サンタロガ・バリア

津田文夫


 久しぶりに余裕ができたので、なにか書こうと思いたったのだが、相変わらずこれといって書くことがない。マガジンの翻訳まとめ読みはまだできないし、去年の読み残しも随分とある。ちょいと読むにはやはりSFはしんどいという感じがして、本屋で軽いHモノでもと物色したのだが、レジに持っていったのは、フィリップ・カーの『偽りの街』とアドルノの『プリズメン』。ビンボーだねえ。まあ、ニコルソン・ベイカー程度に面白いHモノはそうないだろうからな。アドルノのは、巻頭のエッセイであの「アウシュビッツ以降、詩を書くのは野蛮である」っていう有名な文言が読めるやつ。ところの式訳文に久しぶりにお目にかかって、これは日本語じゃないやと再確認。ホント意味不明。カーは四年ぐらい前にでた翻訳一作目で読みやすくて面白い。これでもまだ三刷しかいってないっていうんだから、ミステリイ/ハードボイルドものの世界も大変だ。この世界はきっと面白いものばかりなんだろうな。『デコイの男』を読んだときも思ったんだけれど、このレベルでさえもどんどん忘れられていくというのは、オソロしいことだ。

 このところなんとか読めたのは、『黎明の王 白昼の女王』『ヴァート』『ドゥームズデイブック』『夢のおわりに・・・』というところ。小説以外では巽先生の『ニュー・アメリカニズム』かな。古澤先生はとってもいい仕事をしている。儲かる仕事じゃないこともよくわかる。『ヴァート』はオルフェみたいで、ちよっと古めかしく、あやふやな感覚が残った。『デッドガールズ』も同じ感覚があって、これってこちらが新しさについていけてないだけなんだろうか。『ドゥームズデイブック』が一番当たり前のSF。ペストが蔓延するまで割と退屈、そのおかげでペストだけがこの話の取柄に見える。話自体はこの本の厚さの三分の一ですむ。ウィリスの大通俗小説の作法は徹底してエン夕ーテインメント。マンガ世界史ペストの時代編といったところ。ちょっと読者をみくびった感じもある。カードほどではないにしろ。

 ライマンは暴力的なものごとを物語に詰込んで、アチラ側とコチラ側をかき混ぜて見せる。するとそこに現れるのは、物語のなかで迷う登場人物たちと読者。この物語を書かなくては済まない衝動がライマンにあったらしいことはよく分かる。だがこの物語が読者を必要とした理由はよくわからない。 まるでメビウスの輪みたいにねじまげられたリアリティは、アチラ側のリアリティのなかで救済を待っているジョナサンというキャラクターの世界の弱さを強調している。巻末に付けられたリアリティ・チェックはメタ・フィクション化のための小道具だと見るのが晋通だろうが、ここでは文字どおりの解説にすぎないようにみえる。オズがウォズとなった世界の物語をアメリカの読者は本当に読みたがったのだろうか。

 巽先生の本は、学者としてのお仕事。SFはとりあえずないけれど、「読むことのSF」の学問版といえないこともない。アメリカン・ピューリタニズムにさまざまなネジれを読み取ってほぐしてみせているとでもいえばいいのかな。最初に取り上げられたコットン・マザーの項が一番面白く読めた。

 最後に、昨年のいつごろからかは知らないけれど、東芝から出ているジャズの廉価版で、ブルーノートの1500番台が番号順に発売されている。で、ある日手に取ったらオリジナル解説の翻訳者として浅倉さんの名前が出ていたので、思わず買ってしまった。SF全集の月報でビックス・バイダーベックのことを書いておられたのを覚えている。だから浅倉さんの好みはもう少し前の時代(1500番台は基本的に五〇年代)だとばかり思い込んでいた。仕事なんだから、当然でしょうけど、ちょっと吃驚した次第。 因みに買ったのは、『マグニフィセント・サド・ジョーンズ』でした。


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