SFアドベンチャー 1990年3月号

後宮小説  酒見賢一

 第一回日本ファンタジーノベル大賞の受賞作。審査員が全員一致で大賞に推したというが、確かにそれにふさわしい傑作である。
 本書はファンタジーノベルとはいいながら、いわゆる幻想小説や異世界ファンタジーとは異なり、どちらかというとややはずれたSFみたいな、奇妙な味のある架空歴史小説である。もっとはっきり、少女マンガ的といってしまってもいいかもしれない。「少女マンガ」という言葉は選評で高橋源一郎氏も使っていたが、単に前半が学園もののノリだということ以上に、歴史の舞台を借りてごく軽い調子でまことしやかに宮廷の陰謀劇を描いたりというあたりの、ふんわかとしたところがである。いや、ベルバラ的なもののことをいってるんじゃないですよ。あの手のは重い。もっと軽くて空想が奔放で、それでいて史実や背景はさりげなくディテールまで押さえているというタイプ。作者がしっかりと表に出てくるのも似ている。あえて誰のどの作品とはいいませんが、本書を読んでまず第一に感じたのはそういう印象だった。小説でこういう「重厚な軽さ」を感じるのは久しぶりだったので(あえて他の作家でいえば、だいぶん印象は違うけれど、ラファティが近いかな。いやコードウェイナー・スミスという線もあるか)、ページをめくるのももどかしく読みふけってしまった。アニメになるらしいけれど、ま、それもいいんじゃないかとも思うけれど、でもやっぱり、せめてもう少し間をおいてほしかったような気がする……。
 近世の中国を思わせる(というかそのものズバリでもあるのだが)素乾という国。皇帝がなくなって、新しい後宮がつくられることになった。十三歳の田舎娘、銀河も、志願して後宮に上がることになった。都への道中、山賊からの護衛に土地の極道者平勝(後の幻影達、西方風に読ませて〃イリューダ〃)と渾沌を雇う。このような登場人物たちが少しづつ現れては、主人公と縁をつくってまた消えていく。そして後でまたこの縁が大きな意味を持っていく。このあたりはいかにも『水滸伝』などの伝奇もののノリである。それにしても、彼らの名前のつけ方。後宮に入ってから登場する双槐樹(コリューン)や世沙明(セシャーミン)といった名前もそうだが、それは厳密に考証に基づいて中国の伝奇を再話しようとすることからの明らかな逸脱である。そこに感じられる作者の意図の、現代的な軽さがとても心地よい。もちろんそれぞれの人物の造形もすごくいいのだ(特に渾沌という坊主、これはもう最高。山田風太郎の破天荒なヒーローたちをすぐに思い浮かべるが、さらに吾妻ひでおの三蔵が雰囲気からいってもぴったり。といっても今はわからない人が多いんだろうな)。作者がキャラクターの一人一人に親密な、温かい目を注いでいるという感じがある。ヒロインの銀河についてはもちろんだが、周囲の人物一人一人についても、すべてその生い立ちから趣味嗜好、もっている哲学や史観までがちゃんと設定されているように思えるのだ。さて、銀河は後宮で宮女としての教育を受ける。この教育が(本来は性的なものだが)ごく真面目な哲学仕立てとなっているので、明るくさわやかな学園ものといった雰囲気となる。全然いやらしくならないのは、作者の語り口とヒロインたちの性格によるのだろう。『後宮小説』というタイトルから〈大奥もの〉みたいなどろどろしたものを想像すると大違いだ。やがて宮廷の陰謀が明らかになり、戦乱が起き、銀河はなんと妃に選ばれ、包囲された後宮で宮女たちを率いて戦ったりと、波乱万丈の大活躍をする。そういう物語性も抜群で、とにかく面白い。まさしく〈高級小説〉である。


SFアドベンチャー 1990年4月号

八九年度海外SF総括    大野万紀

 一九九〇年がスタートし、八〇年代はその幕を閉じた。長かった昭和という時代が終わり、平成が始まった。激動の年だった一九八九年。海外SFは依然として盛況ではあったものの、翻訳状況から見るとモダンホラーやファンタジイに活気の中心は移ったような気がする。八〇年代のSFを語るキーワードであった〈サイバーパンク〉は確かにそのキーワードとしての役割を終えたように思える。その次の時代を予感させるキーワードはまだ現れていない。ハイテクの時代はたそがれを迎え、新たなホラーとファンタジイの時代が訪れようとしているのだろうか。世紀末にふさわしいSFは、いったいどんな姿をしているのだろうか。
 八九年の東欧の激動に見られるように「科学的」社会主義はその化けの皮がはげた。西側の「電脳生活」も日常化してその衝撃力を失い、かえってオカルトが最新テクノロジーの衣をまとってわれわれにささやきかけている。八九年の科学界を騒がせた「常温核融合」は、おそらく一般の人々からは練金術師たちのから騒ぎのように見えたことだろう。スティーヴン・ホーキングの最新宇宙論を解説した『ホーキング、宇宙を語る』のベストセラー化は、先端科学が神秘として理解される時代の雰囲気を予感させる(誤解されないようにいっておくが、「常温核融合」もホーキングももちろんオカルトとは無縁である。その受け取られ方に、ぼくは不安なものを感じるのである)。だが、九〇年代が新たなオカルトの時代なのかどうかは、ぼくにはわからない。少なくとも、反科学からオカルトへ走った七〇年代とは違ったものになるだろう。いわゆる〈ニューサイエンス〉が大衆化される時代、ということなのかも知れない。こういう時代のSFはどうなっていくのか。サイエンス・フィクションは力を持ち続けることができるのか(もちろんできる! というのが評者の立場ではあるのだが)。
 さて、八九年に出版された海外SF(ファンタジイ、ホラーなど周辺領域を含む)は、本誌の調査をもとにすると、新刊が百八十冊、再刊が十四冊である(上下巻は一冊と数え
ている)。新刊のうち、SFは六十七冊、ファンタジイ、ホラー、および周辺作品は百十三冊である(この分類には評者の主観が入っているので、人によって数え方は多少異なるかも知れない)。この数字を以前の年と比べてみたのが次の表である。

