきエネルギー(の無駄遣い)だった。そんな連中が60を過ぎた今も事あればワヤワヤ集まってくるのだから、現役生もさぞかし大変であろう。同情に堪えない。
ということで2次会まで楽しんで夜9時前にお開き、観光シーズンの京都ではまともにホテルは取れないので、日帰り。帰宅は午前1時前だった。
先月Mutoid Manのアルバムなどと一緒に購入した小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)による“GERMAN MASTERWORKS"は、ドイツ/オーストリア古典音楽の四大B、バッハ・ベートーヴェン・ブラームス・ブルックナーを集めたイタリア・デッカ・レーベル制作のボックス・セット。ただし、ブルックナーは交響曲第7番1曲のみ。基本的に松本サイトウ・キネン・フェスティヴァルでのライヴ録音である。
とりあえずベートーヴェンの交響曲全集を聴いてみた。録音時期は7番が1993年と少し古く、あとは1997年及び2001~2003年のもの。これまで手元にある全集は、フルトヴェングラー/ウィーンフィル(ただし8番がストックホルム・フィルで9番はあのバイロイト録音)、ケンペ/ミュンヘン・フィル、バーンスタイン/ウィーン・フィルの3セット。フルトヴェングラーが40年代後半から50年代前半の録音、ケンペが70年代前半のスタジオ録音でバーンスタインが77/8年のライヴ。これらの演奏の記憶を持って聴いた小澤/SKOのベートーヴェンの交響曲全集は、かなり不思議な印象をもたらす。全体にゆったりした感じのテンポを採っているが、特に7番がよくわからない。あのドンと始まって、あとはしつこいリズムを速く遅く繰り返す、「のだめカンタービレ」でも有名な曲が、なんと聴いている内に眠ってしまうのである。3回聴いたが、3回とも第3楽章で寝てしまうのだった。7番は生でもよく聴いたしFM放送でも聴きいてきたが、寝たことはない。だいたい眠れるような曲調ではないのだから。演奏時間はバーンスタイン盤とほぼ同じ、楽章毎の長短はあって、3楽章がバーンスタイン盤よりも40秒ほど長く、4者の演奏時間では最もゆったりとしたプレスト(きわめて速く)楽章だ。
ということで、久しぶりにバーンスタイン盤を聴いてみた。最初のドンも弱めで、健やかな演奏が始まるが、すぐにオケが踊るように乗っているのがわかる。ゆったりとした、それでいて強烈なリズムが終始感じられ、そのリズムが4楽章でついに爆発する。音は決して走らないのに、破壊力があり、まるでキング・クリムゾンの「フラクチャー」を聴くような興奮が沸く。これが7番の魅力であることは間違いない。
しかし小澤/SKOは、この興奮のリズムを表に出さない。5番でも9番でもこの興奮の仕掛けを強調していない。カラヤンがアニメーションの如く演奏する9番第2楽章でも、小澤はリズムの魔力に頼っていない。おそらく小澤は〈日本人オーケストラ〉のベートーヴェンを表出しようとしたのではないだろうか。ずいぶん昔に放送で聴いたヘルベルト・ケーゲル指揮のN響がほとんど暴走状態で9番の終楽章を演奏したことがあり、まるでフレンチ・カンカンみたいであきれかえった。小澤の日本人らしいベートーヴェンは、「そこはかとない」演奏であり、西洋的な強固な構築性の代わりに「なりなれる」音楽としてベートーヴェンを鳴らして見せているような気がする。その意味で、この全集は特異なのかもしれない。初めて聴くベートーヴェンの交響曲全集としてはオススメしないけど。
先月は、頼まれ仕事で仕事関係の読み物に追われ、読みたいものが余り読めなかった。単に集中力が無いだけともいえるが。
ダーウィン艦隊カメラマン石塚旅人シリーズ第2作とは知らずに読んでしまった小川一水『砂星からの訪問者(フィーリアン)』は、よく出来たヤング・アダルト向け本格スペース・オペラ。2作目だけあって、人類艦隊側の人間関係が所与のものとして書かれているので、やや飲み込みに時間がかかる。異星人フィーリアン(とヒーロー)の可愛さはよく書けていて、この作者の持つ甘い雰囲気がヤング・アダルト向けということでそれなりに中和されている。異星人の設定も危なげなく良質のスペース・オペラになっている。いわゆる字で書いたマンガである。
早川書房編集部篇『伊藤計劃トリビュート』は、730ページに8人の作家の中編を収めたアンソロジー。長編の一部を抜粋した作品もあると云うことだが、あまり気にはならなかった。
