内 輪   第326回

大野万紀


 映画『ブレードランナー2049』を見てきました。とても良い映画でした。前作を見ていなくてもわかるようになっているとのことでしたが、それはどうでしょう。とにかく前作を見てた方が絶対面白いし、なるほどそうなるのね、という感じで理解もしやすいと思います。
 長時間の映画で、正直言って前半は少し退屈。でも後半、物語が動き出してからはがぜん面白くなります。年老いたデッカードが登場するところでは(『スター・ウォーズ EP7』みたいに)じじいにとっては感涙ものです。前作を思わせる雨の中の殴り合いアクションもものすごく、いたるところに前作の雰囲気がアップデートして漂っています。
 とにかくこれは徹頭徹尾「記憶」についての物語ですね。改変された記憶、ものと結びついた記憶、自分を作り上げるものである記憶。互いに矛盾し、意味不明なものとなった記憶。そもそも本作自体が、前作の記憶がなければ成り立たないものだから。
 しかし何といっても一番良かったのは(多くの人がいっているとおり)、初音ミクかSiriか、そんなVRパートナーの進化形であるジョイ。ちょっと東洋系で可愛い感じがとてもいい。でも雰囲気はわかるけど、時々ついていけないところもありました。
 肉体をもつレプリカントはもちろん、VRのジョイにもあきらかに自意識はあるのですが、ジョイの意識って、3D映像の方にあるわけじゃないですよね。まあ、相手にそう見えるようにプログラムされているのかも知れませんが。この映画、それに限らず、細かなところはファンタジーだと思って見た方がよいのでしょう。
 とにかく、荒廃し、黄昏ゆく世界の寂寥感に浸りたい人、前作の雰囲気が心地よかったという人は、ぜひとも見るべき映画でしょう。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

柞刈湯葉『横浜駅SF全国版』 カドカワBOOKS
 『横浜駅SF』の続編である。プロローグやあとがき(これも小説の一部になっている)と、瀬戸内・京都、群馬、熊本、岩手を舞台にした4つの短篇からなる。
 一つ一つの短篇は独立しているが、その背景には、横浜駅と対峙している、JR北日本とJR福岡の物語がある。とりわけ高度なAIをもつアンドロイドをエキナカへ潜入させているJR北日本の物語が中心となる。
 この、人間の子どものようなアンドロイドがいい(特に、前作でも活躍したハイクンテレケちゃんがいい)。物語の時間は前後しているが、前作と共通の人物やアンドロイドも登場している。
 自己増殖する横浜駅という驚くべき物語が本書では背景に退いたことから、本書は人工知能テーマや文明崩壊テーマといった、よりオーソドックスなSFとして読める。文明崩壊テーマといえば、かつては技術文明が失われた後の世界を描くことが多かったが、今は人間を無視して技術が暴走し、人間は、その人間と無縁な機械的風景(テクノロジカル・ランドスケープ)の中でたくましく、細々と暮らすというものも多い(たとえば『BLAME!』のような世界観だ)。
 本書はもちろん後者である。技術に疎外された(というか無縁のものとなった)人間たちが、機械に囲まれて普通に日常生活を送っている。もはや本来の横浜駅とは関係なく、スイカとか自動改札とかいったシステムのみがインタフェースとして残り、知性の無い自立した粘菌みたいな存在となった横浜駅システム。それに呑み込まれた人々の生活にはさまざまな悲劇もあったはずだが、適応し生き残った人々は、それを異常とも思わずに暮らしている。
 しかし、そんな暮らし方に流されない人々もいる。本書ではそんな人たちが、外部の存在と関わるさまが描かれる。
 熊本編だけはちょっと違い、これはほぼJR福岡内部だけの物語であり、何と殺人事件の犯人を捜すミステリとなっているのだが、他の物語はいずれもJR北日本のアンドロイドたちや、キセル同盟の関係者がキーとなり、この世界での生活を描いていく。瀬戸内・京都編は、キセル同盟の関係者と少女型のアンドロイドが瀬戸内の島で出会い、過去の京都での物語が語られる。群馬編では、浅間山の噴火という自然災害にあたって、青目先生と呼ばれる一人の医師が何もわからない人々を救おうとする。岩手編は行方不明になった最優秀のアンドロイドを捜索する物語で、人工知能が主体の物語。
 前作のような衝撃はないが、これらの物語は横浜駅世界を深め、補完している。日本以外の世界がどうなっているのかという前作ではわからなかった点も、ある程度言及されている。しかし、まだJR北日本の、ユキエさんの謎が残っているなあ。今後も続編があるような気がする。

