地球環境問題とSF
大野万紀
早川書房「SFマガジン」05年11月号掲載
2005年11月1日発行
暑いのは苦手だが、夏は好きだ。重い上着や防寒具なしで、Tシャツ一枚で外を歩き回っても平気。何より解放感がある。となれば、地球温暖化もあながち悪いことばかりじゃないような気もする。いや、やっぱりまずいよな。エアコンをがんがんかけて、エネルギーを使って、それでもってますます温暖化を加速して、やがては海水面が上昇したり、オゾンホールが拡大して皮膚癌になったり……。お気楽なことをいってはダメだよね。だって、そのために大勢の人が努力しているのだから。
クールビズでしょ、モッタイナイでしょ、京都議定書でしょ、電気自動車にソーラーに、エアコンの温度は28度、そして愛・地球博のテーマは「自然の叡智」であり「地球の総ての“いのちと未来”のために」なのだ。
地球環境問題というのはもはや当たり前のもの、一般常識として流布している。
しかし、われわれにとって、その地球環境問題は本当のところどれだけリアルなものとなっているのか。
マイクル・クライトンは新作『恐怖の存在』(2004)で、実際にWEB上でアクセスできるデータを駆使し、地球温暖化なるものは、恐怖をあおるマスコミが一面的なデータのみを取り上げることによって作り出した虚像にすぎないと断じている。小説そのものは過激な環境保護団体が画策する大規模な環境テロ(南極の氷床を破壊することから、人工集中豪雨、さらには人工津波まで……これはSFといっていいかも。でもオームみたいに現実にやろうとする連中もいるからなあ)と戦う、クライトンらしいハイテク・スリラーなのだが、このテーマに関して作者はかなり本気のようだ。
実際、ビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない――地球環境のホントの実態』(2001)で書かれているように(クライトン自身かなりの部分をこの本によっているらしい)、地球環境問題を警告するという多くのデータはかなり恣意的に解釈され、一方的な結論が導き出されているということは(ある程度)事実であるようだ。この本は反環境問題のプロパガンダなどではなく、地球環境問題を研究している科学者も肯定的にせよ批判的にせよ、真面目に対応しているまともな本である。ぼく自身にはどこが正しくどこがおかしいと判断できるほどの知識はないが、マスコミや政治家(そしてネット)があおりたてる、あるいは世間的な風潮に過剰に悪のりする他の事例――少年犯罪、ゲーム脳、タバコの害、そして著作権や個人情報保護――などから考えても同様に、どこまでが科学的データか、どこからが政治か、そしてどこからはマス・ヒステリーなのかを見極める必要があると考えている。
だが、地球温暖化は虚像だというクライトンも、地球環境問題自体が存在しないとはいわない。地球規模の変化は予測が不可能で、人間の活動がそれに影響を与えているという証拠はなく(あるいは乏しく)、むしろ人間が生半可な知識で自然に干渉し、管理しようとすると、逆効果をもたらす可能性があるといっているのだ。排気ガスを削減したり、エネルギーや資源の無駄遣いをなくすことが悪いことだとはいわない。そういう地道な努力は大切だが、それが先進国のエゴであったり、人々の暮らしに悪影響を与えてまで強制されるようなことがあってはいけないといっているのである。要するにリスクとコスト(金銭的なものとは限らない)を科学的に評価して、バランスを取れということだ。この限りでは、ごくまっとうな意見に聞こえる。
さて、ぼく自身の地球環境問題に関するスタンスというものは、実は十年以上前にデイヴィッド・ブリン『ガイア−母なる地球−』の解説を書いた時から変わっていない。
アポロ宇宙船が月軌道から撮影した、暗い宇宙に浮かぶちっぽけな青い丸い地球の写真。身近な環境汚染やエコロジーの問題が〈地球環境問題〉というグローバル性を獲得し、「地球にやさしく」とか「かけがえのない(壊れやすい)地球」といったフレーズが流行するようになったのには、あの写真が一役かっていたに違いないだろう。しかし、地球はそんなやわなものなのか。オゾン層に穴があこうが、北極の氷が溶けようが、地球にとっては実は全く大したことではないように思える。
