八五年のSF 大野万紀
一九八五年のSF界は、全体的な印象からすればやや低調な一年であった。一昨年は海外・国内とも話題作が目白押しだったが、昨年はSFファンの間に論争を巻き起こすといった作品に乏しく、どちらかといえば寂しい年だったといえる。もちろん優れた作品は数多く出版されたが、むしろ出版界を覆っていたのは、ゲーム本の一大ブームと、主として新書版で次々に発表されるいわゆる〈スーパー伝奇小説〉の相変わらずのブームであった。評者は決してこれらの作品がつまらないとか、ゲーム・ブックはSFの敵だ! とかいいたいわけではないが(それをいうならファミコンはSFの敵だといわざるを得ない)、その分プロパーSFの影が薄くなったことは否めない事実だと思う。
さて、その中でも、昨年は日本作家の健闘が目立っていたといえる。翻訳作品に、わりあいマイナーで地味な作品やファンタジイが多かったのに比べ、日本作家のものは(プロパーSFこそ少なかったが)独自の世界を展開した読みごたえのある作品が多かったように思う。とりわけ、評者がまず第一に推したいのは、荒俣宏の『帝都物語』である。これは過去の東京を舞台にした怪奇幻想小説として書かれているが、従来の科学とは異なるもう一つの科学をベースとした、紛れもない〈空想科学小説〉として見ることもできるのである。今後の発展が興味深いシリーズである。
一方海外のSFでは、一部に熱狂的ファンのある作品、ヴァンスの《魔王子》シリーズやゼラズニイの『われら顔を選ぶとき』、カードやリーミイの短編集などが訳されたが、全体的にはこれといって目立ったものがなかったように思う(ファンタジイではピークの『タイタス・グローン』があるが)。むしろ評者としてはチェリイの派手な娯楽SFの方が印象に残った。小説ではないが、ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』はぜひ八五年の収穫に入れたい一冊である。
戦争が終わり、世界の終わりが始まった フィリップ・K・ディック
ディックの〃普通小説〃。五0年代のサンフランシスコを舞台に、四人の登場人物の悲劇的で同時に喜劇的でもあるドラマを描いている。SFとの直接的な関係はないといっていい作品だが、何よりも大変ディック的な作品であり、彼のSFの多くとあまり変わらない読後感がある。最も重要な登場人物であるジャック・イシドールは、ある意味では戯画化され、ある意味では理想化された作者の分身である。それはまたSFファンやSFそのものの本質と近しい関係にある存在だということができる。彼は白痴(というほどではないが、やや頭の弱い、子供のような空想過多の男)であり、アトランティスやサルガッソーを信じ、世界の終わりが近づいていることを信じている。彼の目から見る世界はSFファンにとって決して縁遠いものではない。一方彼の妹は大変魅力的な、そして恐ろしく自己中心的な女であり、その過剰な自己が周囲の日常性を侵食して行くという意味で、ディックの作品にはおなじみの危険な存在である。この物語はこれら二つのブラックホールに吸い込まれて行く、常識的世界の破滅を描いたものだといえるかも知れない。
他人の目覚め 岬 兄悟
著者の単行本未収録作品から選ばれた短編集である。相当初期の作品も収録されている。 全体的な印象は、やや意外な感じもするが、暗い。軽いし、ユーモラスだし、都会的で今風なのだけれども、くら〜いのだ。著者の描く不条理シーンは、グロテスクで不気味な独特の雰囲気がある。本書はとりわけそういう傾向の強い作品ばかりが集まったのかも知れないが。登場人物たちはみんな、自分の意志ではどうすることもできない唐突な運命に巻き込まれる。他人の体の中で目覚めたり、糸で体を操られたり、無限に増殖して自衛隊に攻撃されたり(あるいはそいつの友達であるということで間接的な被害者であったり)、腹の中に蛇が棲みついたりと、とんでもない目に合わされるのだ。で、みんな困る。うろたえる。しかし、彼らは根が普通の人間であるから、結局のところこの不条理な運命に打ち勝つことはできない。あきらめたり、適応したり、死んだりする。だから暗い。でもこの暗さは、都会で孤独に暮らしている青年の普通の暗さである。指さして、くら〜いといって笑ってすませられる、そういうものなのだ(本人にはかわいそうだけどね)。
D―死街譚 菊地秀行
《吸血鬼ハンター》シリーズの第四弾。 このシリーズは根強い人気があると聞いているが、なるほど、それも無理はない。この設定は今風なSFアニメの舞台設定といってもおかしくない。遥かな未来。しかしどことなく古風な西部劇的荒野を思わせる孤立した辺境世界。そこに超能力を持つ一匹狼のスーパーヒーローとスーパーメカと美少女がからむ。そこに著者の独自性である強烈なオカルト趣味が混交して、確かに読みごたえのあるエンターテインメントとなっている。
評者の好みの問題になってしまうが、菊地秀行の作品は、ソノラマ文庫のものが一番好きだ。《エイリアン》のシリーズにしても《D》のシリーズにしても、自然と読者を引き付けるような魅力がある。大人向けの作品が悪いというのじゃないが、それらが著者自身の意識とはかかわりなく、いかにも疲れたサラリーマンの読み捨て小説という、あのおなじみのパターンに限りなく近付いて行く危険性を感じるのに対し、より若い読者を想定したソノラマのシリーズには、そういう薄暗さへと通じるところは少ない。グロテスク趣味もここでは明るく輝いて見えるほどだ。
ヨブ ロバート・A・ハインライン
ハインラインの最新作。SFというよりも古典的な寓意小説に近い、ユーモラスな宗教小説である。もっとも深刻なものではなく、キリスト教批判めいた部分もあることはあるが、どちらかといえばおおらかなほら話で、これまたハインラインの俗っぽいインナー・スペース・オペラの一つといった雰囲気がある。一種の地獄巡り小説だといってもいいかもしれない。何を地獄と見るかは、主観の問題であるのだが。
本書はタイトルからもわかる通り、旧約聖書ヨブ記のパロディである。とはいえ、おおかたの日本人がそうだろうが、評者も聖書の世界に特別に親しんでいるというわけではなく、そういう方面からの細かな批評はできない。しかし、巻末には訳者による親切な解説があるし、また本書を楽しむのにキリスト教の知識が必須だというわけでもない。聖書のヨブは神を信じる正しい行いの人なのだが、神とサタンの争いに巻き込まれ、突然理由もなくありとあらゆる不幸にあうことになる。そこから、神は全能であるのに、どうして正しい人間が報われないということがあり得るのかという神学的な問題が展開される。
