2013年版・作家別日本SF最新ブックガイド150より
大野万紀
早川書房「SFが読みたい! 2013年版」掲載
2013年2月15日発行
64年、兵庫県生まれ。03年『火星ダーク・バラード』で第4回小松左京賞を受賞しデビュー。11年『華竜の宮』で第32回日本SF大賞受賞。
洋菓子店を舞台にしたパティシエのシリーズなど、SF以外のジャンルでも幅広く活躍している上田早夕里だが、紛れもなく現代日本SFの中心に位置する本格SFの作家だといえる。それは、決して「コアなSFの人」ではなかったという作者が、しっかりとジャンルの本質とその可能性を意識し、きわめて自覚的にSFに取り組んでいることを意味している。
日本SF大賞を受賞した『華竜の宮』が、小松左京や眉村卓の作品を強く想起させるテーマを扱っていたことから、上田早夕里は日本SF第一世代の後継者として評されることも多い。だが、そのようにオーソドックスなテーマを継承する場合でも、切り口は作者独自のものであり、ポイントとなる視点も異なっている。そのことがかえって無い物ねだり的な評価につながることもあった(例えば『華竜の宮』のリアルで政治的な、近未来SF的主題と、遺伝子操作された海上民という遠未来SF的主題との乖離など)。だが作者はそこにこそ、この現代においてSFがもつ本質的な可能性を見いだしていたのではないだろうか。
それは、よりホラーに近い作品、あるいは幻想的な作品に、ストレートに現れているように思う。社会や環境の大きな変化と、その中における個人の変容というテーマ。それを個人の感情や意識にできるだけ寄り添いながらも、圧倒的な世界の変化の中で、どのような決断もしっかりと受け入れようとする断固とした姿勢なのである。
■『魚舟・獣舟』(2009)
魚舟と呼ばれる海獣と生活し、海に適応した人々を描く「魚舟・獣舟」は『華竜の宮』のベースとなった短篇であるが、読後感はかなり異なる。重く陰鬱な未来。容赦のない世界の中で大きな変容をとげた人類は、それでも逞しく日々の暮らしを続けていく。どこかティプトリーの作品を思わす傑作SFだ。他に『火星ダーク・バラード』の前日譚である中編「小鳥の墓」や、ホラー風、ファンタジー風の作品を収録した傑作短篇集である。 (光文社文庫)
■『華竜の宮』(2010)
海底が隆起し、多くの陸地が水没した25世紀。科学文明を維持している地上民と、遺伝子操作により海に適応し、魚舟と生活する海上民との間で、軋轢が高まっていた。日本政府の外交官清澄は、ツキソメという海上民の女オサと交渉するが、両者の対立はついに武衝突に至る。だがその時、新たな人類の危機が迫っていた……。壮大な背景をもつ本格SFであり、日本SF大賞受賞作である。同じ時間線の関連作品も必読。 (上下巻/ハヤカワ文庫JA)
■『リリエンタールの末裔』(2011)
表題作は『華竜の宮』と同じ世界の海上都市を舞台に、空を飛ぶ夢を叶えようとする少年を描いた美しい短篇だが、本書には他にも科学技術と人の心との関わりをテーマとした作品が収録されている。「マグネフィオ」では脳障害となった夫の脳内情報を磁性流体によって可視可しようとする妻の姿が描かれ、「ナイト・ブルーの記録」では海洋調査のオペレータが、装置から得られるはずのない情報を心によって補完するのだ。 (ハヤカワ文庫JA)
72年生まれ。07年『Self-Reference ENGINE』でデビュー。12年「道化師の蝶」で第146回芥川賞を受賞。同年『屍者の帝国』で第33回日本SF大賞特別賞受賞。
二〇一二年に芥川賞作家となった円城塔だが、その作風はいわゆる純文学とも異なり、エンターテインメントともいい難く「わからないけど面白い」と評されるようなものだった。一番しっくりくるのはメタフィクション、あるいはスペキュレイティヴ・フィクションといった言葉だろう。
それは円城がきわめて知的な作家であり、小説の構造や論理に思弁的に取り組む作家だからである。数学SFという分野があるが、『Self-Reference
ENGINE』や『Boy’s Surface』といった作品はまさに数学的スペキュレイティヴ・フィクションと呼ぶにふさわしいものだった。