名梁和泉『二階の王』 角川ホラー文庫
 2015年に単行本で出た、第22回日本ホラー小説大賞を『ぼぎわん、が来る』と争ったという優秀賞受賞作が、加筆修正されて文庫化された。新たに書き下ろしの短篇「屋根裏」も収録されている。
 『二階の王』は、二階に引きこもったまま家族とも顔を合わせない兄をかかえた妹が、次第に奇怪な事件に巻き込まれるという、かなりイヤな感じのホラーである。
 はじめは、気味が悪い、気持ちが悪いという負の感情に、悪臭や外見の異常、耳に触る金属的な声、触れたときの不気味な触感といった、感覚的で日常的なレベルの「不気味さ」が描かれ、心理的、社会的ホラーを思わせるのだが、やがて人々の間に潜む〈悪果〉を特殊能力で探る「悪因研」というグループの活動に焦点が移るにつれ、復活する邪神とその眷属たちとの戦いという、大スケールの物語と接続する。
 面白いのは、おぞましい異形な〈悪果〉たちが、必ずしも邪悪なものではなく、いわば伝染病に感染した普通の人間であり、発症しない限りは何も問題はないというところだ。ただ、日常的なレベルのストーリーとそんなコズミックホラーとの接続が、あまりうまくいっているようには思えず、ちょっと理解に苦しむところがある。何か読み間違えているのかも知れないが、クライマックスの戦いが腑に落ちない。時間も操作されているということだろうか。特にそういう描写はないようなのだが。コズミックホラーのスケール感は乏しく、こじんまりとした感じにまとまっていて、やや物足りない気がする。
 「屋根裏」は、『二階の王』に名前の出てきた人物の話だが、『二階の王』を読んでいなければ意味がわからないだろう。田舎の別荘地の屋根裏にあるものは――、というありがちだが面白そうな始まりが、これも別レベルの戦いに接続し、そのアンマッチ感が気になる。雰囲気は悪くないのだが、物語がうまくつながらない。もっとストレートに書いた方が面白いのではないだろうか。

小川哲『ゲームの王国』 早川書房
 第三回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作『ユートロニカのこちら側』でデビューしてからたった1年で、ここまでの作品を書くことができるのか。まだ若い作者の才能には驚かされる。傑作。
 ポル・ポトによる恐怖政治の前、1950年代半ばのシアヌーク/ロン・ノル時代から、70年代のポル・ポト/クメール・ルージュの時代、そしてその後、2023年の近未来まで、カンボジアを舞台にし、その地の農村に生まれた天才的な頭脳をもつ少年ムイタック(後に大学教授となる)と、特別な血筋をもち、嘘を見抜く能力を持つ少女ソリヤ(後に政治家になる)を主人公に、強烈な個性をもった人々の登場する群像劇である。とりわけムイタックの生まれた村、ロベーブレソンの人々がすごい。泥を食べて土の話を聞く者、輪ゴムと会話して未来を予言する者、十三年間一言もしゃべらなかったのに突然の美声で歌い出した者……。
 まず上巻に圧倒される。ポル・ポトの時代はもちろん、それ以前の時代も、人々は権力による理不尽な暴力と恐怖にさらされてきた。スパイ活動や秘密警察のおぞましい恐怖、世界中に、過去から現在までいくらでも例のある不条理な人間性の抑圧と残酷な死、そんな中で生きる少年少女たちの未来に、さらに恐ろしいキリング・フィールドが待っている。まるでノンフィクションのように、淡々と事実として描かれるおぞましい日常。
 しかしそれは確かに現実としてこの世界にあったものであると同時に、作者が作り上げた仮想の現実でもある。ここで描かれるカンボジアという国は、現実のカンボジアの歴史の上に、AR(拡張現実)のようにかぶせられたフィクションであることを忘れてはいけない。それをつい忘れるほど、上巻の描写は迫真的なのだから。
 なぜわざわざそんなことを言うかといえば、下巻で明らかになる本書のテーマ〈ゲームの王国〉というものが、上巻のこのAR的な、マジックリアリズム的、SF的なレイヤーにその多くを負っているからだ。影の主人公といえるポル・ポトすら、現実のポル・ポトというより、ゲームの登場人物なのである。作者はどこかで、カンボジアを舞台にしたのはその地に特別な思い入れがあったからではなく、クメール・ルージュの極端さがいかにも〈ゲームの王国〉にふさわしかったからだという意味のことを語っていた(正確じゃないかも知れないけど)。実際、泥の臭いのするような上巻に比べ、下巻の舞台がカンボジアである必然性はほとんどないといっていい。上巻と下巻の読後感の違いは、その多くを背景のリアリズムの濃度によっているといえる。
 全体を通して語られるのはゲーム――ここでいうゲームとは、ある適用範囲の中、ルールに従って進めることで勝敗が決まる体のものである。、さらにそのルールそのものを改変できるメタ・ルールも存在する。そういうメタ・ルールこそが問題なのだ。例えば事実や記憶をいかに解釈するか(あるいは逆に、解釈によって事実や記憶が改変される)というところにそれは現れ、それがムイタックたちが開発した〈ブラクションゲーム〉につながっていく。このあたりはきわめて現代SF的な主題であり、さらにそこに〈勝敗〉という〈報酬系〉の要素が加わることで、何を報酬とするかという、経済的・政治的な問題意識が関わってくる。そのことが、近未来の、脳波をコントロールするコンピューター・ゲームとともに、過去のカンボジアの〈現実〉そのもの(あくまで作者による仮想の現実だけど)と重畳するのである。
 例えば自然法則もルールである。だがリアルワールドではそこに関連するルールが無数にあり、境界条件もはっきり定義できない。その適用範囲を限定し、ルールの数も減らす。つまりそれがゲームである。だから背景となる世界は極端で、少ないルールで制御されるようなものでなければならなかった。それこそがこの「カンボジア」なのだろう。
 グレッグ・イーガンの『ゼンデギ』とも響き合うが、印象としてはむしろコリイ・ドクトロウのようなナードなSFとの親和性を感じた。結末はさわやかである。こんな重い物語が、こんなにさわやかに終わってもいいのかと思うくらいだ。もう一度いおう。傑作である。
 なお、上巻の約半分、第1章と第2章は、『伊藤計劃トリビュート2』に先行収録されたものである。

