第56回日本SF大会 ドンブラコンLL レポート

大野万紀


 ※このレポートは個人的なメモを元に記載していますので、不正確な場合があります。誤りがあれば訂正しますので、ご連絡ください。

 今年の日本SF大会は静岡市で、8月26日(土)と27日(日)に開催された、「ドンブラコンLL」である。
 ドンブラコンLLは、静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」を会場にした、都市型大会だ。
 昨年と違い、朝から素晴らしい天気に恵まれた。新大阪から乗った新幹線には、何とすぐ後ろの席に、理山貞二さんが同乗されていた。理山さんは今回は一般参加だそうだ。静岡に着いたのは11時前で、ぎりぎり開会式に間に合う時間だった。

会場のグランシップ SF大会の看板が立派です
 ホールで最初にあったのは、第48回星雲賞の授与式。星雲賞自体はもう1ヶ月ほど前に決定し、7月22日に発表されている。
 第48回 星雲賞は以下の通り。

 開会式の司会は池澤春菜さんがしていたのだが、星雲賞授賞式になって交代。まあもう彼女の受賞はわかっていたのだけどね。
 自由部門の受賞者は出席できず、代理受賞。今後さらに次の元素を発見したいとのことだった。
 ノンフィクション部門の池澤さんのスピーチ、「SFは他の世界に向けて開いた窓。その窓にとても救われた。SFの仲間はみんな”変”でした(会場爆笑)。みんなエイリアンでした。わたしもここにいていいんだと思いました」。
 アート部門の加藤直之さんは今65歳。今は絵よりむしろ科学技術に興味があって、宇宙船のデザインを(その原理から)考えたりしたいと思っているそうだ。65歳になってもまだまだ変わっていく。今度はアニメの設定をするのだとか。
 コミック部門は秋本治さんの「こち亀200回完結」。秋本さんが「下町人情もののはずが空想科学マンガだったとは」といいつつ「両さんという存在自体がSFです」との発言に拍手。
 メディア部門の庵野さんは忙しくて来られないということで代理が神村靖宏さん。星雲賞受賞について、庵野は何も言わないが、端から見ると嬉しそうにしているとのこと。
 海外短篇部門は2作が同時受賞。今年のワールドコンで撮影されたケン・リュウの受賞のことばと、同じくティプトリーの遺著管理人のジェフリー・スミスのコメントをワールドコンに来ていたパット・マーフィーが代読したビデオが流された。「シミュラクラ」は早川の梅田さんが代理受賞だが、訳者・古沢さんのコメントを代読。「今年はエリスン「死の鳥」があるので、まさか勝てるとは思わなかった。自分なら「死の鳥」に投票していた。これなら来年もケン・リュウで取って、星雲賞三連覇をめざしたい」だって。
 海外長編部門は、作者のピーター・トライアス本人が来日していて、訳者の中原さんといっしょに登場。中原さんは「ぼくは翻訳者であって通訳じゃない」といいつつ、トライアスのスピーチを要約する。
 日本短篇部門の草野原々さんは、いきなりテンション高く手を振り回しながら登場。声も1オクターブ高く、早口で聞き取りにくいが、どうも私は予言者だといっている様子。何だかよくわからないマニフェストを宣言していた。
 日本長編部門の小林泰三さん、さすがに草野さんの後だとやりにくそう。昨年はウルトラマン50周年。実は4歳のとき見たウルトラマンが原点であり、SFのポイントなのだそうだ。そう、とりわけ女性隊員が。十分面白いSFは怪獣と区別がつかないんだそうだ。

星雲賞授与式の後、受賞者の写真撮影 ずらりと並んだ「こち亀」

 最初に行った企画は「SFと生物と性的多様性」。色々と微妙なことがあるので詳しくは書けないが、とても刺激的で面白い企画だった。そこではLGBT(という言い方はおおざっぱすぎるのだが)の、様々な多様性の問題が、現実に生きる存在としての立場から論じられていた。まずは分類の問題。がある。@肉体の(遺伝子の)性が、男、女、そして先天的なInterSexualに分かれる。A性自認が、男、女、X(エックス)に分かれる。Xはさらに細かく分類される。B性志向(性愛対象)が、男、女、両性(男は男として、女は女として対する)、全性(性に関係なく対する)、NonSexual(人は愛するが性欲はない)、Asexual(性欲がない)に分かれる。@ABは独立事象なので組み合わせは大変なことになる(Xは一つではない)。さらに自認の性と他認の性が異なる場合もある。そんなややこしい性の泥沼から解放された世界がヴァーリイの世界であって、そこにとても居心地の良さを感じたという発言があった。

