『M.G.H.』(三雲岳斗)書評 ――ポテンシャル・エネルギーが解放される時
大野万紀
早川書房「SFマガジン」00年8月号掲載
2000年8月1日発行
無重力環境での墜落死、空気漏れのない密室での真空曝露。宇宙ステーションで起こったこれらの不可能事件に、たまたま新婚旅行でそこを訪れていた主人公が、探偵役として犯人を捜すことになる。そう、本書はSF的な設定をもった謎解きミステリなのだ。SF新人賞の選考委員たちもそう指摘し、聞こえてくるSFファンたちの評価も、良くできているがSFとしては……と口をにごす。どうやら作者自身もそう思っているふしがある。だが、近未来の社会を細部まで構築し、そこに生きる、現在とは微妙に異なったスタンダードを持つ人間を描く小説は、まさしくSFと呼ぶにふさわしいものなのだ。
本書の全体に通底しているテーマは、相対性ということである。それは(詳しく書くわけにはいかないが)事件の謎解きにも関わり、主人公たちカップルの関係や結婚のあり方に、そして人間とは何かという大問題にも関わってくる。絶対的な座標軸を廃し、視点を変え、その時々で最も適切な座標軸を選択すること(もっとも、座標変換がいつもうまくいくとは限らず、そこから問題が生じるのだが……本書における様々なすれ違いやきしみのように)。こういった相対的なものの見方こそ、SFファンの最も得意とするところだったはずだ。
謎解きと共に、本書で最も重視されているのは、ヴァーチャルな世界(本書ではミラーワールド)での人間の変容という、これまたSFでおなじみのテーマである。主人公は人間だが、ほとんどそっちへ足を踏み入れかけた人間として描かれる(ディックならシミュラクラといっただろう)。作者はむしろそれを肯定的にとらえているようだが、本書の世界ではまだそこまで徹底しておらず、だから、このままではヒロインは不幸になってしまうに違いない。そこがちょっと悲しい。そのあたりも含め、ぜひ続編を期待したい。作者の作り上げたこの世界には、まだ追求すべき物語が、そのポテンシャル・エネルギーが、たくさん残っているはずである。実際、本書のタイトル『M.G.H.』はポテンシャル・エネルギーを現している。作者はなぜこれをタイトルに選んだのか。潜在的な位置エネルギーが運動エネルギーに変わる時、一体何が起こるのか。本書ではその解はまだ明らかとはいえまい。
2000年6月
M.G.H.
三雲岳斗
SFJapan Millennium:00 に掲載(後に徳間書店より単行本化)
2000年4月5日発行
ISBN4-19-720111-7 C9476