ポスト・ニューウェーブのアメリカSF
大野万紀
別冊宝島79「世紀末キッズのためのSFワンダーランド」掲載
1988年8月25日発行
JICC出版局
ニューウェーブの時代
今、SFを語るキーワードは〈サイバーパンク〉。この言葉は幸いなことに、SF村の外でもある程度通用するらしい。いやー、それどころか、SF村の外と内でも、極端な認識の違いはないようで(電脳にサイバーとルビを打ち、そのココロは要するに『ブレードランナー』ね)、実にめでたいことであります。
昔はこうはいかなかった。ホント。
昔、といっても大昔じゃない、二十年ほど前のこと。六〇年代終わりから七〇年代前半の、世の中が造反有理していたころ、それに対応するかのように、SF界でも〈ニューウェーブ〉と呼ばれる運動が起こった。SFにも変革を! というわけで、SFは外宇宙より内宇宙(イナースペース)を目指すべきだ、などというスローガンがあった。……おっと、ぼく自身についていえば、まだこの頃は高校に入ったばかりのSF少年だったわけで、毎月SFマガジンを読みながら、時おり紹介される奇妙な小説を、紹介者の熱気に押されつつ、半ば義務のように追っていたわけです。J・G・バラードの〈濃縮小説(コンデンストノベル)〉とか、正直よくわからなかったけど、何となくイメージはわいてきて、おお、これが内宇宙! などと納得していたように思う。
世界とSFの相互作用
ニューウェーブのイメージを規定した作家としては、バラード、オールディスなど、どうしてもイギリス中心という印象がある。アメリカでニューウェーブ作家と目されていたのは、エリスン、ディレーニイ、ゼラズニイといったところだが(ついでにリストを挙げると、スピンラッド、ディッシュ、マルツバーグ、ラス、えーと重要なのはそんなところかな。ディックは当時はニューウェーブ派からもてはやされるオールドウェーブ作家という感じだった。まあ、あの人は特別だからなあ)、日本で紹介されるニューウェーブのイメージとはかなり異なった印象があった。実際、アメリカのニューウェーブは商業主義に毒されているからニューウェーブじゃない、という意見がまかり通っていたぐらいだ。
まあ、今から思えばそんなことはどうでもいいことに思えるが、当時のファンにとってニューウェーブには反体制運動の代替物という意味あいがあったので、こういったいわばセクト主義的な議論がSFゲットーの内部でなされていたのである。
ニューウェーブSFと呼ばれる作品群で、今でも読むに耐えるものといえば、実際にはその運動が起こる以前に書かれたものが多い。運動の直接の影響下に書かれた作品はごく小数の例外を除いて、今やほとんど読むに耐えなくなっている。「〈新しい波〉が去った後に、SFの固い岸辺が現われるだろう」というアシモフの予言は当たったかのように思える。だが、ニューウェーブの後、SFを自ら規制していた様々なばかげた制約の多くが取り除かれたことも確かなのだ。ニューウェーブはSF村の中のマイナーな騒ぎにすぎなかったのかも知れない。だがそれは内破だった。個々の作家や作品についてはともかく、総体としてのSF界を見たとき、ようやく外の世界の動きに対応できる体制ができあがったのである。逆に、外の世界の方もSFというものを発見しつつあった。ロバート・ハインラインの『異星の客』がヒッピーたちの聖典となった。フランク・ハーバートの『デューン』シリーズがエコロジストたちに受け入れられた。いずれもSF内部でいうニューウェーブとは違うものだったのだが……。そして、決定的な外への突破は、オールドウェーブSFの雄であるアーサー・C・クラークと映画監督スタンリー・キュブリックによってなされる。映画『二〇〇一年宇宙の旅』である。この一本の映画によって、おそらく目に見えない壁に大きくひびが入ったのだ。そして、現代のサイバーパンクにもつながる、世界とSFとの相互作用が始まった。ここに七〇年代の〈浸透と拡散〉が準備されたのである。
エリスンの神話