 2コマ目は、「荒巻義雄、最新作『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』を語る」へ。84歳の荒巻さんが新作について語るのだ。出演は荒巻さんを中心に、巽孝之、三浦祐嗣、高梨治、岡和田晃の各氏。三浦さんは荒巻全集の編集委員、高梨さんは出版社・彩流社の編集者だ。新作は白樹直哉三部作(『白き日旅立てば不死』『聖シュテファン寺院の鐘の音は』と本作)の最新作で、1年かけた書き下ろし。本来は死後に出すつもりのものを高梨さんが口説き落として書かせたという。特徴としては、マニエリスム文学を前面に押し出していることで、高山宏さんの解説もそうだが、荒巻さん自身も「SFはマニエリスム文学だ」という。
 荒巻さんはマニエリスムについて、リアリズムではないことを強調される。SFは何をやってもいい。現代は脳の時代であり、記号の時代である。文体はリアリズムでも、設定は何でもありでいいのだ、と語る。なお新刊の表紙には脳の写真があるが、これは荒巻さんの自身の脳だということだ。
 荒巻さんは84歳になっても執筆意欲旺盛で、『ビッグウォーズ』の新作については、今途中まで書いているが、マゼラン星雲へ行き着かないので行き詰まっている。でもそのうちWEBで発表予定とのこと。また、人間は記号でもかまわないと思っていたが、今はちょっと反省して、イエス・キリストを書こうと思っているとのことだった。ますますの活躍に期待が高まる。

 続いて、「追悼 山野浩一」へ。この7月20日に77歳で亡くなった山野さんには、ぼくも少なからぬ縁があり、ぜひともこの話は聞きたかった。出演は荒巻義雄、巽孝之、増田まもる、岡和田晃の各氏。ただし、ほとんど岡和田さんが中心になっていた。何しろ、山野さんの自宅で資料整理をされているのだから当然だろう。今、山野さんの評論集をまとめているところだという。
 山野さんは映画青年だった。若い頃のノートを回してもらったが、ものすごく緻密に書き込まれていた。そのころから点数をつけたり分類したりするのが好きだったようだ。山野さんが関西学院大学の学生のころ撮ったという映画の話もあったが、そこに出てくる昔の西宮の風景を見て、あの山は甲山ではないのかと思った。
 荒巻さんが出席されていることもあり、山野・荒巻論争の話を当事者から聞く。そもそも山野さんが「日本SFはアメリカSFの建売住宅にすぎない」と批判したのに対し、荒巻さんが日本作家を弁護した論争である。山野さんはSFという言葉を記号的に扱ったのに対し、荒巻さんはSFの意味や定義を考えようとした。荒巻さんの意見では、論争はそもそもがSFマガジンの覆面座談会に端を発しているという。荒巻さんは実際には山野さんと仲が良かったので、あれは山野さんの本意ではなかったのではないか、SFMに載った山野さんの論文には、福島さんが手を入れていたのではないかと疑う。
 山野さんの「NW-SF」誌は毎号百万単位の赤字が出たが、競馬評論の方でもうけていたので問題ではなかったそうだ。そのNW-SFで山野さんと親交のあった、ディーナ・ルイスさんのメールを巽さんが紹介する。ディーナは山野さんの訃報をほんの数日前、ツイッターで知ったのだそうだ。1974年に日本へ来て初めて読んだ日本SFが「鳥はいまどこを飛ぶか」だった。それを手紙に書くと、山野さんから箱いっぱいのNW-SF誌が送られてきた。英訳も許可してくれた。次に日本へ来たとき、山野さん本人に出会い、NW-SFワークショップのメンバーとなった。最後に出会ったのは2006年にアメリカへ帰る前のこと。その5年後、また日本に来たが、仕事が忙しく、また会うことはなかった。忙しいのでまた後で、また後でといつも思っていた。そのことを今とても後悔している、と。そんな感慨深いメールだった。

「荒巻義雄、最新作『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』を語る」 「追悼 山野浩一」 山野さんの映画ノート