本書のヨブにあたる主人公の牧師は、聖書のヨブほどとことんひどい目に合うわけではない。神の手にもて遊ばれるのは同じだが、せいぜい身ぐるみ剥がされて違う次元のパラレル・ワールドへ放り出されるぐらいである。次元が違うとはいえ、いずれも一九九0年代のアメリカであることには基本的に変わりはない。それに何といっても、彼には献身的で美しい愛人がいつもぴったり寄り添っているのである。こんな女性と冒険ができるのなら、むしろ幸せじゃないのかしらね。彼女はキリスト教徒ではなく、北欧神話のオーディンを信じる異教徒である。主人公は彼女を改宗させようとするが、彼を愛していながらも、彼女はキリスト教には批判的で、どうしてもそこは譲ろうとしない(ハインラインの登場人物だから、みんな頑固なのだ)。主人公にとってこのことが重要なのは、彼は黙示録にいう世界の終末が近いことを信じており、その日がくれば神を信じる者は救われるが、そうでない者は地獄へ落とされるからである。そしてもし彼女が改宗しないままその日が来たなら、彼と彼女は離ればなれになってしまうからなのだ。
このことからもわかるように、主人公は確かに敬虔なキリスト教徒であり、まじめでりっぱな人物ではあるのだが、決して付き合い難い変人ではなく、ごく普通の好人物である。根はかなり好色ですらあるのだ。彼のもといた世界は九0年代になっても飛行船が主流の、技術的にも風俗的にも保守的な世界だったが、彼女の方は技術的にはともかく風俗面では大変解放された世界の出身で、ハインラインの最近の作品らしく色っぽい(というよりエッチな)シーンもしばしば現れる(とはいえ、最近の作品ではずいぶんおとなしい方だ)。
基本的にSF的な部分は少なく、パラレル・ワールドの微妙な差異の描写が面白いくらいだが、それも深入りはせず、日常的な生活レベルの描写に終始する。主人公がどうやって生活費を稼ぐか(主として皿洗いです)といったあたりが中心で、それはそれで面白いが、とてもハインラインの作品とは思えなかったりする。ところが、中程で極めてSF的なリアリティのある近未来描写がパラレル・ワールドの一つとして現れ、さすがと思わせるが、どうも印象的にすぎると思ったら、最後にあれれということになる。それにしても後半のはめの外し方は相変わらず(本当に天国や地獄が出て来る)で、まあ本書ではこれでいいのでしょうけどね……。
天翔けるヤマトタケル 豊田有恒
《ヤマトタケル》シリーズの第五弾。日本神話を題材にしたヒロイック・ファンタジーといういうべきこのシリーズだが、合理性を重視し、古代史に造詣の深い著者らしい、独特な作品となっている。
これは魔法や神々が日常的に現れるファンタジー世界を扱いながら、その中に古代史の知識や神話の合理的解釈といった、本来ファンタジー的ではない文章が入り込む(UFOや、小松左京の名前まで出てくる)という、シリーズの初期からの特徴にも現れている。このような書き方から連想されるのは、ピアズ・アンソニイやラリイ・ニーヴンといった作家の、いわゆる〈アンノウン型ファンタジー〉、純然たるファンタジーとSF的な合理性が一体となったものである。この種のファンタジーのもう一つの特色はユーモアとパロディ精神だが、本書にもそれは充分に現れているのだ(とりわけ異世人の章など)。
本書でヤマトタケルは恐るべき怪物両面宿儺を退治するために美濃へと旅立つ。途中様々な冒険をしながらも、結局両面宿儺との対決は次回へと持ち越される。なかなかに息の長いシリーズである。
光子帆船フライング・クラウド A・バートラム・チャンドラー
《銀河辺境シリーズ外伝》のスタートである。もっとも解説にある通り、《銀河辺境シリーズ》にはもともとグライムズ以外の主人公が活躍する本書のような作品がたくさん未訳のまま残っており、本当は新しいシリーズのスタートというわけでもないのだが……。
本書は辺境へやって来た商船のクルーたちがグライムズから新型宇宙船(それが光子帆船フライング・クラウドだ)の実験飛行を任じられるという物語である。なるほど、前半部はいかにも銀河辺境の物語らしい、〃潮の香り〃のする宇宙小説である。派手な冒険はなく、女性を交えたクルーたちの人間関係が中心となる(しかし、本来ならここで主人公たちに感情移入すべきところが、どうにも連中が好きになれないのは、一体どういうわけだろうか)。
ところが、後半あたりから、この小説はどうやらスペース・オペラを目指したものではなく、チャンドラーなりの本格SFであることが明らかとなる。ただし、この試みは成功しているとはいえない。中心のアイデアが弱いのだ。ハードSFの好きな人ならあら捜しをして見るのも面白いだろう。
迷宮の獣王 田中文雄
書き下ろしの歴史冒険小説。古代エジプトを舞台にしており、SFやファンタジーの要素は(多少はあるが)少ない。
紀元前一三五0年。太陽神アテンを信仰するイクナテン王(普通はイクナトンというんじゃなかったっけ?)の時代のエジプト。古代史ファンにはおなじみのテル・エル・アマルナ時代ですね。テーベの娼館に始まりクレタのミノタウロスの迷宮に終わる、なかなかにロマンチックな物語である。従来この時代を扱った歴史小説ではイクナテンに好意的なものが多かったように記憶しているが、本書では否定的な面も多く書かれており、宗教的側面には深入りしていないようだ。ただ、物語の後半からの展開は、それまでのさほど幻想的要素のない歴史冒険ものに唐突にファンタスティックな要素がからむので、やや違和感がある。登場人物たちの行動にもよく理解できない面がある。要するに、オーソドックスな歴史ものが、途中から〈スーパー伝奇アクション〉に変わったみたいで、物語のムードが一貫していないのだ。あるいはもっと長い、波乱万丈の大河小説になるべき話だったのかも知れない。
神獣聖戦3 山田正紀
《神獣聖戦》のシリーズも短編集に関しては本書で見事に完結した。この後にも長編二巻が予定されているということだが、作者あとがきにもあるとおり、《神獣聖戦》は一応これで一くぎりがついたと見ていいだろう。