ここで六〇年代後半を(そしてアメリカン・ニューウェーブを)代表する三人の作家についてふれておこう。だけど、ハーラン・エリスンなんて、今じゃ半ば忘れ去られちゃったみたいだね。ひと昔前は結構人気があったのだけど……。
六〇年代後半から七〇年代にかけてヒューゴー賞・ネビュラ賞の常連だったハーラン・エリスンは、基本的には優れて現代的な短篇作家である。「〃悔い改めよ、ハーレクイン!〃とチクタクマンはいった」、「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」、「世界の中心で愛を叫んだけもの」、「ガラスの小鬼が砕けるように」そして「少年と犬」などといった彼の短篇作品は、叙情性と激しさをたたえた現代的なファンタジイであり、今読んでも強い印象が残る(六七年の「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」はコンピュータの内宇宙に捕らわれた人間を描く、サイバーパンクの源流のひとつといっていい作品だった)。エリスンはまた作品以外の所でも人気があった。彼の編集したアンソロジイ『危険なヴィジョン』と『危険なヴィジョン再び』は、その内容よりも饒舌な彼の前書きによってセンセーションを巻き起こした。
エリスン神話とでもいうべきものがある。これには二つあって、一つは実際に彼が七〇年代前半に書いていた「死の鳥」などの一連の強烈な神話的ファンタジイを指すが、もう一つは若いころからSF界で暴れまくり、話題を提供してきたその生き方を指すものだ。彼こそはアメリカにおけるニューウェーブ運動の強力な推進者の一人だった。サイバーパンクのアジテータであるジョン・シャーリイはかつてエリスンの熱心な信奉者だったが、やがて対立し、彼と激しい論争を繰り広げる。これもエリスンの強烈な個性の現れだろう。今はあまりぱっとしないエリスンだが、ぜひ再び活躍してほしい作家である。
ディレイニーの知的冒険活劇
サミュエル・R・ディレイニーは現代アメリカSFの最高の才能の一人である。わが国ではこの前代表作の一つ『ノヴァ』がやっと訳されたので、初めて彼の魅力に触れたという読者も多いだろう。このニューヨーク生まれの黒人作家にもやはり〃神話〃がつきまとっている。〃神話〃は作品のテーマであると同時に、エリスンと同様、彼のSF界での評判を示すものである。二年先輩のスピンラッドがいう「マッド・サイエンティストと、ニューロティックな天才と、アナーキストを大量に生産する有名校」で数学を専攻し、一九才でSFの処女長篇を売り、数学者になるか、ミュージシャンになるか、作家になるか迷いつつ、テキサス湾のエビ漁船に乗り組んだり、フォーク・シンガーとしてヨーロッパをさまよったりしていたという〃チップ〃ディレイニーは、二〇代前半という若さであらゆるファンを魅了するきらめくような数々の長篇を書き、一躍スターとなったのだ。知的な遊び心のあふれる彼の作品はオールドウェーブ派にもニューウェーブ派にも愛された。文学的ファンにもスペオペ派のファンにも、一部のハードSFファンにすら……。
彼の作品は現代の多重性をまさしく体現したものとなっている。その一つ一つが複雑な深層構造を持った〃マルチプレックスな宇宙〃なのだ。スピード感あふれる華麗なスペース・オペラの表層の下に、ありとあらゆるものが畳み込まれている。『バベル−17』、『エンパイア・スター』、『ノヴァ』、そして未訳の傑作『アインシュタイン交点』、これら六六年から六八年の短期間に書かれた比較的短い長篇群には、大変な密度でアイデアが濃縮され、しかも表層のレベルでは読みやすく楽しい冒険活劇が展開しているのだ。若く、生き生きとして、自由な、そして混乱するほどに知的なこれらの作品は、疾風怒涛の若さとSFというものとの幸福な近しさを思い起こさせ、見るものにたまらない眩しさを感じさせる。作風が変わり、重厚な長篇を書き始めてからのディレイニーは、依然として文学的に重要な作家には違いないものの、少なくともぼくにとってのあの黄金の輝きは失われてしまった。