だがわれわれにとっては違う。地球環境問題とは、実は人間環境問題なのである。人々の日々の普通の生活行為が、地球規模で人間の居住環境に悪影響を及ぼす可能性がある。クライトンがいうように、ストレートで直線的な関係ではないのかも知れない。それでも何らかの関係があり、問題が発生する可能性があるのなら、リスクを評価しつつ対策を立てなければならない。複雑化する地球環境問題に対して、おそらくすっきりした解決策などというものは存在せず、妥協を重ねながら、少しずつ地道に意識と生活と社会のしくみを変えて行かなければならないのだろう。そこで重要な役割を果たすのは、正確で具体的で多様な観点からの情報と、その情報への自由なアクセスが保証されることだろう。
『ガイア−母なる地球−』(1990)はまさにそのような観点から地球環境問題を扱ったSFである。地球の恒常性を、大地、海、大気と、そこにすむ生物との、様々なレベルのフィードバックが一体化したものとしてとらえるジェイムズ・ラヴロックの「ガイア仮説」。それが人々の日常の意識にまで影響を及ぼしている近未来の地球が舞台である。世界の人口は百億に達し、飢えと貧困に苦しむ大勢の人々がいる一方で、コンピュータ・ネットワークが世界を覆っている。オゾン層の破壊により、日中に何の防護もなく外出するのは皮膚癌をまねく行為だ。温室効果で極地の氷は溶け始め、水位が上昇している。低地の人々はボートピープルとなり、それがそのまま難民の海上国家となっている。それにしても、なんとか人類と文明は生き延びているのだ。だが、あらゆる努力はプラトーに達し、これ以上の改善は望めそうもない。宇宙に進出しようにも、経済がそれを許さない。手詰まり状態。主人公たちは、政府ではなく民間の力によって、この危機に立ち向かおうとするのだが……。
『ガイア』の解説でも書いたのだが、地球環境問題を正面から扱ったSFというのは実は数多くない。温暖化し、自然環境の変貌した未来を舞台にしたものや、核戦争、人口爆発、食糧危機といったものを背景に破局後のディストピア的な社会を描くものならたくさんあるのだが。例えば宮崎駿「風の谷のナウシカ」もそのようなSFの一つといっていいだろう。またノーマン・スピンラッドの『星々からの歌』(1980)では、破滅後の社会で「地球にやさしい」オルターナティブ・テクノロジーが「白科学」として扱われている。この手の作品はヴォンダ・マッキンタイア『夢の蛇』(1978)など数多くあるが、地球環境問題SFとは言い難いように思う。大破壊、大破滅を平気で描くSFでは、じわじわと迫る地球環境問題というものはドラマとして扱いにくいのかも知れない。クライトンだって結局テロリストと戦うスリラーにしてしまったわけだし。
そういう中でやはりどうしても挙げておかないといけないのは、ティプトリーの短編「エイン博士の最後の飛行」(1969『愛はさだめ、さだめは死』所載)である。地球環境を守るということは、つきつめれば本質的にアンチ・ヒューマンなものとならざるを得ない(まさに環境テロリストの論拠だろう)。そのことをわれわれの前に容赦なく突きつけた作品である。「地球にやさしく」といった言葉がいかに恐ろしいものに変わり得るか、あの一枚の写真の直後にここまで考えたティプトリーはすごいとしか言いようがない。こんなに冷たく人類を突き放すSFをぼくは知らなかった。しかし、これをガイアを礼賛するSFととらえてはいけない(ガイア仮説が一般化するのは七〇年代以後である)。これはエイン博士の片思いの物語であり、恋に狂った男の悲しいラブ・ストーリイなのである。