さて三冊の短編集で明らかになったのは、この物語が六0年代末的な意味での〃インナー・スペースSF〃だということだ。文体などは全く違うが、まさにバラードを思わせるテーマや表現が随所に現れている(とりわけ「鯨夢! 鯨夢!」には水没した高層ビルや廃墟の水族館といったバラード的な原風景が描かれていて、その印象が強い)。もちろんそういう類似を指摘することはあまり意味がなく、むしろ作者が真剣に、自分にとっての「SFのリアリティ」を追求した結果だということができるだろう。ついでだから類似性のレベルでいうと「蝗身重く横たわる」には、作者が最初にこのシリーズを書くきっかけになったというコードウェイナー・スミスの作品を思わせるところがある。いずれにせよ、狂人=鏡人(M・M)と悪魔憑き(デモノマニア)との、虚空間や背面世界における千年戦争は、今も作者の中にある反世界で戦われているはずである。
眠られぬ夜のために カート・シンガー選
怪奇小説・恐怖小説の専門誌として有名なウィアード・テールズ誌から、四0年代五0年代の作品十一篇を選んだアンソロジーである。オーガスト・ダーレスからロバート・ブロックまで、古くさいといえば古くさいが、さすがに味のある短編が並んでいる。
全体的に、単なる恐怖小説よりも、微妙なニュアンスを伝えようとする耽美的なファンタジイが多く、アイデアや語り口は大げさで洗練されているとはいい難いが、それでも独特な雰囲気は充分に伝わってくる。この雰囲気こそおそらくウィアード・テールズという雑誌そのものの持つ(今でも多くのマニアを魅了している)特異性なのだろう。
十一篇の中では伝統的な人狼の物語を心理サスペンス風に描いたロバート・ブロックの「美しき人狼」や、少年特有の感情を幻想的に表現したP・スカイラー・ミラーの「ガラス壜の船」、ショート・ショートながらほのかなエロティシズムの漂うマーガレット・セント・クレアの「聖家族」、通俗的ではあるが結末がショッキングなメアリ・エリザベス・カウンスルマンの「笑顔の果て」などがとりわけ印象に残った。
それぞれの曲がり角 眉村 卓
サラリーマン、特に中年を過ぎた男性のサラリーマンで、社会のリアルな日常性のただなかに暮らしながら、ふとそれぞれのトワイライト・ゾーンへと踏み込んでしまったおじさんたちを描く短編集である。
パターンは同じだ。眉村卓の描く物語は、少女を主人公にしたジュヴナイルであっても、中年のサラリーマンを主人公にした本書のような物語であっても、常に日常とごく近いところにあるほんのわずかな超現実のすきまへ、ふとしたきっかけで(とはいっても決して偶然ではなく、主人公たちのインナー・スペースがそれを呼び寄せたのであるが)入り込んでしまった主人公たちの狼狽する様を描くのである。しかし、狼狽はするが、彼らはやがてそれをもうひとつの日常として受け入れるのだ。したがって読後感は苦く、淡々としているが重い。とりわけ読者が本当にサラリーマンで、何かやり直したい、自由になりたいなどと思ったことがあり、それでも日ごろ仕事に追われるままそういう夢を抑圧している男性であるならば、これらの一見ささやかな物語は、見かけによらずなかなか強烈なインパクトを与えてくれるはずだ。
超人類生誕秘録(一) 谷 恒生
また新しいスーパー・バイオレンスもののシリーズが始まった。こういうと、正直いってまたかという感じだが、本書の場合かなり独特なものがあり、他とはひと味違ったものになっている。
まず舞台設定が相当異様だ。死後の世界なのである。死後の世界といっても地獄や極楽ではなく、生と死の狭間の混沌としたリンボーの世界だ。そこにはなぜか港町の裏通りのような暴力のはびこる巷があり、またなぜか吉原を思わせる古典的な娼窟がある。そこには奇怪な人間たちと魑魅魍魎が棲み、神話の神々から支配をまかされている者がいる。この幽冥界の雰囲気がなかなかユニークでいい。ヤクザがいたりプロレスラーあがりのバーテンがいる酒場があったりする一方で、超自然的な化物や何かがふらふらと現れたりする。ここに、火雷巌道という神と人間の中間のような豪傑が現れ、底知れぬ陽性の力を発揮して暴れまくるのだ。〈魍魎伝説〉シリーズの辰みたいな性格設定だ。で、ストーリーの方はというと、どうも本筋が見えない。題名とのつながりも単にほのめかされているだけで、まだまだこれからの話なのだろう。
ロック・ミー・ベイビー 岬 兄悟
岬兄悟のショート・ショート集。ごく初期のから昨年までの、比較的マイナーな雑誌に書かれてきた作品四十篇が収録されている。(収録誌には「ログイン」とか「高一時代」とかの他に、「へるすさろん」とか「年金と住宅」とかいった名前もある。その他評者が聞いたことのないような誌名も見受けられる。こういうのって、何か得したみたいで、嬉しくなります。)
さて本書はショート・ショート集ではあるが、それぞれの作品はあまりショート・ショート臭さを感じさせない。作者の普段の短編と変わらない読後感があり、余韻を残しているからである。以前にも書いたことだが、作者の持つフィーリングには暗さが、いわば都会的な、かわいた暗さがある。異様で悲惨な状況であっても、それを見る目はクールで、いっそユーモラスだ。しかし一方で、それは登場人物たちの想像力と感受性の欠如をも示している(作者の、ではないよ)。アパートやワンルーム・マンションで暮らす一人暮らしの若者たちの心情は、いま風ではあってもきわめて日常的で、作者の作り出す奇怪な状況に追いつけていないのである。
サイキック戦争 笠井 潔
悪魔的な人類改造計画を持つ謎の超国家的秘密組織。対するは個々の超能力者と彼らを見守る神秘的な組織。これはずいぶん昔からあるSFのパターン化されたテーマであるが、このテーマを生き生きと力強く描いて、日本で最も成功しているのは、《ウルフガイ》でおなじみの平井和正の作品だろう。本書は、その《ウルフガイ》に熱狂した体験を持つという作者の、同じテーマに挑戦した新しいシリーズ第一弾である。
主人公は超能力を持つ竜王の血脈に生まれた青年。まだ自分の力のすべてを知ってはおらず、またそれを制御することもできない。サイゴン陥落前夜という時代背景の下に、連合赤軍じゃなかった連合革命軍の悲劇、主人公の姉の謎の失踪、彼を助けて活躍する華僑財閥の娘といったドラマを経て、超人類をつくろうと太古から活動を続けている邪悪な秘密組織との戦いが描かれる。表面の物語そのものはウルフガイだったりファイアスターターだったりして目新しいものではないが、背景に連合赤軍事件やカンボジア虐殺といった現代史の重い現実が影を落としており、ただのファンタジイとは一線を画している。
黄金の少女 平井和正