伊藤計劃トリビュートということで、どの作家もそれなりに伊藤計劃の関心・作風と関係がありそうな作品が並ぶが、最も異色なのは巻末の長谷敏司「怠惰の大罪」で、なんと改変歴史上の現代キューバの麻薬シンジケートものである。SFらしい小道具はロケーション推定マシンくらいしか無いという、徹底したノワール。組織内で伸していくチンピラのビルドゥングスロマンである。これで長編の第1部というんだから大したものだ。キューバの人が読んだら怒るかも。いや、苦笑いするか。伊藤計劃の関心の未来を描いたともいえる。
その点、藤井大洋「公正的戦闘規範」や柴田勝家「南十字星 クルス・デル・スール」は、伊藤計劃の第1長編からスピン・オフしたような作風で、「メタルギアソリッド」な世界を反映した伊藤計劃の志向を受け継いだ作品群だ。藤井大洋の方が作品に手慣れた感があるのは、キャリアの違いか。
長谷敏司に劣らずの異色作が仁木稔「にんげんのくに」で、いっときのマイクル・ビショップもかくやという文化人類学もの。描き方が非常にクールで、ある意味実験的/試験管的である。南米系という点では柴田勝家の戦闘ものと共通する。
吉上亮「未明の晩餐」と伏見完「仮想(おもかげ)の在処」はいわゆるワン・アイデアもの。「未明の晩餐」は、死刑囚の最後の食事と難民の子供を特異なメインキャラクターで結びつけた一種の力業だが、ちょっと型どおりな感じがする。一方、「仮想(おもかげ)の在処」は、育たなかった双子の片われと生き残った者の話のバリエーションで、やや強引な設定が説得力を弱めている。
伴名練「フランケンシュタイン三原則あるいは屍者の簒奪」を読むと、この作者のパステーシュ力がただならぬレベルで展開していることが分かるが、しかし、印象が薄いのはなぜだろう。王城夕紀「ノット・ワンダフル・ワールズ」を読んだら、ポールの『マン・プラス』を思い出した。
Project Itohのクライマックスに合わせたかのように、円城塔作品が続けて出た。長編の方はまだ読んでないけれど。
短編集『シャッフル航法』は収録作のほとんどが再読もしくは3読という、昔の水鏡子にいわせれば、お得感の少ない1冊ということになるのだが、円城塔なので無問題だ。何回読んでも分からないが、読むたびにそうなのかとは思うから。
数少ない未読作品である表題作は、冒頭で8枚のカードのシャッフルパターン(リフルシャッフル)を示して、句の並びがくるくると入れ替わっていく、5番目まで読んだときに元に戻ることは分かったが、理屈が分からない。最初のフルシャッフルの説明がさっぱり頭に入らないからだろな。あと「リスを実装する」と「Printable」が初読だけれど、どちらも言葉の具体性とイメージの具体性とが食い違っていて頭の中で逆回転するような感じがある。そのような感覚を引き起こす元が円城塔がよく使う説明にあることは分かっても、それがどんな説明なのか咀嚼できないのでいつまでたっても読めた感じがしないのだ。その点、この間再読したばかりの「φ」は、3読目ともなれば形のアイデアがよく分かるようになった。でも説明されていることは相変わらず記憶に残らない。「内在天文学」も普通のSFのように読めるようになったが、これはファンタジーだといわれればそうかもしれない。だから「イグノラムス・イグノラビムス」は、自作解説をしているのかもしれないなと思ったりもする。あと大森望のNOVAアンソロジーに載せた「犀が通る」、「Beaver Weaver ビーヴァー・ウィーヴァー」それに「(Atlas)3」は、それぞれ普通(!)小説・SF・ミステリと3部作を成してるように読める。「つじつま」はジュディ・バドニッツ「元気で多きアメリカの赤ちゃん」のあらすじとよく似ている。
翻訳はロバート・チャールズ・ウィルスン『楽園炎上』だけ。これまでの作品から作風はだいたい分かっているけれど、今回は敵の正体の説明に行くまでがかなり長いので、なかなか読み進めず、ちょっとイライラした。「緑の血」とか偏執狂的なレジスタンス・グループのリーダーとか、読んでる内に、これってもしかして50年代SFドラマなのかなあと考えていたら、「ウィンダムというイギリスの獣医師の行った研究」という一文に出くわして噴き出す。改編歴史を持ち込んでるのに、ウィルスンがその考察を少しもしないのは、必要とした設定が「電波層」(電離層じゃないよ、と大野万紀さんが解説に書いている)だったからだ。そしてキャラクターこそちょっと現代風だけれど、じつは「昔懐かしインヴェーダーもの」が書きたかったからなのだ。なんだか「ウルトラ・セブン」を思い出したなあ。
