神獣聖戦 1 山田正紀
本誌に連載されていた“未来史”シリーズ四篇を収めた中篇集である。著者によると、最終的には中篇集三巻、長篇二巻の計五巻になるという、壮大なスケールの物語である。
相対性理論を超え、背面世界へ飛び込むことで何百光年を一瞬に跳躍する――非対称航行。その乗員はすでに人類ではなく、鏡人=狂人と呼ばれるようになった者たちである。この反作用として地球上では人類が事実上滅亡し、水たまりから生まれた思考生命体〈幻想〉が発生して、虚と実が入り乱れてしまった。生き残った人類の一部は〈悪魔憑き〉となって、太古にそれを準備した〈種族〉の思わく通り、鏡人=狂人との果てしない戦いに突入していった――というのが、今のところわかっているこの“未来史”の背景である。物語は時間と空間を交錯させながら、いくつかのエピソードを拾っていく。ある時は電子パターンとなって二秒間の冒険を行う少女とネコ、ある時は幻想世界と化したエーゲ海をさ迷う青年。著者のイメージの広がりは、ハードSFと神話の間を行き来する。小松左京の『果しなき流れの果に』を思わす雄大な本格SFの誕生である。
夢と闇の果て 山田正紀
山田正紀の書き下ろし長編SFである。今月は本書と『神獣聖戦』と山田正紀の読みごたえのある本格SFが二冊出版されたので、どちらを大きく扱うか大変迷ったのだが、『神獣聖戦』はシリーズの第一巻ということでもあり、今回はこちらを中心に扱うことにした。
さて、ほとんど川又千秋を思わせる華麗な夢のコトバがとびかい、日常感覚からはかなりかけ離れたところで物語の展開する『神獣聖戦』――もっともこの印象は第一巻に限定すべきかも知れないが――に比べると、本書はある意味でもっとおとなしい、端正にまとまった物語であるといえる。実質的な登場人物はわずか三人――あるいは三つのパーソナリティのみ。また世界の広がりも表面的には南の島から宇宙空間まであるというものの、もう少し深いレベルではただ一つの〈場〉が存在するのみである。神話的な象徴がちりばめられ、何度も何度も違ったレベルで繰り返される基本的には同一の物語。まるで舞台劇を思わせるような、静かな〈ドリーム・タイム〉の物語である。
夢を見ること。夢の時間を生きること。抽象的な意味ではなく、ごく日常的な意味での〈夢〉が本格SFの重要なテーマとなったのは、そう古いことではない。本質的に虚構の文学であるSFは、空想世界のリアリティを重んずるあまり、夢や幻想を敬遠しがちだった。SFが描くのは合理的なあれやこれやの結果としての幻想的な光景であって、決して幻想そのものではないというのが、真面目な本格SFの立場だった。夢オチなんていうのは最悪だった。もちろん今でもこのことに変わりはない。しかし、いわゆる認知科学の登場によって、従来カッコに入っていたこれらのこと――夢、認識、思考、言語、エトセトラが、単にブラック・ボックスとしておくにはもったいない、知的で魅力的な主題として現れ、しかも従来より(科学的な手法によって)取り扱いやすくなったのである。虚構をつくること、物語することといった、SFの自己認識にかかわる、いわゆるメタSFの登場も、これらと同一の流れの中にあるといっていい。SFは科学のパラダイムによって(意識的にせよ無意識的にせよ)強く規制されている。新しいパラダイムについても同じことである。このことが、従来からある観念的な幻想小説とメタSFとの決定的な差異となるだろう。
認知科学の成果を取り入れようとしたSF作家の一人はアーシュラ・K・ル・グィンである。彼女はオーストラリア原住民の〈ドリーム・タイム〉の概念にとりわけ興味を示した。これは夢の時間をもう一つの現実として捉え、夢と現実との相互作用をありうるものとして考えるものだった。わが山田正紀は、これを沖縄の土俗的・神話的時間の中に、まったく新しい形で再生して見せたのである。
宇宙空間を夢見ながら渡る二人の男女。彼ら、ハルとナツは、夢見ること、物語することに特別な才能をもつ、語得大君、聞得大君の子孫だった。彼らは群星の物語を夢見る。その夢は時間と空間を越え、戦後すぐの沖縄や、薩摩の支配下にある南の島へと渡って行く。そこには彼らの夢を破ろうとするフユと呼ばれる男と、神話的な存在である“大頭”がつきまとう。だがこの物語は彼らの夢であると同時に現実でもあるのだ。最後の章では舞台は再び宇宙に戻り、彼らにとっての固有時の中で、壮大な世界神話が語られる……。ここで評者には、宇宙は自らを意味づけされるために誕生した、という物理学者ウィーラーの自己参照宇宙論が思い起こされた。今年の収穫に加えられるべき秀作である。
アッシュと母なる惑星 田中光二
スペース・オペラとヒロイック・ファンタジイの結合を狙った〈アッシュ・サーガ〉の第三巻。前作『アッシュと燃える惑星』から実に四年ぶりに出た、文庫書き下ろしの新作である。SF的な道具立てときらびやかな冒険活劇とが見事に溶け合っていて、なかなか楽しめる物語となっている。評者の好みからいうと、同じ作者の〈ヘリック〉シリーズよりもこちらの方を高く評価したい。
星間連邦の直轄領である宇宙港を除けば、中世的な技術文明以前の封建国家が割拠している惑星ミロシス。“大宇宙の狼”アッシュはかつてこの惑星の王家の一員だった。だが彼の王国は恐るべき近代兵器で武装した傭兵団〈スカルプハンター〉の手によって滅ぼされ、隣国ネヘミアの残酷な支配下に置かれていた。“観照者”ルカンの心配をよそに、アッシュはネヘミアの妖姫バビロナの陰謀に荷担して王国を倒そうとする。そのためには、まず七人の戦士を雇い、メギラス星の“嘆きの石”を奪う必要があった。そして……。
SF的な大道具・小道具が中世的な物語とよくマッチしている。ロールプレイ・ゲームのシナリオとしても面白いだろう。
ショートショートの広場 6
星新一ショートショート・コンテストより八十四年度の優秀作・入選作四十八編を収めたアンソロジーである。さすがに粒よりな作品集であり、とりわけ優秀作に選ばれた十編と最優秀作の一編は良くできている。また巻末に収められた星新一の選評には非常に有益な指摘が多く含まれていて、自分もショートショートに挑戦してみようという読者には大変参考になるだろう。ぜひじっくりと読んでいただきたい。
個々の作品についてのコメントはショートショートという性質上ここでは避けたいが、全体にストレートなSFから遠いほど読後感が強烈であるという印象を受けた。SFもののショートショートというのは、よほどのアイデアかひねりがないと、もはやちょっと書けなくなっているのではないだろうか。優秀作に選ばれたものは、いずれも日常的な不安感や広い意味でのファンタジイに題材をとったものだった。不条理やナンセンスを狙ったものも多いが、これは出来不出来の差が大きいようである。本書に収められた作品の中にも、なんだこれは、と思われるものが何編かあった。なかなか難しいものだ。
月は死を招く マイク・マックウェイ
『オールドタウンの燃えるとき』に続く未来探偵マシュー・スウェイン・シリーズの第二弾である。映画〈ブレード・ランナー〉を思わせる荒廃した二十一世紀の世界。そのゴミ溜めのような破産都市に住むタフで優しいハードボイルド私立探偵マシュー・スウェイン。本人はそのつもりでなくとも(あるいは作者もそうかも知れないが)、このパロディ性が本書にユーモラスなタッチを与え、かっこいい探偵のあまりかっこ良くない活躍が物語の雰囲気を盛り上げている。なにしろ二十一世紀の世界では、ハードボイルドな私立探偵なんてアナクロのきわみなのだ。
本書では舞台が地球を離れ、月の軌道上に作られた巨大企業の人工都市で、非人間的な〈システム〉を相手に、恋人ジニーを救うためのスウェインの冒険が描かれる。その冒険に色を添えるのが、宇宙タクシーの運転手でかわいこちゃんのポーチーである。訳者あとがきで指摘されているように、このポーチーの扱いが非常にいい。題材からいけば暗い暗い話になってしまうところを、うまく救っている。前作よりSF味は強いが、謎ときは複雑で、やや混乱気味のようだ。
日曜日には宇宙人とお茶を 火浦功
SFマガジンに連載された連作短編に書き下ろしを一編加えた短編集である。
ボケとツッコミの漫才コンビ――《猫又ジャーナル》編集員の山下とサトル――にマッドサイエンティスト(ただし仮免許)のかわい子ちゃん――みのりちゃんで〜す――がからむ、ドタバタSF――なんていうと、すごく古い感じのワン・パターンを思い浮かべるでしょう? しかし火浦功は、それをとっても現代的な、そう週刊誌マンガやテレビのヤング向け番組のポップな感覚で活字化したというわけだ。ある年代以下の読者にはとても親しみやすい作品となっている。一方でオジサンたちには、この軽さはちょっとついていけないのじゃないかという気もした。ドタバタ、スラプスティックには違いないが、少しも汗臭くない。ホットじゃないのだ。といってしゃれたクールなギャグというのともちょっと違う。とことんネアカな、なあ〜んにもない、この心地良さ。活字で書くマンガ、という試みはよくあるが、その成功した例だといえよう。……もっともこれは短編集全体を読んでの増幅された感想でもあるのだが。一編だけではやや弱い印象がある。