さて地球環境問題そのものではないかも知れないが、異常気象やそれに伴う大災害を扱ったSFは定番のように書かれている。その中で一冊挙げるとすると、ジョン・バーンズ『大暴風』(1994)だろう。この原稿を書いている今、アメリカを襲った巨大ハリケーン「カトリーナ」による被害は想像を絶するもので、ニューオリンズが壊滅的な状況になっていると報道されている。この小説では北極のメタンハイドレートがミサイルによって破壊されたことが引き金となって、温暖化が加速し、とんでもない規模のハリケーンが北半球全域を襲うことになる。ブリンの『ガイア』と同様に、ここでもネットワークによる情報の広がりが重要な役割を果たし、さらには宇宙SFの味わいまでもが共通している。
異常気象の次は地殻変動だ。さすがに大地震は人間活動のせいにはできないだろうが(でもSFなら地震兵器すら想像できる――小川一水『復活の地』(2004)のように)、災害の予測や、発生後の対策、大きく変貌する社会のありさまなどは、地球環境問題と同様だろう。この分野では小松左京『日本沈没』(1973)が何といっても重要だが、ここではアーサー・C・クラークとマイク・マクウェイの『マグニチュード10』(1996)と藤崎慎吾『ハイドゥナン』(1995)を挙げておきたい。『マグニチュード10』は阪神大震災の直後に読んだためか、その突き放した視点に感情移入できなかったのだが、超巨大地震とその予測を扱ったSFである。藤崎慎吾の『ハイドゥナン』は地殻変動によって南西諸島が沈没する話であるが、そのポイントは藤崎流ガイア仮説とでも言うべきISEIC理論にある。作者はガイア仮説との違いを作中で力説しているのだが、ガイア仮説を非生命にまで拡張し、地球だけでなく宇宙までつながるものとした、まさにある種伝統的・SF的なアイデアだといえる。何しろ神様までもがこの中に含まれてしまうのだから。そこが読者によっては納得できないというところでもあるだろう。しかし、沖縄の風土をベースに、自然との共生を重視する作風には、いかにも〈地球環境問題〉の雰囲気がある。
地球という観点を離れて、他の惑星の環境問題にまで話を広げると、また様々なSFが書かれている。どこまでを範囲に含めるかは微妙だが、例えばオースン・スコット・カードのエンダー・シリーズもこの観点から読むことができる。特に『ゼノサイド』(1991)では異星人の生態が惑星の環境に影響を及ぼす様が物語の重要なポイントとなっている。
惑星環境を変えるとなると、当然テラフォーミングが話題となる。「地球にやさしく」どころか、SFではテラフォーミングで惑星環境自体を作り直してしまうのだから、考えてみれば乱暴な話である。というわけで、地球環境問題から大きく逸脱してしまうので、このテーマについてはパス。だが、ジョージ・R・R・マーティン『タフの方舟』(1986)については触れておこう。〈宇宙一あこぎな商人〉タフは、自称〈環境エンジニア〉であり、惑星の様々な環境問題(中にはそうは思えないものもあるが)を金で解決する。この連作短編の中で、大きく扱われているのが人口問題に悩む惑星を巡る顛末である。食糧増産のための様々な施策を提案するタフだが、人々の限りない要求に対して、最後には衝撃的な解決策を実行する。ここまでくると正義の味方も環境テロリストもあまり変わりはないような気がしてくるから困ったものだ。
ここに挙げた作品の他にも、地球環境問題とその周辺を扱ったSFはいくつもあるだろう。ロバート・J・ソウヤーの『ホミニッド−原人−』(2002)に続く三部作では、進化したネアンデルタール人が、人類よりはるかにうまく地球環境問題を解決している様が描かれている。だがそれも、根本的にはアンチ・ヒューマンな方法といえるかも知れない。
ブリンを始めとする多くのSF作家は、地球環境問題が避けてはならない問題だと理解しつつも、最終的には科学技術と人間の叡智によって対処可能であると考えているように思う。人間の活動は地球環境の保全と矛盾するものかも知れないが、人間だって自然の一部なのである。人類は果たしてガイアの癌細胞なのだろうか、それともガイアの脳細胞となるのだろうか? もちろん、ぼくは後者であると信じたい。これは単純な人間中心主義ではなく、地球上のすべての生命・非生命を含めたシステム全体の中で、人間の存在意義を認めようとするものだ。ブリンのように、ぼくもぜひそうあって欲しいと思う。
2005年9月