SF その他 新刊合計
87 95 49 144
88 65 68 133
89 67 113 180

 新刊合計の出版点数は八八年の減少を回復したばかりか、大きく増大していることがわかる。しかし、SFのみに限っては、一昨年からほとんど横ばい状態であり、八七年の九十五冊に比べるとかなり寂しい状況が続いている。ここにあげたSF以外の新刊には、純文学系の作品や、いわゆるハイテク・サスペンスのたぐいも含まれているが、大きく増加した部分は大半がファンタジイとホラーである。これは八九年がファンタジイとホラーの年だったことを数字の上から裏付けている。
 それでは、昨年の海外SFをいくつかの項目別に見ていこう。
●サイバーパンクのその後
 日本でのサイバーパンク現象は商業的な面でも文学的な面でも、八九年をもって終了したと見なしてよい。しかし、八九年はまた、サイバーパンクとその運動に影響された作家たちの、最も優れた作品のいくつかが翻訳された年でもあった。ギブスン、スターリング、ラッカー、エフィンジャー、シェパードらの作品である。なかでも、ルーディ・ラッカーの『ウェットウェア』は、サイバーパンクが生み出した最も刺激的な傑作だといいたい。認知科学的なアイデア(それ自体はSFとして特に目新しいものではないが)をとことん過激に展開し、ドタバタ風の物語でありながら、読者に認識の変革を迫るという、危険な怪作である。訳文や読みやすさにいくぶん議論のあることは承知しているが、八九年度のベストSFにあげてもよいと思う。ウィリアム・ギブスンの『モナリザ・オーヴァドライヴ』は、『ニューロマンサー』に始まる電脳三部作の完結編であり、ハイテクからオカルトへという八〇年代末を象徴しているかのような作品である。サイバーパンクのもう一人の雄、ブルース・スターリングの『蝉の女王』は、日本で独自に編集された短篇集だが、そこにおさめられた作品はいずれも作者の主張が最大限に生かされ、読みごたえのあるものである。こういったいわば純粋サイバーパンクの影響下に書かれたごく普通のSFというのがジョージ・アレック・エフィンジャーの『重力が衰えるとき』の印象である。しかし物語性は抜群で、おもいっきり痛快な、そしてしんみりとした人情味すら感じさせる娯楽SFの傑作だ。ルーシャス・シェパード『戦時生活』はサイバーパンク運動の中で名のあがった作者の、純文学SFとでもいうべき力作。ただし評価は分かれた。八九年にはまた、サイバーパンクの源流ともいうべき電脳空間を扱った初期の作品、ヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』も翻訳された。もう少し早く訳されていたらよかったのにと、時代の流れを感じさせられる作品である。サイバーパンク亜流との評価があったウォルター・ジョン・ウィリアムズも八九年には三冊が訳された。中では『ハードワイヤード』が娯楽SFとしてなかなかのできだった。
●スチームパンク
 サイバーパンクの後はスチームパンクだ、と一部の人が騒いだおかげかどうかは知らないが、ジェイムズ・P・ブレイロック、K・W・ジーターらの作品が相次いで訳された。いずれもファンタジイとして出版されたが、擬古調の文体で奔放な想像力をほしいままにし、ドタバタとしての面白さがある。こういうのはむしろハチャハチャSFのたぐいなのだろうな。ジーターの『悪魔の機械』はとりわけ評価が高かった。
●巨匠たちと本格SF
 サイバーパンクを除く本格SFの方に目を向けてみよう。フィリップ・K・ディックはあいかわらず新訳・再刊・オリジナル短篇集が出版され続けている。『ザップ・ガン』の後書は、ディックをSFファンの手に取り戻そうというアジテーションで、論議をよんだ。八九年はまたアシモフ、クラーク、ハインライン、ポールといった巨匠たちの作品が訳されたが、評判はもうひとつだった。グレゴリイ・ベンフォードの『大いなる天上の河』は機械と生物の対立する遠未来を描いた作品。ロジャー・ゼラズニイの『アイ・オブ・キャット』はインディアンの神話をSFに生かした異色作。ニーヴン&パーネル&バーンズの『アヴァロンの闇』は三人合作ということで話題になった痛快娯楽SFである。昨年は偶然深海を舞台にしたSFが続けて出版された。クラークとリーの『星々の搖籃』、マイクル・クライトンの『スフィア』、オースン・スコット・カードの『アビス』である。人によって評価は違うが、評者はカードの作品のSFとしてのすなおさが好きだ。スタニスワフ・レム『完全な真空』はながらく翻訳が待たれていた傑作である。架空書評の形式で鋭いスペキュレーションが展開される。ヴォンダ・マッキンタイアの『星の海のミッキー』はジュヴナイルだが本格SFとしても優れている。年末に出たバリントン・ベイリーの『時間衝突』は、この作者ならではのとんでもない時間SFの傑作。八九年のベストSFには文句なく入るだろう。昨年はまたソ連SFがまとめて紹介された年だった。群像社から出た、A&B・ストルガツキイの『世界終末十億年前』をはじめとする四冊である。いずれも重みのある作品。また『アザー・エデン』は最新イギリスSFのアンソロジイで、なかなかの傑作が多かった。
●モダンホラーとファンタジイ
 先に書いたように八九年はモダンホラーとファンタジイの年だった。ただし、枚数もないのでここでは大きくふれない。まずはディーン・R・クーンツ。洪水のように八作が訳された。いずれも面白く読めるのはさすが。中では『雷鳴の館』、『ライトニング』あたりがおすすめか。ファンタジイではジョナサン・キャロルの『月の骨』、レイモンド・E・フィーストの『フェアリー・テール』などがおすすめ。クライヴ・バーカーの『ウィーヴワールド』も評判になった。ホラーとファンタジーはシリーズものも多くでた。フォールコーン《ナイトハンター》、グラント《オクスラン・ステーション》、青心社からは独自編集の《クトゥルー》シリーズ、ファンタジイではスタシェフ《グラマリエの魔法家族》、ナイルズ《ムーンシェイ・サーガ》などである。
●その他
 角川文庫から海外SFの合作シリーズがはじまった。アシモフ原案の『ロボット・シティを捜せ!』、ゼラズニイ原案の《エーリアン・スピードウェイ》、ファーマー原案の《ダンジョン・ワールド》である。その他、八九年の話題としては、SFではないが、ファンダムの生態を描いたシャーリン・マクラムのミステリ、『暗黒太陽の浮気娘』が、おりからの「オタク」騒ぎとあいまって評判を集めた。