佐藤究『Ank: a mirroring ape』 講談社
 江戸川乱歩賞作家によるパニックSFである。
 2026年、京都で異常な暴動事件が勃発する。ごく普通の人々が、突然狂ったように互いに肉弾で殺し合うのだ。武器や道具はほとんど使わず、腕や足、爪や歯を使って相手を攻撃する。他人だろうが家族だろうが関係なく、自意識をなくし、リミッターが外れたように本能的に攻撃性をふるうのだ。暴動は嵐山から金閣寺へと広がり、1日で3万人近い死者を出す大惨事となった。京都暴動と呼ばれる。ウイルス、病原菌、化学物質が原因ではない。互いに殺し合う人々は、8分20秒後には正気に戻り、自分たちの行ったことに呆然とする。テロでもない。一体これは何なのか?
 実はその発端となったのは、京都府亀岡市の霊長類研究センター(KMWPセンター)にアフリカから連れてこられた、アンクと名付けられた一匹の若いチンパンジーだった。非常に高い知能を示すアンクは、ある事件をきっかけに研究所から京都市内に逃げ出す。そして逃げながら、周囲の人々に意図せぬ殺戮をもたらすことになる。
 物語は時系列を前後させながら、研究センターの所長と科学ジャーナリストの女性を主な視点人物として、センターの出資者であるAI研究の第一人者や、パルクールという、とても人間業とは思えないような運動能力を示すスポーツを得意とする少年など、様々な人物の行動を描いていく。そして浮かび上がってくるのは、霊長類の進化の歴史の中から現れてくる巨大な謎、ミラーリングという能力の謎である。それは自意識や言葉、共感能力とも関わってくるものなのだ。
 とにかく迫力があり、ハラハラドキドキさせながら、どんどん先を読み進めさせてしまう筆力がある。パニックものとして、サスペンスの盛り上げ方はとても効果的だ。ただし、読んでいる間はそんなに気にならないのだが、読み終わってみると、本書の語るSF的なアイデアは、科学的に見てとても納得できるものではない。中心テーマである人間の本質がどこにあるかという大きな進化の観点は、大変に魅力的で面白いのだが、そのディテールには説得力があるとは思えない。むしろオカルト的なホラー・サスペンスとして描いた方がよかったのではないかと思われる。逆にアイデアの科学性にこだわらないなら、本書はエンターテインメントとしてとても面白く、読み応えのある作品だといえる。


THATTA 354号へ戻る

トップページへ戻る