いしかわじゅんのイラストがとても良く作品の雰囲気とマッチしている。
学園ポップス伝説 草川隆
秋元文庫のジュヴィナイルSF。最近のテレビの歌謡番組でよく見かけるような、歌はへたくそ、ルックスもそれほどじゃないのに、なぜかやたらと人気があるといったアイドル歌手と、宇宙人の地球侵略とをからめた、奇抜なアイデアの作品である。
作者はベテランであり、ストーリー・テリングのうまさにはさすがに手慣れたものを感じさせる。中学生の少年と少女がいつのまにか異常な世界へ踏み込んで行く様子も、それほどの異和感もなく読むことができる。まず芸能界というのがそもそも非日常の世界であり、いったんそこへ話が進んだならば、宇宙人だろうが何だろうが、あと一歩の飛躍でしかないと思わせるのだ。これはうまいテクニックである。また子供の顔をした大人が活躍するといったタイプの不自然なアクション小説ではなく、主人公の行動に自然な子供っぽさがあるのも好ましい。しかし、SFとして見るなら、やはりこの話には無理がありすぎる。どうしてわざわざ宇宙人がアイドル歌手を養成しなければならないのか、そこのところが理解できない(だってそうでしょう?もっと手っ取り早い手段がありそうなものだ)。結末もちょっと納得し難い。もう少し何とかならなかったのだろうか。
ホラー&ファンタシイ傑作選1 大瀧啓裕編
アメリカの怪奇幻想小説誌として評価の高い〈ウィアード・テイルズ〉誌から、編者が独自に選んだ十編の短編を収録したアンソロジイである。P・S・ミラー、C・A・スミス、R・E・ハワード、R・ブロック、H・カットナーらの作品が収められている。
〈ウィアード・テールズ〉というと、評者などすぐに例の〈クトゥルー神話〉を思い浮かべるのだが、ここに収められた作品は、何編かの〈クトゥルー神話〉と関係のありそうな話を除いて(そのあたり、マニアではない評者には正確に判断できない)、もっと一般的な怪奇小説集だという印象を受けた。骨董屋の怪、墓場の死体荒らし、隠れ里の化け物たちと、ごくおとなしい幻想的な話から、おぞましくグロテスクな怪談まで、スタイルもいろいろで、中にはN・ダイアリスの「サファイアの女神」のように、コンデンスド・ヒロイック・ファンタジイとでも呼べそうなものまで含まれている。この点、〈ウィアード・テールズ〉の多彩な内容を紹介するという編者の意図は満たされたといえるだろう。
評者が最も強い印象を受けたのは、G・ガーネットの「コボルド・キープの首なし水車番」である。とてもストレートな怪談だが、おぞましさは随一だろう。
不確定世界の探偵物語 鏡明
本誌に連載されていた連作短編をまとめたものだが、全体で一つの長編として読めるようになっている。未来のハードボイルド探偵が活躍する話――とくれば、最近の例でいうとマイク・マックウェイの〈マシュー・スウェイン〉シリーズがあるし、昔ならハリイ・ハリスンのよく書いていたようなものがそれにあたるだろう。ハイ・テックな未来風景と対照的にゴミゴミとした下町やスラムを描いて、そこを舞台に、いかにもアナクロニズムそのもののような探偵気質を持ち、いわば時代に取り残された――それだけ我々には感情移入の容易な――ヒーローが、直観と肉体をこき使って、警察には解決できない難事件に挑む。SFでこういうシチュエーションが描かれる場合は、その背後に社会派的な問題意識を持っていることが多い。未来に予想される社会的矛盾と、それを食い物にする大組織エトセトラ……対個人の人間性との戦い、というパターンである。
本書にも一応そういうパターンは見られる。しかし本書の場合、それよりも何よりも背景となる世界の異常さが目を引くのだ。タイムマシンが存在する世界――たったそれだけのことで、ハードボイルド探偵の物語が全く違った文脈の中に置かれることになってしまう。タイムマシンのおかげで「現在」そのものが不確定なものとなった世界。あったはずの事件が初めからなかったことになりかねない。そんな世界での探偵という職業は、アナクロを通り越してほとんどマンガである。ところが本書では、そんな主人公が絶世の美女を相棒にして、一見ありふれたものに見える事件の謎を追い、その背後にある、この世界の運命を賭けた戦いに巻き込まれていくのである。ハードボイルド小説のパロディのように見せて、その実はまことにストレートなSF、それも複数の時間軸のからみ合うタイム・パラドックスという、本格的なSFのテーマを、これまであまりなかったような切り口から扱ったものなのである。
このテーマがはっきりと出て来るまでは、正直いってちょっと苦しい。個々の物語での主人公の動きがプロットの流れと必ずしも合っていなくて、一見したところ単なる狂言回しにしか見えないからだ。主人公である探偵が事件と主体的にかかわることが必要なはずなのに、彼を越えた外側の動きが事件を支配してしまい、探偵は事件の本当の展開から疎外されてしまうのである。なぜこの主人公なのか、といった根本的な疑問は、個々の物語を貫くより大きなテーマが次第に明らかになるに従って、徐々に解き明かされ、最後には感動的とさえいえるクライマックスも用意されているのだが、それでもなお、最終的に解決されたとはいえない。いくつかのヒントは出ている。あるいは続編が書かれるのかも知れない。
探偵はいかにもハードボイルドの探偵らしく、つきそう美人の相棒もかっこ良くてなかなかすてきだ。しかし、そういうわけで、本書で真に印象的な登場人物といえば、人類の運命そのものをただ一人でコントロールするという、神のごとき恐ろしい責任と孤独を背負った男、エドワード・ブライスその人だ。普通こんな男は、自由に生きる個人を代表する探偵にとって、敵以外の何者でもないはずである。ところが本書では、それがいかにも個性的で魅力的な人物として描かれ、探偵の個性と正面からぶつかり合っているのだ。
作者の意図とは違ってくるのだろうが、物語の最初に出て来た、進化論をめぐる異なった時間線というアイデアは、大変面白いものだっただけに、もう少し掘り下げられても良かったのではないだろうか。
百蓮都市ネフェルタ 田中文雄
〈大魔界〉シリーズの四巻目、最新作である。舞台は再びアガラスに移り、魔界と人間界との奇怪な戦いが描かれる。
このシリーズの特徴は、耽美的ファンタジイに通じる怪奇趣味と登場人物の細やかな心理描写にある。とりわけ男と女のナイーヴといっていいような心理の葛藤が中心にあるのだ。本書ではタリアやクラリモンドといった半ば魔界の者である女性と、それを取り巻く男たちとの関係にそれが見られる。そこから生じる暗いエロチシズムが全編を覆っているのだ。血と屍臭と妖気に満ちてはいるが、決して直接的なおどろおどろしさはなく、魔界を〈霧世界〉と呼ぶように、あらゆる物がぼんやりとした妖美の白いベールに包まれている。人間の血の色である赤と、魔界を象徴する白との二つの色彩が、本書の中では混じり合い溶け合っているのだ。
ハンニバルはいかにも男らしい男であり、ヒロイック・ファンタジイのヒーローにふさわしい肉体と力を備えている。しかしながら物語の中心が肉体の戦いよりも内面的な戦いの方にあるので、これはもはやヒロイック・ファンタジイとは呼びにくい作品となっている。むしろ実際の神話や伝説に一歩近づいた象徴的な物語だといえるだろう。
怪事件が多すぎる 清水義範
〈宇宙塵〉出身のSF作家清水義範が新たに始めた〈幻想探偵社〉シリーズの第一巻。三つの作品が収められた短編集である。この作者の作品にはこれまで比較的大がかりな設定をもった“重”SFが多かった中で、これはユーモアタッチの“軽”SFといっていい作品だ。
主人公は大学を出たばかりで同級生が始めた探偵社に勤めることになった乾三四郎。探偵社といっても、普通の調査ではなく、小説に出てくるようなアームチェア・ディテクティブが目的だという非常識な所長の下で、彼は奇怪な事件ばかりを担当することになる。その事件というのが幽霊やら異常現象やらに係わるものばかり。彼の相棒となるのは、探偵社の事務員をやっている謎の美少女。彼女の正体は主人公だけが知っている……。
といった設定で、タイム・パラドックスや超能力がらみのSF的アイデアがコミカルに描かれる。とくにタイム・パラドックスの手慣れた扱い方は、ジュヴィナイルとしては成功した部類に入るだろう。わかる人にはわかるTV番組の内幕的パロディもあって、なかなか楽しい読み物となっている。
法王計画 クリフォード・シマック
巨匠の大作症候群と悪口をいわれるくらいこの数年ビッグ・ネームたちの大作が次々と発表されているが、それなりに読みごたえはあるものの、過去の優れた作品に比べると何となく見劣りするということがしばしばあった。私見だが、今風に書こうとして、かえって作者本来の持ち味やSF的魅力を殺してしまったという面があるのではないかと思う。その点シマックは全くそういうところがない。八一年に書かれた本書は、まるで五○年代の埋もれた傑作のように読めるのである。こんないい方をすると進歩がないと非難しているように聞こえるかも知れないが、決してそうではない。八十歳になるシマックが、油ののりきった頃と同じ力で、より円熟した作品を書けるということに感心してしまうのだ。ロボットの魂といった問題をメインテーマにしつつもシマックは良質のエンターテインメントとして本書を描いている。現代SFに新たな何かを付け加えるといったものではないが、SFを読む楽しさを与えてくれる作品である。本書は急いで全部読んでしまわず(何しろ長いし、悠々としたペースで話が進むのだ)ゆっくり読むべき作品である。