解説で大野万紀さんも「パラノイア」を強調していて、「まさに古典的パラノイアSF」と喝破しているし。
『薄情くじら 日本文学100年の名作 第8巻1984-1993』を読んだ。割と読み急いでいるのは、すでに全10巻が完結しているので、地元の本屋の棚から消えてしまう可能性が高いからだ。今回は深沢七郎「極楽まくらおとし図」から北村薫「ものがたり」まで14篇。最近話題の佐藤泰志「美しい夏」が入っているところがミソかな。その佐藤泰志と高井有一あたりが純文学風、あと宮本輝もそうかもしれない。しかし前にも書いたように文学という制度はすでに壊れていて、あくまで「風」である。「美しい夏」なぞ見事なまでの「純文学的」小説だが、その人工性は明らかで、だから「使える」作品となっているのだ。当然作者もそれを意識して書いているのだろう。田辺聖子の表題作や宮本輝の作品はもちろん大阪弁で力強いが、尾辻克彦「出口」の「下」ネタや深沢七郎の飄々とした不気味さも強さでは負けていない。山田詠美、中島らも、宮部みゆき、北村薫らのやや洗練されたスタイルの作品たちも個性では負けていない。しかしこれらは全て作品として個々に際立つだけだ。「掌のなかの海」という美しくも罅割れを感じさせる作品を書いた開高健は、生前文壇をさして「冷めた雑炊」と評した。ここにあるのは雑炊にならない個々のオイシイ具があるばかりだ。
前回掲載していただいた原稿は、なぜかノンフィクションのところが落ちていて自分でビックリしたのだけれど、Windows10と一太郎はまだ全然不安定で、最終稿がドキュメント扱いで登録されていたことが分かった。ということで一月前の文章を載せさせていただこう。
ノンフィクションはほとんど読んでなくて、積ん読の中から取りだした村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書 平成12年刊)くらい。
新刊で買った当時、前半の学生や翻訳学校の生徒とのやりとりが面白くなく、積ん読になった。今回は巻末に収録されたレイモンド・カーヴァーとポール・オースターを読んでから村上・柴田の訳を読んでみた。原文は活字が小さいので読むのに苦労する。読み比べると柴田訳は表面的な意味が取りやすく、几帳面な訳文である一方、村上訳はやや濁りの感じられる訳文で、その代わり一種の濃さがある。カーヴァーとオースターは対照的な作風なので余計そう感じられるのだろう。この2篇で読む限りカーヴァーはやや古い「奇妙な味」の作家であり、ポール・オースターは都会の知識人を自認しているややスノッブな作家に見える。後半の新進(今や一流)翻訳家たちとのやりとりは楽しく読めた。
戦後70周年で山ほど出た戦争関連の新刊には手を出さずに過ごそうとしていたら、平間洋一『日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰』が出たので読んでしまった。
平間さんはやはり20年以上前から仕事でお付き合いいただいた防衛大学/海上自衛隊出身の先生。初めてお会いしたときは小柄でエネルギッシュで、よくしゃべり、女性への配慮が細やかなおじさんだった。「大和ミュージアム」にも計画段階から関わっていただいている。
これは先生が専門とする第1次世界大戦と当時の日本の国際関係をメインに、軍事史的視点から日本の近代国際政治史をレビューしたもの。いかにも先生の著作らしく漢字が多くてページが黒いが、260ページを13章に分けて、国際政治における日本の身の振り方を手短に講義していて(読み慣れた人間には?)とても読みやすい。一般の歴史解説書に比べると、鎖国を解いて日の浅い日本が、どれほど多くの国との間で政治的駆け引きを強いられたかが描かれていて、平面的だった戦争の世紀が立体的に感じられるようになる。表題の日英同盟の評価についても情報量が豊富で、日英の多面多層的な関係がよく分かるし、トリビアなエピソードが先生のエンターテイナー的な性格を良く表わしている。
国際政治に関するリアリストとして最後に置かれた平間先生の提言は、今の日本では受け入れる人は少ないかもしれない。それは戦後日本のジレンマでもあるから。