本誌連載中の『狼のレクイエム第三部』単行本も四巻めになった。あいかわらずの高密度な文章で、強力なドライヴ感覚を持った物語が展開している。今のところ中心にあるのは新たなヒーローであるキンケイド署長の〃聖戦士〃としての誕生の物語である。これは彼のインナー・スペースの旅として、チェンバーズの町の防衛戦と並行しながら語られているものだ。キンケイド署長こそは、最近の〃軽い〃エンターテインメントではほとんど見られなくなってしまった、ストイックで誠実な、騎士というにふさわしい正当的なヒーローなのである。ところで騎士には姫が、女神が必要である。これは評者の予感にすぎないが、キンケイドが正しい戦士としてこれだけ心を込めて描かれているからには、彼にふさわしい崇高な女性が必ずや現れるはずだ。それは今のところタイガーウーマンこと虎2であるようにも思えるが、評者にはなんとなくさらに大きな物語が隠されているような気がする。タイトルにある〃黄金の少女〃がプロローグ以来姿を見せていないのも大いに気になるところだ。〃チェンバーズの戦い〃は依然として続いている……。
帝都物語 荒俣宏
第五巻が出て『帝都物語』もとりあえず戦前篇が完結した。ここであらためて全体を通して眺め直してみることにしたい。
この物語はいくつかの側面から捉えることが可能だが、まず第一にあげられるのは、明治・大正から昭和初期にかけての〈帝都〉東京という、われわれ戦後生まれの世代にとってはセピア色のロマンチシズムに霞んだ異空間を舞台とする、オカルト的な闘争の物語としての側面である。これは夢野久作や小栗虫太郎、江戸川乱歩といった耽美的な探偵小説作家たちの、ペダンティックな怪奇幻想譚の系譜を引くものだといえよう。物語のもう一つの枠組みに、主人公たちの近親姦をからめた因果もののプロットが存在していることもこの印象を強めている。しかし探偵小説の場合、いかに不気味で神秘的な物語であっても、いったんトリックが語られ犯人が明らかにされてしまうと、読者の目の前には現実の白けた光が差し込んで来る。一方幻想小説ではそういう種明しはなく、いつまでも夢の時間に漂うことができるものの、今度は本を置いたとたんに容赦ない現実が攻め寄せて来る。いずれにしても、その怪奇や幻想が本の中という閉鎖した系の中に閉じ込められているからである。ところが、幻想による現実の再構築を目指そうとする著者の場合、たとえ本を置いたとしても、幻想は消え去ることはない。それは例えば東京の地下鉄や、小学校の校庭にある二宮金次郎の銅像というように、物語の世界の外部にモノとなってそれが存在しているからである。ここから本書の空想科学小説としての側面が現れてくる。もちろんそれは正統的な科学から派生する常識的な意味での空想科学とは違い、オカルト的異端の科学であるかも知れない。しかし、感覚的よりも論理的・理知的な想像力を刺激し、現実に存在するモノへと関わってくることで、これはSFにおける科学と同様な意味を持つものなのである。残念なことに、初期の巻で見られたこの方面での期待は、最終的には充分満足されたとはいえない。手を広げすぎたためか、個々のテーマを概観したのみで、いわば異端の博物学に終わっているのである。もっともこれ以上にディテールを探求するには、小説という形態は不適切だろうが、本書で述べられた様々なデータからさらにその奥を知りたいと思った読者も多いのではないだろうか。
本書のもう一つの柱は都市論である。都市というモザイクの様々な側面を切り出し、いろいろな視点からの東京を描いている。現在実際に存在している都市というものが、人間の情念をいかに物質化したものであるか、ごく日常的な存在である町並みや交通機関が、ほんのわずか時間や視点を変えるだけで、どれほど異様な未知の様相を呈するか、本書ではそういった異化作用が積極的になされ、読者のセンス・オブ・ワンダーを誘っている。本書を読んで、東京の地図を片手にこのパノラマの探検に行きたいと思った人も少なくないだろう。著者にはぜひ本当の霊的東京ガイドブックを書いてもらいたいような気がする。
本書の別の特徴として歴史的な有名人の活躍があげられる。寺田寅彦、幸田露伴といった魅力的な人々がそれぞれに重要な役割を果たすのだ。しかし第五巻に至り、北一輝、甘粕正彦などの国家的な怪人が出現し、かつての主人公たちは生彩を失ってしまった。また東京という一都市から二十世紀の全世界へ視野が広まるとともに、都市に固有の地霊的なものから世界的陰謀というグローバルな時間軸へと視点も移動した。この意味では〈帝都〉物語がこの時点で終了するのもやむを得ないところかも知れない。次の帝都物語はまた別の方向から語られるべきだろう。
太陽の世界 半村 良
悠々と書き続けられてきたムーの歴史物語も、とうとう十五巻になった。それでもまだ予定されている全八十巻の五分の一に達していないのである。
ムー大陸の東南に定住したアム族が王朝を建ててから数世代が経た。基本的に平和を愛する民族である彼らだが、国内が安定化するにつれて、次第に変化が生じてきた。アムだけが持つ念力などの超能力を使って、他の人々を支配しようとする傾向である。まだこの時代にはそれは明確な意識とはなっていないが、やがてはアムの超能力による世界征服へと発展しかねない芽が現れているのである。そして、アムと異国との交流が徐々に始まろうとしていた。そこにはまた、紛争も……。
まだ、時間の流れは緩やかである。南国のゆったりとした気分が全編にたゆたっている。ムー大陸における文明の歴史も、われわれの知っている文明の歴史と、結局はパラレルな道を歩むのだろうか? そうなのかも知れない。念力を持っていてもアムたちは結局人間であり、われわれと大きな違いはないように描かれている。もっとも、単に舞台を変えただけの歴史ものではつまらないのだが。
銀河英雄伝説外伝1 田中芳樹
六巻になった《銀河英雄伝説》の外伝である。本篇では意外に早く劇的な死を迎えてしまったキルヒアイスに、再び活躍してもらうための物語、ということらしい。
ところがこれはどうしたことか、本書でのキルヒアイスは主人公にはならず、やはりラインハルトの影にたたずむだけで(そういう性格なんだからしかたがないけどね)、結局本篇と同じなのである。特別にその人間像に新たな光が投げかけられるということもなく、銀英伝の世界を別の視点から眺めるということもない。これは他の登場人物についても同じことがいえる。結局、外伝といいつつも、本篇そのものではないか! ということがいいたいのです。本篇が立ち止まって、もう一度途中から始まったようなもので、これでは本篇がちっとも先へ進まないではないか!