火星甲殻団  川又千秋

 川又千秋と火星とは切っても切れない関係にある。作者の作品の多くがこの赤い惑星を舞台としている。しかもそれは、単なる物語の舞台、背景として存在するのではなく、惑星それ自体が最も重要な登場人物としての、明らかな象徴的役割を担っているのだ。バロウズの《火星シリーズ》が、神話化されて、現代の火星地図の上にばらまかれている。それだけではなく、ブラッドベリの『火星年代記』も、ひょっとしたらディックの『火星のタイムスリップ』すらそこにはあるかも知れない。それら過去のSFがつむぎだした幻想的な赤い火星の荒野が、SFファンである作者の主観を通して、バイキング探査機が明らかにした現代の火星の姿の上に、二重写しとなっているのである。現代科学のリアルな火星像は、作者の中で、これら過去の火星のSF的なイメージと矛盾していない。むしろテラフォーミングの可能性とあいまって、そのイメージは補強されているといえる。やや単純化して捉えるなら、その火星とは、荒々しい過酷な闘争の場としての、砂嵐の吹き荒れる赤い荒野であり、さらに太古に滅びた火星人たちの、物悲しい夢と神話の残る世界なのである。作者はそれを繰り返し繰り返し書き続ける。そのことは本書でも同様である。
 二四世紀の火星。人類による惑星改造が途中で放棄されたこの惑星では、かつての植民者の子孫たちが、自動機械たちと共生といえる関係を築き上げていた。子供たちは生まれるとともに一台の知能をもった機械を与えられる。子供たちはその機械とともに育ち、やがて自分専用のヴィートルと呼ばれる甲虫に似た自動機械を作りあげる。そして荒野に旅立ち、大人になるのだ。本書の主人公はそうしたヴィートルの一台である。〃赤い稲妻〃〈ローテ・ブリッツ〉と名付けられた彼は、〈火星甲殻団〉と呼ばれる武装盗賊団に十八年間ともに過ごした相棒を殺され、復讐を誓う。彼は同様に盗賊団に恨みを抱いているノルド・ヴェストという男と知り合い、男を新たな相棒として、盗賊団に戦いを挑む……。
 〈火星甲殻団〉シリーズの第一弾『火星甲殻団』は、そういう機械と人間の復讐物語である。火星の荒野を互いに相棒を失った機械と人間が、ひとつの情念のもとに疾駆する、荒々しいスピード感に満ちた、そういう物語だ。だが、物語がすすむにつれて、もうひとつのテーマが現れてくる。それは単に感情をもつだけでなく、自らの意志をもつ、自立した機械知性の誕生の物語だ。それは火星という荒野からの、新たな神の誕生の神話でもある。そして、また何百年かが過ぎ去る……。
 火星の荒野には、人間から自由になった機械たちが野生化し、独自の進化をとげていた。植物のように火星の土壌から金属を吸い上げ、太陽光線を金属の葉に受けて生きる機械樹や、その機械樹を食べるメタルイーター、そしてさらにそれらを狩る機械獣。ワイルドマシンたちである。人間たちも、この機械の生態系に寄生するように、独自の文明を築いていた。この荒野に、神のごとき偉大な孤高のワイルドマシンがいた。機械神となった〈ローテ・ブリッツ〉である。機械獣たちを倒して、進化したその部品を人間社会に持ち帰るのが仕事であるマシンハンター。デューン・ラッドはすご腕のマシンハンターだったが、ある時ローテ・ブリッツに出会い、その強大さに畏敬の念を抱く。彼は酒場で知り合った謎の美女、ジレルを機械獣から救い、彼女とともに要塞神殿リントスへ向かう。しかしそこは〈火星甲殻団〉の襲撃を受けていた……。シリーズ第二弾『火星甲殻団 ワイルドマシン』は、このようにより神話的な、美しいイメージに満ちた物語である。

時間衝突      バリントン・J・ベイリー

 評者が解説を書いている本であり、本来は他の人に書評していただくべきなのだが、事情があって自ら担当することになった。今回は大目に見ていただきたい。
 で、自分でいうのもなんだが、これは傑作です。ベイリーの数ある傑作の中でも、単純でストレートなだけ、より抜きんでているように思う。ただし、(これは訳者が後書で書いていることでもあるが)ここでいう傑作とは、香り高い文学性とか、生々しい人間の真実とか、あるいは最先端の科学の人類文明への関わりとか、そういったものとは別の次元のものである。SFの破天荒さ、奇想天外な想像力のエネルギー、そしてユーモアとアイロニー、SFでしか現すことのできない、SFでしか読むことのできない、とんでもなく無鉄砲なセンス・オブ・ワンダー。紛れもないゴチック文字のSFがここにはあるのだ。
 物語ははるか未来の地球に始まる。異星人の遺跡を調査している考古学者ヘシュケは、遺跡が時間と共に新しくなっていることを示す写真を手に入れる。タイムマシンで飛び立った彼らは、未来から現在へと近付いてくる別の人類の存在を知る。異星人だと思っていたのは時間線を異にするもう一つの地球人だったのだ。彼らは遥かな未来から逆方向に進化し、現在へと向かってくる。われわれの時間線と彼らの時間線は進む方向が逆であり、いままさに正面衝突しようとしているのだった! この危機を救うため、宇宙から超科学をもった中国人の子孫たちが手をさしのべてくる。しかし、人種差別思想に凝り固まった地球の支配者たちは、中国人のコロニーに戦いをしかける……。わずか三百ページのこの本には、ぶ厚い長篇何冊分ものアイデアが充満しているのだ。おすすめ品です。 