悪夢喰らい 夢枕獏
短編集。五六年から五九年までに様々な雑誌(「山と渓谷」「SFマガジン」「ブルータス」「問題小説」等々)に掲載された九編が集録されている。
あとがきで作者自身がいっているように、最近のベストセラー小説でしか夢枕獏の作品を知らない読者には、本書の作品はかなり毛色の違ったものとして映るのではないだろうか。しかし古くからの読者にとっては、こちらの系列の作品こそいかにも獏さんらしい、山の神秘を知った人の幻想譚だと思えるに違いない。とりわけ「ことろの首」「中有洞」「霧幻彷徨記」などには、〈日常生活の裏に潜む幻想〉といったセコイものではない、深い奥山の生きている神秘といったものが感じられる。
基本的にはSFというよりも幻想怪奇譚といった方がいい作品ばかりだ。幻想や怪奇にも色々あるが、この人の持ち味は、暗い陰惨な幻想怪奇譚ではなく、激しい野生の匂いがする、カラフルな、ギラギラと熱い幻想怪奇譚にあるように思う。いわば生きたフォークロアの書ける人なのだ。「ことろの首」の迫力もここから来たものだろう。
ティモシー・アーチャーの転生 フィリップ・K・ディック
ディックの遺作となった長編である。『ヴァリス』『聖なる侵入』に続く作品だが、別に続編ではないし、SFともいいにくい。どちらかといえば普通小説として読める小説である。しかし、前二作と切り離して考えることができないことも確かだ。そして重要なのはやはりその側面なのである。
本書は現代のカリフォルニアを舞台にした一人の若い未亡人の物語である。彼女の夫のジェフ、その父親であるティモシー・アーチャー主教、そして主教の愛人だったカースタン・ランドボーグ――この三人の死が彼女に何をもたらしたかが語られる。中心となるのは前二作と同じく、宗教的・哲学的議論だが、本書ではむしろ、そういう言葉の上の議論に対する生活者の現実といった面が強調されている。したがって読後感は前二作とかなり異なり、常識的で健康な現実の生が過剰な観念に勝利するといった、ある意味で通俗的な印象すら受ける。これは彼方へ行った振り子がまた戻って来たということだろうか。いや、おそらくそうではないだろう。本書は『ヴァリス』の否定ではなく、それを踏まえた上での補完なのではないだろうか。
武装音楽祭 野阿 梓
野阿梓は活字のSFに「骨太な」少女マンガの感覚を持ち込んで成功した作家である。あるいは歌劇的なロマン感覚といってもいいかも知れない。彼の描く銀河帝国はまさしくこの意味でスペース・オペラの世界である。
本書は銀河帝国の打倒をめざす若きテロリスト、レモン・トロツキーの物語だ。こう聞くだけでもうついていけない人もいるだろうが、驚いてはいけない。レモン・トロツキー、略してレモン・T。彼の属す革命党が〈狂茶党〉=マッド・ティー・パーティ。その議長が〈赤の女王〉。しかし別にアリスのパロディではないのだ。こういう言葉の使い方によって、いわば記号化されたロシア革命とアリスが出会い、銀河の諸惑星に革命ロマンの一九世紀がよみがえるのである。これもまたSFの効果と呼んでいいだろう。
本書の第一部「冬の城」は、そんな革命ロマンがSF的ハードウェアとうまく融合した迫力ある物語である。これは少女マンガに興味の薄い向きにも充分お勧めできるだろう。第二部「武装音楽祭」はまたかなり雰囲気が異なる。アクションより心理劇の方に重点が置かれており、対照的な印象が残る。
アメリカ鉄仮面 アルジス・バドリス
本書は海外SFファンの間で以前から名のみ高かったアルジス・バドリスの、五○年代の代表作である。バドリスは高い評価にもかかわらずわが国での紹介に恵まれていない作家の一人で、もう一つの代表作である『無頼の月』も創刊まもないSFマガジンに連載されたままで単行本にならず、手に入る機会は少ない。そういうわけで、本書は海外SFファンにとって大変嬉しい一冊なのである。
さてその内容はというと、米ソのスパイ戦争のさなか、実験中の事故で重傷を負ったアメリカの科学者がソ連側の病院に収容され、顔を失った男としてソ連から帰って来る。彼は本当に同じ科学者なのだろうか、それともソ連のスパイなのだろうかというサスペンスを軸として、人間のアイデンティティをテーマとした物語なのである。始めは典型的なスパイ・ミステリの調子で始まるが、次第に一種のアメリカン・グラフィティという側面が強くなっていく。科学者の過去が現れ、彼とつながりのあった人々との出会いが描かれる。その一方で政治的側面はますますグロテスクに戯画化されていく。発表当時の衝撃はないだろうが、読みごたえのある作品だ。
旅する人びとの国 山口 泉
上下二巻、二五○○枚の長編幻想小説である。「夜よ、天使を受胎せよ」(一九七七)で太宰治賞・優秀作を受賞した二九歳の著者の、第一長編にあたる。
本書は、近未来のいつか、極東の一角に「人間をとりまく物質と人間の精神をともに解放しえ、また解放しつつある国」〈オーロラ自由国〉を誕生させた、初代大統領・知里永の、学生時代に書いた未発表小説という体裁をとった額縁小説である。その内容は、徹底した虚構によって、人間の本質的な政治性・残虐性(カール・セーガンなら爬虫類の脳のしわざというだろう)を暴き、「世界と人類とが破滅することの不可避性」を証明しようという、きわめてモラリスティックな要素の強い思弁小説となっている。
というわけで、正直なところ、本書はSFではないし、幻想小説ともいいにくい。何らかの政治的主張を持った反ユートピア小説と読めないことはないが、社会や国家というような大きなわくぐみで語るよりも、そのようなレベルのリアリティは捨てて、個人を単位とした「量子力学的」世界での内省をせまるより観念的な物語である。主人公である多感な一七歳の少年は、これでもかこれでもかとばかりに人間の精神のすさまじい暗部を見せつけられる。ちょうど若い魂の地獄巡りといったおもむきである。「現実」を見せつけられ、成長するという話ではない。見せつけられるのは人間の脳のひだひだの間、まさしく〈インナー・スペース〉と呼ぶべき領域なのだ。もっとも本書の背後には、今から十数年前のあの政治の季節の雰囲気が色濃く漂っていて、本書の中で無数に繰り返される残虐行為には、海の向こうの戦争や、あのころのすさんだ精神的状況が反映していないとはいえないだろう。
物語は一見ジュヴナイルを思わす文体で始まる。ですます調で書かれた地の文、どことも知れぬ(もっとも明らかに日本かカラフトか朝鮮半島のどこかを思わせるのだが)紅さし指共和国の北辺にある星県の、ギムナジウムに通う少年少女たちの描写。美しい自然や風景。しかしそういった日常的な風景は、大変脆い基盤の上にのっていたのだった。この国は政治的混乱のただ中にあった。大陸への介入戦争で疲弊したかつての皇帝政府にとってかわった共和国は、いわば「かりそめの共和国」であり、政治的・文化的に衰弱し退廃をきわめたものだった。町の通りでは戦争孤児の少女たちが公認の娼婦となって客を引き、反動と化したかつての反体制集団に属する〈騎士団員〉たちが愚劣な優越感に浸っていた。主人公の工月透はふとしたことで町の政治キャバレー〈炭素館〉に出入りするようになり、そこで様々な人物と知り合う。不具の天才少年数学者ユリオ、極寒の多島海から来たごく普通の少女ジュラ、現実世界では廃人に等しい神秘家ゼム、そして悪魔のような陰謀家で天性の男妾である青年、蛭男。蛭男との出会いにより、透はあらゆるモラルを捨てたおぞましい人間精神の荒廃にいやというほど直面させられることになる(そしてそれは読者にとっても同様である)。極寒の多島海に成立した子供たちの独立国の、誕生とその悲惨な崩壊を見、残酷な閉頭刑を科せられた人形使い師の壮絶な芸を見、〈世界最悪の人間〉の哲学を聞かされることになるのだ。
本書はSFではない。しかし、SFがその中に含まれるところの、広い意味での思弁小説であり、また時おり描かれるいくつかのイメージに、まぎれもなくSFと共通するものがあることも確かである。決して読みやすい小説とはいえないが、このグロテスクさは一読の価値がある。
吹雪の星の子どもたち 山口 泉
『旅する人びとの国』とは全く対極的なものを意図して書かれたという、著者の第二長編であり、予定されている続編と合わせた二部作の前編となる作品である。
『旅する――』でも現れていたジュヴナイル的な文体はここではさらに意識的となり、内容的にもほとんど童話か寓話として読めるものとなっている。もっともSF的ということでいえば、本書の方がはるかにSF的なイメージは豊富である。なにしろ、舞台はどこか別の惑星であり、その星の子供たちの、旅立ちの一夜を扱った物語なのだ。この星の人々は普通の脳の他に、宇宙空間にそれぞれのもうひとつの脳〈星外脳〉を持っていて、大人になるということは〈星外脳〉に連れられて宇宙へ行き、また帰って来ることなのである。もちろんこれはSF的なアイデアというよりは、もっと別の何かなのだろうが。