小説の構造自体が数学的に形作られているような実験的な作品もあったが、円城が描こうとしたのは数学そのものではなく、数学・論理・言語といった形式的なものが、いかに人間の心や存在自体に関わっているのか、実体とその表現とはいかに絡みあったものなのかということだっただろう。それはデビュー以来『屍者の帝国』まで一貫しており、イーガンなど現代SFの最先端とも共通する問題意識である。
幻想的ともいえる作品世界の背後には透徹した論理とリアリズムがある。さらに『屍者の帝国』で伊藤計劃とのコラボレーションに取り組む中から、エンターテインメント寄りの表現や、人間の情緒的な側面にも目を向ける広がりを見せており、芥川賞受賞作などには、初期の尖った作品とはまた異なった円熟した魅力がある。
■『Self-Refrrence ENGINE』(2007)
Self-Refrrence(自己参照)とはメタ構造、カオス、さらには自意識を生み出すみなもとである。本書は超コンピュータたちが宇宙の時空をカオス状態にしてしまった世界でのおとぎ話という体裁で、祖母の家を解体してみたところ床下から大量のフロイトが出てきたといった、20編の断片的な「バカ話」から構成されている。しかし、しんみりとするような話やユーモラスな話も含め、いずれもとても奥深い「バカ話」なのである。 (ハヤカワ文庫JA)
■『これはペンです』(2011)
芥川賞候補になった「これはペンです」と「良い夜を持っている」の2編を収録した中編集。読みやすいが、テーマ的には言語(記号、暗号、アルゴリズム)と世界(意識、知性、認識)の関係をほとんどそのまま描いた、円城塔らしいSFといってもかまわない作品である。変な手紙をよこす叔父の「これはペンです」が世界を書く物語であり、夢と記憶が渾然とした父の「良い夜を持っている」は世界を読む物語といえるかも知れない。 (新潮文庫)
■『屍者の帝国』(2012)
円城塔単独の作品ではなく、亡き伊藤計劃の残したプロローグと構想を元に3年がかりで物語を組み上げ、長編としたものである。文体や、意識の上書きとコントロールというテーマは伊藤計劃を思わせるものだが、全体的には円城の作品といっていいだろう。屍者を復活させて労働力とし、巨大な解析機関が複雑な演算を行う、スチームパンク風なもう一つの19世紀で、世界をまたにかけた冒険が描かれる。登場するキャラクタも魅力的だ。 (河出書房新社)
75年生まれ。97年、河出智紀名義で作家デビュー。04年『第六大陸』で星雲賞日本長編部門受賞。06年「漂った男」、11年「アリスマ王の愛した魔物」で星雲賞日本短編部門受賞。
現代の日本SFで、もはや中堅といっていい小川一水だが、その作品は若々しく、初期の瑞々しさを失っていない。にもかかわらず、宇宙や人類、機械や知性を見つめるその眼差しは、より深く、さらに奥底まで見通す力をもっている。
未来への信頼と希望。彼の作品に明るい力を与えているその前向きな方向性は、しかし決して無条件な楽観に根ざすものではない。小川一水の世界にも、様々な矛盾や悲劇、理不尽さは存在している。宇宙の中では人類の絶滅すら大したことではないと思っているふしもある。だがその根底には、科学技術や合理性への信頼、宇宙全体をも視野にいれる巨視的な視点があり、小松左京的な「人類よ、しっかりやれ」といった父親的感覚があるように思える。さらに彼の場合、それを自ら体験し、取り組もうとする姿勢が見え、そのロマンティシズムが、若々しさにつながっている。
さてここにきて、小川一水の作品には大きく二つの方向性が見えてきたのではないかと思う。一つは先ほどの巨視的、宇宙的な未来へつながる方向。もう一つはもっと身近な、ごく近い未来における社会や人々の意識、それと科学技術との関わりを描く作品群である。《天冥》シリーズは前者の、『妙なる技の乙女たち』は後者を代表する作品といえるだろう。もちろん二つは互いに絡み合い、密接な関係をもつものなのだが。この両方の作品が書ける作家として、作者にはますます大きな期待が寄せられているのだ。