外伝というのはせめて一巻完結で、知られざるエピソードの紹介といった形にしてほしい。そして何よりも本篇の続きを早く出してほしい――というのが、銀英伝の熱心なファンの(評者もその一人だが)偽らざる声だと思うのです。もちろん、本書が面白くないというんじゃないよ、念のため。
SFファンタジィゲームの世界 安田 均
近年突然われわれの身近なものとなった、ゲームブック、ロール・プレイング・ゲーム、アドベンチャー・ゲーム、コンピュータ・ゲームなど、形式や内容の新しい様々なゲームに関するノンフィクションである。著者はこの分野では著名な実践的ゲーマーであり、本書で解説されているゲームのほとんども著者が実際にプレイしたものである。したがって、本書はこれからゲームをしてみたいという人への、ゲームの選び方、遊び方、楽しみ方のガイドブックとして大変有用である。だが、本書の心髄は、これら新形式のゲームを《SFファンタジィゲーム》としての観点からまとめ、その歴史、意義を明らかにしようとした、研究書としての側面にあるだろう。これはSFの批評・研究において著者が従来からやってきたと同じアプローチである。ゲームの素材としてのSFといったところからさらに踏み込んで、SFとしてのゲーム、ゲームとしてのSFが考察されている。ゲームに興味のないSFファンにも一読の価値があるだろう。ただ本書では、今はやりのコンピュータ・ゲームに関する記述は少ない。物足りなさを覚える読者もいるかも知れない。
SFキイ・パーソン&キイ・ブック 石原藤夫・金子隆一
講談社現代新書から出たSFの通史的な入門書である。ガーンズ・バックから八十年代の作家までが論じられているが、網羅的ではなく、極めて強い指向性をもった、いわばハードSF史というべきものとなっている。これは著者たちが科学との結び付きに重点を置く〃正統的なサイエンス・フィクション〃、さらにはその結び付きが特に厳密なものである〃ハードSF〃をわが国において推進していくことに強い使命感を持って活動していることからも明らかな特徴であるが、このため本書は他に類のない労作となった。これはSFをできるだけ広い意味にとり、用語の適用範囲を拡張していこうとする従来の一般的な風潮からすれば異質であり、一部のSFファンからは頑固な保守主義との批判を招きかねない点ではあるが、しかし本書で述べられていることは(いくぶん戦略的にすぎるような記述や、一般読者向けの入門書としてはややバランスを欠くような作家選択が見られるにせよ)概して正当な主張であり、むしろこのようなSFの核を確認しておくことが、より広義のSFを議論する上でも必要だろうと思われる。カバー裏にもぜひ注目したい。
淫獣の幻影 P・J・ファーマー
一部で有名だったファーマーの〃知られざる傑作〃がとうとう邦訳された。アメリカで最初に出版された時もポルノグラフィの叢書としてだったが、こちらでも似たような扱いを受けている。しかし、確かに性的な描写は多いとはいえ、いまどき本書をポルノと呼ぶことなど不可能だろう。むしろそういうものを期待して本書を手に取った人は怒り出すのではないだろうか。異常なスモッグがたちこめる未来のロサンゼルス。ハードボイルドな私立探偵チャイルドの前に現れる奇怪な事件。吸血鬼、狼男、幽霊……。そして異次元の存在。物語の中心は、ファーマーの他のSFと同じく、異常でパロディっぽい設定の中でのアクションにある。スラプスティック・コメディののりと、笑うに笑えなくなる異様な生真面目さを兼ね備えた、とめどのない想像力の飛翔がファーマーの最良の作品における特徴であり、本書にも確かにそれが見られるのだ。ファーマーの最良の作品に見られるもう一つの特徴は、続編が早く読みたくなることである。本書の場合もそうだ。しかし果して本書の続編は訳してもらえるのだろうか? いささか気にかかるところでもある。
魔道神話 高千穂遥
《ザ・ドラゴンカンフー》の第二弾。本誌に連載されていた作品であり、本誌の読者にはおなじみだろう。竜神の血を引く主人公の超人的な(人間じゃないんだからあたりまえか)活躍を描くものだが、前作と違い、主人公があんまり動かないのが特徴だ。動くのは周りの組織やら何やらで、主人公はどちらかといえばそれに巻き込まれていく方だ。著者の描くアクションには夢枕獏とはまた違ったあっけらかんとした肉体感覚があってよかったのだが、今回それがあまり表面に出てこないのが惜しい。もちろん物語はまだ始まったばかりなので、主人公の本当の活躍が始まるのはこれからなのだろうが。最近の〈スーパー・バイオレンス〉ものの多くと同様、本書はいきなり強烈なセックス・シーンから始まり、さらにそれが血みどろのバイオレンス・シーンへと続く。政界の黒幕や、丹の一族といった伝奇的な要素、さらにオカルト的要素も加わっていて大変盛りだくさんである。けれどそれだけでは、今の読者は食傷しかねない。本書の中では、主人公を追ってきた可憐な少女の描写にこそ、最も著者らしさが現れているような気がする。
夢幻の書 ジャック・ヴァンス
《魔王子シリーズ》の第五巻。堂々の完結篇である。最後に残った魔王子トリーソングを倒すため、おそろしく派手な罠をしかけたガースンだが……といった内容についてはここでは触れまい。奇想に満ちた大変面白い物語である、といえば充分だろう。もっとも、評者にはやや意外なことに、この面白さがわかりにくいという人が結構多いことも事実である。けれども、決してそんなに大げさなことではないのだ。ヴァンスの面白さの主な特徴は、その舞台となる文明社会の緻密でエキゾチックな描写、ほとんどマンガ的ともいえる波乱万丈の筋立て、時おりとてつもないナイーヴさを示すが、概して性格の悪い、愛すべき、でもそれなりにかっこいい登場人物たちといったところにあるだろう。とりわけマニアの間では第一の特徴が重要視されている。SFマガジンにおける水鏡子氏のレビューなどがその典型である。氏によれば、ヴァンスの作品ではストーリーよりも、異質な社会制度や風俗を描くことの方が支配的地位にあるというのである。