SFの原型的・神話的な面白さは、あのいささかお行儀の悪い、子供っぽいスペースオペラにこそあるのだろう。後に映画『スターウォーズ』のシリーズを見ながら、ぼくはそこにディレイニーの幻影を見た。『スターウォーズ』が、内容的には単純でくだらないスペースオペラにすぎないにもかかわらず、世界的なSFブームを引き起こしたのには、そこに本物のSFを支える原型的な力があったからに違いない。
ゼラズニイの文章スタイル
六〇年代後半のアメリカSFを活性化させたもう一人の作家は、ロジャー・ゼラズニイである。ゼラズニイは日本でもファンが多く、翻訳も非常にたくさん出ている。
彼もまた〃神話〃にとりつかれた作家だ。彼の場合それは文字どおりの意味なのだが。つまり、神話をテーマにしたSFということだ。ただ、その神話とはきわめて現代的、文学的なものである。彼の最大の特徴はその作品スタイルのいくぶん気取ったカッコ良さだ。エリスンもディレイニーもそれぞれ違った意味でカッコ良さを持っているが、ゼラズニイの場合は主にその文章にある。過度に文学的なわけでもなく、また安っぽいわけでもなく、文学性と通俗性のすれすれのところで語る、そのスタイルが魅力的なのである。一歩間違えば悪趣味な装飾過多の文章になるところだが、ゼラズニイのハンドルさばきは絶妙で、危なげがない。
『わが名はコンラッド』、『光の王』、『ドリームマスター』などの長篇、「伝道の書に捧げる薔薇」、「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」といった中短篇で絶賛を浴びたゼラズニイだが、七〇年代に入って、一時停滞する。しかし、ヒロイック・ファンタジイとSFを結合した〈真世界アンバー〉のシリーズは好評で、日本でもたくさんのファンを獲得した。彼はその他にも『影のジャック』や『砂のなかの扉』それに『ロードマークス』といった傑作を書き続けている。
ル・グィンと女流作家たち
ニューウェーブからポスト・ニューウェーブのアメリカSFを特徴づけるもう一つの流れは女流作家の活躍である。その背景にはもちろん、六〇年代の男たちの異議申し立てが息切れした後の、七〇年代のフェミニズムの高揚がある。SF、ファンタジイの分野にも、それまで考えられなかった数の、女性としての意識に目覚めた作家たちが参入してきた。その中でずば抜けていたのが、アーシュラ・K・ル・グィンだった。
ル・グィンの名を高めたのは六九年の『闇の左手』である。このどちらかといえば地味な作品がヒューゴー賞・ネビュラ賞両賞に輝いたのは、そこに性に関する認識の変革を求める、身近ながら高度なテーマ性があったからだろう。彼女はきわめて理性的にこの問題を扱っているが、後の作品ほどの説教臭はなく、SFとして優れた作品だといえる。ル・グィンの他の作品としては、子供向けのファンタジイながらほとんどSFといっていいくらいに理知的に描かれた〈ゲド戦記〉三部作、彼女にしては実験的な作品である『天のろくろ』、テーマ性が前面に押し出され、完成度は高いがやや面白味に欠ける大作『所有せざる人々』などが重要である。しかし残念なことに、ル・グィンはその後SFを書かなくなってしまった。
ル・グィンの他の女流作家たちを挙げてみよう。どちらかといえばニューウェーブ世代に属するのがケイト・ウィルヘルムやジョアンナ・ラス、その後の世代に属する者としてはヴォンダ・マッキンタイア、ジョーン・ヴィンジ、タニス・リー、C・J・チェリー、リサ・タトル、エリザベス・リン、等々……挙げていけばきりがない。彼女たちの特徴は、一部を除いてほとんどがファンタジイにきわめて近い作品、あるいはファンタジイそのものを書いていることである。またその視線には繊細ながら七〇年代の文化変容を経た冷厳さがあり、ファンタジイを描いてもどこかに現実が反映している(もっともこの点ではニューウェーブ世代とその後の世代ではいくぶん異なっているが)。語り口はどちらかといえば饒舌だが、軽妙さには乏しい。スタイルよりは内容を重視しているようだ。