著者のいう『旅する――』とのテーマ的な相違というのも、実は表裏の関係ということだろう。本書では人間性に対する肯定的な態度がはっきりと現れている。帯にある「八○年代の宮澤賢治」という言葉がぴったりくるさわやかな読後感の作品である。
八四年の〈収穫〉 大野万紀
一九八四年はやはりSFの年だった。「スターウォーズ計画」とか「グリコ・森永事件」なんていうのは、もう少しでSFといってよかった。そういえば「ミウラ何とか事件」というほとんどハチャハチャの疑似イベントものもありましたね……。
さて、八四年の翻訳SFでは、主に三つの中心となる話題があった。ひとつはクラーク『二○一○年宇宙の旅』やアジモフ『ファウンデーションの彼方へ』を代表とする〈巨匠の続編〉群、もうひとつは一昨年の『カエアンの聖衣』で話題となったバリントン・ベイリーの『禅〈ゼン・ガン〉銃』やソムトウ・スチャリトクルの『スターシップと俳句』に代表されるやや悪趣味ともいえるワイドスクリーン・バロックの展開、最後にソノラマ文庫で始まった五○年代SFのシリーズといったところである。
まず第一のものについては、いずれも始めはちょっとうんざりするのだが、読んでみるとさすがに面白く、そこそこ満足させられる。何といっても安心して読め、また〈SF〉を読んだという気になるところがいい。第二のものは、SFファンの間でかなり大きな話題となっており、いよいよこの種のSFがわが国でも受け入れられるようになったことを示していて、筆者としても嬉しいかぎりである。第三のソノラマのシリーズは、バドリスの『アメリカ鉄仮面』のように未訳のままになっていた話題作を紹介しており、タイトルのつけ方など問題はあるものの、それなりに評価できるシリーズである。
国内では山田正紀の活躍が目立った。『夢と闇の果て』や『神獣聖戦』はいずれおとらぬ昨年の収穫である。また一昨年に続いて神林長平や水見稜の本格SFに優れたものがあった。本格SFとは少し異なるが、夢枕獏のブームを呼んだ作品群も印象に残った。
星々からの歌 ノーマン・スピンラッド
〈白魔術〉と〈黒魔術〉ならぬ、〈白科学〉と〈黒科学〉の対立する未来世界を扱った小説だというので、かなり底の浅いものを想像していたのだが、やはりスピンラッド、ひとすじ縄ではいかないSFとなっていた。
核戦争後の地球。生き残った人々は“太陽と筋肉と風と水の掟”を指針とし、自然と共存する〈白い科学〉をもとに新しい社会を作り上げている――この設定だけで、もううんざりする人もいるだろうね――そこに〈黒い科学〉の魔の手が忍びよっているとの疑いが生じ、主人公であるクリア・ブルー・ルーはそれを裁きに出かける。相手は過去の遺産を守る科学者たちで、彼らはスペース・シャトルを復活させ〈星々からの歌〉を聞くという壮大な計画を持っていたのだった……。
いわゆるオルターネイト・テクノロジイをテーマにしつつ、本書は(解説での指摘どおり)実はコミックとして書かれたカリフォルニア・ファンタジイであり、作者のとりつかれているマス・コミニュケーションや虚構、物語についてのメタ小説としても読むことができる。まあ、あまり深刻ぶらないで、いろんな趣向を楽しむのが正解だろう。
恐竜物語 レイ・ブラッドベリ
ブラッドベリの恐竜をテーマにした短編を集め、イラストをつけたイラストレイテッド・ブックである。「いかずちの音」や「霧笛」といった有名な作品から、戯詩のようなものまで含まれている。なお目次には名前があがっていないが、扉と「序」「まえがき」のところの画家はケネス・スミスである。
ブラッドベリは恐竜が好きだという。評者だって恐竜は好きだ。だいたい恐竜に興味のないSFファンなんて考えられるだろうか? しかしブラッドベリがここまで恐竜に入れ込んでいるとは知らなかった。なにしろ「わたしが作家への道を歩むきっかけをつくったのは恐竜である」とまでいうのだから。でもそのわりに、「霧笛」など二、三の作品を除けば、ブラッドベリと恐竜とはイメージとして結びつかないような気がする。彼の持つ未成熟、繊細といったイメージが、古代を支配した強大な帝王という恐竜の本来のイメージと合わないように思えるのである。とすれば、ここで描かれているのは、恐竜そのものではなく、恐竜が好きな、恐竜になりたいと思う気の弱い男の子の物語なのだろう。恐竜にはたんぽぽが良く似合う、なんてね。
銀河郵便は“愛”を運ぶ 大原まり子
本誌に連載された〈イルとクラムジー〉のシリーズである。とてもセクシーでかっこいい、男にも女にもなれるアンドロイドのクラムジーと、暗い悩み多き男、イルの郵便屋さんコンビ。男性作家が書くときっと本質的に根暗な願望充足小説か、でなければ軽いユーモアものにしかなりそうにないシチュエーションだが、作者はそれをファッショナブルな恋愛ものに仕立てあげた。だけど、これはたぶん男の読者には理解できない話だと思うよ。ホモセクシャルというのならまだわかるけれど、イルとクラムジーの関係はちょっと違う。どうやらこれは作者がクラムジーにホレているというのと、何か関係ありそうだ。でまあ、ストーリーとしてはいろいろあって、クラムジーの魅力自体が人類に対する異星人の陰謀らしいとのSF的なほのめかしもあったりするのだが、要するに作者がいいたいのは、クラムジーがかっこいいということだけのような気がする。これは決して悪口のつもりじゃなくて、こんなにキャラクターに入れ込んだSFというのは初めて読んだってこと。大道具小道具に入れ込んだSFならいくらでもあるのにね。ニュータイプです。
帝都物語1 荒俣宏
一気に読み終えた。伝奇小説もいろいろ書かれているが、本書は読者の知的興味をそそり、ロマンをかきたてながら物語の世界に没入させてくれる秀作である。海外の幻想怪奇小説の紹介や翻訳を長年続け、神秘思想や空想科学に関する目の確かな著者ならではの作品といえよう。ただ一つ残念なのは、まだ第一巻しかなく、物語は始まったばかり、早く続きが読みたいと欲求不満になることだ。
戦災と震災という〈大破壊〉を経験した都市、東京。この〈大破壊〉以前の東京は、われわれの多くにとって未知の異世界であり、ロマンの対象である。そこを舞台に、著者は寺田寅彦や幸田露伴を実名で登場させ、帝都の霊的改造計画と奇怪な魔人たちの暗躍を描いている。こういう趣向は例えば山田風太郎などの得意なところだが、著者の場合は「もうひとつの日本史」という側面よりも、むしろより正統的に異端的な(?)オカルティックな物語、小説版『理科系の文学誌』を狙っているように思える。寺田寅彦の描きかたなどにそれが現れているようだ。とーとつですが、評者は寺田寅彦のファンです。悪役の少尉もかっこいい。坂本龍一みたい。
スターライト☆だんでぃ 火浦功
コバルト・シリーズの書き下ろし長編。著者はこのシリーズ初登場になるのかな。マンガ的なSFアクション。
……しかし、この種のお話に目くじらたてても仕方がないとは思うのだが、連続アニメの可もなく不可もない単なる一回分のような内容を活字で追っかけるのは、いかに読みやすいとはいえ、いささか苦しかった。著者には厳しい言い方になったが、この人はもっと面白いすてきなエンターテインメントが書ける人なのだ。連作短編ならまだ良かったかも知れないが、こういう話をパターンどおりやったんじゃ、ストレートすぎて、のれない。もっとはめをはずして、めちゃくちゃをやっても良かったんじゃないだろうか。
主人公はハードボイルドを気取っている開拓者擁護局のエージェント、ボギー。局長命令で辺境の惑星へ行き、ジャガイモ畑の枯れた原因を調査することになった。ところが宇宙船に密航者。十六歳のぶっとんだ少女、ジギーだ。これに宇宙征服を夢見る悪の組織のハンサムな〈総帥〉がからんで、すれ違いながら話が進む。TVアニメと思って読めば、悪くない話なんだけどね。
世界はぼくのもの ヘンリイ・カットナー
青心社の(やっと出た)SFシリーズ最新巻。独自な編集によるヘンリイ・カットナーの短編集である。最近出たソノラマ文庫の『御先祖様はアトランティス人』と一篇重複したが、その他はすべて初訳である。
カットナーはしゃれた短編SFの作者として良く知られている。とりわけハヤカワSFシリーズの『ボロゴーヴはミムジイ』に収録された短編などは、SFの面白さを満喫させてくれる名作ぞろいだった。しかしながら、本質的に彼は四○年代の作家である。今読み返せばいささか古めかしく見えるのは確かだ。となれば、今あらためてカットナーを読む意味があるのは、ノスタルジーか、時代を越えた面白さを持つユーモアものということになる。本書にはその両方が含まれている。表題作は、自分が何を作ってしまうかわからないマッド・サイエンティスト、ギャロウェイ・ギャラハーのシリーズ。「この世界はぼくんだぞ!」と主張する火星ウサギがとてもかわいらしい(ただし物語の中身は多少混乱気味である)。一方、「大いなる夜」は今読めばノスタルジーたっぷりの大宇宙小説。こういうのって好きです。
悪魔のパスワード 脇英世