■『老ヴォールの惑星』(2005)
収録作のうち、星雲賞短篇部門を受賞したのは、異星の海に不時着し救助のあてもなく漂い続ける男を描いた「漂った男」だが、SFでしか書けない、まさにSFらしいSFとして評判を呼んだのは、ホット・ジュピター型の惑星に棲む知的生命の、種族としての物語を描いた表題作である。他の2編も異常に変容した社会(環境)と個人の関わりを描いており、センス・オブ・ワンダーに満ちた、読み応えのある短編集である。 (ハヤカワ文庫JA)
■《天冥の標》(2009〜)
全10巻となる予定の、現時点で未完の連作であり、小川一水の代表作となるべき大河SFである。その第1巻である『メニー・メニー・シープ』では遙か未来の異世界で、大きな社会変革が起こる様が描かれ、シリーズ各巻は時代を遡って、そこに登場する集団のそれぞれの物語が描かれていく。さらにその背景となる宇宙的な存在の物語も並行して進み、全体にSF的な深みと奥行きを与えている。とにかく早く続きが読みたくなるシリーズだ。 (既刊6巻・9冊/ハヤカワ文庫JA)
■『青い星まで飛んでいけ』(2011)
表題作など宇宙もの4編と、現代もの2編を収録した短編集。宇宙ものには《天冥》のスピンオフ、あるいは原型とも思えるテーマを扱った作品があって興味深い。だが基本テーマはヒトを越えた愛や憎しみであり、SF的〈ボーイ・ミーツ・ガール〉の物語である。表題作は、人類の後を継いだ人工知能たちによる、遙かな時間と空間を越えた探求の旅が描かれるが、彼らはまるで現代の若者たちのようであり、今と遠未来とが接続している。 (ハヤカワ文庫JA)
64年生まれ。98年『夏のロケット』で第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞を受賞しデビュー。小説の他、自然や環境、教育などのノンフィクションの分野でも活躍。
川端裕人は決してSFプロパーな作家とはいえないが、彼の書く小説には、題材といい読後感といい、SFファンにとっても魅力的なものが多い。ロケット、コンピュータ、恐竜、ペンギンや野生動物、そして病原体や気象。社会現象を扱っていても、根底には科学的な視点があり、当たり前の日常と、ここではない別のどこかとの間に、ファンタジイではない、理科的な、科学的な、そして現実的な通路があることを気付かせてくれる。それはある種SFのセンス・オブ・ワンダーと近しい関係にあるように思える。宇宙的・普遍的存在としての科学と日常感覚のぶつかり合うところから広がる、衝撃や驚き。川端裕人の書く小説には、そういうものがあるように思う。
一方で、川端裕人は自然保護や子育て、PTAなど現実の社会問題にも積極的にコミットし、対応していこうとする。そんな活動の中で、彼は現実の個人と社会に対するバランス感覚と批評性を明確にし、それは現代社会を脅かす様々なパニックに、一人一人がどのように対峙していくかという作品にも生かされている。巨大でグローバルな経済や社会システム、あるいは大陸や大洋を巡り、宇宙空間へもつながっていく大気の動きのような壮大な自然のシステム。それらと毎日の暮らしに追われるローカルな個人との関係性を、川端の小説は、その両方にしっかりと目を向けながらも、あくまでも個人と日常の方に軸足を置いて描いていくのである。
■『川の名前』(2004)
小学五年生の夏休み小説であり、ペンギン観察・冒険小説である。多摩川の支流にどこからか現れたペンギンの一家。主人公の少年たちは夏休みの自由研究のテーマにペンギンの観察を選ぶ。さわやかな少年向け冒険小説ではあるが、本書のタイトルである〈川の名前〉の意味が明らかになる部分には、ある種の強烈なSF的センス・オブ・ワンダーがある。それは大宇宙と自分の日常とをつなぐ回路の発見であり、認識の変革なのである。 (ハヤカワ文庫JA)
■『エピデミック』(2007)
東京近郊のある田舎町を突然襲った感染症。人類全体への脅威であるパンデミックに発展するかも知れない恐怖を漂わせつつ、本書はパニック小説というよりも、感染症の「元栓を閉める」ために徹底的にデータを集め推理を働かせる専門家たちの、プロフェッショナルなお仕事小説であり、一人一人の人間としての患者たちと、それを疫学的なデータとして見ることとの二面性を描いた、科学小説=サイエンス・フィクションである。 (角川書店)
