サイエンス・フィクション
科学的虚構の作家
バクスター
大野万紀
早川書房「SFマガジン」95年5月号掲載
1995年5月1日発行
……「物語性(ストーリイ)」や「想像力(イマジネーション)=虚構性(フィクション)」は、科学や数学といった高踏的な領域の「文学的還元」ないし「人間的還元」を可能にする道具になるかも知れなかった。そのことを通じて、人類の大多数がほとんど了解不能と思いこみつつある「深遠な」科学や純粋数学の領域で行われつつある先端的営為を、人類共通のものとして、すくなくとも「イメージ的・比喩的」に、――最終的には「心情的に」了解できるようになるのではないだろうか?
小松左京「科学と虚構」より
スティーヴン・バクスター。一九五七年イギリスはリバプールに生まれた。まだ三十代の若い作家である。ケンブリッジ大学で数学の学位を取り、さらにサウサンプトン大学で工学の博士号を取った。現在はイギリス南部バッキンガムシアに、公認会計士を営む妻のサンドラと住み、情報科学関係の仕事をしながら〈インターゾーン〉誌を中心にSFを書き続けている。ちなみにケンブリッジ大学といえばあのフレッド・ホイルを始め、チャールズ・シェフィールドなどハードSF作家を輩出した大学である。グレゴリイ・ベンフォードも一時期ここで研究していた。シェフィールドはケンブリッジでバクスターの直接の先輩にあたり、彼の処女長編である『天の筏』の惹句に「SFのSが知りたければ本書を読め」というすてきな言葉をよせている。日本では『天の筏』と今度出た『時間的無限大』、あとは本誌に載った短編二篇が訳されている作品のすべてということで、決して有名な作家とはいえないが、イギリスでは八六年のデビュー以来、短編に長編に、ハードSF作家として大活躍している新鋭作家である。
バクスターの作風を一言でいうなら、「科学的虚構」を重視する、ということになるだろう。ハードSFには違いないが、科学の先端的な成果を「イメージ的・比喩的」に小説に還元しようとしている作家であり、いってみれば最先端の科学者たちが考え出した壮大なビジョンを、奇想天外なおもちゃにして遊び、味わい、楽しむという、まさしくSF的なセンス・オブ・ワンダーを追求する作家だといえるだろう。重力定数が十億倍の世界やプランク定数が無限小の世界を描き、宇宙の始まりから「時間的無限大」までのタイムスケールで物語を展開する、その主役は宇宙そのもの、世界そのものである。難解な物理学用語が生のままで出てくるが、恐れることはない。壮大なビジョンをそのまま受け取ればいいのだ。遥かな未来や宇宙の果てに思いを巡らす、あのぞくぞくするような感覚を味わえばいいのだ。
SFという言葉は、本来「サイエンス・フィクション」の略だった。だからSFと科学とは切っても切れない関係にあるはずである。それが、いつしかSFの意味が拡大し、とりわけ科学性の高いSFをわざわざ「ハードSF」と呼ばなければならない状況となった。しかし、そういったとたん、「ハードSF」という言葉はさらに細分化され、読者の思い入れの度合いによって、本来の「サイエンス・フィクション」から科学的・技術的に厳密ないわゆる「真のハードSF」までの、幅広いスペクトルを含むことになった。
バクスターの作品はこのスペクトルのどこに位置するのか。がちがちに真面目な純粋ハードSFか、それともニーヴンタイプの冒険主体のハード・スペースオペラか。困ったことに(別に誰も困りはしないが)、そのどちらの要素も含まれている、というのが正解だ。あるいは、そのどちらでもなく、むしろバリントン・ベイリーやルーディ・ラッカーのような、科学をおもちゃにした破天荒な作品に近いといえるかも知れない。「科学的虚構」を「虚構」の方に力を置いて見れば、そういえるはずだ。
この種のSFを「バカSF」という言葉で表す人もいる。もちろん愛情を込めた表現だということはわかるのだが、ちょっとぼくにはひっかかる。一般にワイドスクリーンバロック型と呼ばれるSFについてもあてはまることだが、通常の(SF的な)リアリズムとは一線を画し、「バカ」といわれるくらいにまで壮大なイマジネーションにすべてを賭けるというところがある。『時間的無限大』もそうだが、FluxやRingといった〈ジーリー〉シリーズの長編ではますますその度合いが強まっているようだ。これらの作品ではイマジネーションを刺激する科学的アイデアや設定がまず第一にある。物語はそれをひきたたせ、説明するためにあるのだ。登場人物も、彼らが織りなす人間ドラマも重要ではない。そんなところに作者の興味はないのだ。また、これが少し微妙なところだが、そのアイデアのすごさを科学的な言葉で語るのは当然としても、厳密な意味での科学性は重視されない。アイデアのすごさとはむしろ審美的なものであり、この種の作品において、美しいアイデアを成立させるためならば、多少の矛盾は取るに足りないものとなる。一歩間違うと、本当にばかばかしい、読むに耐えない作品となってしまう恐れがあるが、この種のSFには、SFファンの心をそそる強烈な魅力があるのだ。