著者はパソコンやワープロ、ニューメディア関係の一般向け解説書を多数書いている工学博士。表紙には〈テクノ・フィクション〉とある。近未来のコンピュータ犯罪を描いた物語だが、ストーリーはさほど重要でなく、コンピュータがらみのハイテク情報小説といったものである。しかし、本当はもう少しややこしくて、小説らしい小説を書きたい(でも書けない)技術者の屈折が現れた、評者などから見るとかなり気恥ずかしい雰囲気の(でも親しみはもてる)読み物となっている。何よりも、本書はハイテク版『なんとなくクリスタル』なのである。本文よりも、各ページについた脚注が圧倒的に面白い(また情報量も豊富)。脚注が本文を批判したりしている。で、この批判がもっともだと思えるくらい、本文は面白くない。著者の興味の中心がストーリーよりも枝葉の情報――それもおそらくはある程度予備知識のある読者のみが面白がる種類の情報――にあるため、これは当然だといえよう。いっそのこと、とってつけたようなアクションはやめて、私小説風青春小説にした方が良かったかも知れない。なんとなくハイテック、というわけだ。
超越の儀式 クリフォード・シマック
シマックの一九八二年の作品。
シマックのSFには安定した独特の魅力がある。もう半世紀以上もSFを書き続けているのだから、当たり前だといってもいいのだが、それはいわゆる巨匠たちの最近の不安定さと対照的なものだ。別にコンスタントに傑作を書いているというわけではなく、むしろつまらない作品も多いのだが、シマックらしさとでもいうべきものが、ここ何十年も一貫して変わらずにあるのである。それは現代のSFの中で主流から少し離れた位置にある、小さな停滞した島宇宙だといえよう。そこではいつも、季節は美しい秋で、中西部的で保守的な草の根民主主義を奉じる平和な人たちが、信仰心あついロボットや動物、異星人たちと、穏やかに暮らしているのである。
本書は決して傑作といえる作品ではない。前作の『法王計画』と比べても、むしろマイナーな部類に入るものだろう。さほど特徴のない中年の英文学教授が主人公で、彼は奇怪なスロットマシンの力により、どことも知れぬ未知の世界へと連れて行かれる。そこには一軒の宿屋があり、それぞれ異なった世界出身の五人の男女が彼を待ち受けている。将軍、牧師、詩人、技師、そしてロボットである。彼らは六人ひと組でこの世界を旅しなければならない。何のために? 何を求めて? すべては謎につつまれている……。
知っている人ならおわかりの通り、これはまさしくロール・プレイング・ゲームのシチュエーションである。安田均氏の解説にもあるように、シマックはロール・プレイング・ゲームの概念をほとんどそのままの形で自己のSFに取り入れ、パロディや小道具としてではなく、テーマを表現する手段として真面目に取り組んだということができるだろう。しかし、である。人生のゲーム性をそのままロール・プレイング・ゲームとして表現するとしたら、それは(小説としては直接法にすぎて)あまりにも安易な印象を与えるだろうし、このゲームを知らない人にはおかしな約束事が多すぎると思われるだろう。そして何より、本書をロール・プレイング・ゲームとして見た場合も、評者には決してできの良いものとは思えないのである。もちろん評者はこのゲームに関するしろうとなので、断定するわけにはいかないのだが、まず第一にマップが(つまり世界の広がりが)あまりにも狭く単純であること、また謎解きが外から与えられるばかりでカタルシスに乏しいこと、各人の役割(ロール)が不明瞭で、チーム・プレイになっていないことなどが挙げられるだろう。慣れないプレイヤーがあっちへふらふらこっちへふらふらしたあげく、謎も解けずに死んでしまった(実際は死にもせず謎も一応は解けるのだが)――というのを小説に書いた、みたいな気がする。実際のゲームなら再プレイできるのだが、小説ではそうはいかないからねえ……。
このように、本書にはずいぶんと欠点が多いのだが、それにもかかわらず、本書にもシマックの変わらない魅力があふれている。まず何よりも、どこか時の流れの止まったような、シュールで超越的な雰囲気のある独特の小世界である。その空はいつも天界へと続く澄んだ秋の青空だ。そしてシマックだけが書くことのできる、人間とロボットの特別な関係。松葉杖を使う気の弱いロボットを、これほど優しく描くことのできる作家が他にいるだろうか。もうひとつ、本書で最も重要なゲームの鍵となる、〈立方体〉という存在。『法王計画』でもそうだったが、シマックにとって幾何学的な存在は何か特別な意味を持っているようだ。それは完璧な彼方の世界への入り口なのかも知れない。
悪夢への鎮魂曲 草川隆
ソノラマ文庫の一冊。少女向けロマンチック小説にSFとサスペンスで軽く味付けしたような作品であり、主人公たちの日常生活に重点を置いてSF性は極力おさえた、ひと昔前の少女マンガによくあったような話となっている。そつのない語り口はさすがベテランといえるが、話そのものはいかにも古くさくて、夢枕獏や菊地秀行らと同じソノラマ文庫に入っているのが不思議な気がするほどだ。ヒロインは商社に勤めるかたわら少女マンガ家をめざしている若いOL、相手はマンガ雑誌の若手編集者。彼の頭にあった湖畔の洋館のイメージを拾い上げたことから、彼女は彼の出生の秘密にまつわる怪事件にまきこまれる。殺人事件が起こり、彼女は謎の犯人たちに誘拐され……と、いかにもメロドラマのサスペンスにふさわしい展開を見せるのだが、なぜかその方向へは盛り上がらない。謎解きももうひとつぱっとしないのだ。ゴシック・ロマン風の道具立てを使いながらも、超自然的な側面がほとんどなく、当然SF的ともいえない。これで隠されていた秘密がもう少しSF的なものであれば、古風だがけっこう面白いSFになったと思うのだが。
帝都物語2 荒俣宏
待望の続編だが、意外に早く出たという印象である。それはともかく、本書では東京に災いをもたらそうとする魔人、加藤中尉と、それを防ごうとする幸田露伴や土御門家との大魔術合戦が描かれる。加藤中尉のバックグラウンドもかなりの程度明らかになり、全体の構図も見えてきた(ような気がする)。つまり、埋もれた怨念たちの復讐……でも、もしそれだけだとしたら、いささかスケールが小さくなって、評者としてはものたりなく思う。本書は半村良の『産霊山秘録』をいわばニューサイエンス的な知の立場から緻密化し、闇の世界の構造を明らかにしてくれるものではないかと、勝手ながらそう思っているからである。負けた怨霊よりも勝った側の霊、〈帝都〉を現に支配しているものたちの中にある壮大な闇を暴いて欲しい。それが「大蔵省の中庭」といったきわめて具体的な地名の出てくる作品に期待されるものではないか、というのが評者の考えだ。どこを掘っても死体や怨念の埋まっていそうな東京という都市。大震災後の東京がどう改造されるのか、怨霊たちの戦いはどうなるのか、ますます期待は高まるばかりである……。
ラヴクラフト全集6
ラヴクラフトの作品を年代別に収録していくという『定本・ラヴクラフト全集』第六巻は一九三二年から一九三七年(彼の没年)までの作品集である。オリジナルの小説は五編(他に合作が三編)だが、コリン・ウィルスンがラヴクラフトの最高傑作と断じた「超時間の影」が含まれている。値段は高いが造本はしっかりしているし、マニア必携の一冊である(しかしラヴクラフトのマニアとハードSFのマニアはどちらが多数派なんだろう?)。ラヴクラフトの恐怖は夢の世界の恐怖である。他人の見た恐い夢というのは、時には滑稽に聞こえるものだ。例えば「超時間の影」である。これははっきりSFといえる作品であり、五○年代のSF作家が書いたとしたら、主人公の体験はおそらく恐怖ではなく、別の何かになっていただろう。異質な物に対する嫌悪感はあったとしても、決して「邪悪」といったモラル的な恐怖感にはならなかったはずだ。そして恐怖を求めようとさえしなければ、確かにこれは傑作だといえる。たとえ主人公の恐怖がいささか滑稽に見えたとしても。恐怖を求めるのなら「戸をたたく怪物」がお勧め。これは正統的に恐いよ。
暗殺者の惑星 マイク・レズニック
『ソウルイーターを追え』に続くマイク・レズニックの本邦二冊目の長編である。
一種のハードボイルドSFといっていいだろう。非情な暗殺者がたった一人で悪魔のような支配者に挑む。このごろはやりの普通の人間的弱さを持ったヒーローではなく、ゴルゴ13のようなスーパーマンである。そりゃあ、全然弱みがないというわけじゃないけど、重武装の軍隊と一人で戦って勝っちゃうんだから、どちらかというと異常である。で、相手も異常。虐殺と拷問と血が大好きという男で、いろいろな惑星でもう数千万人を殺伐したという怪物。ほとんどスプラッタ・ムービーの世界である。そういう男が支配者になるというのも恐いが、ある程度もっともらしさを増すためか、彼が今いるのは魔法を信じ悪魔を崇拝する者たちの惑星ヴァルプルギス・という設定になっている。暗殺者を助けるのは超能力を持つ魔女たち。こう書くとバカバカしい話のようだが、きわめて映像的で、今日的なエンターテインメントとなっている。最後のメチャメチャさも、映画のクライマックスと思って見れば面白い。でも映画ならこの後もう一シーンあるんだよね。
冬の狼 エリザベス・A・リン