 2日目。会場に向かい、ぼくも出演する朝一の企画へ。
 「SFはジャンルか? 思考か?」出演は、牧眞司、森下一仁、大野万紀、大倉貴之、牧みいめの各氏。会場はちょっと狭く、人が溢れていた。水鏡子をはじめ、小川一水さん、池澤春菜さん、高山羽根子さん、内田昌之さんといった人たちもいた(他にもたくさんいたはず)。
 牧眞司がまず、SFはすごい、と威張るのはダサい。それは日本すごいと威張るのと同じ。SFの特質といわれているものは、何もSFに特権的なものじゃない。それを威張っていうのは止めよう。と趣旨説明。シミルボンに書いた文章で、ケリー・リンクと話をしたときの印象がベースとなっている。ケリー・リンクは、今はもうSFと呼ばれるより主流文学と呼ばれたいなどということはなく、むしろSFとラベルづけされる方がいい。SF読者の方がむしろ普通の文学も読む傾向がある、とのことだった。ただし、リンクのいうSF読者は、いわゆるSFファンのようなコアなSF読者ではないだろう、と牧さんはいう。
 森下さんは、ジャンルというものは自ずから生まれるものだという。ただ、時代小説やミステリというような、小説の内容によって限定されるジャンルと、ホラーやユーモアのように、読者が読んで何を感じるかによって定められる、内容を問わないジャンルもある。SFはそちらのジャンルだろう。SFを読んで感じるもの、それが「センス・オブ・ワンダー」ではないか。その具体的な姿はよくわからいが、現実世界の構造をもちつつ現実を離れること、体験した人にとってしか伝えられないものではないか、という。
 ぼくは、SFはすごいというような意識はなくて、すごいSFがあるという意識の方が強く、そもそも子どものころ、恐竜や宇宙や未来世界といったぼくが好きだったものが、SFというジャンルに属するのだと知ったことがはじまりだ。宇宙や未来の話をしても、あまり反応がない友達と違って、SFが好きな友達は自分と同じ反応をし、ここに仲間がいるとわかった。それがぼくにとってのSFである。
 大倉さんは、『書架の探偵』を例に出しながら、そこで味わった面白さこそ、SFのセンス・オブ・ワンダーだったという。時代小説には、今の都会の読者にはわからないことだが、夜道が暗いということをしっかりと書き込んであるものがある。時代小説を読むことによる、夜の暗さの発見。SFでは、それがセンス・オブ・ワンダーにあたるのではないだろうか、と。
 それに対し牧さんは、センス・オブ・ワンダーもSFの専売特許ではないし、同じSF仲間といっても、マルペとバラードでは違いが出てくる。決定的な違いは、SFは方言を使うということ。それはガジェットであり、言葉遣いであり、フォーマットである。普遍的なものではなく、中の人間にしか通用しない方言ではないのか、と問題提起する。
 これは面白い指摘だと思った。ぼくは方言――ローカリティというのはとても重要だと思うし、SFのガジェットというのはかなり本質的なものだと思う。そういったすべてをひっくるめて、マルペもバラードも、SFとして読めるのではないだろうか。
 牧みいめさんは、一般の人にSFを勧めると嫌がられる理由として、宇宙や異星人や次元といったものがとにかく理解出来ないということをあげる。ぼくはイーガンのハードSFを例に、確かにある種の知識がないと、その観点からの面白さがわからないというものはあるけれど、それは歴史の細かな知識があるのとないのとでは歴史小説を読む面白さに違いが出るようなもので、決して本質的なものではないと思う。
 会場からも意見が出る。水鏡子は、図書館で働いていると、SF的なミステリやラノベを読む人であっても、SFには手を出さない傾向があるという。そこにはいわば不気味の谷があって、それを越えられない人が実際にいるのだ。一般の読者は、ミステリ作家がSF的なものを書いても読むのだが、SF作家の書くミステリには手を出しにくいというように。逆に、SFを読む人は、時代小説も純文学もミステリも何でも読む傾向がある。
 池澤春菜さんは、自分はSFをずっと一人で読んできて、お父さんの蔵書を手当たり次第に読んだが、書庫の一番奥に、そこだけものすごく好きな棚があった。それがSF、銀背や青背が並ぶ棚だった。そここそ、世界の窓が開くところだった、と語った。
 何しろ「SFとは?」というSFファンにとって本質的な、しかし正面切って語ることの少ないテーマだっただけに、まとまりはしなかったが、充実した会話がなされたように思う。できれば、もっと時間がほしかった。

