アインシュタイン交点の彼方

 大野万紀

 早川書房「SFマガジン」96年8月号掲載
 1996年8月1日発行


 その昔――というのは今から二四年前、一九七二年のことだが、当時学生だったぼくら海外SFファンにとって、バイブルとでもいうべき一冊の本が翻訳された。ジュディス・メリルの『SFに何ができるか』(晶文社 浅倉久志訳)である。
 そのころ、SF界は何だか渾沌としていた。六〇年代後半に吹き荒れた〃ニューウェーヴ〃の余波はまだ続いており、「ロボットや宇宙船の時代は終わった。今やSFは人間の〈内宇宙への旅〉を合い言葉に文学に新しい血を注ぐ凶暴な活力だ!」(同書の帯より)というのが、何だかかっこいい方向性を示しているようだった。でも、具体的な作品としては一体何があるのか? バラードだよ、と先輩たちはいった。なるほど。『結晶世界』などの長編、「時の声」や〈ヴァーミリオン・サンズ〉のような短編には、それまで慣れ親しんできたSFとは少し違う、硬質な魅力があった。でも〈濃縮小説(コンデンストノベル)〉? うーん、モンローとケネディと交通事故と水爆と……そやからどやっちゅうねん。ボルヘスを読め、という人もいた。いやバーセルミだ、ピンチョンだ……。
 メリルの本は、普通のSFファンであり、ロボットや宇宙船にもたまらない魅力を感じていたぼくらに、わかりやすく理解できるコトバで新しいSFの魅力を伝えてくれた。その中のひとつに、ジャンルSFの中にも見るべきものはあるよ、ということがあった。そこで紹介されていたディレイニーの、ラファティの、何と魅力的で新しそうで面白そうだったことか。『アインシュタイン交点』、それに『ノヴァ』……。きっとこの特集で他の著者の方も引用しているに違いないと思うのだが(何しろバイブルだから)、『アインシュタイン交点』の紹介からメリルの文章を少し引用してみよう。

 平易な表面の物語とリリカルな文章にまどわされてはいけない。これは、いくたびも蒸留され、極度に濃縮された、濃密な混合物なのである。もしあなたが、入念に組みたてられた文章の一行一行(ホントなんだから!)に細心の注意をはらって熟読することができないなら――ペースに巻き込まれてしまうようなら――それでもかまわないけれど、読みおえたらもう一度前にもどり、見おとしたところを見つけてほしい。(全部とはいわない。わたし自身、このつぎ読みかえすときには、またなにか発見するだろう。おそらく、そのつぎのときも)各章のはじめに置かれているエピグラフや、作者の旅行日記からの抜粋は、ありきたりな理由(装飾、対位法、見栄)でそこにあるわけではないのだ――すくなくとも、それだけではない。それらは、いくつものレベルをもって緊密に織り上げられたディレイニーの主張に不可欠のものなのである。
 つまり――これは魅力的な本である。楽しい本である。ふしぎな音楽にみちた、純愛と手に汗にぎる冒険の物語であり、取換え子と竜と鳩と悪魔をうたった歌である。そこではオルフェウスがビリイ・ザ・キッドと決闘し、情け深いコンピュータによってミノタウロスから救われる。しかし同時に、それはまた疑いもなく今この瞬間、この世界でおこっていることの物語なのだ。(浅倉久志訳)

 その『アインシュタイン交点』が翻訳された。これって、ほとんど伝説に近いタイトルなのである。その内容もまた伝説がモチーフ。今から三〇年前に若きディレイニーが地中海を放浪しながら構想を練っていた作品だ。SFマガジンのスキャナーで紹介され、メリルの本で紹介されてからも二十数年、その間にかつての学生ファンも四十越えたおじさんになってしまった。そして久々の再会、やあおたく全然変わってないねえ、いやあすっかり頭が薄くなりましたよ、ってそんなことはなくって、あの頃の〈気分〉を思い出しながらしっかり読みふけってしまった。

 本書はこれまで翻訳されてきたディレイニーのSFとはかなり(表面的な)趣が違っている。なにより宇宙が舞台ではない。ずっとずっと未来の地球だ。そこで山羊を飼って暮らしているのは、どうやら人間ではないらしい(というのが定説となっている。でも読んでいるぶんには、突然変異を繰り返してフリークとなった人間と思って、何も問題ないだろう)。主人公はロ・ロービー。山刀を笛にして音楽を奏でる若き(もう一人の)オルフェウスである。そしてこれは(物語に挿入されている作者の日記と見比べて)ディレイニー本人の姿と重ねて見ても間違いではないだろう。
 これは「何もかもが変わっていく」時代の物語であり、「まず古い迷宮を歩き尽くして、新しい迷宮に移ろう」とする若者の物語である。それこそが、あの時代の気分だったのだ。もっとも当時は、古い迷宮は歩くまでもなくぶっ壊してしまえという過激な連中がけっこういたものだが。親切なコンピュータの助言を借りつつ(このあたりって、まさしくコードウェイナー・スミスの影響を感じませんか?)、古い迷宮を探求するのは、何よりもまず楽しいし、重要でかつ必要なことなのである。そもそもこの連中というのが、太古の人間のやってきたことを再話するのが存在目的なのだそうだから(本当に? でも一応そういうことになっているのだ)。
 物語そのものは、恋人を一種の悪魔に殺された主人公が、冒険の末その復讐をとげるという、ごく単純なものである(ああ、でもこう書きながらも、それは違う、復讐ではないしそれをとげたわけでもない、などと自分で突っ込みを入れたくなってしまう。なんせ多義的な物語なのだ。読者に自分で判断してもらうしかない――でも第一レベルでは、そういうことだ)。波瀾万丈なストーリーがあるわけでもなく、大宇宙の神秘が解明されるわけでもない。今の読者が先入観なしに読んで、昔ぼくらが読んだときのような感銘を受けるかどうか、正直心もとないところもある。今時の分厚いSFを読み慣れた目からは、あっさりしすぎと映るかも知れない。ほとんど説明らしい説明もないし……。