〈アラン史略〉三部作の第一巻。アランの地という異世界を舞台にしたヒロイック・ファンタジイである。いや、こう言っては正しくないかもしれない。あまりヒロイックではないし、ファンタジイの要素もほとんどない。魔法の代わりに本書で重要となるのは、もう少し微妙な、世界のあり方に関わるようなもの、〈かるた〉や〈舞い〉といったようなものである。まさに東洋的な、日常と共にあるがほんの少しだけずれた異世界の雰囲気といったものが、時おり立ち現れてくる。
とはいえ、そういった要素は実際かなり微妙なものであって、物語そのものは中世ヨーロッパの歴史小説といっても通用するような、地味でオーソドックスなものである。城を落とされた若君と、忠実な武士、彼らを主君も従僕もいない隠れ里へと誘う男装の〈使者〉たち。派手さはほとんどなく、淡々と物語は進んでいく。著者は日本や合気道に詳しいだけに、かえって妙なエキゾチシズムを排し、西洋的でないものをさりげなくリアルに表現しているようだ。
訳文はずいぶん凝った言い回しを採用している。少し凝りすぎのような気もする。
南半球の発見 レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ
十八世紀にフランスで書かれた古典小説。飛行術を発明した主人公が南半球に新天地を発見するという、空想旅行譚であり、一種のユートピアものでもある。
古典小説というのは、読み慣れないものだから、ついついパースペクティブを間違えてしまう。十八世紀というとずいぶん大昔には違いないが、天文学、物理学、数学を始めとする近代科学の時代なのですね。評者は何の予備知識もなしに読み始めたのだが、驚いたことにずいぶんと面白く読めてしまった。機械仕掛けの羽根で空を飛べるようになった主人公が、愛する娘を女王とするミニ国家を山の上に建設し、さらに南半球を探検して新天地の島へと移住する。彼とその子供たちは、巨人族、猿人間、熊人間、その他の動物人間たちの住む周囲の島々を探検する。このあたりはいかにも古典的で楽しい。しかし、著者はこれらの動物人間たちを人間と平等なものとして扱い、何となく進化論を思わす議論をしている。その後自由・平等の社会主義的なユートピア像が、ヨーロッパ文明のアンチ・テーゼとして描かれる。こうしてみると、十八世紀ってなかなか面白いですね。
創星記 川又千秋
川又千秋の描く太陽系の惑星、とりわけ火星と金星には、SFファンなら誰でも共感を覚えるだろうような、あの独特なノスタルジックな味わいがある。それはE・R・バロウズからレイ・ブラッドベリ、そして五○年代SFへと続く、失われた神話時代の再現としての異世界のイメージである。もちろん、川又千秋の火星に水を湛えた古代の運河はなく、金星の長雨に漂白された蒸し暑いジャングルもない。けれど、彼の描く惑星からは、明らかにあの少年時代の胸につんとくるような感傷がよみがえってくるのだ。
本書は現代科学が明らかにした地獄のような金星の、ほとんどハードSFを思わす描写に始まり、いくつかの連想の糸をたどって、創世神話の透明感あふれる幻想的なイメージに行き着く。もちろんこれは、あとがきにある夢想の物語の序章となるものだろう。しかしそれだけではなく、コトバによって形づくられる世界という、彼の最大のテーマが現れた作品でもある。火星や金星に人々がつけた神話的な名称が、ひとり歩きを始め、ついには世界そのものを飲み込んでしまったのだ。ただ、この結末はやや不親切である。
ゲーデル、エッシャー、バッハ ダグラス・ホフスタッター
ついに出たか、というのが第一の感想。よく出たものだ(訳したものだ)というのが第二の感想。ベストセラーと聞いてやっぱりというのと本当かねというのが第三の感想である。というのも、この本は長い間評者のネタ本の一冊であり、いくらでもイマジネーションを刺激してくれるアイデアの源泉だったからだ。で、どういう本かというと、数学者ゲーデルと画家エッシャーと音楽家バッハとのおぞましき三角関係というのではなくて、(それもあるかも知れないけれど)数学、情報科学、認知科学、分子生物学、人工知能などにかかわる専門書なのである。ゲーデルの定理に関する解説書としても読めるが、オリジナルな論点も多く含まれており、決して誰が読んでもわかるといった易しい内容の本ではない。これがベストセラーだというから驚いてしまう。それだけ知的なことがらに人々の興味が向いているということだろうが……。
SFファンにとって興味深いのは、本書が最近のSFにも見られるような、好奇心を刺激する話題を扱っているということだ。意識を持った蟻塚とか、エッシャーの絵がすべて裏でつながっているのだとか、物語の中の物語の中の物語とか、そういうものがすさまじいばかりの言葉あそびと、あらゆる分野への知的好奇心と知識とをもとにして書かれている。パズルとパラドックスとパロディと、“メタ”何とかのオンパレードだ。
最近のSFにも見られる本書の重要なテーマのひとつは、「心とはソフトウェアである」というものである。これは、一方で心というものが脳細胞やそこで起こる化学反応といったハードウェアのレベルでは捉えきれないソフトウェア的なものであるというのと同時に、ならばコンピュータ・システムの上にだってのり得る、数学的な取り扱いも可能なものだという人工知能研究者としての著者の信念の表明でもある。ここには、人間の意識が決して単純な意味での機械的なものではないという認識と共に、それが理解を拒絶した神秘的・絶対的なものでもないという立場がある。これは、おそらく多くの現代SFと共通した立場だろう。だからこそ、心を持ったコンピュータとか、異星人との困難なコミュニケーションとかが真剣に扱う価値のあるテーマとなり得るのだ。心というのが人間にしかない神秘的なものなら、これらのテーマは無意味だし、人間の認識形態が宇宙でも唯一絶対のものだとすれば、異星人とのコミュニケーションは単に言葉だけの問題となるだろう。(なぜなら言葉こそ違え、彼らも人間と同じ思考体系を持つということになるからである。)
本書はこの命題を厳密に考察しようとして、ソフトウェアとは何なのか、情報とは一体どういうものなのかを明確にするため、形式化、抽象化といった概念を数学的に取り扱おうとする。ここで形式システムというものが登場し、数論からゲーデルの定理へと結び付いていく。それは本書の最大のテーマである〈もつれた環〉の概念へ、エッシャーの絵やバッハの音楽、そしてDNAの二重らせんと共に重なりあっていく……。再帰性、自己言及性といったものがキーポイントとなり、単純な機械性を越えるものとして決定論的不確定性(カオス)の問題がフラクタルやプログラムの停止問題とからめて語られる。
本書の翻訳はまさに神わざに近い力わざである。それだけに誤植の多いことが非常に残念だ。数式の中にも誤植があり、そのままでは意味が通らなくなっているところもある。また縦書きの中に横組で記号が入ったりして、かなり読みにくい。このあたり、もう少し編集の気配りが必要だったろう。
これからの出来事 星新一
ショート・ショート千一編を達成した著者の最新ショート・ショート集。二一編が収録されている。
最近の作品を全部読んでいるわけではないが、本書の収録作品を見ると、従来目立った日常性の中の不思議なずれといったものを強調したものより、虚構性のより強いファンタジイやおとぎ話の系統の作品が増えたような気がする。何か、ずっと昔に戻ったような、そんな感想をもった。もちろん、昔と同じだというわけではない。まず何よりも淡々とした、いわば枯れた味のある語り口。日常的な物語では目立たないが、ファンタジイを語る際には大きな特徴となる。魔法つかいが出てこようが、悪魔が出てこようが、時間の流れ方が少しも変わらないのだ。普通こういうリズム感の欠如は物語の欠点となるものだが、星新一の場合はそうではない。夢の中のように異常が異常ではなく、ただそこにあるものとして描かれていく。おとぎ話として書かれていても、登場人物にとってはそれがあたり前の世界であり、そういうものだ、という感覚が支配している。むしろ読み終えた後の微妙な余韻を楽しむものなのだろう。
シンディック シリル・コーンブルース
コーンブルースの埋もれた傑作である。大きな欠点がいくつかあり(解説でも指摘されている通りである)、決して手放しで賞賛できる作品ではないが、本書はユニークな魅力をもった五○年代SFの一典型ともいえる作品である。本書の魅力を一言で表わすとすれば、人間サイズのユートピアを構築したということになるだろうか。シンディックには誰でも住みたくなること請け合いだ。たとえそれがギャングのシンジケートの家族的友愛から発展したものだとしても。
本書はある意味ではスパイ・スリラーであり、文明崩壊後の野蛮との戦いの物語であり、ラブ・ストーリーでもある。しかし、こういったサービスは本書の場合かえってわずらわしく、魅力的なテーマを充分ささえているとはいえない。こういったものを取り去って見ると、残るのはアメリカ大陸東岸を支配するシンディックの社会と、コーンブルースのそれへの共感である。オーウェルと比較できるほどしっかりと構築されたものではなく、どうして維持できるのかわからない、わりといいかげんな社会体制には違いないけれど、あればいいなと思う社会なのである。
