失われた未来、見つかった未来

 大野万紀

 本の雑誌社「本の雑誌」15年11月号掲載
 2015年11月1日発行


 依頼されたテーマは「二一世紀を舞台にしたSFのガジェット」ということで、二一世紀を舞台にしたSFに描かれたものと、現実の二一世紀に実現したものとが、こんなにも違っていた、もしくはエッと驚くこんなことが予言されていた、といった話を紹介してほしいというもの。えーと、二一世紀が舞台と限定しちゃうと縛りがちょっと微妙になるので、ここは漠然と近未来ということで。

 まあ、二一世紀になってもう十五年近く。実現しなかった未来、こんなはずじゃなかった未来というのは、ずいぶん前からみんなが言っていた。いわく、月面基地がまだできていない、スペースコロニーもない、エアカーも飛んでいない、家事手伝いをしてくれるロボットもいない(まあ、これはルンバみたいに形を変えて存在しているともいえるが、そういうもんじゃないよね)、三食全部がチューブ食になっていない(近い人はいるかも)、ドーム都市も海上都市も地底都市も存在しない(巨大地下街を地底都市といえないことはないか)、体にぴったりした銀色の宇宙服みたいなのを着て街を歩く人々もいない(いたらごめん)、などなど……。レトロ・フューチャー。
 それとは別に、SFは携帯電話の普及やインターネット社会を予言できなかったという議論もある。近いものは書かれているのだ。携帯通信機は当たり前だし、電話網をインターネット的に扱った作品はけっこうある。けれど、その社会的インパクトがここまでのものとは。ただこれも、発掘すればある程度予言していたといえるものがあるかも知れない。いやきっとあるだろう。でもそれは、スペースコロニーや月面基地のようにみんなが夢見る主流(メインストリーム)の未来イメージとはならなかった。

 『ニューロマンサー』でサイバーパンクの旗手となったウィリアム・ギブスンは、八一年の短篇「ガーンズバック連続体」で、このような失われた未来の夢の数々について語っている。世界で最初のSF雑誌を発刊し、ヒューゴー賞にその名を残すヒューゴー・ガーンズバック。彼らがSFに描いた三〇年代、四〇年代の、流線型の未来イメージが、大衆の潜在意識となって舞い戻ってくる。全翼機、光線銃、摩天楼を縫う空中道路と空飛ぶ車、モダンの逆襲。だがその裏側には……。

 実現しなかった未来の話ばかりしているとどんよりしてくるので、今度はこんなことが予言されていたという話。いわば見つかっていた未来。

 『二〇〇一年宇宙の旅』のアーサー・C・クラークといえば、静止衛星のシステムを考えたことで有名だが、これはまあ二〇世紀の発明ですね。一方で彼の描いた軌道エレベータはまだ実現していない。でも、もっとささやかだけれど面白いのが、今ではおなじみのノイズキャンセリングシステム。周囲の音をひろってその逆位相の音を発生させ、ノイズを消してしまうイヤホンなどに使われている。実際に発明されたのは八〇年代だけど、誰でも使えるようになったのは二一世紀になってからでしょう。クラークの短篇集『白鹿亭綺譚』に収められた「みなさんお静かに」という一九五〇年の短編には、まさに発明前のこのアイデアが描かれている。技術的にはみんなが通勤電車の中で使っているノイズキャンセル・イヤホンとまったく同じものなのだが、こちらは恐ろしい結末が待っている。

 次はコンピューターによる超高速取引の話。ぼく自身は株をやらないので詳しくないのだけれど、アルゴリズム取引というのかな、今では株式市場や先物市場で千分の一秒単位でコンピューター同士が取引している。人間にはもはやついていけない世界で、このために謎の暴落が発生したりしているともいわれる(真偽のほどは知らない)。このような人間の手によらない超高速取引は九〇年代後半から実用化されたというが、これも本格化したのは二一世紀になってからだ。そしてこのアイデアが書かれていることで有名なのが、コードウェイナー・スミスの六四年の長編で、これは後にもう一つの長編と合本になって『ノーストリリア』というタイトルになった。コンピューターによる超高速取引は、そのほんの一エピソードにすぎないのだが、その結果として、主人公の少年は、地球をまるごと買い取ってしまう。二一世紀というより、いつとも知れない遠い未来のお話なのだけれど。これはすごく面白いSFなので、ぜひ読んでみてください。六四年ごろのコンピューターなんて、今の携帯よりはるかに劣る性能のものしかなかったのに、優れたSF作家の未来を見通す想像力はすごいとしかいいようがない。

 最後に、方向性は合っていたけど外してしまったというのが、ジョン・ヴァーリイの七八年の短篇「バービーはなぜ殺される」。最近出た短篇集『逆行の夏』(買ってね!)にも収録されている。この作品は個性を捨て、全員が全く同じ顔かたちをしている人々の集団で起こった殺人事件を扱っているのだが、彼らはクローンというわけじゃないので、今ならDNA鑑定で簡単に判別できると思うだろう。だがDNA鑑定が理論として出たのが八五年、実用化されたのは九〇年代以降、広く使われるようになったのは二一世紀になってからなのだ。ヴァーリイは他の作品で、遺伝子型による個人認識について描いており、それが可能なことはわかっていたはずだ。でも実現するのはずっと未来のことだと考えていたと思う。こちらは技術の発達が、それだけものすごい速さで進んだという例だ。

 今あるたいていのガジェットは、過去のSFにそれに近いものが存在している。まだ存在しないもの、もはや夢の中にしか存在しないものも含めて。ということは今のSFに書かれているものは、やがてぼくらの身の回りに現れてくるに違いないのだ。

 2015年9月


トップページへ戻る 文書館へ戻る