SFファンの中には、その昔架空の大陸や惑星の地図を熱心に描いたという人が多いだろう。物語そのものよりもその舞台設定の方に興味や情熱を集中しがちだということは、なるほどSFの大きな特徴の一つである。空想の世界における地理、歴史、文化、社会制度、そして科学技術までを、詳細に緻密に自分の手で作り上げ、そこに登場人物たちを放り込むという喜び。しかし充分にエキゾチックでなおかつ実在感のある世界をまるごと作り上げることはよほどの才能がなければできることではなく、さらにそれが宇宙規模となると、とてつもなく困難なこととなる。そもそも人間の感覚というのは対数的なもので、十と百の違いも百と千の違いも同じに見えるものだ。だから一つの国の中のいくつかの地方を描き分けるのと、一つの惑星の中のいくつかの国を描き分けるのと、一つの宇宙文明の中のいくつかの惑星を描き分けるのとは同じレベルのことなのである。いかに異世界を作るのがうまいヴァンスといえども、この制約からは逃れていない。しかし凡百の作家が宇宙文明をせいぜい一惑星内の国家間のヴァラエティくらいにしか描けないのに比べ、ヴァンスの場合それぞれの惑星が充分に異なって描かれているのだ。このあたりがやはりヴァンスの魅力だといえる。もう一つには、逆にそういう諸世界を一つの文明としてまとめあげる、しっかりした制度の描写がある。しかし、この点については、水鏡子氏がいうほどヴァンスが優れているとは思えない。究理院のような制度もさほど説得力をもって描かれているとはいえないし、巻がすすむにつれて影が薄れて行き、本書にいたってはかなり悲惨な様相を呈しているありさまだ。ヴァンスの場合、グローバルなものより、もっと日常的な、生活習慣といったレベルでの制度の異質さに、より執着しているような気がする。服装、食物、といった細々としたことだ。一方で、全体の整合性とか説得力とかいったことにはあまり重きを置いていないように見える。このシリーズは全体がガースンと魔王子たちとのごく個人的なゲームなのであり、ゲームとしての展開と、ディテールへの凝り方のみが重要なのだ。そしてその標的である魔王子たち。評者は、何といっても、おぞましくもステキな魔王子たちが大好きだ。きゃっ、かっわいい〜! じゃありませんか。シリーズ中では、最も渋い『愛の宮殿』を推す人が多いが、『殺戮機械』のジェットコースター感覚も捨て難いし、『闇に待つ顔』の異郷趣味とあの結末、本書の〃復讐同窓会〃もいいなあ。やっぱりこのシリーズは◎です。
飛騨のヤマトタケル 豊田有恒
前作『天翔るヤマトタケル』の続編である。ところで、ヤマトタケルというのはつくづく〃悲劇の〃というまくら言葉のふさわしい人物だと思う。日本人好みのヒーローというのは、みんなこういうタイプなんだろうね。本書でも、ヤマトタケルは最愛の人々を失いながら悲しい勝利を得る。最大の敵である怪物両面宿儺も、その最後の姿には哀れみを誘われる。要するにウエットなんだよね。ヒーローにはもっとしたたかになってほしい。腕は立つが心は子供のように純真なままの王子さまタイプのヒーローより、もっとたくましい豪傑タイプのヒーロー、あるいは腕は立たないが知恵で勝負するといったヒーローの方がヒーローらしく感じるというのは、あちらのヒロイック・ファンタジイの読みすぎでしょうか。このシリーズはもっとSF的要素を加えた方が面白くなると思う。今でも最後のナウマン象が出てきたり、両面宿儺が人工知能ロボットとして描かれていたりというように、著者ならではのSF的要素が含まれている。これをもっと強調することで、神話の世界に独自のSF的論理構造を持ち込むことが可能なのではないだろうか。
銀河乞食軍団(8) 野田昌宏
タンポポ村消失事件を発端とする銀河乞食軍団の物語もとうとう八巻目。相変わらずの皆さんが相変わらず元気に活躍しています。それにしても野田さんの登場人物ってどうしてこんなに親しく感じられるんだろう。本筋のストーリーなんて、もうほとんど関係ないもんね。また連中に会えた、というだけで安心。がんばってるな、よかったよかった、となってしまう。こんなことではとても書評にならないけど、ま、仕方ないですね。
人間が一番重要、というのが野田さんの昔から変わらないコンセプトだったと思う。無機質で冷たいハイテクSFよりも人情味あふれるオールドタイプのスペースオペラ。あの野郎は今も木星の衛星あたりでしぶとく鉱石捜しをやっているよ、の世界である。とてつもなく元気で陽気でしぶとい、そしてちょっと下品な人間たちの活躍する夢の空間。近所の悪ガキどもがそのままごっこ遊びを続けているような、時間の止まったインナースペース。宇宙軍大元帥以外の誰にも、この世界は書けないだろうなと思う。健康でネアカなノスタルジーという、今やとても貴重なものがここにはあるのだ。
コンタクト カール・セーガン
カール・セーガンといえばもう六年前になるがテレビ・シリーズになった『コスモス』でアップで登場していた姿を覚えている人も多いだろう。最近では『核の冬』論によって平和主義者としての立場を鮮明にしている。専門家としても一般的な啓蒙家としても、現在最も信頼できる科学者の一人である。本書はそのセーガンが初めて書いた長編SFだ。書くという話があってから実際に出版されるまでずいぶん長期間かかっており、一時は名前だけ貸して誰かが代筆しているとか、ノン・フィクションは書けるが小説は書けないのだとかいろんな噂が乱れ飛んだものである。結局、それらの噂はすべて間違いだったわけだ(もっとも本書の執筆に際し、彼の妻であるアン・ドルーヤンの手がかなり入っていることは間違いないところだろう)。また本書は年期の入ったSFファンからも高く評価され、八五年のローカス賞〈新人作家の処女長編〉部門を受賞している。
タイトルが示す通り、異星人とのファーストコンタクトを描いた作品である。前半を読むかぎりでは、アイデアも(いくら科学的に正確だという違いがあるにしても)SFを読み慣れた目からすればごく当り前で、ひどくストレートなありふれたハードSFのようにしか見えない。どこかで読んだような話がえんえんと続くのだ。発端部はジェームズ・ガンだし、途中からフレッド・ホイルになって……云々。それに小説自体の腕前は、全体として見ればやはりアマチュアのものだ。決して下手ではないのだが、ところどころ空回りしていたり、冗長だったり、ひとりよがりだったりする。それでも随所にはっとするような、瑞々しい細やかな描写があって、ああこれは天文学のプロの作品だなと思わせる。例えば僻地にある観測所の極めて現実感あふれる描写。白色雑音に耳を傾ける女主人公の姿。夜の砂漠の道路沿いに並んだ無数のウサギの目……。こういう描写を楽しみながらも、ううん結局SETIのPR小説だなあ、一般読者に異星人とのコミュニケーションを図ることの重要性をアピールしようとしているんだろうが、これじゃあ難しいだろうな、何しろ貴重な電波望遠鏡をSETIよりももっと身近な研究に使わせて欲しいという、本書の主人公に反対する意見の方が説得力あるもんなあ、などと思いつつ読んでいたのだが……。