彼女たちは一人一人を見ればまぎれもなく個性的なのだが、総体としてはニューウェーブやサイバーパンクよりもさらに同質性が高い。その活動はSFの幅を広めたが、一方で分厚く水増しされた大作ファンタジイの乱造を招いた。もっともこれは〃女流作家〃の問題というよりも、七〇年代後半に起こったすさまじいSFブームにその原因を求めるべきだろう。SFの〈浸透と拡散〉である。急増する需要に応えたのが、これら新たにこの分野に参入してきた経験の浅い作家たちだったということだ。書店の棚に並ぶやたらと分厚い逃避的な長篇ファンタジイの量に、古いSFファンは眉をひそめた。すばらしい作品も多かったのだが、日常的なロマンスを退屈なファンタジイの口調で語る安易な作品の前に影が薄かった。〈ファンタジイ汚染〉という侮蔑的な言葉も生まれた。ハードSFやサイバーパンクの台頭には、こういった状況への反発がその底流にあったに違いない。
ともあれ、七〇年代の女流作家の活躍には目ざましいものがあり、シオドア・スタージョンをして「最近の有望な新人は、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアを除くと、あとは皆女性ばかりだ」といわしめた程である。そして、そのジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが実は女性だったとわかった時、SF界に走った衝撃の大きさは……想像してみてほしい。何を隠そう、ぼくもニュースを聞いて飛び上がった一人なのだ。
ティプトリー・ショック
ポスト・ニューウェーブのSF界で、最も重要な作家はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアである。ぼくはそう断言する(先の事は知らないよ)。ティプトリーは六八年のデビューから七七年の正体暴露、そして八七年のその死まで、常にSF界に衝撃を巻き起こしてきた。その野心的、実験的、衝撃的な短篇の数々は、停滞したポスト・ニューウェーブのSF界で、強烈な輝きを放っていた。同時期に独特の作風でSF界をかきまわした奇才R・A・ラファティと共に、ティプトリーの作品は次々とSF賞に輝いた。「愛はさだめ、さだめは死」、「接続された女」、そして「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」などである。彼(彼女?)の作品はゼラズニイ、ディレイニーといったアメリカン・ニューウェーブとオーバーラップしながら、七〇年代のフェミニズムや時代の閉塞状況を乗り越え、さらに八〇年代のサイバーパンクまでを完全にその視野におさめていた。
人類が直面している様々な問題に、SFの手法でもってシリアスに取り組もうとするティプトリーの姿はたくましい。それは経験豊かなベテランの力強さである。モラトリアムな未熟さが支配した七〇年代にあって、こういう大人の態度は確かに目立つものだった。ティプトリーの経歴が明かになった時、それが衝撃的であると同時に、いかにも納得のいくものだったのにはこういうわけがある。普通の人間の何倍ものドラマチックな体験をしてきた、平凡さとはほど遠い生涯……。
彼女――アリス・ヘイスティングズ・ブラッドリーは、一九一五年、高名な探検家の父と作家である母のもとにシカゴで生まれた。幼いころから両親に連れられて世界各地を旅し、植民地時代のアフリカやインドで様々な異文化、宗教、タブーと接触、十歳になるまでに世の中のありとあらゆる現実を目にし、〃同年代の普通の子供たちとの生活に深い疎外感を覚え、文化の相対性に悩む〃早熟で孤独な少女となった。二十代で画家としてデビュー、美術評論を書いたり左翼運動に没頭したりしていたが、ヨーロッパの戦争が激しくなった四二年、自らファシズムと闘う決意をして陸軍に入隊、女性として初めて空軍情報学校を卒業、ペンタゴンの中枢で働き始める。