冷凍の美少女 ジェラルド・カーシュ
ジェラルド・カーシュという作家は古いファンの中には御存じの方もいるだろう。メリルの傑作選に何編か収録されていたし、旧奇想天外誌では特集が組まれたこともある。しかし、大部分の読者には初耳の名前ではないだろうか。少なくともわが国では非常にマイナーなファンタジイ・SF作家の短編集である。ソノラマ文庫は時々こういうことをするから好きだ。
本書はそのジェラルド・カーシュのやや古めかしいが、独特の魅力のある異色短編十三編を収録している。ショート・ショートといってもいいような短い作品が多い。
カーシュの魅力はその語り口にある。いかにもスリック雑誌出身の作家といった、しゃれた丁寧な文章で、手抜きがない。パルプ作家のおどろおどろしい迫力はないが、怪奇さ不気味さよりも奇妙な味を重視した作風である。グロテスクには違いないが不思議な美しさ、気位の高さが感じられるのだ。本書でいえば「豚島の女王」など、その典型である。パルプ怪奇小説的な題材を扱った他の作品にしても、とても上品な印象があるのだ。だからマイナーなのかも知れないけどね。
小鼠油田を掘りあてる L・ウイバーリー
小鼠ことヨーロッパの極小国グランド・フェンウィック大公国が、世界を相手に活躍するシリーズの四作目、そして(作者が死去したため)最終巻である。
今回のテーマは石油危機。オイル・ショックのとばっちりで、グランド・フェンウィックに供給されていた石油が月二十ガロンに削減されてしまった。おかげでマウントジョーイ伯爵は大好きなお風呂に入るのもままならないしまつ。さっそく合衆国大統領に手紙を書くが、手違いが生じて……。
マウントジョーイ伯爵は大政治家としての本領を発揮し、世界のエネルギー供給を安定させるために大活躍する。で、それはいいのだが……何となく異和感が残るのだ。その第一の原因は扱われている話題の生々しさだろう。解説でも触れられているが、ほとんどポリティカル・フィクションしてしまっているのである。となると、小国が大国を振り回す小気味よいユーモア小説とばかりはいっていられなくなる。何より作者のハリウッド的な〃偉大なるアメリカ〃主義が気になる。小鼠も、結局アメリカ人の大国意識の裏返しにすぎないように見えてしまうのだ。
半獣神 夢枕獏
夢枕獏のごく初期――同人誌時代の――短編と、一部新しい作品を含む短編集である。
新しいのは「キマイラ神話変」と「餓鬼魂」の二編で、残りは著者が十代後半から二十才のころに書かれたものだ。これら、今から十五年ほど前に書かれた作品を読むと、当時の雰囲気といったものがひどく濃厚で、息苦しいような感覚にとらわれる。
いや、本書の作品がそんな青くさい、重苦しい作品ばかりだ、というわけじゃない。自然の山や野の匂いが感じられるようなファンタジイ作品は、はっきりと今の夢枕獏に受け継がれているものだし、血や肉の確かさのある描写には強烈なパワーがある。最近書かれた作品だといっても、さほど異和感はないだろう。しかし、にもかかわらず、本書には古い日記を読むような気恥ずかしさが存在するのである。もちろん、それは当時ファンダムに首を突っ込み、ファンジンを読みあさっていた評者自身の感傷に違いないだろう。だけど、例えば大学紛争をスラプスティック風にパロディ化した作品が、筒井康隆の同様なものの場合今でも笑って読めるのに、これはとても疲れる、そういうことなのだ。
黄金の空隙 清水義範
高野山に秘宝を捜すという、伝奇小説である。例によって政財界の影の実力者に神秘的な謎の人物がからみ、主人公たちは非日常的な事件に巻き込まれる。そして最後には日本史の裏側にあった謎が解かれる、というか明らかにされる……。
とまあ、よくある伝奇小説のパターンを踏襲した話ではあるのだが、本書の場合、中心にあるのは、むしろ主人公たちの親しみやすい、日常からさほど飛躍しない活動の方である。そもそも高野山の宝など、宝捜しをする本人たちが本気で信じちゃいないのだ。主人公たちはそれぞれの理由から宝捜しに参加するが、どちらかというと遊び半分の気分なのである。このあたりのいいかげんさが、ある意味でリアリティがあり、いい雰囲気を出している。図書館で資料を捜し、皆で議論を重ね、宝より高野山そのものや空海の方に興味が移ったりする。けれども、このために本書の伝奇小説の部分が何となく浮き上がってしまった感は否めない。非日常的な部分がいかにもとってつけたようで、しっくりとこないのだ。むしろ、こっちはあいまいなままの方が良かったかのかも知れない。
怒りのヘリック 田中光二
ギリシア神話を異星上で再現する〈ヘリック・シリーズ〉の第三話。今回はトロイ戦争が堂々とした筆致で再話される。
ストーリー自体はおなじみの物語だが、田中版では神々の気まぐれに翻弄される人間たちの悲劇という面が強調されている。ヘリックはついにはオリュポスの神々に対し不信と反抗を抱くようになるのだ。なるほど現代の我々にとってギリシア神話の神々はひどく人間的に見え、信仰の対象とは考えにくい。けれども神話の中での神々はあくまでも絶対的な存在であるはずである。その神々に対して神話の中の人物が反抗し、ある程度の勝算が予想されるということは、神話とは別の枠組みがそこに存在しなければならない。ヘリックでいえば、それはSF的要素ということになる。そこではオリュポスの神々はもはや絶対存在ではなく、おそらくは超文明をもったただの人間ということになるだろう。
ということは、その時点で、〈ヘリック・シリーズ〉はかなり危険な転回点を迎えることになる。SFとしてはありふれた設定の中でヘリックがいかに神話的な力を失わず戦っていくか、興味深いところである。
銀河乞食軍団〈外伝1〉 野田昌宏
野田さんの人柄があふれてくるような、とてもすてきな宇宙ホームドラマ、といったおもむきのあるシリーズである。ところで、正直なところ評者はこのシリーズをちゃんと読むのはこれが初めてだった。加藤直之の描くイラストの〃かわい子ちゃん〃たちが、個人的にどうにもなじめなかったからである(これはまあ好みの問題ですけどね)。読んでみるとこれがいいんだなあ。場末の宇宙、人情ものの下町ホームドラマの世界にメカ(それもハイテックなソフィスティケートされたメカじゃなくて、機械油の匂いのするようなメカメカしたやつね)がからんで、独特の世界をつくりだしている。パロディやコミックとして楽しむのもいいかもしれないが、評者としてはこのままの形で、すなおにストレートに味わいたい。野田さんの描く宇宙で評者が個人的にとても好きなものに、その昔SFMのエッセイで読んだものがある。うろ覚えで失礼だが、手紙の中に未来の召喚状か何かが紛れ込んでいたというものだ。宇宙定期航路の時刻表やら何やらが実にディテール豊かに織り込んであり、じんとくる深みがあった。本書にも同じ感覚を覚えたのです。
スライナック パトリシア・ウィンザー
ヤング・アダルトというのがどのくらいの年齢層をさすのか知らないが、本書を読んだかぎりではせいぜい中学生程度のような気がする。本の帯には「異次元の少年」とか「吸血人種か? 宇宙生物か?」などとあり、いかにもSFを思わすのだが、実際はほとんど関係ないといっていい。もちろん多少SF的な要素はある。小道具として出てくる読心薬がそれだが、物語の中ではまったくSF的な効果をもっておらず、ただの幻覚剤だったとしても何の違いもないものだ。物語の開幕早々、スライナックというのは空想過多なパラノイア気味の少年の妄想であることがわかる。このあたりがもう少しうまく書かれていれば面白い現代ホラー小説となったかも知れないのだが、作者の筆致は身もふたもなく、幻想的要素を排除してしまう。で、あるのは騒々しいドタバタ風のミステリーと、ロマンス小説もまっさおの非現実的なボーイ・ミーツ・ガールの物語である。饒舌調の文体は悪くはないが、アメリカの少年少女たちの現代風俗を伝えるにはリアリティに乏しく、SFやホラーにするには想像力に乏しいという、評者には興味のもてない一編だった。
はるひワンダー愛 辻真先
光文社文庫の書き下ろし。超能力(この場合は寄生したエイリアンによるものだが)をもった可愛いヒロインの活躍するミステリ仕立てのユーモアSFという、マンガやジュヴィナイルの世界では完全にひとつのステレオタイプとなったパターンの小説だが、手慣れた作者の筆により、安心して読める楽しいエンターテインメントとなっている。
ここでの超能力は時間を自由に戻したり止めたりできるという、願望充足的な要素の大きいものだ(もっとも願望充足的要素のない超能力というのも考えにくいが)。エイリアンの操るこの能力を使って、ヒロインは恋人の刑事の危機を救う。タイムパラドックス?過去へ戻るという話であればすぐにパラドックスということを意識するのに、目の前で起こった事件をほんの数秒逆のぼって修正するという場合、ほとんどそういうことが気にならないのはなぜだろう? 「現在」という時間の幅といったものを考えさせられますね。
ヒロインがわりとストレートに可愛い女の子だというのは、最近の若手のぶっ飛んだ主人公を見慣れた目にはいくらかオールドファッション。でも悪くはない。