SFアドベンチャー 1990年5月号

ウォッチャー          草上 仁

 著者七冊目の短篇集。表題作ほか七篇が収録されている。
 表題作は著者のこれまで書かれた中で最長の中篇であり、シリアスな本格SFである。しかも(著者のあとがきによれば)スタートレックを意識したお遊びもあるという。
〈見張り(ウォッチャー)〉というのは、超文明をもつ異星の監視者であり、危険な文明を未然に抹殺するため、多くの星々をその監視下においている存在である。地球文明も太古よりその注視を受けていたのだった。人類初の恒星間宇宙船〈ディオゲネス〉の六人のクルーは、この異星生命体とのファースト・コンタクトを行う運命にあった……。
 いわゆるファースト・コンタクトものである。太陽系から五万光年の宇宙空間に浮かぶ地球の建物といった、謎めいたイメージも効果をあげている。もっとも、このテーマに新たな何かをもたらすといった性格の作品ではなく、「宇宙、それは、人類に残された最後の開拓地である」という例の言葉に象徴されるような、SFのセンス・オブ・ワンダーを求めることに重点がおかれた作品である。SF映画に出てくるような視覚的なイメージが多用され、ミステリアスな雰囲気を盛り上げている。そして、それは充分に成功しているといってよい。
 他の作品では、未知への挑戦をテーマにした「花か種か」が、さわやかな読後感で印象に残った。「死因」は現実的で深刻なテーマを鮮やかに扱ったショートショート。「交枕クラブ」は著者には珍しくエロティックな要素のある話だが、いかにも上品。一瞬『カエアンの聖衣』を思わす「パートナー」といい、人格の保存を皮肉に描く「パーソナリティー」といい、草上ワールドは健在である。

ドラゴン探索号の冒険    タニス・リー

 タニス・リーのファンタジー。ユーモア冒険ファンタジーとあるが、その通り、大人のおとぎ話といった趣のある楽しい作品である。とはいえ、現代の魔女というにふさわしいリー女史の作品だけに、おとぎ話の残酷さといったものもたっぷりと含まれている。それも、血なまぐさいものというよりは、皮肉でいじわるな、ブラック・ユーモアに近いものだ。もっとも、お話しをすなおに楽しむぶんには、そういうことは気にしなくていい。結末はめでたしめでたしの、絵に描いたようなハッピーエンドです。
 ここマイナス国ではジャスレス王子とグッドネス王女の十七歳の誕生日を祝おうとしていた。ところが、遠縁にあたるいじわるな魔女マリーニャにはその招待状が来ない。腹を立てた魔女は、王子に「一日一時間カラスに変身すること」を、王女には「おばかさんと紙一重のおひとよしになること」をプレゼントする(カラスになるのはともかく、王女へのプレゼントはかなり悲惨なものだと思いませんか)。王女は度はずれた福祉に没頭し、おかげで国は破産寸前。王子は「ドラゴンの宝」を探索する旅に出る。そうはさせじといろいろな妨害をする魔女。王子は探索で仲間となった他国の王子たちと協力して、アルゴ号の冒険もかくやという活躍を……?
 タニス・リー、イギリス、モンティパイソンという連想が働く。なんというか、非常識なのにどこかリアルで、おおげさなまでに人間的、底意地が悪く、そしてばっちいのだ。『闇の公子』などであれだけ耽美的な描写をする作者は、ここでは汚いものの描写にも同じくらい力を入れている。といって、社会諷刺とか、そんなのじゃない。これってやはり余裕の産物なんでしょうね。


SFアドベンチャー 1990年6月号

動物ワンダーランド――ヒト特集     清水義範

 短篇九篇が収録されている。いずれも日常的な光景を少し離れた視点から描いた作品である。ごくふつうのサラリーマンの日常が描写されているのに、それが何ともいえずおかしい。例えば表題作。これは宇宙人か何かのTV番組でわれわれ人間の生態が紹介されているという設定で、そういう意味ではSFに違いないのだが、ポイントはヒトを動物の一種として見たというただ一点であって、その視点もTV番組の無邪気な回答者のものにすぎず、衝撃的なものは何もない。なのに、いわくいいがたいユーモアとペーソスが漂うのはなぜだろうか。また「アネモネ化粧品・春のキャンペーン」や「マーケティング天国」といった広告業界を扱った作品は、これまた異様におかしいのだが、これよりもっと変な広告だってTVのCMを見ていれば実際にあるわけで、むしろ広告業界では当り前のことを描いているにすぎないのかも知れない。ここに書かれているようなことは、門外漢にはおかしく思えても、当事者にはごく普通でシリアスな話なのかも知れない。それが面白いのは、要するにこれが、王様は裸だと子どもから指摘されてきまり悪く苦笑する(なぜなら、われわれもみんな王様と同じ幻想を抱いて暮らしているわけだから)われわれ大人たちの物語となっているからである。現代社会に生きる人間というのは、特にサラリーマンというのは、考えてみればずいぶんおかしな事をやっているなあと、ふと思いませんか?作者はごくやんわりと(決して諷刺するというのではなく)それを指摘する。現代社会がSF的になってきたというのは、かつてのように屈折率の高いレンズを使わなくても、ごく日常的な場でそれが見えるようになってきたということではないだろうか。