本書は前半と後半で相当イメージが変わる。前半はノン・フィクションに近い大人しいありふれた近未来ハードSFだが、後半はスペキュレーティブな本格SFとなるのだ。そこでの主なテーマは神である。異星人とのコンタクトの話かと思っていたら、実は神とのコンタクトの話だったのだ。さすがSFファンのセーガンだ。本格SFのツボを心得ている。ここでいう神とはもちろんビッグバンの初期条件としての、科学にとっての創造主のことである。神と科学の問題は本書の中で繰り返し論じられているテーマであり、それは聖書を至上とするファンダメンタリズムが力をつけてきている現代アメリカの状況に対するセーガンの問題意識の現れでもある。セーガンは進化論を学校教育から追放しようというような反科学的な神に対し、科学の中にある絶対的な神を提示したのだ。それが諸刃の剣であることを充分知りながらも。神とのコンタクトが超越数πの小数点以下の計算の中でなされるというラストシーンには、目くるめくようなセンス・オブ・ワンダーがある。これゆえに、本書はSFの衣を着た科学知識の啓蒙書ではなく、真の本格SFだと断じることができるのである。傑作とはいえないかも知れないが、これでセーガンも間違いなくSF作家の一員となったのだ。
プラクティス・エフェクト デイヴィッド・ブリン
デイヴィッド・ブリンには何となくラリイ・ニーヴンを思わせるところがある。ハードSFも書くしファンタジイも書く。しかもそれが徹底的に楽天的でネアカで、いかにもアメリカ的、それも西海岸(ウェストコースト)的な軽い雰囲気を漂わせている。悪くいえば軽薄ということになるのだろうが、アイデアが豊富で、SFファンを楽しませるコツを知っており、また科学に強くてその大道具・小道具としての使い方にも優れているという特質を持っている。これらはSFファンに受ける要因なのだ。もっともブリンの場合はまだまだニーヴンと比べられるほどお話作りがうまくないというのが評者の感想だが、アメリカでの彼の人気には絶大なものがあるようだ。
本書はそのブリンのユーモラスなサイエンス・ファンタジイである。ファンタジイといってもSF的要素が大きく、冒険SFといって何らさしつかえない。中心にある〈プラクティス・エフェクト〉というアイデアはなかなか面白く、ひょっとすると工学畑のジョークとしてこういう〈効果(エフェクト)〉が存在するのかも知れないと思わせる。これで異世界がもう少しそれらしければ良かったのだが。
金色のミルクと白色(しろ)い時計 大原まり子
大原まり子の短編集。わりあい最近の、特に一般誌に掲載された作品が多く収録されている。グラビア風の写真を使った文庫本というのもしゃれているというかちょっとミスマッチ感覚があるが、収録作の方もそこはそれ、なかなかおしゃれな作品が多い。で、わりとしっかりSFなのです。で、わりと新しっぽい感覚に満ち満ちていて、それは海外の一番新しいSFと通じ合うものだったりする。で、海外の一番新しいSFといえば、そのキイワードは〈サイバーパンク〉ですね。いってみれば、ハイテクが大量消費される時代の、新人類のためのリアリズム小説。大原まり子の小説には、明らかにそういう今のリアリズムがある。『ニューロマンサー』の千葉シティより、大原まり子のTOKYOには、当り前のことではあるが、今の日本人にとってのハイテク感覚がリアルに漂っている。記号化された商品名が飛び交うデジタルな時間と空間の街。その一方でニンゲンたちは胃袋を肥大させ、少女はひたすら腹を立て、少年は…うーん、本当の少年はきっとアキノハーバラあたりでリアルタイム・ゲームをしているのでしょう。何はともあれ、傑作。
悪魔は死んだ R・A・ラファティ
R・A・ラファティの長編は本書が日本での初紹介である。ラファティが好きだというSFファンは結構多いようだが、短編と長編ではかなり作風が異なるので、とまどわれた方もいるのではないだろうか。
本書は確かにそういうとまどいの残る作品である。読者は自分が今物語の中でどこにいて、何をしていて、何を見ているのか、しばしばわからなくなるはずである。現代的な不条理小説であれば、注意深く読んだり、作者の意図をあらかじめ推測したりして、表面に現れた〃書かれたもの〃の世界からひとつ上のレベルのメタ世界を読み取ることが可能である(しかしそのためには読者はいわばプロの読み手となることを要求される)。あるいは夢や幻想や狂気をそのまま書き写したような作品なら、そこでの主な困難さは自分の心と作品とを同調させることにあり、それができたなら読解にはほとんど問題なくなる。しかしラファティの物語においては、そういう手法はある程度は効果があるにせよ、何か場違いなことをしているという印象につきまとわれることになる。その第一の理由は、ラファティのお話が、現代的な意味での不条理小説というよりも、ネアンデルタール人の時代にまでさかのぼる想像力と直感の産物であり、偉大なるほら話の直系の子孫だからである。ラファティはSFという言葉をその意味で使う。サイエンスとは知識と思索と発見のことであり、フィクションとは創造のことである、という意味のことを彼はあるエッセイで述べている。実際、本書の内容は小説として見るとわけのわからないことだらけであるが、その中には知識と思索と発見と創造がたっぷりと含まれており、実に面白く読めるのである。そこにはラファティ自信の注釈も含まれている。それによると、読者はここに盛られた素材を使って、自らひとつの悪夢に織り上げるべきだというのである。いやはや、評者としてはできれば遠慮したいところだ。実はいくつかやってみたのだが、どうも織り方を間違えてしまったようなのだ。素材を素材のまま楽しみ、本当は織り上がるのであろう見事な神話的・哲学的悪夢を想像する、といったあたりがせいいっぱいで、まあそれでいいんじゃないのと思うのである。
そしてこのお話はまた――悪魔と人間、生と死、善と悪、本当と嘘、論理と直感、物語と現実、時間と空間、人間と人魚(?)、人間とネアンデルタール人……といった多数の二項対立が、あいまいになり、相互乗入れし、わけがわからなくなるお話である。この二重性に関するテーマは訳者が解説で詳細に議論しており、付け加えるべきことはあまりない。ただ、キリスト教的な世界観・倫理感に縁の薄い人間としては、この種のあいまいさは抽象的な議論をしなくてもわりあい直感的に受け入れられるものであり、きちんと理解はしなくても、素材だけでも十分に楽しめる要因となっていると指摘しておきたい(日本でラファティに人気があるのも、日本人がこういったあいまいさを本質的に受け入れやすいことに理由があるのかも知れない。いってみれば、奇想天外な落語を聞くみたいなものだ)。
そしてこのお話はまた――今も生きるネアンデルタール人たちのお話でもある。ラファティによれば、彼らはわれわれ現生人類の遺伝子の中に生き残っており、天才や狂気、芸術的才能や直感、残酷さといったものはその発現なのである。そして彼らはわれわれの血の中に生きながら、復讐の機会を狙っている。これはSF的アイデアというよりも悪魔に関する寓意なのだが、SFファンにとってはこの物語の中で自分の位置を時おり確認するのに良いつっかい棒となるだろう。
アナンシ号の降下 ニーヴン&バーンズ