バクスターは常識的な意味では、小説のうまい作家だとはいえないだろう。少なくとも、普通のエンターテインメント作品としては失格だといってもいい。今号に掲載された短編を読んでもそれはわかるはずだ。物語の中でいきなり始まる科学解説。登場人物たちは魅力的な個性を持った生きた人間というよりも、恐るべきビジョンを目撃するための「仮想人格(バーチャル)」とでもいうべき存在である。だから、そこにまともな人間ドラマを求めてはいけない。彼の作品はまるで大昔のSFに先祖返りしたようだ、といってもいい。とても今風の、スマートでかっこいいSFとはいえないだろう。いや、これはバクスターをけなしているのではない。とんでもない。アメリカのベストセラーによくあるような、マニュアル通りの人間ドラマを重視したストーリイを取り込もうとして、多くのハードSF作家が道を誤った、とぼくは考えている。壮大な宇宙的イマジネーションが語られるべきところで、宇宙船内の権力闘争や、TVの連続ドラマみたいな男女関係に多くのページを費やす作品がいかに多く書かれていることか。ぼくらがハードSFに望むのは、そういうものではないはずだ。ぼくらが読みたいのは科学的虚構なのだ。先端的な科学が明らかにしてくれたイマジネーションであり、大宇宙のビジョンなのだ。そこに登場する人々が魅力的であればそれは嬉しいし、感動的なドラマが展開されるならそれも結構なことだ。バクスターの作品でも、別の系列に属する作品、ビクトリア朝を舞台にした科学ロマンスなどでは、〈ジーリー〉のシリーズとはまた重点の置き方が異なっている。〈ダーク・ジュール・ベルヌ〉と評されるような、Anti−Iceを初めとするこの系列の作品が紹介される時には、また別の評価基準を適用しなければならないだろう。しかし、さしあたっては、バクスターの描く物語とは、宇宙そのもの、人類の種としての運命そのものの「ドラマ化」なのであり、彼の小説作法は充分それに適合しているといっていいのである。
バクスターのグロテスク趣味という面についても触れておこう。『天の筏』の骨人たちや『時間的無限大』のスプライン船の描写を見ても、バクスターが有機的でグロテスクなどろどろしたものを描くのに、独特の情熱を注いでいるのがわかるだろう。まるで諸星大二郎を思わせるような執拗な描写で、例えば『時間的無限大』のスプライン船の目玉の描き方など、食事前に読まない方がいいというほどのものである。こういった一種悪趣味なグロテスクさは、他の作品でも多く見られ、「塵一つ落ちていない清潔な科学研究室のような(そもそもこういう形容そのものが現実とほど遠いのだが)ハードSF」という一般的なハードSFの感覚とは大きく異なっている。これは彼の個人的な資質かも知れないが、むしろイギリス作家としての特質を強く感じるところである。モンティ・パイソンのような――といっても最近では通じないかな――グロテスクなブラック・ユーモアの感覚が、彼の作品の底流として流れているようである。
近未来を詳細に描くハードSFと、遠未来を壮大な時間の流れの中で描くハードSF(本格SFなどということも多いが、適当な用語がない)は、本来別のものなのかも知れない。クラークのように、同じ作者がその両方を書くことも多いが、同じように科学のビジョンを物語として描く場合でも、その視点の置き方は異なっている。後者を『時間的無限大(タイムライク・インフィニティ)』にちなんで「時間的(タイムライク)ハードSF」と呼んでみたい。もともとはミンコフスキー時空の時間軸方向を呼ぶときの用語だが、ここでは空間的な領域より時間的な領域が圧倒的な物語空間を持つSF、といったつもりである。バクスターは、明らかにこの時間的(タイムライク)SFにとりつかれた作家なのだ。この点について彼はインタビューでこう語っている。「そこには何か宗教的な底流があって、それがぼくにアピールするのかも知れない。作家として、ぼくはこういう壮大なタイムスケールを扱っている時が、間違いなく幸せなんだ」
最初に引用した小松左京氏のエッセイ「科学と虚構」より、ぼくが大変感動した部分を最後にまた引用しよう。ここに描かれるような「宇宙の物語」こそ、バクスターが書きたいと思い、書こうとしているもののような気がするのだ。まだまだ充分成功しているとはいえないかも知れない。しかし、それこそ、SFファンとしてのぼくの、まさに読みたい物語でもあるのだ。
最後に一つだけつけくわえておきたい。これはまだ充分に整理され深められていないのでヒントにとどめるが、「物語性」というものが認識の一形式とするならば、この宇宙の歴史をふくめた現象を、物理学や数学といった形式をつかって記述するかわりに、その始源から現在までを一つの「物語」として記述することの正当性もなりたつかもしれない。宇宙内現象の底を貫くいくつかの恒常的物理法則による多様な現象の解釈と、起こったことと起こり得ることの、数学的形式をかりての一般化の中では捨象されるかも知れない現象や事件や「形」が、「物語化還元」によって、別の意味や役割を持ちはじめるかも知れない。宇宙はそれ自体で壮大な「ドラマ」や「物語」を描いているのかも知れない。そして「物語」の中の一方の当事者――この場合は「観客」としてのドラマへの参入だが――は、つい最近出現したばかりである。物理学や数学によって、この宇宙史を記述し、説明するかわりに、ドラマや物語としてそのイメージを記述していけば、宇宙は人間にとって、「別の意味」「別の姿」を現わすのかも知れないのである。
1995年2月