SFアドベンチャー 1990年7月号

ハードシェル  ディーン・R・クーンツ他

 ディーン・R・クーンツ、エドワード・ブライアント、ロバート・R・マキャモンの三人によるホラー小説のアンソロジーである。
 モダンホラーはこわくないといわれる。本書に収録された作品もあんまりこわくはない。クーンツの表題作など、評者は思わず大笑いしてしまった(別にけなしているわけではない)。背筋が凍るようなこわさはないが、おぞましい怪物と戦う戦慄はあるし、じんわりとした心理的な恐怖もある。なにより、エンターテインメントとして面白く、楽しめる。
 クーンツは三篇。「フン族のアッチラ大王」は作者の長篇をそのまま短くしたようなスーパーウーマンの活躍する作品。「ハードシェル」はコミック調のアイデアを筆力でぐいぐいと読ませる(このアイデアはマンガか何かで前に見たような気がするのだが)。「黎明」は、宗教と人間の関係を扱った普通小説で、クーンツとしては異色作である。
 SF作家であるエド・ブライアントの作品は六篇。作者の不気味な序文が各々についている。内容的にはいくぶんばらつきがあるが、いずれも七〇年代の心象が色濃く影を落としている。中では原発問題と長崎の記憶を扱った「バク」が、やや単純で素朴すぎるきらいはあるが、力作といえる。
 〃期待の大型新人〃マキャモンは三篇。確かに期待に違わぬストーリー・テリングと迫力ある描写で、読ませる。「水の底」はプールの中、「ベスト・フレンズ」は病院の中という閉ざされた舞台で、ひたすら化物との戦いが描かれる。やっぱりこういうのがモダンホラーなんだろうな。
 全体としては良くできたアンソロジーである。でも、モダンホラーの心髄は、やっぱり長篇の方にあるのではないだろうか。


SFアドベンチャー 1990年8月号

落日の彼方に向けて       ロバート・A・ハインライン

 二年前に亡くなったハインラインの最後の作品である。
 例によってというか、長命族ラザルス・ファミリーの物語。主人公は、ラザルス・ロングの母親である、モーリン・ジョンソン・ロング。ラザルス・ロングは、ハインラインの読者なら知らない人はいないだろうが、彼の未来史シリーズで重要な役割を果たす、長命族の指導者である。本書は、その母親モーリンの一人称で、彼女の生い立ちからの半生記が語られる。本書はSFではあるが、ほとんど一九世紀末から二〇世紀半ばへかけての、アメリカの片田舎におけるきわめて個性的な一ファミリーの年代記として読める。その生き方、考え方、そして性生活……。
 一八八二年生まれのモーリンは、誇りたかい頑固な自由主義者で愛国者、いってみれば非常に〃ハインライン的〃な父親の強い影響下で成長した。彼女の回想は、まだ幼いモーリンに、父が「自分自身の実際的な戒律を考えだし、それにそって生きていかなければならない」と言い渡すところから始まる。これがファミリーのモラルの基本となった。本書には、もう一つのプロットとして、遥かな未来の世界に住むようになったモーリンが、この父親を救うために時間軍団と共に行う救出作戦の物語も含まれているが、ベースとなっているのは、あくまでもモーリンを中心とするファミリーの回想記である。一八九八年の米西戦争から、第一次大戦、大恐慌などを背景に、いわば銃後の日常生活が語られ、まるで庶民の目から見たアメリカ史といったおもむきがある。もっとも、ここで語られる歴史というのは、われわれの時間線ではなくて、ハインラインの主な未来史が含まれる、時間線2の歴史なのだけれどね。

夜のコント・冬のコント     筒井康隆

 筒井康隆の短篇集。本誌をはじめ、小説新潮、毎日新聞などに載った十八篇の短い作品が収録されている。
 広い意味でSFといっていい作品も多いのだが、一見日常的な光景や日本人的な心情の奥に潜む嫌らしさ、不気味さをえぐるような作品が目だつ。また夢を扱ったものには、いずれも作者らしいリリカルな味があって、どこかなつかしい感じがした。
 たとえば「夢の検閲官」。これは子供をなくしたばかりの母親の無意識の中にあって、夢の中に出てこようとする生々しい記憶を検閲し、より象徴的なものに置き換えようとする検閲官たちのお話。短いけど、とてもいい話です。やっぱり、夢は象徴でなくちゃ。同じく夢を扱った「『聖ジェームス病院』を歌う猫」。これはちょっとできすぎの感じがするけれど、夢自体のイメージはなかなか強烈だ。「CINEMAレベル9」は、夢とはいってもちょっと意味が違い、映画マニアの夢を現実化する映画館の話。ベティ・ブープとポパイの裏アニメなんて、うーん、不気味だけど好奇心をそそられます。表題作の「夜のコント」と「冬のコント」は、人間関係の心理的な緊張感、恐怖感を強調した作品で、怖い。この怖さはよりSF的な「火星探検」や「魚」にも共通して見られる。特に「火星探検」では日本的な群衆の恐怖が描かれ、これは初期の作者の短篇で扱われていたものに近い。その恐怖は「カチカチ山事件」の、分裂的でおぞましい傍観者たち(茶の間の大衆?)にも通じるものである。SFとしては「上へ行きたい」や「傾いた世界」、「巨人たち」も面白い。「レトリック騒動」は修辞法の現実化を一行二四字にそろえた傑作。「のたくり大臣」の珍妙さも印象的である。