SFとその他の小説との区別が全体的に難しくなってきている現在だが、本書のような近未来ハイテク・アクション小説も、SFかどうかの判断に迷うものである。月周回軌道を巡る宇宙工場がNASAから独立を宣言、資金を得るため日本の企業に無重力空間でのみ作れる特殊なケーブルを売却する。入札に負けたブラジルの企業はテロリストを雇い、宇宙空間でそれを奪取しようと試みる……。
中古のスペース・シャトルによる宇宙での海賊行為、ミサイルを操るアラブのテロリスト、ハイテク製品を巡る企業間の戦い……いずれもごく近い将来現実になりえる事ばかりであり、最近のスパイ・アクションや企業小説などでも扱われる主題だろう。しかし、本書には紛れもないSFのフェロモンがある。それは宇宙の濃密でリアルな描写に特に現れている。ここでのスペース・シャトルは単に目新しいアクションの舞台となっているのではない。潮汐力によって軌道上に張ったケーブルからぶら下がるシャトルという、力学的に興味深い状態が実に効果的に扱われ、また宇宙空間での人間どうしの戦いが極めてリアルに描かれていて読みごたえがある。
ヘリック最後の冒険 田中光二
ギリシア神話を異星上で再現するヒロイック・ファンタジー〈ヘリック・シリーズ〉の第4巻にして最終巻。いよいよ世界の謎が明らかにされ、神々に翻弄されたヘリックの最後の冒険が語られる。
かつて神々同士の戦いに破れ、地底におりたダルダロイと呼ばれる者たち。その呪いによりオリュポスに滅びが訪れようとしていた。もはや絶対の神ではなくなった父なるゼノスの依頼により、ヘリックは北極の穴から地底世界へと入り込む。ダルダロイたちは長い年月の間に超文明を失い、人間と同じような王国を築いていた。ヘリックはここで再び愛を知る。愛するアリアドナを守り、神々と人間の和解を実現するため、ヘリックは工匠イカロスや神々以上の力を持つ超存在の力を借りて、世界の運命を賭けた戦いに挑む……。
迷宮でのミノタロスとの戦い、ペルセウスとアンドロメダを思わすアリアドナを怪物から守るための戦い(ここではイカロスの飛行機械が活躍する)など、ギリシア神話からモチーフを得たハリウッド映画的な見せ場は多いのだが、本書ではヘリックの肉体の躍動があまり見られなかったように思う。
星界小品集 パウル・シューアバルト
ドイツの古典SF。SFといういい方がふさわしくなければ、宇宙ファンタジーといっておこう。けれども本書と同じ一九一二年に発表された『火星のプリンセス』がSFと呼ばれているのだから、SFといってもいいはずだ。事実、バロウズよりはよっぽどサイエンス・フィクションである。ただ、同じ科学に触発された空想といっても、SFと本書のような小説とは決定的に異なる点がある。SFは基本的に大衆小説であり、現実から外に向かうベクトルを有しているが、本書にはそれはなく、サロンやそれに類したところで限られた人々が楽しむべき、閉塞されたインナー・スペースのファンタジーなのである。とはいえ、今やそういう文学サロンは力を失い、誰もが芸術を口にすることができる時代だ。本書も、とても楽しく読める〈奇天烈ファンタジー〉となった。太陽系の星々に住む奇妙な住人たち。姿形はおかしくても、彼らは上品なユーモアを解する知的な平和主義者たちである。伯爵や教授や紳士や詩人が彼らと繰り広げる宇宙的な(つまり全く地上的ではない)大騒ぎは、クラシックでモダンな味わいのある、乾いた幻想譚なのである。
魔界王国 クラーク・A・スミス
C・A・スミスの短編集がここのところ相次いで出版されているが、本書は〈ゾシーク〉〈ハイパーボリア〉〈レムリア〉〈ポセイドニス〉など、舞台となる異境世界ごとにいくつかの短編をまとめた、わが国独自編集の短編集である。C・A・スミスの魅力がこれら異境世界を舞台にした短編にあるということは多くの人が指摘しているとおりであり、この配列はなかなか成功していると思う。
ここにあるのは物語性よりも幻想的でエキゾチックな雰囲気を楽しむたぐいの小説である。彼の世界は耽美的で、余韻を残して終る。悪く言えば筋立ては単純、盛り上がりに乏しく、なんとなく尻すぼみということになるのだが、異境世界のイメージは余分な物語性がないだけ、より直接的に読者に伝わってくる。趣味の小説、というわけだ。といって決して高踏的なわけではなく、以前(直)氏が指摘していたように、りっぱに大衆小説しているのだ。本書の中では「氷魔」がずば抜けていい。大自然のもつ超自然的(?)恐怖がストレートに描かれていてマンネリに陥っていない。他の作品も悪くはないが、続けて読むといくぶんマンネリな気分になる。
南極大氷原北上す リチャード・モラン
サンケイ文庫の海外ノベルスはスタートしてから半年ほどになるが、新しい海外ミステリを中心に毎月かなりのペースで出版されている。本書はその一冊だが、あちこちでなかなか好意的な評価を受けた作品である。
南極のロス棚氷が海底火山の活動で漂流を始め、このままでは全世界の海水面の急激な上昇が予想される。この危機に献身的な活躍をする科学者とジャーナリスト、暗躍する超大国、そして……という典型的な近未来パニック小説だ。SFか、といわれるとちょっと躊躇する点もあるのだが、科学的な記述もしっかりしているようだし、ストーリーも迫力満点である。後半登場するマオリ族の予言者も面白い。かなりぶ厚い本だが、面白くて一気に読み終えた。ただ、途中から話の中心が地球物理学的な危機から米ソの政治的・軍事的対決に移ってしまい、そのあたりがSFファンからすればちょっと物足りないところだ。『日本沈没』の真の主人公がプレートテクトニクスであり、地球的な危機への人類レベルの対応を描くことだったとすれば、本書との違いは明白である。しかしこれ、作者の処女作なんだよね。第二作が楽しみだ。
ダヤン/ゆりの花蔭に M・エリアーデ
著名な宗教学者エリアーデの幻想小説である。「ダヤン」と「ゆりの花蔭に」の二編が収録されている。前者は、物質・エネルギー系を四次元時空連続体に統合することを可能にする〈世界の最終方程式〉を発見した若いルーマニアの天才数学者ダヤンの運命を描く作品。アインシュタイン、ハイゼンベルク、ゲーデルといった名前も出てくるが、もちろんハードSFではない。〈永遠のユダヤ人〉を名乗る謎の老人が現れて、ダヤンを過去・現在・未来の混交する不思議な時空へと案内する。最終方程式は世界を滅亡させ、文明を(もしそれが価値あるものなら)再生させる契機として描かれている。破壊と再生という、まさに神話的な主題である。著者は現代物理学の彼方に神話との統合を見いだそうとしているようだ。この方程式は抽象的な知識であり、まさしく聖なる言葉にほかならない。一方「ゆりの花蔭に」はもう少しあいまいな、より謎めいた作品である。ここではパリの亡命ルーマニア人たちが、おそらくは新たなノアの方舟であろう得体の知れない消失事件に遭遇する。ここでも時間や次元という言葉がSFとは異なる文脈で扱われている。