 マルチプレックス――というのが、このころのディレイニーのキーワードなのである。多義性、多重性、といったところか。ぼくらはもっと素朴に「SFの相対性」などと同じ意味合いで受け取っていた。『エンパイア・スター』が最も端的にそれを体現しているのだが、『バベル−17』でも、そして『ノヴァ』ではさらに重層的な形でそれが扱われていた。『アインシュタイン交点』でも同様である。でも、あえて難しく考える必要はないと思うのだ。難しいのではなく、面白いのだ。あ、これはきっとこういうことも現しているのだな、という発見の楽しみ。タイルが一枚、補助線が一本あれば、今まで見えなかった新しい構造が見えてくる。なにもすごい知識を要求されているのではない(それは、知識はあった方がいいに決まっているけど)。『アインシュタイン交点』は一読してわかるとおり、リアルで写実的な物語ではない。誰だって、表面のストーリーだけではなく、それを包んで漂っているマルチプレックスな雰囲気を読みとることはできるはずだ。深く理解する必要はない。メタ文学などと大げさにしかめつらして考えなくたっていい。コミックと音楽と「プラネットストーリーズのような昔のスペースオペラ」が大好きな、まだ二十代の才気あふれる若者が、地中海を放浪し、神話の舞台を眺めながら書いた物語なのだ。だからこそ、同時代性、作者と分かち合えるフィーリングといったものが大切で、それがぴったりチューニングされれば、これは胸躍る傑作として、読者のセンス・オブ・ワンダーを増幅してくれる。ああ、でも外したら、ちょっとつらいだろうな。

 正直、今読むとちょっと苦しいかも知れない。それというのも、三十年前に新鮮だったディレイニーのメタ文学的な視点が、今ではわりと当たり前のものに見えてしまうといったことがある。例えばヴァーチャル・リアリティといった考え方である。『アインシュタイン交点』の世界を、どこかのサイバースペースの人工知能にダウンロードされた神話の世界と解釈しても、そう間違っているわけではないように思う。うん、それはそれで面白いかも知れない。あなたが神林長平の読者なら、この世界が夢と意識と記憶と現実の混交した、あの仮想現実の世界と同等なものだと、きっとわかってもらえるだろう。そして物語を語るということは……いや、そこまでいうのはたぶん蛇足というものだ。

 ところで、サイバーパンク以後の〈内宇宙への旅〉が、どちらかというと暗く湿った、まさに内向的なイメージをもっているのに比べて、内向の七〇年代を経験する以前のディレイニーの〈内宇宙への旅〉は、ひたすら明るく、乾いていて、前向きな印象がある(なんてことを思うのはぼくだけかしら)。地獄の手前で引き返し(だってオルフェウスなんだから)、間違った迷宮も簡単に抜け出し、村の暮らしに飽き足らなくなったら、しばらくこの世界を離れて月や外惑星で仕事をし、それから星々の向こうのいろんな世界へと飛び立っていくのだ。これがあの〈自由〉が吹き荒れていた時代、〈変革〉がもう少しで手の届きそうなところにあると錯覚できた時代のフィーリングだ。何だか照れくさく、気恥ずかしくなるような若々しさ。もう少し後のディレイニーは、『ダルグレン』や『トライトン』といった大作で、この軽やかな若々しさを失って(あるいは自ら捨て去って)いくことになる。

 『アインシュタイン交点』という言葉についても、少し述べておこう。物語の後半で、スパイダーが主人公に説明している。それは今、過去の言葉では定義もできないような新しい何かが起ころうとしている、ということなのだ。アインシュタインが人間の知性に区切った限界を越えて(あー、ここで述べられていることが比喩だということを忘れないように。ディレイニーが目指したのはサイエンス・フィクションというより、スペキュレイティブ・フィクションだったのだから)、ゲーデルの不完全性定理が導く、通常の論理では立証できない真実が立ち現れてくるということ、いいかえれば、「天と地球の間にはな、ロ・ロービー、きみの哲学では夢想もしえないものがおびただしくあるということ」だったのだ。ゲーデルの曲線がアインシュタインの曲線と交わり、その上高く舞い上がるとき、つまりそれがアインシュタイン交点を越えるときということだが、想像もできない新しい迷宮が現れる。つまり、何でもありの世界だ。もうひとついえば、まさにSFの黄金時代というわけだ。わぉ。ビューティフル。時代が変わる。水瓶座の時代。ライク・ア・ローリング・ストーン……。

 いや、まあ、その……。伝説のビートル・リンゴが「りんご、すったー」とテレビのCMでいってる時代になっちゃった。『エンパイア・スター』や『ノヴァ』のスペース・オペラ的イメージャリイは今でも十分有効に作用するが、『アインシュタイン交点』のそれは時代とシンクロしていただけに、今ではいくぶんセピア色に映ることは否めない。それでもやはり、山羊を追っているロ・ロービーたちの前に広がる、青い青い空の向こう、星々の彼方、ゲーデルの曲線がアインシュタイン交点を越えて遥か上へと延びていくところには、SFの新しい無限の輝きが、ダイアモンドのように輝いているに違いない。そう、今でもきっと……。

 1996年5月


 アインシュタイン交点
 サミュエル・R・ディレイニー
 伊藤典夫訳

 ハヤカワ文庫SF
 1996年6月30日発行
 ISBN4-15-011148-0


 THE EINSTEIN INTERSECTION (1967) by Samuel R. Delany


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