SFアドベンチャー 1990年9月号

つかのまの間奏曲         東野司

 未来のコンピュータソフト業界を舞台にしたコミカルなシリーズ〈ミルキーピア物語〉の第二弾。とはいえ、今回はソフトハウス・ミルキーピアの面々はあまり活躍しないで、主人公、片山秀人クン二十八歳独身のほとんど一人舞台。それに前回がアミューズメントソフトにネットワークと都会風に〃電脳〃していたのにくらべ、今回は〃海の見えるシステムハウス〃でみかん農家向け業務ソフトの開発と、ずいぶん雰囲気が違う。それでも最後にはコンピュータの内宇宙へとお得意の〃ネット潜り〃を披露してくれます。
 ミルキーピアのあまりの忙しさについに転職を決意した秀人は、〃海の見えるシステムハウス〃というコピーにひかれて、みかん農家向けのソフトを開発している小さなシステムハウス、シーサイドキララに就職する。別世界のようなのんびりした環境。てらさんとこのシステムなんて、納期が一月遅れるって話しとけばだいじょうぶだよと社長がいう職場である(うらやましい)。そこへトラブル発生。みかん農家の可愛い女子高校生、すみかちゃんからSOS。弟がコンピュータに入り込んで出られなくなったというのだ。秀人はもう二度とやりたくないと思っていたネット潜りの裏わざを使わざるをえなくなる。そこは野菜たちが口をきき、みかんの竜が出現する、不思議なみかんの世界だった……。
 若いころ天才的プログラマーだったというおばあさん、すみかちゃんが思いをよせる漁師の陣ちゃんと、わき役もそろって、ほのぼのと何だか昔の喜劇映画を思わす雰囲気。前作のサイバーな感覚は全然なくて、でもこれはこれで今風なんだろうなという気もする。ただ秀人のややこしい言い回しは、評者にはちょっとくどすぎるように感じた。

スターメーカー      オラフ・ステープルドン

 一九三七年に書かれたオラフ・ステープルドンの最高傑作がとうとう翻訳され、日本語で読めるようになった。まずはそのことを喜びたい。五十年以上昔の作品であるが、SFのセンス・オブ・ワンダーの最も純粋なエッセンスに満ちた本書は、また数多くのSF作家や、一部の科学者(例えばフリーマン・ダイソン)たちに多大な影響を及ぼした作品でもあるのだ。
 遠未来SFといわれるものがある。アーサー・C・クラークの『都市と星』などがその代表だが、登場人物や個々の物語より、人類の種としての運命や、宇宙における知的生命の進化などを壮大にうたいあげるのがその特徴である。通常の小説ではまず描かれることのないこのようなテーマこそ、SFの最もSFらしいテーマだといえるだろう。本書はほとんど純粋にこの種の思弁だけで成り立っている作品である。描かれているのは文字通り宇宙的スケールでの知的生命の進化であり、その興亡なのである。
 主人公はある夜丘の上で星を眺めているうちに、肉体を離脱して宇宙へと飛翔する能力を得る。彼は太陽系を越え、宇宙の深淵へと探索の旅に出る。最初に訪れた〈別地球〉で〈スターメーカー〉の存在を知り、さらに時空を越え、無限の宇宙の彼方に飛んで、多くの知性体と一体となり、この宇宙の驚くべき進化の歴史を知ることになる……。
 本書は小説というよりは哲学書、あるいは散文詩といってもいい作品であり、決して読みやすいとはいえない。また前半部の〈別地球〉での文明批評など、現代の読者にはいくぶん退屈な部分もある。しかし、とてつもない想像力は圧倒的で、このめくるめく壮大なビジョンには一読の価値がある。


SFアドベンチャー 1990年10月号

軌道傭兵@衛星基地撃破      谷甲州

 二一世紀。それは魔法の響きをもった言葉だった。軌道上の宇宙ステーション。それはまさしくSFのセンス・オブ・ワンダーだった。その二一世紀も、あとわずか十年にせまり、宇宙ステーションという言葉も、あのロマンティックなイメージは失せて、ごく現実的な構築物となってしまった。だから、著者があとがきでいうように、ほんの十五年くらい未来の衛星軌道上を舞台にした本書のような小説は、もはやSFとはいえないのかも知れない。確かに、ハイテク軍事小説といったたぐいの小説もいろいろ書かれており、本書とそれらとの違いは本質的に存在しないといっても、間違ってはいないだろう。
 でも、とあえていいたい。本書にはSFのフェロモンがある。それはごく微妙なものかも知れないが。同じことはラリー・ニーヴンのスペースシャトルによる戦いを描いた『アナンシ号の降下』でも感じたことがある。これも近未来の軌道上での経済紛争を扱った物語だった。偶然かも知れないが、どちらも日本が開発したハイテク技術が紛争のもとになっている。宇宙空間を舞台にしながらも、どことなくせこい、派手さのかけらもない戦いが、リアルにくりひろげられる。いかにもありそうな未来。だがそういう未来予測的なリアリティだけなら、いまやSFの専売特許とはいえないだろう。本書にSFのフェロモンを与えているのは、むしろさりげない力学的な描写である。地球上では経験できない軌道上の物理学。宇宙ステーションから放り出された主人公が、地球を半周するごとにステーションと最接近するといった描写には、人間の意志を越えた物理法則の冷厳さが感じられるだろう。ここでは人間もニュートンの法則に従う、一つの質量にすぎないのだ。