 最後に聞いたのは、「ノベライズの魅力」。小浜徹也、井出敏司、高島雄哉、大谷津竜介の各氏による、アニメのノベライズというか、メディアミックスやコラボ企画の話。SF小説とアニメの関係についても語られた。
 まずは「ランドスケープと夏の定理」で創元SF短篇賞を受賞した高島雄哉さんが用意したパワポ。「想像力のパルタージュ 新しいSFを探して」「エンタングル:ガール 舞浜南高校映画研究部」(ゼーガペインのスピンオフ)といった話。またサンライズの渋谷さんが、矢立文庫(そういう名前のサイト)を紹介。昔の、アニメにならなかった作品の再活躍の場だそうだ。
 大会スタッフでもある大谷津さんが参加しているプロジェクト「ナニカ」は、ハンドベルに青春をかける女子高生を描くSFジュヴィナイル(?)というオリジナル企画だが、アニメ会社とも連携し、並行してマンガや小説も作るのだという。
 ここで『放課後のプレアデス』や『ID-0』などのノベライズをしている菅浩江さんが飛び入り参加。アニメのノベライズについて語る。アニメは現場が設定を把握している場合と、していない場合があり、していない場合は、アレどうなっているの?と聞いてもわからない。初めからノベライズ担当として参加している場合は、責任をもって設定を見ることができる。また、ノベライズには、普通にそのまま小説化する、外伝を書く、補完するの三種類があるという。菅さん自身は補完型。設定やキャラクタの心情を掘り下げ、筋の通ったものにしようとするのだ。井出さんは、『ID-0』ではアニメの後半の飛ばしている部分がきちんと補完されており、しかもこれは3ヶ月で二冊を書くという強行軍だったという。
 高島さんは、ウエイトの付け方について、小説とアニメには別のSF観があるという。SF考証をやっていると、アニメの人はSFファンが気にしないだろうというところを気にしがちである。そのようなズレがあるのだが、むしろポジティブにそれを捉えることができる。ノベライズはある意味SFの拡張であり、もう一つのSFとなるのではないかと。
 小浜さんがSF作家とノベライズについて。かつて川又千秋さんが「アリオン」のノベライズを映画と無関係なストーリーにして書いたことがある。それでも読者はついてきた。ノベライズはオリジナルの「にせもの」ではなく、むしろ「わかっている人向け」のものであるという。
 小浜さんと井出さんの、出版社には何ができるかという話。初めから出版社が主体的に動けるものと、依頼・提案を受けて後から出るものがある。宣伝としてのメディアミックスとメタSF的な面白がり方。二人とも、自分の読みたいものを出したくて、結局はコアなユーザ向けになってしまうのだそうだ。

「SFはジャンルか? 思考か?」会場の池澤さん 「ノベライズの魅力」

 とうとうSF大会もエンディング。ぼくは新幹線の時間があるので、暗黒星雲賞まで見てから帰ることにする。
 ホールに入ると、始まっていたのはジェンダーSF研のセンス・オブ・ジェンダー賞。2016年の特別賞は「シン・ゴジラ」の市川実日子。オタクキャラをきちんと演じたからだとのこと。今年は大賞はなくて、2つの賞になった。時をこえる賞は、「この世界の片隅に」が、映画・片渕須直とマンガ・こうの史代のコラボで受賞。未来に羽ばたくアイドル賞は、草野原々「最後にして最初のアイドル」。
 続いて全日本中高年SFターミナルによる空想科学小説コンテストの結果発表と、レトロ星雲賞。
 今年のレトロ星雲賞は1964年が対象。日本長編・光瀬龍「たそがれに還る」、日本短篇・山野浩一「X電車で行こう」、海外長編・クラーク「幼年期の終わり」、海外短篇・アシモフ「夜来る」、メディア部門・「ひょっこりひょうたん島」、ノンセクション部門・「三大怪獣史上最大の決戦」だった。
 次が日本ファンダム賞(柴野拓美賞)。今年はマダム・ロボこと立花真奈美さんが受賞。日本ファンダムを支え、古い3つのファンジンを「SFファンジン」に統合、2009年に人体改造されてマダム・ロボとなったという(本人によると、2007年から、もうネジをつけていたそうだが)。スタッフをしていて呼び出された立花さんは、涙を浮かべていた。「涙を流す機能も付いてるロボットでございます」という言葉が印象的だった。本当におめでとうございます。
 最後に暗黒星雲賞。副賞はラブカのぬいぐるみで、アレ欲しいの声が。企画部門は「三行で教えて」。ゲスト部門は、草野原々。次点は池澤春菜だが、池澤いわく「全然悔いが無い」。コスチューム部門は「サーバルちゃん」。中の人は3年連続同じです、とのこと。すごい。自由部門は「名札ケース」。大きすぎるのだ。担当者によれば、直前まで発注を忘れていて、前日に注文したら、これが届いたのだそうだ。注文書にはちゃんと「カードケースサイズ」と指定していたのに、というのだが。

 いつものように、見たい企画が重なって見られなかったりしたけれど、素晴らしい大会でした。スタッフのみなさん、お疲れ様でした。良い大会をありがとう。


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