四五年にはドイツ科学の成果をアメリカへ持ち帰るプロジェクトに参加。その指揮官だったハンティントン・シェルドン大佐とヨーロッパの瓦礫の中で結婚、アリス・シェルドンとなる。戦後、シェルドン夫妻はCIAの設立に深く関わり、彼女自身も冷戦の中で諜報活動に関与する。五五年、軍事機密より自然の秘密が知りたいとCIAを辞め、大学に入りなおす。実験心理学を専攻し、優秀な成績で博士号を取得するが、体調を崩して研究を続けることができなくなる。だが彼女はまた驚くべきことをやってのけた。六八年、SF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアとしてデビューしたのである。
ティプトリーの作品は、そのスタイルにおいてまぎれもなく伝統的なSFの現代的な再生だった。宇宙船が飛び、異星人が現れ、時にはスペースオペラでおなじみの宇宙怪獣まで出現した。古い題材ばかりでなく、遺伝子工学やコンピュータ・ネットワーク、性とコミニュケーションが斬新な手付きで扱われた。深刻なテーマを読者につきつける場合も、声高に叫ぶより冷静な科学者の目でそれを見つめていた。ル・グィンがどちらかというと理論の人だったとすれば、ティプトリーは明かに白衣の実験科学者だった。ティプトリーのSFは人間たちの生態を観察し、隠された秘密を探るための特別な実験室だったのだ。もちろんそれだけがティプトリーの全てではない。茶目っ気あるSFファンとして、彼女は感受性豊かな瑞々しい作品や、楽しいコミック風の作品も数多く残している。
一九八七年五月十九日、アリス=ティプトリーは、病気で寝たきりとなった夫を射殺し、同じベッドの上で自らの頭を撃ち抜いた。彼女は七十一歳、彼は八十四歳だった。全世界のファンに強烈な衝撃を残した最後だった。このたぐいまれな才能を失ったことは、実に寂しいことだといわざるを得ない。
LDGとヴァーリイ
六〇年代末期の興奮がさめた後、しらけと幻滅の七〇年代がやって来た。人々は政治や科学や現代社会といった現実に背を向け、閉塞的な自分だけの世界に沈潜していった。やがて空前のSFブームが来たが、それはこういう逃避的な傾向に対応したものであり、SF自体は少数の例外を除いて活気を失っていた。その中で、新しい世代の作家たちが、彼ら自身にとってのSFを真剣に模索していた。後にかつてのニュー・ウェーブ派から批判され、LDG(レイバー・デイ・グループ)とラベルを張られた作家たちである(彼らが七〇年代後半のヒューゴー賞を相次いで受賞したことから、トマス・ディッシュがこの名をつけた。ヒューゴー賞は毎年〃労働者の日(レイバー・デイ)〃のある週末に開かれる世界SF大会で授賞される)。ニューウェーブ派にとって、彼らの試行錯誤は優柔不断に思えたのだろう。だが、彼らがディッシュのいう「nページの〃フィクションウェア〃を製造する有能な娯楽エンジニア」といったものではなかったことは確かだといえる。LDGと呼ばれた主な作家のリストを挙げよう。いずれもぼくにとって思い入れのある作家たちばかりだ。ジョージ・R・R・マーティン、ジョン・ヴァーリイ、エド・ブライアント、ヴォンダ・マッキンタイア、マイクル・ビショップ、グレゴリイ・ベンフォード、オースン・スコット・カードなどである。
この中で、ジョン・ヴァーリイについてもう少し触れておこう。短篇集『残像』と長篇『へびつかい座ホットライン』、それに最近訳された短篇集『バービーはなぜ殺される』に含まれる作品は、その多くが〈八世界〉シリーズと呼ばれる未来史に属している。これは伝統的なSFの道具だてを用いつつ、七〇年代の同時代性を色濃く反映し、新たな未来のモラルを探ろうとした作品群である。
七〇年代末期のSFには、またハードSFの復活という新しい流れがあるのだが、もう紙数がない。また別の機会にしよう。
八一年、映画『ブレードランナー』が公開された。そして、八〇年代のSFが活性化することになる……。
1988年5月