〈柊の僧兵〉記          菅浩江

 ソノラマ文庫から出た、作者の二冊目の長篇である。
 砂漠の惑星。点在する〃聖域〃と呼ばれるオアシスのまわりに生きる、素朴な原住民たち。主人公は部族の中で異質な〃白い子供〃として生まれた。〃白い子供〃はひ弱だが、知力には人並はずれたものがある。厳しいが平和な生活をおくっていた彼らに、ある日、空から円盤に乗った異様な男たちが襲いかかった。かろうじて生き残った主人公たちは砂漠に逃れ、〈柊の僧兵〉と呼ばれる、彼らを導き、様々な知識を与えてくれる男たちのもとへ、救いを求めにいく……。
 この星を植民地とするため、何百年にもわたって惑星改造計画を実施してきた異星人。彼らの一員でありながら、原住民たちの生活を守ろうとする〈柊の僧兵〉。惑星改造による環境の変化に適応して、原住民の中から生まれてきた〃白い子供〃たち。彼らこそこの惑星の未来を担うべき新しい種族なのだ。そして惑星の未来をかけた戦いが始まる……。
 よくあるパターンの作品だといえよう。SFとしては決して目新しいものではない。しかし本書は、長期にわたる惑星改造とその生態学的な影響が、種族の進化にからみ、さらに主人公の成長と冒険の物語の背景としても重要な意味をもっているというような、SFとしての骨格が大変しっかりと構築された作品である。もっとも、SF的リアリズムという面ではいくぶん説明不十分な点もあり、また本書の結末は最終的な勝利を意味していないようにも思える。それでも、ジュヴナイルの文庫から、本書のような、単に異星に舞台をおいただけの作品ではない、本格的なSFの骨格をもった小説が現れてきたのは、とても喜ばしいことだといえるだろう。


SFアドベンチャー 1990年11月号

宇宙論が楽しくなる本    別冊宝島編集部

 宇宙論がブームなんだそうだ。評者などは宇宙論がブームだなんていわれると、どこかむずむずして居心地が悪くなるような気がするのだけれど、ホーキングがベストセラーになって以来、どうやらそういうことらしいのだ。もちろん、宇宙の根源を知りたいという人間の欲求は決して専門家だけのものではないし、SFのファンであるなら、宇宙論に興味をもっても当然だろう。しかし、ビッグバンが定説となって以後は、宇宙論に何が付け加わったにせよ、根本的な理論の変更はなくて、それが精密になっただけではないのかというのが、特別に深い興味を持っていないおおかたの読者の宇宙論に対するイメージではないかと思う。少なくとも、数少ないハードSFを除けば(その例外的な存在として堀晃氏の『バビロニア・ウェーブ』がある)、SFにとってさえ最新の宇宙論はほとんど関係のない分野となってしまった。最初の三分間が何万分の一秒の単位になり、想像を絶する短い瞬間にまで理論が及んで来たといって、それがどうしたというのか? ところが新しい宇宙論は、単にそんな原点を特異点としてそれに限りなく漸近していくというだけのものではなく、原点そのものにも言及し、考え方の質的な転換をも迫るものであるらしい。それがホーキングも述べている時間理論や、いわゆる人間原理ということになるのだろう。こうなってくると、いよいよSF作家の出番じゃないんですか? ねえ、小松さん!
 本書はそういう最新の宇宙論を、多少とも興味をもっている人向けに、わかりやすくまとめた案内書である。中でも、橋本淳一郎氏の章は、最新宇宙論のさまざまな理論を実にすっきりと見通しよくまとめていて、絶好の見取図となっている。

光の潮流    グレゴリイ・ベンフォード

 ベンフォードのライフワークというべき、『夜の大海の中で』『星々の海をこえて』『大いなる天上の河』と続くシリーズの第四作である。直接には『大いなる天上の河』の続編であり、『大いなる……』を読んでいないとわかりにくい箇所もあるので、注意が必要である。話は本書でも終わっていなくて、多くの謎がさらに次巻に持ち越されている。
 機械生命と有機生命との長い戦いをテーマとするこのシリーズだが、とりわけ『大いなる……』以降の物語は、はるかな遠未来に舞台が置かれ、ほとんどファンタジイといっていいような壮大で幻想的な冒険が描かれている。評者はときおり旧約聖書の物語との類似を意識させられたが(時にはあからさまにそうであり、ひょっとしたらパロディかと思ってしまう)、そこまでいかなくても、本書はクラークの後継者としてのベンフォードに期待されるハードSFや本格SFというより、むしろ良質のスペースオペラやヒロイックファンタジイとして読めるように思えた。
 もちろん、本書がファンタジイだというのではない。現代科学の最新知識をもとにした大道具や小道具は出てくるし、科学者作家らしく、それらはさりげない描写であっても実に正確に描かれている。話題の宇宙ストリングがSFで描かれたのは(確認したわけではないが)本書が最初なのではないだろうか。その他にも生きているスカイフックとでもいうべきとんでもない宇宙植物が出てきたり、ハードSFファンにもぞくぞくする要素が多い。にもかかわらず、それらは物語の主題ではなく、ごく軽くかたづけられる。これがニーヴンとの合作であったなら、といいたくもなるだろう(宇宙ストリングをのこぎりがわりに使うなんて、もったいないよ!)


SFアドベンチャー 1990年12月号

サード・コンタクト       小林一夫

 もともとは映画の脚本として書かれたという、新人のデビュー作である。
 緑色の肌をもつ少女、人間の皮膚に共生する超葉緑体、P4設備のある謎めいた生物学研究所。そして、やがて明らかにされる、地球生物の進化の秘密……。
 たいへん大きなSF的アイデアをテーマに持つ作品である。進化テーマに正面から挑もうとする態度には好感がもてるし、科学的な謎ときの部分も(やや乱暴ではあるが)面白い。また、マイクル・クライトンを思わせるように、小説の中に図表やグラフがはさみこまれ、科学者たちの議論や解説もたっぷりと含まれていて、ハードSF的な雰囲気を盛り上げている。けれども、残念なことに、いくぶん不自然な主人公たちの行動と、おさまりの悪い会話体が、その雰囲気をぶちこわしている。本書はメインテーマだけでも充分読みごたえのある作品となったはずである。おきまりの超能力や世界的陰謀などが、せっかくのテーマを分散させ、SFとしての魅力をそぐ結果となったように思える(特に結末のとうとつな残酷さは後味を悪くしている)。また細かなことではあるが、科学用語の使い方に一部不正確な(あるいはなじまない)ところがあり、ハードSFのファンには違和感がある。SFが科学的に正確である必要はないが、用語の使い方には細心の注意が払われるべきである。作者は非常によく勉強していると思えるだけに、惜しい気がする。
 新人のデビュー作に対して、いささか厳しい書き方になったかも知れない。本書はよくあるヤング向けの冒険ものではなく、SFのセンス・オブ・ワンダーが感じられる、本格SFへの志向を持った作品である。作者への期待は大きい。次回作が注目される。