あなたを合成します P・K・ディック
ディックの七二年の作品。
リンカーン大統領のシミュラクラを作るといった、いかにもディック的な話ではあるが、人間と人間でないものの対立を描くといった方向へは発展しない。前半ではほとんど企業小説といっていいほど、アンドロイドでひと儲けしようとするエネルギッシュな主人公たちの活動が描かれるのだが、そこで現れるアイデアやプロットは発展の兆しを見せながらもどんどん捨てられ、後半の暗く美しいラブ・ストーリーへと転じていく。
なるほどこれは狂気の物語だ。精神障害が日常化した世界の、狂える魂の物語ではあるが、おどろおどろしいものではなく、むしろリアルな、ふつうの病気としての精神異常が描かれている。それだけに愛ゆえの幻に捉われた主人公の運命が読者の心を打つのである。また、ここでは人間の心の中にある他者がテーマの中心となるために、シミュラクラたちはかえって人間と同等のものとして扱われる。ただし、逆もまた真なのだ。
本書に出てくる固有名詞には『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と共通のものがある。たぶん偶然の一致だろう。
黄金の少女 1 平井和正
本誌の読者にはおなじみ、《狼のレクイエム第三部》第一巻である。現在も本誌連載中の作品であり、第一巻だけ取り上げてもあまり意味はないかも知れない(なにしろ話はまだ進行中で、区切りはついていないのだ)。しかし、本書は誰もが待ち望んでいたウルフガイの最新作なのである。話が終わっていないからといって放っておくわけにはいかないではないか。平井和正にウルフの言霊が帰って来たのだ。それもきわめて強力なやつである。この迫力はただものではない。
主な舞台はアメリカ南部の田舎町。キンケイドという大変魅力的なヒーローが登場し、凶悪な暴走族の軍団と戦う。この戦いは実はまだ本格的に始まってはいない。その緊迫感が全編にみなぎっている。時間的にも空間的にもごく狭い範囲の出来事を扱いながら、密度の濃い文体でぐいぐいと引っぱり込み、一気に読ませる。まるで優れた映画を見ているようだ。これまでのところ、ウルフたちは物語の脇役的なところにいる。しかし作者もいうように、今後どんな意表をつく展開を見せるのか、期待が大きい。これまで作者を敬遠していた向きにもぜひお薦めしたい。
OH! SF映画 大伴昌司
本書は今から十二年前、昭和四十八年に亡くなった映画評論家、大伴昌司氏の、主にSFマガジンに連載されていたSF映画・テレビの紹介記事を中心に集められたエッセイ集である。
大伴昌司氏といえば、怪獣ブームのころの業績が最も有名だが、SFマガジンでの活躍を忘れることはできない。もっとも「トータル・スコープ」と聞いて懐かしく思い出すのは、SFファンでもある程度以上の年齢の人だろう。評者は本書に収録された「トータル・スコープ」のほとんどを同時代で読んでいた口である。SFマガジンを買い始めた当初で、本当にすみからすみまで全部読んでいたころだったから、毎月載る氏のSF映画・テレビ紹介は大変印象に残るものだった。今度改めて読み返してみて、懐かしさはもちろんだが、その批評の全体としての的確さに感心させられた。何よりも、氏はSFと映像の両方のバランスを重んじていた。SFXばかりを重視することなく、映像における広い意味でのSF性を追及していたといえる。評者にはテレビ番組やマイナーな怪奇映画の紹介にとりわけ思い出深いものがあった。
天国の切符 森下一仁
八一年から八五年までに発表された短編十二編を収録した好短編集である。
新世界への切符を手にしようと待ち続ける青年。異星の森で父親と暮らす少女。スコンブが大好きな宇宙人。広場に集まり議論する電気器具たち。集合意識を持つサンショウウオに似た宇宙生物。著者の視点はいつも優しく、少し哀しい。十二編の作品にはまぎれもないSF性とともに、そこはかとないユーモアとアイロニーが含まれている。それはおそらく、アーシュラ・K・ル=グィンがいうような、〃SFの中にミセス・ブラウンを見つけようとする試み〃を著者が実践しているからなのだろう。ミセス・ブラウンと同じ客車に同席して、何となくはにかみながら挨拶をかわす著者の姿が見える。列車の振動は音楽的なリズム感となって全編に漂い、窓の外には深い森が広がっている……。
集中では神秘体験と宗教の問題をアイロニー豊かに考察した「アホイ伝」、ブラッドベリ風な「海辺の町」、ハードSF的アイデアを見事に扱った「時間陥没域」、独特のユーモアが生きている「スコンブ」、「ガチャガチャゴンゴン」などが印象に残った。
ファントム・レディ 火浦 功
超能力を持った宇宙の怪盗〈高飛びレイク〉シリーズの番外編であり、書き下ろし一編を含む三編が収録されている。
とり・みき氏の解説が、たぶん当たっているんだろうと思う。ストレートな表現が気恥ずかしいから、わざとチョコ・パフェをダブルで注文してウェイトレスに笑われる、といったことだ。ちなみに評者はわざとではなくチョコ・パフェを注文する三十すぎの男性を何人も知っているが、ウェイトレスは別に笑いはしないもんね。しかし、である。じゃあ著者はきゃぴきゃぴや・によって、一体何から身を守ろうとしているのだろうか? (ところで評者のワープロには・という記号はなく、外字として登録しなければならなかった。△☆○♀なんてのはあるのに。JIS第一水準なんて嫌いだ!)
こういうことをいうのも、書き下ろしの「昏い横顔の天使」がとてもストレートな良くできたハードボイルドで、他の二編との差があまりにも歴然としていたからだ。いいわけなんか必要ないじゃないですか。こういう作品で勝負して下さいよ。SFじゃなくたっていいんだから。ということです。
夜の言葉 U・K・ル=グィン
アーシュラ・K・ル=グィンの、主としてファンタジイとSFに関するエッセイや評論を集めたエッセイ集である。付録に詳細なリストがついている。
ル=グィンのSF論はとても正しい。バランス感覚に満ち満ちていて、安心感がある。正論であり、しっかりした大人の意見(分別臭い〃現実主義者〃のという意味ではないよ、もちろん)である。ある意味で保守的ではあるが、最も良い意味での〃リベラル〃であり、時おりお説教じみて聞こえることもあるが、決して押しつけがましくはない。うちの子をあずけても安心、なのである。ル=グィンはSFとファンタジイのすてきなお母さんなのだ。で、この正しさが男の子をいらいらさせる。男の子はお母さんを悲しませるようなことばかりを喜んでする。ファシズムの黒い制服にだってあこがれるし、惑星を一つ二つ消してしまうような大虐殺も大好きだ。トマス・ディッシュはこういう男の子を「SFの気恥ずかしさ」という講演の中でいわば自己批判して見せた。これもまた正しいことに違いない。
もちろん、ル=グィンが偽善的で、SF界のこうるさいPTAだというんじゃない。実際はその反対だ。ル=グィンは人間の闇の部分をしっかりと見すえることの必要性をアンデルセンの例を引きながら書いている。ファンタジイの世界ではおばあさんをかまどに放り込むことが正しい場合もあるからだ。しかし、それらすべてを含めた上で、全体的な雰囲気から、男の子たちは異和感を覚えてしまう。各論賛成なのに、総論としては何となく気にいらない。つまり『オルシニア国』なんて関係ないよ、という気分だ。結局ル=グィンは人間の内面的な同一性といったものを信頼しすぎているのではないだろうか。もちろん、いかに解体された現代といえども、人間の内的世界の翻訳としてのファンタジイの有効性は保証されているといっていいだろう。魂を持った一人の人間としてのミセス・ブラウンは、いつどこにいても、どんな姿をしていてもミセス・ブラウンであるというル=グィンの主張は今でも有効だろう。けれども、そういう人間性そのものに疑問を投げ掛け、記号と化してしまった断片としての人間(もはやそれは〃人間〃ではないのかも知れないが)を正しく描くことができるものがあるとしたら、それはSFだ――というのが、自由に変転して何にでもなり得るSFというものを信じるわれわれの立場ではなかったのか。それをロック・ミュージックやコマーシャル・フィルムやコミックにばかりまかせておいていいのだろうか。SFは〃超虚構性〃をこそ指向すべきではないのだろうか。
とはいうものの、今の評者には五年前に「SFとミセス・ブラウン」を初めて読んだ時のようないらだちと反発は薄れている。ひとつには期待するような〃新しい〃SFが結局のところ現れていないため。もうひとつはSFの中にミセス・ブラウンを捜そうというル=グィンの主張に賛同する気持ちがむしろ強くなっているためである(もっとも彼女自身はこの主張からかえって遠ざかっているように思うのだが)。ただし、しょーもない娯楽SFも含めて、そこに存在するポップな同時代性を総体として肯定し、積極的に評価していきたいという気持ちは変わっていない。ミセス・ブラウンに足を引っかけ、ハンドバッグを盗んで行くような、元気いっぱいの不良のSFも否定したくないのだ。
それにしてもル=グィンのエッセイは面白い。引用したくなるような気のきいたセリフでいっぱいだ。この調子でもっとSFを書いてもらいたいものだ。