■『雲の王』(2012)
大気と水の動きを感じることのできる、超能力者の一族が出てくる気象SFである。気象災害も出てくるが、本書は大空と雲と風の魅力に取り憑かれた人々の物語であり、地球規模のグローバルな科学的探求と、もっとローカルで地域に根付いた、より個人的・日常的な感覚との相剋の物語である。いわば「気象」と「天気」の関係だ。後半、夏空の入道雲から地球規模の大気の擾乱まで広がる、その科学的なスケール感には感動を覚える。 (集英社)
62年生まれ。92年『昔、火星のあった場所』で第4回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しデビュー。01年『かめくん』で第22回日本SF大賞受賞。演劇や落語でも活躍。
第四回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞したデビュー作の『昔、火星のあった場所』、第二十二回日本SF大賞を受賞した『かめくん』、ハヤカワSFシリーズJコレクションの創刊ラインナップに含まれた『どーなつ』や、最近の『どろんころんど』、『きつねのつき』まで、北野勇作の作品は高い評価を受けながら、どれもみな同じモチーフ――どこか懐かしい昭和の記憶が残るアパートや商店街、パイプが走り薬品の匂いが漂う工場や研究所、そしてカメや様々な動物、宇宙人、怪人、ロボットや得体の知れないものが闊歩する、大きく変容した(しかしそれでも今の日常がずっと続いている)そんな世界――を描いているように思える。さらに主人公たちは人間と人間でないものの区別が曖昧になり、自己と他人の記憶が混交した、もやもやとした不安な状態の中で、働き、生活し、日々の暮らしを続けている。それが〈北野勇作ワールド〉である。
そんな北野ワールドは、幻想性を重視する文系日本SFの流れとして捉えられることが多い。しかし(文系・理系という分け方にあまり意味はないが)大学の物理学科卒である北野の作品には、実はとてもハードな科学性が潜んでいることも指摘しておきたい。量子力学的な世界観や自己参照による多世界化など、小説世界と密接に結合しており、ほとんど意識されないくらいである。また落語や演劇の素養も、彼の小説に溶け込み、魅力的な隠し味となっている。
■『どーなつ』(2002)
火星、工場、アパート。労働者は「人工知熊」と脳みそを結び、その記憶を混交させる。他人の懐かしさが自分のものと混ざり合い、異星人の宇宙船が墜落した「爆心地」は観測不能な異界である。火星で生きる生体コンピュータを作ろうと、アメフラシを研究する女性科学者。そんな断片が重なりあいもつれあい、もの悲しいたそがれの喪失感とあいまって、北野ワールドを作り上げる。アメフラシを研究する田宮さんがとてもすてきだ。 (ハヤカワ文庫JA)
■『どろんころんど』(2010)
福音館書店のボクラノSFシリーズの1冊だが、しっかりと北野SFしている。鈴木志保のイラストとコラボレーションした作品でもある。アリスが目覚めると、世界はどろんこになっており、泥人形のようなヒトデナシたちが人間の真似をしている世界だった。アリスとカメ型ロボットと、ヒトデナシの係長との3人組で、どろんこ世界を巡る旅が始まる。アリスは前向きなのだが、全編を覆うむなしさが胸に染みる小説だ。 (福音館書店 ボクラノSFシリーズ)
■『きつねのつき』(2011)
北野ワールドの昭和ノスタルジーな感覚が背景に退き、より現代が前景に出てきている。それは幼い子供のいる風景であり、大破壊の後の、取り残された世界である。そこでは生きているのか死んでいるのかわからない亡霊のような人々が、一見普通の生活を営んでいる。親子の切ない愛情を中心に、淡々と進む幻想的な物語の中で、ふと強烈な怒りがあらわになる。その怒りは、もしかすると3.11を反映したものなのかも知れない。 (河出書房新社)
2013年1月