ミューテイション −突然変異−    ロビン・クック

 遺伝子操作でわが子を天才にした医師を待つ、恐るべき誤算! と腰巻に書いてある。作者は医学サスペンスの第一人者で、これまでも多くの訳書があり、高い評価を受けている。ただし、本書はSFではない。
 医師であり、キメラ社の共同経営者でもあるヴィクターは、長男の出産後子供の産めない体となった妻マーシャの受精卵を利用して、ある秘密の実験を行なった。十年後、代理母により産まれた彼らの次男VJは、すばらしい天才児へと成長する。しかし、児童精神科医でもあるマーシャは、わが子VJにどこか人間的な欠陥があるのではという悩みを抱く。そんなおりもおり、彼らの周囲に恐ろしい事件が起こり始める……。
 ストーリー的にはクーンツなどのモダンホラーと同様のサスペンスものである。しかし超自然的なものは全然ないので、要するに人間的に欠陥のある天才少年の犯罪ということになる。ストーリーテリングがうまいので、小説としては面白いのだが、遺伝子工学だの、先端科学のもつ倫理問題だのといったお題目が、実質的には何の関係もなくなってしまい、評者としてはこれがとても寂しい。作者が最新のバイオテクノロジーに詳しいことは、研究所や病院での詳細な描写で明らかである。しかし読者には(細かい因果関係は別にして)VJこそが問題なのだと初めからわかっているのだから、科学的な謎ときの興味は空回りしてしまう。それに一人の天才児だけでこんな話を成立させるのは無理だろう。中でも評者が困惑するのは、先端科学をテーマにしながら、作者のあまりの頭の古さである。ここには科学がもたらした新たな倫理問題への考察など何もない。あるのは保守的なモラルへの安易な寄り掛かりのみなのだ。


SFアドベンチャー 1991年1月号

パースの城     ブラウリオ・アレナス

 チリのシュルレアリスト詩人、ブラウリオ・アレナスの六九年作の長篇小説。
 シュルレアリスムは騎士道物語やゴシック小説と通じ合うところがあるのだそうだ。それは、訳者解説で紹介されている作者のことばによれば「シュルレアリスムはすべてがイマジネーション、それ以外のなにものでもないと言っていいだろう。そしてなによりもイマジネーションを働かせるせいで、詩がいちばん大切にされた幸せな時代…に繋がっているはずである」からだという。なるほど、カフカの不条理な「城」とゴシック小説の幽霊のうろつく「城」とは根が同じなのだといわれれば、不勉強な評者にも確かにそんな気がしてくる。
 さて本書は、現代のチリの田舎町に住む青年が、初恋の少女の死を知らされた夜に見た不条理で奇怪な悪夢の物語である。それは夢の不条理感覚と(首を切られる自分を自分で傍観していたり)、悪夢の生々しいリアリティ(狼に追いかけられて必死に逃げたり)を備えている。その内容は、まさにゴシック小説の世界といっていい。不気味な暗闇の支配する荒れ果てた中世の城。そこに現われるのは舞台劇の登場人物のような十二世紀の人々である。鎖帷子をつけた邪悪な城主パース伯爵、妖艶な伯爵夫人、その娘で、伯爵夫妻に捨てられた兄を(兄とは知らず)恋するベアトリス(彼女はこの夢を見ている主人公、ダゴベルトの死んだ初恋の女性と二重写しになっている)、アジアの皇帝となって伯爵に復讐しようとする、その兄ダゴベルト(彼も現代のダゴベルトとうり二つなのだ)、さらに亡霊や悪魔まで現われる。しかし彼らの行動原理は夢の世界のものだ。普通のファンタジーとはまた違う、奇怪な小説である。


SFアドベンチャー 1991年2月号

ネットの中の島々 ブルース・スターリング

 ブルース・スターリングの一九八八年の新作長篇。キャンベル記念賞を受賞している。
 スターリングといえば、サイバーパンクのアジテーターというイメージがある。しかし本書には『スキズマトリックス』などでおなじみの、キラキラしたスタイルや奔放なアイデア、アナーキーでパンクな暴力性は影を薄め、きわめてオーソドックスなスタイルによるリアルな近未来政治SFとなっている。
 大国の覇権が終焉し、核軍縮が進んで、世界は相対的に平和なグローバル主義の時代に入っている(本書が書かれたのはベルリンの壁崩壊以前である)。ここではフェミニズムやエコロジー運動がボーダーレス化した資本主義と調和して、経済民主主義を基盤とする多国籍企業といったものが生まれている。これを支えているのが世界を覆う情報ネットワークである。その一方で取り残された第三世界では民族運動や地域紛争、あるいは過激なテロリズムが、恐るべき残虐さで蔓延している。ヒロインのローラは多国籍企業の一つ〈ライゾーム〉社の社員で、グローバル主義の連帯を信奉している。本書は彼女の《ネットの中の島々》を巡る冒険の物語なのだ。
 本書の前半は比較的大人しい一種のユートピア物語として読める。テロリスト国家の一つグレナダに乗り込むのに、彼女は自分の赤ん坊を連れて行ったりするのだ。われわれの目からみていささか理想主義的、あるいは偽善的にすら見える彼女の行動だが、それは舞台がシンガポールに移り、さらにサハラ砂漠の難民キャンプへと移るに従って、非情で冷酷な試練にさらされることになる……。
 第三世界のリアリズムに対して、ローラのよって立つ体制側の描き方に弱点はあるものの、読みごたえのある力作である。


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